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天守閣木造復元計画 (2022/04/30 訪問)

 久しぶりに広島城へ行ってきました。
この城で昔から興味があるのは二の丸です。本丸に比べてかなり狭く馬出にしか見えないと以前から思っていました。あらためて広島城のHPを見てみると「本来は本丸の馬出(うまだし)として設けられたものとされます」との記載がありました。どうしてそれを二の丸にしたのか経緯が知りたいですね。天守閣の木造復元計画もあると聞いています。何かと大変でしょうが、期待しています。
この日は天候もよく、休日ということもあり多くの人がみえていました。

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ryu

甲斐の国の城巡り~甲府城(2016年) (2016/08/27 訪問)

武田氏館を見た後、訪城。
鍛冶曲輪門から入り、公園管理事務所でスタンプを押した後、坂下門跡~鉄門~本丸、天守台~稲荷曲輪門~稲荷櫓、線路を横切って山手御門を見て、再度、舞鶴城公園側に戻り、内松陰門~高石垣~遊亀橋

鉄門、稲荷櫓、山手御門は内部も見学できる。

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ryu

甲斐の国の城巡り~武田氏館(2016年) (2016/08/27 訪問)

大菩薩嶺登山後、雨の中、28年ぶりの訪城。
武田神社にお詣りした後、宝物館を見学して、大手門周辺ゾーンを見て回る。大手門跡の遺構が史跡公園となっている。
天気がよければ要害山にも行ってみたかったが、雨がやまずあきらめて、奥藤本店でそばと鳥もつ煮を食べて、甲府城に向かう。
探訪順路:武田神社~宝物殿~堀~大手門東史跡公園~旧大手門

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じゅんじん

中央道上 (2022/04/06 訪問)

ここも太陽光が進出しています。名残は橋の名前が砦橋ということぐらいでしょうか。

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肉球

11年ぶりの訪問 三の丸から本丸まで (2022/04/07 訪問)

11年ぶりの訪問でした。
車を二の丸庭園利用者用の無料駐車場に停め、まずは三の丸をひとまわり。
初めて訪れてからは30年ほど過ぎ三の丸跡は様変わりしました。
三の丸内に野球場などがギュウギュウに詰まっていた時とは違い
芝生が広がりのんびりと過ごせる広場に
東御門付近には小普請所跡と表示されたり
埋められた堀跡が一段低くなり城跡感が高くなっていました。

二の丸庭園は二百円。車を停められてこの金額ならかなり割安です。
庭園内を見てから黒門登城口を本丸へ。
尾谷門跡を過ぎると石畳になっている所が中門跡。
大手門跡の石垣を過ぎるとだいぶ人が増えてきました。が
まだ団体さんが居なかったせいか芋洗い状態ではありませんでした。



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熊谷信直 (2022/04/30 訪問)

熊谷氏の城址です。思ったより広い城域があり、遺構もよく残されています。「城郭放浪記」さんの縄張りを参考に散策しました。各曲輪が明瞭にわかり、多くの堀切や所々に石垣を見ることができます。本丸からは広島市街を遠望することができます。
北東部にある畝状竪堀が見たくて主郭付近から下りて行ったのですが、思ったより距離がありました。畝状竪堀とその先にある複数の堀切を確認しましたが、東側の登城口近くまで行ったと思います。かなりの坂を上り下りすることになりました。
登城路はいくつかありますが、自分は南西麓の川沿いの登城口から入りました。少し登ると鹿の群れに遭遇しましたが、写真を撮る前に立ち去ってしまいました。与助丸経由で馬場に到達しました。道は難路です。順路が分かりにくいところもありますが、ピンクリボンや木に巻かれた赤いテープを目印にすれば迷うことなく登って行くことができます。
昨年、登城する予定でしたが、新型コロナウィルス感染症の影響で今年となってしまいました。期待以上の城址で行けてよかったです。

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ryu

甲斐の国の城巡り~スカイツリーと同じ634mの岩殿山(岩殿山城)に登る(2016年) (2016/08/26 訪問)

