みんなの投稿

検索結果・・・「」を含む投稿

朝田 辰兵衛

“THE 山城”を感じられます。 (2021/10/08 訪問)

山城感ハンパなく,ワクワクしっぱなし。私の他にも登城者がおられましたが,コロナ禍ということもあり距離を置きました。
なお,釣井の壇から姫の丸間で巨木の倒木があり,通行禁止となっておりました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

おっちゃん

佐賀城公園本丸歴史館周辺図 (2017/12/02 訪問)

現地案内板より抜粋

+ 続きを読む

おっちゃん

大村公園案内図 (2017/12/01 訪問)

現地案内板より抜粋

+ 続きを読む

おっちゃん

宇土城跡案内図 (2017/11/05 訪問)

現地案内板より抜粋

+ 続きを読む

城好きのメガネ

「長久保城」 (2020/04/06 訪問)

<オススメ>★☆☆☆☆
長久保城は戦国時代に小田原北条氏・北条氏綱が築城したとされる。国境に位置していることから今川氏・武田氏と度々争いが起きた。小田原征伐後には廃城となる。現在、遺構は消滅している。

<アクセス>
JR長泉なめり駅 徒歩20分

+ 続きを読む

カズサン

甦った新発田城 (2005/10/09 訪問)

 新発田城は事前の発掘調査結果、幕末頃の多く残ってる古写真、古文書、古絵図などの資料が有り、古写真と建物のコンピューターグラフィックスとの検証も重ね、平成16年(2004年)7月に本丸に木造復元三階櫓、辰巳二階櫓が完成し、辰巳櫓のみ7月より一般公開されて居る。尚、三階櫓はイベントなどに特別公開が有る様ですが、遠方、時間に問題があっていまだ登閣探訪して居ません、何時か登閣したい。

 平成16年7月に「甦る新発田城」との小冊子が新発田市、新発田市教育委員会より発行されたとの情報が有り、生涯学習課に連絡し取り寄せました。
 小冊子の三階櫓、辰巳櫓の写真、記事を眺め読んで居りましたが、訪ねたい願望が湧きたち翌年の平成17年10月、二泊三日で新潟県の旅行を家内と行くことに、当日新発田市に泊まり、翌日、初の新発田城登城、弥彦山、越後一宮弥彦神社、直江津泊まり、高田城、親鸞聖人開山浄興寺を車で回りました。

 新発田城の近世は慶長3年(1598年)上杉景勝会津転封により越後に入った堀秀治の与力大名として溝口秀勝が新発田に6万石で入封、関ヶ原もしのぎ明治までの約260年間新発田を治政した。(幕末期11代直溥の時に5万石から10万石に加増と成ってる)

 車は三階櫓に近い南西側トイレのある小駐車場を利用し、即三階櫓を外より見学、西隣、北奥は陸上自衛隊、屋根には三尾の鯱が載り、白漆喰塗籠、腰には海鼠壁の美しい木造復元三階櫓が殿と構えています、本丸南側は石垣造り、濠が本丸を廻っていたが現在は三階櫓から南側の鉄砲櫓、表門、木造復元辰巳櫓までしか残って居ない。
 濠越し鉄砲櫓跡に移築された現存二の丸隅櫓が腰に海鼠壁に施されて居ります、眺めて土橋を渡り現存表門を潜り見学、正面に初代藩主溝口秀勝の像がお出迎え、木造復元辰巳櫓に登閣、檜の木肌、香りがまだまだ香しい、一階二階と回りしばし説明の方と会話を楽しむ、降りて濠越しに辰巳櫓を見学撮影。
 表門の南側に忠臣蔵で有名な堀部安兵衛(中山安兵衛)の像が立って居ます、安兵衛は初代藩主秀勝の曾孫との事、現地で初めて知りました。
 2時間ほどの見学散策でしたがまだまだもう少しゆっくり復元三階櫓辰巳櫓を眺めていたい気持ちがあり、後ろ髪をひかれる思いで次の越後一宮弥彦神社、弥彦山を目指しました。

 後に新発田城には桜の頃に桜と三階櫓、辰巳櫓、鉄砲櫓(二の丸隅櫓)の写真を撮りたく2回ほど、村上城登城に合わせ、また清水園、足軽長屋見学と5,6回ほど訪ねて居ります。
 また、北側の古丸から細く伸びた曲輪の南西端に土橋門跡が有り、近年土橋門の復元計画が立ち上がってるとか、是非とも実現し,
期待して待って居ります。

