もう暫く自粛中で過去分の投稿ですが平成25年8月中学校卒業50年同窓会、高校夏の同級会がお盆時期に開かれ帰省した折に以前から気に成って居り金箔瓦が発掘調査中に発見されたと言う江美城を初登城しました。
鳥取の実家から国道9号線、山陰道、日野川沿いの国道181号線を南下江府町辺りから国道482に入り江府町役場辺りU字型に曲がり二ヶ所急坂を東に登り切り最初の細い農道を南に入り次に最初の細い農道を西に入り約500、600m進むと本丸手前の大堀切に着く、本丸土橋か手前の農家の作業小屋の前に路駐。車は軽か小型車が良いでしょう。(ガイドと案内は城郭放浪記さん)
後で分かりましたがU字型に曲がる坂道の辺りに江府町役場有ここの駐車場を利用して徒歩、山、丘陵に向かって東祥寺、江美神社を通り山手に坂道を登ると歴史民俗資料館(閉館)が有ります、草が茂ってるかも知りませんが登城路が有り本丸に登って行けます。
城跡は大山からの日野川に流れ込んでる舌状台地の先端に在り、本丸の東を台地と切り離した大堀切土橋で繋がり、本丸の東側に石垣が散乱してますが櫓台が有った思われる土壇が割と広くあります、本丸の西側は現在畑に成って耕されてる。本丸の西に堀切が有り西の丸跡が在るその下西に八幡丸跡現歴史民俗資料館が建ってる。西の丸跡、枡形跡は草が茂り良く確認できませんでした。
本丸周囲は崖か切岸か落ち込んで居ます、また曇って居ましたが大山北壁の厳しい姿が遠望出来ます、本丸土橋の北下は東祥寺の墓地、境内と成って居り往時は居館が有ったとの事。
歴史的には尼子氏の勢力下、蜂塚氏が築城4代継承し毛利氏との抗争で滅亡、秀吉の時代、米子城主吉川広家が伯耆を治め江美城も支城として近世城郭に改修されたのではないか?吉川広家と秀吉の繋がりで金箔瓦の使用が許されたのではないかとおもったりして?
+ 続きを読む