甲斐の国まで山歩きを兼ねた城巡り。
初日は、中央本線大月駅の目の前にそびえる岩殿山に登る。
大河ドラマ「真田丸」にも出てきた武田家の家臣、小山田氏の居城。
国道139号沿いの岩殿山丸山公園駐車場から少し歩くと登山口で、ここから整備された遊歩道を歩く。登り出しが午後2時半頃と一番暑い時間帯となり、とにかく暑い。少し歩くとドバッと汗が噴き出す。遊歩道の途中からは、少し雲がかかった富士山がきれいに見える。
ひと登りで丸山公園に着く。城郭風建築のふれあいの館で地図をもらって話を伺う。
ここからつづら折りの遊歩道を大汗をかきながら登り詰めると山頂部の展望所に至る。
スカイツリーと同じ高さ634mの山頂はここから、もうひと登りで、途中には城跡の説明板が設置されている。山頂には本丸、烽火台との標識があった。下山後、日本三奇橋の甲斐の猿橋を見に行った。
探訪順路:ふれあいの館~揚城戸跡~番所跡~馬屋~馬場跡~倉屋敷跡~烽火台、本丸跡

※現在、このルートは鏡岩の一部が崩落し、立ち入り禁止となっているようなので要注意。

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じゅんじん

新府城の出城? (2022/04/06 訪問)

新府城とセットでどうぞ。主郭にお寺があります。

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昌官忠

のんびりホリデーSUICAパス八高線&相模線8城巡り⑧:大庭城 (2022/04/30 訪問)

6月の九州遠征前の、なまった足腰(コロナ過で10か月攻城していません)のリハビリを兼ねた攻城(PART3)です。
のんびりホリデーSUICAパス八高線&相模線8城巡り8城目は大庭城です。
辻堂駅北口発(辻28)「湘南ライフタウン」(経由:大六天・湘南カントリークラブ前)行きに乗車し、城下バス停で下車。徒歩5分位で大庭公園駐車場入口(35.362554、139.449213)に着きました。

大庭城は神奈川県南部における唯一の中世城郭址です。
もとともはこの付近を領有した大庭氏が築いたものと伝えられています。
その後は太田道灌が改修し、15世紀末から16世紀初頭には、道灌の主たる扇谷上杉定正・朝良の父子が相継いで居城しました。
しかし、1512年(永正9年)北条早雲の攻略するところとなり、のちには北条早雲も改修するなど東相模の重要な城と位置づけられていたようです。
早雲が玉縄城を築城したことにともない利用価値は低くくなり、後北条氏の滅亡とともに廃城になりました。
現在も戦国時代の大規模な空堀や土塁などが残っており、大庭城址公園として保存されています。また地元には「舟地蔵伝説」と呼ばれる言い伝えがあります。

藪の中に垣間見られる空堀、土塁を確認しました。
駐車場やトイレ、自動販売機もある公園で、家族連れでいっぱいでした。
攻城時間は30分くらいでした。
のんびりホリデーSUICAパス八高線&相模線8城巡りは、攻城歩数=31911歩、攻城歩行距離=24.89Kmで攻城完了です。
目標の歩行距離=25Kmをほぼ達成しました。6月の九州遠征前まで、あと1回はリハビリの攻城を予定しています。

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ぎりょう

伊達氏発祥の地を巡る②福島県桑折町 (2022/04/29 訪問)

この日の2城目は桑折西山城。伊達氏初代の朝宗が「高館城」として築城したとの伝承があるが、中世山城として大規模な改修がなされるのは、14代稙宗の時代となる。稙宗は大永2年(1522)陸奥国守護に任じられ名実ともに奥羽の覇者となり、その権威にふさわしい城が必要となり、梁川城から桑折西山城に移った。
桑折西山城は稙宗時代に活用された本丸・二ノ丸の部分と、戦国末期に改修された中館・西館部分がある。現在、本丸中心部には当時伊達氏が政治・儀式・接待を行った中心建物の柱跡をかたどった展示がなされている。
この日は午後から雨となり中館・西館はパス。写真も写りがいまいちですね(笑)6月の再訪問後に再度投稿いたします。
攻城に当たっての駐車場は「観音寺」または「うぶかの郷」の駐車場を利用でき、いずれからも本丸まで徒歩20分ほど。なお、攻城前に老人福祉センター「大かや園」に併設されている「桑折西山城ガイダンス施設」で情報収集をされることをおすすめしたい。
搦手口に近い温泉施設「うぶかの郷」は登城後の入浴に最適。地元名産の献上桃を餌に飼育したロイヤルピーチポークを使ったかつ定食など食事も楽しめる。
桑折町は伊達氏関連史跡、寺社、旧伊達郡役所、奥州・羽州街道分岐点「追分」など見どころも多く楽しめます。

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昌官忠

のんびりホリデーSUICAパス八高線&相模線8城巡り⑦:梶原景時城 (2022/04/30 訪問)

6月の九州遠征前の、なまった足腰(コロナ過で10か月攻城していません)のリハビリを兼ねた攻城(PART3)です。
のんびりホリデーSUICAパス八高線&相模線8城巡り7城目は梶原景時城です。
寒川駅より徒歩10分ちょっとで鳥居前(35.364538、139.381832)に着きました。