 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

橋吉

再仕置軍最後の戦い (2022/08/08 訪問)

エントランス広場には20台ほどとめられる駐車場があります。
ここは三ノ丸の跡にあたります。
ガイドハウスで続日本100名序スタンプを押すことができますし、資料やVTRも用意されています。

深田堀を進んで、大手まで歩きました。
ここは、現在道路になっていますが、かつては堀でした。

二ノ丸と本丸
あちらこちらで工事が行われていましたが、部分的に見学は可能です。

所要時間:53分

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

イオ

とことん江戸城(北の丸) (2022/06/23 訪問)

(続き)

出張2日目の仕事を終えると、ホテルで着替えて江戸城内郭めぐり再開です。九段下の駅をおりて 坂道を 人の流れ追い越して行けば……左手の牛ヶ淵越しに見事な鉢巻腰巻石垣が見えてきました。田安門に続く土橋の西側にも千鳥ヶ淵沿いに鉢巻腰巻石垣が見られます。

田安門は高麗門と櫓門からなる立派な枡形門で、後に御三卿・田安家の屋敷門となりましたが、現在では北の丸公園の入口であり、日本武道館に行く時に通る門になっています。この日も平日の夕方ながら人通り(特に若い女性)が多いなぁ、と思っていたら、案の定、ロックバンドのライブ開演前でした。

時間があれば北の丸公園をのんびり散策したいところを吉田茂像の脇を抜けて清水門へ。後に御三卿・清水家の表門となる高麗門と櫓門で構成される枡形門ですが、たとえ櫓門を突破しても180度ターンさせられた挙げ句、微妙に歩きづらい石段を上らねばならない堅固な造りになっています。

清水門を出て清水濠沿いに雉子橋門に向かう前にふと振り向けば、千鳥ヶ淵でも澄んだ空でもありませんが、牛ヶ淵の向こうの屋根の上に大きな玉ねぎが見えました。

…ということで、江戸城内郭(皇居部分を除く)はこれでひとめぐり。内郭だけでも充分過ぎるほど満足ですが、せっかくの機会なので、引き続いて外郭も時間の許す限りめぐってみようと思います(続く)。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征5日目:金子山城 (2022/07/24 訪問)

生子山城からの転戦です。滝の宮公園駐車場(33.947084、133.277608)に駐車し、第一展望台(33.9486648、133.2765986)に向かいました。

築城年代は定かではないようですが、南北朝時代に金子氏によって築かれたと云われています。
金子氏は桓武平氏で武蔵七党の一つ村山党の庶家。村上頼任が武蔵国入間郡金子郷に居住して金子氏を称したことに始まるといいます。
頼任の子、金子十郎家忠は武勇に優れ、源氏に味方して各地を転戦し軍功を挙げ、恩賞として伊予国新居郡の地頭職を得ました。
武蔵国より伊予へ下向したのは建長年間(1249年〜1256年)の金子広家と云われ、金子山城はこの広家によって築かれたとみられますが、慈眼寺の案内板では広家の孫頼広がはじめて当地にきて館と城を築いたと記しています。
1585年(天正13年)豊臣秀吉による四国征伐で小早川隆景が伊予に侵攻します。
高峠城主石川虎竹丸はまだ幼く、金子備後守元宅は後見人として高尾城に籠もり、金子城には弟金子対馬守元春を置きますが、兵力に勝る小早川の軍勢に元宅は野々市原で討死し、金子城も落城しました。

現在は滝の宮公園として整備され、主郭のあった第一展望台に石碑が建っているのみで遺構はありません。
攻城時間は10分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストで本日の宿泊先に向かいました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征5日目:生子山城 (2022/07/24 訪問)

西条陣屋からの転戦です。別子銅山記念館駐車場(33.921741、133.308901)に駐車し、えんとつ山入口(33.920289、133.308705)に向かいました。