梶原景時城は平安時代末から鎌倉時代にかけて活躍した武将梶原景時の館があったと伝承されています。

梶原景時(かじわら-かげとき)は鎌倉幕府の御家人で、平安時代後期の1140年頃に生まれました。
父は梶原景清で、母は横山党・横山孝兼の娘です。
1180年8月、源頼朝が挙兵し、石橋山の戦いとなった際には、反対勢力である平家側の武将として戦っています。
この時、敗れた源頼朝は山の中に隠れたのですが、大庭景親らと探索するなか、梶原景時は土肥の椙山にある「しとどの窟」に隠れている源頼朝を発見します。
しかし、梶原景時は情をもって、この山には誰もいないと大庭景親に報告し、源頼朝の命を救いました。
源頼朝が鎌倉幕府を開くと、この時の事が縁で、梶原景時は重用されるようになります。
1189年7月の奥州合戦にも、梶原景時と嫡男・梶原景季も参戦し、藤原泰衡を討伐します。
1192年には、和田義盛と交代する形で侍所別当に就任します。
1199年に源頼朝が死去したあとも、梶原景時は宿老として2代将軍・源頼家に重用されました。
この頃の梶原景時に与えられていた所領が、寒川の梶原景時屋敷跡の場所と言う事になります
しかし、文武に優れていた梶原景時も、侍所別当として御家人らを取り締まる立場であったことから、恨みを買い和田義盛ら66名が連判状を大江広元に提出させ、将軍・源頼家に言上します。
そのため、鎌倉追放を言い渡された梶原景時は、京に逃れる為、1200年1月20日に、この相模国一ノ宮(寒川)より一族を率いて出発しました。
その途中、駿河国清見関(静岡市清水区)近くで飯田家義らに発見され、狐崎の戦いとなりますが、一族33名と共に梶原景時や梶原景季も討たれました。
その3年後には、将軍・源頼家も北条時政によって将軍職を追放・暗殺され、代わって源実朝が将軍になりますが、北条時政が幕府の実権を握る事になりました。

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で中村獅童さんが演じられている梶原景時。冷徹な感じがしますが教養があって知識人なんですね。
現在、館跡地には一之宮天満宮が建っています。
攻城時間は5分くらいでした。

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昌官忠

のんびりホリデーSUICAパス八高線&相模線8城巡り⑥:海老名城 (2022/04/30 訪問)

6月の九州遠征前の、なまった足腰(コロナ過で10か月攻城していません)のリハビリを兼ねた攻城(PART3)です。
のんびりホリデーSUICAパス八高線&相模線8城巡り6城目は海老名城です。
厚木駅より徒歩15分弱くらいで海老名市霊堂入口(35.451484、139.375113)に着きました。

海老名氏館(えびなし-やかた)は、神奈川県海老名市にある平城(館跡)です。
海老名市を本拠とする海老名氏は、横山党の一族とされますが、一般的には横山党の横山盛兼の子である横山季兼を、源有兼が養子に迎えたとされます。
その後、海老名氏は、荻野氏・小野氏・本間氏・国府氏などの庶家(分家)が誕生し、そのうち、海老名家季は1104年に播磨国那波に移住し、播州海老名氏の祖となっています。
石橋山の戦いにて、海老名季久は源頼朝と敵対しますが、源頼朝が鎌倉に入ると従い、源平合戦でも活躍し、鎌倉御家人に取り立てられています。
1333年、北関東より攻めてきた新田義貞勢に敗れると衰退し、1438年、永享の乱では鎌倉公方・足利持氏が宝樹寺に本陣を置いたため、海老名上野介も加わって戦いとなります。
しかし、足利持氏は降伏したため、海老名氏は滅亡し、有鹿神社と総持院は兵火で焼かれ衰退しました。
海老名尾張守と弟・海老名上野介は、永享の乱にて敗れた際に捕縛されて、自刃したともあります
なお、一族の海老名広治(海老名兵衛尉広治)が、安房里見家の家臣で娘婿の大島正時とともに海老名郷を回復し、海老名広治の病没後には、大島正時が海老名家を継いで、中新田に大島屋敷を構えたとの伝承があります。

海老名氏霊堂があります。
攻城時間は5分くらいでした。

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昌官忠

のんびりホリデーSUICAパス八高線&相模線8城巡り⑤:座間城 (2022/04/30 訪問)