築城年代は定かではないようですが、南北朝時代に松木通村により築かれたと云われており、以後松木氏歴代の居城でした。
1369年(正平24年・応安2年)河野氏の一族一条修理俊村が七百余騎を率いて生子山城に立て籠もり、細川氏の軍勢と度々戦ったが、敗れて落城しました。
1585年(天正13年)豊臣秀吉による四国征伐では、伊予へ侵攻した小早川隆景の軍勢を迎え撃つ為、城主松木三河守安村は金子山城主金子元宅に従い高尾城へ入り、野々市原の合戦で討死しました。
生子山城には鈴木四郎太夫重保ら少数の兵しか残っておらず、ときを同じくして落城したといいいます。

高尾城での右ひざ負傷により登城を断念し、えんとつ山入口を確認して引き返しました。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=金子山城に向かいます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征5日目:西条陣屋 (2022/07/24 訪問)

土居構からの転戦です。西条高校の大手門前空スペース(33.920249、133.179742)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、1636年(寛永13年)伊勢神戸城主一柳直重が30,000石で入封し築城に着手したものと思われます。
西条藩は一柳直盛が68,000石に加増され、伊勢国神戸から伊予国西条へ赴く途中に大坂で死去したため、嗣子直重が30,000石で西条藩を継ぎ、次子直家が伊予国宇摩郡、周布郡と播磨加東郡小野で28,000石を領し川之江藩となり、第三子直頼が伊予国小松で10,000石を継いだ。
一柳氏は1665年(寛文5年)領民を苦しめ、幕府に対して不届きがあったため、3代一柳直興のときに改易となり、直興は加賀国金沢藩主前田綱紀にお預けとなりました。
その後、一時天領となりますが、1670年(寛文10年)紀州藩 徳川頼宣の次男頼純が西条藩に入封し、以後10代続いて明治に至ります。

西条陣屋は現在の西条高校の敷地となっています。
東に土橋が架かり大手門が現存しており、主郭の周囲を水堀が巡っています。
大手門付近は駐車禁止なので速攻で撤退しました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=生子山城に向かいます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征5日目:土居構 (2022/07/24 訪問)

高尾城からの転戦です。土居構手前の空スペース(33.897593、133.186812)に路駐しました。

築城年代は定かではないようですが、南北朝時代に河野通直によって築かれたと云われています。高峠城城主の累代の居館として河野氏、石川氏が利用したようです。
1575年(天正3年)石川氏がこれに拠ったが、1585年(天正13年)豊臣秀吉の四国征伐で高峠城が攻められ、その兵乱で建物は焼失しました。
1642年(寛永19年)久門政武が中野村庄屋として入居し、子孫継承し今日に至ります。家屋はその後改造を重ねながらも猶旧態を保っているそうです。『西条市教育委員会説明板』より。

民家敷地門脇に「土居構跡」の石碑と案内板が立っており、石垣で囲まれています。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=西条陣屋に向かいます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

POYO58

二の丸と虎口編 (2022/08/08 訪問)

この前電車で大和郡山城に行きました。近鉄郡山駅から徒歩5分くらいで行けます。駅から歩いて城の公園に入ると最初っから立派な石垣と水堀が見えてきました。この城はほとんどの石垣が野面積みですが、算木積みに改修されているところも多く、この城が徳川時代の前で信長時代の後に建てられたということが想像できます。多分ここから城かな?と思いながら歩いていくと、また石垣と水堀が。これは内堀でしょうか?幅も結構広かったです。そして歩いていくと内堀と石垣がまた見えてきました。その時思ったのがその時渡っていた橋。橋の向こうにやっと大和郡山城と書かれた石碑があるのですが、この橋を落としてしまえばもう城の入り口にすら入れないのではと思いましたが、橋は石でできていたのでそれは難しいかも。その後もまた虎口が。虎口を突破するとまた橋!この橋は木でできていたので落とせそうです。が、虎口を通る前になぜか天守台が。もう?と思ったらどうやら入り方を間違えたようでした。今まで考えていたのは全て妄想だったのか😞
では天守台を詳しく見ていきます。 続く

評価
遺構:4
建物:3
行きやすさ:3
全体:4(もう少し石垣を見やすく整備してほしかった)(写真④参考)

攻城時間
40分くらいです。

写真は二の丸隅櫓も投稿します。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征5日目:高尾城 (2022/07/24 訪問)