6月の九州遠征前の、なまった足腰(コロナ過で10か月攻城していません)のリハビリを兼ねた攻城(PART3)です。
のんびりホリデーSUICAパス八高線&相模線8城巡り5城目は座間城です。
入谷駅より徒歩10分位で心岩寺(35.482749、139.396370)に着きました。

白井織部是房なる者の屋敷跡と伝わっています。
座間城の喜寿がどこかないか捜しましたが、見つけられたのは座間山の標記だけです。
攻城時間は5分くらいでした。

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昌官忠

のんびりホリデーSUICAパス八高線&相模線8城巡り④:磯部城 (2022/04/30 訪問)

6月の九州遠征前の、なまった足腰(コロナ過で10か月攻城していません)のリハビリを兼ねた攻城(PART3)です。
のんびりホリデーSUICAパス八高線&相模線8城巡り4城目は磯部城です。
下溝駅より徒歩10分ちょっとで上磯部の土塁説明板(35.512983、139.380154)に着いて説明板確認後、下磯部御嶽神社(35.505372、139.382695)に向かいました。

磯部城の詳細は不明ですが、1477年(文明9年)に起きた「長尾景春の乱」において、景春方の金子掃部助の拠点である小沢城の支城として急遽築かれた城だと考えられていますが、誰が磯部城の城主だったのかわかっていないようです。
翌1478年頃に太田道灌を大将とする関東管領の上杉勢が奥三保を攻めた際に、豊島泰経の小机城とともに落城したと伝えられています。
現在城址は御嶽神社、能徳寺の境内になっていますが、既に江戸時代には遺構は消滅していたようです。
ただし相模川に近い場所に土塁の遺構が確認され、「上磯部の土塁」とし説明板が設置されています。

下溝駅から3段の滝の歩道や橋を通過して、相模川沿いの駐車スペースより一段高くなっている遊歩道の途中に土塁説明板がありました。
さらに進み、遊歩道が終わったら川から離れる方向に進むと下磯部御嶽神社です。(土塁説明板から徒歩15分くらいかかります)
攻城時間は30分(土塁説明板から下磯部御嶽神社までの移動時間含む)くらいでした。

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昌官忠

のんびりホリデーSUICAパス八高線&相模線8城巡り③:勝沼城 (2022/04/30 訪問)

6月の九州遠征前の、なまった足腰(コロナ過で10か月攻城していません)のリハビリを兼ねた攻城(PART3)です。
のんびりホリデーSUICAパス八高線&相模線8城巡り3城目は勝沼城です。
藤橋城より徒歩35~36分くらいで光明寺入口(35.794323、139.273902)に着きました。

勝沼城は関東管領・山内上杉氏の重臣、三田氏の居城です。
山内上杉氏の勢力が衰退し、北条氏の勢力が関東に伸びてくると三田政定は北条氏康に従属します。
しかし1561年(永禄4年)に上杉政虎(謙信)が上杉憲政を奉じて関東へ侵攻してくると、三田綱秀は諸豪族とともに上杉氏に付き従いました。
謙信が越後へ引き上げると、ほかの豪族は再び北条氏に臣従しましたが、三田氏は辛垣城へ居城を移しながらも北条氏に抵抗しつづけ、1561年(永禄4年)から1563年(永禄6年)頃に、北条氏によって攻め滅ぼされました。
その後は北条氏照の属城となり、三田氏の旧臣で三田氏一族と伝える師岡将影が城主となり、城名も「師岡城」に改められたと伝えられています。
現在残る城跡は北条氏によって手が加えられたものと考えられています。
廃城となった時期や経緯は不明ですが、言い伝えによれば、1590(天正18年)に豊臣秀吉が北条氏を滅ぼした際、師岡城も落城し、廃城になったと伝えられています。
現在城址には土塁や空掘などの遺構を確認でき、また山麓の光明寺の入口付近に案内板が設置されています。

光明寺の墓地が山腹に広がっています。
住宅地を見下ろせる台地の上に、土塁で固められた広々とした一郭が広がっています。
二郭との間は横堀で区切られ、その下の通路も土塁があり雰囲気はありました。
攻城時間は25分くらいでした。

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昌官忠

のんびりホリデーSUICAパス八高線&相模線8城巡り②:藤橋城 (2022/04/30 訪問)

6月の九州遠征前の、なまった足腰(コロナ過で10か月攻城していません)のリハビリを兼ねた攻城(PART3)です。
のんびりホリデーSUICAパス八高線&相模線8城巡り2城目は藤橋城です。
今井城より徒歩20分くらいで公園入口(35.803743、139.300622)に着きました。

戦国時代に北条氏の傘下にあった平山越前守虎吉の居城とされます。
平山氏は西党出身で源平合戦で名を馳せた平山武者所季重の後裔で戦国時代には北条氏に仕えていたようです。
平山氏の居城としては峻険な檜原城(まだ、行ってません!)が知られていますが、一族は青梅の丘陵地帯を本拠としているようです。
藤橋城が最初から平山氏の居城だったのかは不明だが、城主については藤橋小三郎の名も伝わっているので藤橋氏の居城を平山氏が再利用したとの説もあります。
現在、城址は藤橋城址公園として整備されており、土塁を確認することができます。

城址公園としてきれいに整備されていて、見学はしやすいです。公園まわりは、土塁で囲まれていて、空堀も各所にありました。
水田が広がる地域の中心にあったようです。小さな公園だが説明板が設置されていました。
攻城時間は10分くらいでした。

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昌官忠

のんびりホリデーSUICAパス八高線&相模線8城巡り①:今井城 (2022/04/30 訪問)

6月の九州遠征前の、なまった足腰(コロナ過で10か月攻城していません)のリハビリを兼ねた攻城(PART3)です。
のんびりホリデーSUICAパス八高線&相模線8城巡り1城目は今井城です。
金子駅より徒歩20分ちょっとで城址入口(35.810523、139.313591)に着きました。

児玉党の今井氏が城主であったと言われています。
1416年(応永23年)の上杉禅秀の乱に際して今井氏は反乱側についたものと見られ、乱の後は附近に三田氏が台頭する中、今井氏は所領を没収されながらも細々と続いたようです。
1482年(文明14年)以降のいずれかの時点で城の墳墓が埋められ、その上に新しい城が築かれた痕跡があり、第三の勢力の進出を示唆しているそうです。
この第三の勢力とは北条氏であり、新城築城は1524年(大永4年)の北条氏綱による江戸城攻略以降のことと考えられているようです。
その後北条氏が上杉氏と対峙する中、今井城は北条氏が攻略線上に等間隔で配置した支城の一つとして機能していたが、1551年(天文20年)の平井城落城でその機能も無用となったようです。
今井氏は天正年間までは続いていたとされるが、その後は城の存在は忘れられ、江戸時代に編まれた『新編武蔵風土記稿』にも「堀ノ内」の地名があること以外は何の言及もないようです。
現在城址は周辺は宅地化されているものの、本丸跡には土塁や二重の空堀などの遺構が良好に保存されています。

住宅街の高台に空堀で区切られたいくつかの郭があり、明確に残っている空堀が良かった。
攻城時間は20分くらいでした。

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高須台第一公園より (2022/04/29 訪問)

 道は整備され歩きやすい城址ですが、削平地の他は明瞭な遺構はないように思われました。主郭の展望台は立入禁止になっていました。もっとも周囲の木が高く展望台に上ってもいい景観は望めないと思います。
旭山神社からと高須台第一公園から登城路があります。旭山神社からはそれなりの坂を上がりますが、高須台第一公園からはすぐに城域に入ることができます。ただ自分は己斐城(平原城)から高須第一公園まで徒歩で来たのでそれなりのアップダウンがありました。

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小茶臼山 (2022/04/29 訪問)

 永正12年(1515年)武田元繁が数か月にわたり攻城したが落ちなかったと伝わる城です。「武田数ヶ月攻むるといえども、銘城なるが故に、遂に落ちず」(『房顕覚書』)と記載されています。城址は本丸と二の丸を中心に東西南北に郭を配置している縄張りで、東郭や北郭を下った尾根には堀切も見られます。本丸の二の丸の間の堀切も含め堀切は浅くなっていました。整備された散策しやすい城址です。
己斐東小学校へ上がる階段と並行して「小茶臼山登山口」と書かれた看板のある階段が登城口です。整備された登城路ですが、最初は意外と階段が続いて閉口しました。
この日は朝から雨でしたが、この城を散策する少し前には上がってくれました。雨に濡れた堆積した落ち葉に注意して散策しました。

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赤い城

住宅地の中に土塁が残る (2022/04/24 訪問)

東葉高速の飯山満駅から徒歩で20分ちょっと。
城跡を示す場所には民家があり、周囲も住宅地となっています。
民家の裏手に高い土塁がある他、周辺を歩くと他にも土塁が見られます。
説明板や標柱はありませんが少しでも遺構があると嬉しいものです。
県道を挟んだ反対側に秋葉神社がありますがここにも土塁。
出丸であったのではないかと言われています。
小金城主の高城氏の城のようです。
家の前に土塁が残っているなんて羨ましいですね。

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