荏原城からの転戦です。登山口前の空スペース(33.881076、133.123830)に駐車しました。
「高尾城跡 登山口」の石碑の横より橋を渡って用水路の土手に出て攻城しました。

築城年代は定かではないようですが、享禄年間(1528年〜1532年)に高峠城の支城として、高峠城主石川通清によって築かれたと云われています。
1585年(天正13年)豊臣秀吉による四国征伐で、小早川隆景が伊予に侵攻します。
高峠城主石川若竹丸はまだ幼く、重臣達によって協議した結果、金子城主金子元宅の意見が通り高峠城に籠って小早川隆景と対することとなりました。
元宅は金子城を弟金子元春に守らせ自身は総大将として高峠城に入り、宇高城主高橋美濃守を高尾城に籠らせました。
小早川隆景率いる2万とも3万ともいわれる軍勢が怒涛の攻撃を仕掛け、美濃守らは良く防戦したが、遂に落城し城に火を放って自刃したそうです。

主郭は山頂にあり南に高土塁、北西に低土塁が残っています。主郭の南背後に堀切があります。
防虫ネットが蜘蛛の巣だらけで蜘蛛までついていました。
下山中、右ひざを木の株にぶつけてしまい出血負傷。足をひきづりながら下山しました。
攻城時間は65分くらいでした。次の攻城先=土居構に向かいます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征5日目:荏原城 (2022/07/24 訪問)

松山城からの転戦です。城址内空スペース(33.766319、132.812751)に駐車しました。

築城年代は定かではないようです。 1335年(建武2年)には北朝方の大森氏が南朝方の忽那氏と戦っており、この頃には築かれていたと考えられているようです。
室町時代後期には河野氏の重臣平岡氏の居城で、四国統一に向けて勢力を伸ばす長宗我部氏に対する押さえを担ったようです。
1585年(天正13年)豊臣秀吉による四国征伐では平岡通倚も湯築城に籠もったが、河野氏は降伏し荏原城も落城となったようです。
1600年(慶長5年)関ヶ原合戦では松前城主加藤嘉明が徳川家康に従って留守となっていた隙に、安芸毛利氏の家臣が伊予に上陸して松前城を攻めました。
このとき、平岡通倚の弟平岡直房が毛利氏に味方して荏原城に立て籠もり戦っています。

周囲に高土塁と水堀がよく残っています。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=高尾城に向かいます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

猪狩筑後守隆清

岩城家重臣猪狩家 (2006/06/07 訪問)

猪狩家は小野妹子の兄弟 小野良人が祖先であり 11歳の時に初陣を果たし 11力の家紋を与えられ 源の義家 頼義に襲いい かかる大猪を弓矢で射止めたころより猪狩の名を授かる。岩城家家臣となり 木戸城を落城 楢葉太郎を破る。その後 相馬 伊達の最前基地として木戸城の強化。高倉城に 数キロにわたる要害の砦を気づいた。木戸川の合戦や度々の相馬の戦に置いて 防衛戦や奪還作戦に成功した。岩城家が佐竹の傘下に入り、小田原の合戦 人取り橋の合戦などに参戦。2代目佐竹城主が関ヶ原の戦いで西軍の味方と判断され、佐竹岩城家は秋田に貼付、猪狩家もバラバラになり高倉城はは廃城となる。城は現在整備され 館跡 曲輪 土塁 河石を使った石垣などが見られる

+ 続きを読む

ぴーかる

浦富台場 (2022/08/11 訪問)

【浦富台場】
<駐車場他>浦富海水浴場駐車場 海水浴シーズンは駐車料金1000円、シーズン以外は無料かと思われます。
<交通手段>車

<見所>土塁
<感想>浦富台場は国史跡に指定されている6つの鳥取藩台場跡の1つです。現地説明板によると1863年には台場の構築をして大砲の配備を行っているとあります。藩の大砲の鋳造は現在の大栄町(今はすいかで有名)で行い、鵜殿長道が持ち場となったそうです。
 現在は土塁が2段になって残っており、台座部分はどの辺だったかはわからない。夏場は無料で駐車できる場所がなく、5分以内の路上停車でちゃちゃっと見ました。

<満足度>◆◇◇

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

赤い城

貴船神社か戸越公園か (2022/07/24 訪問)

大崎駅から徒歩で10分。
貴船神社が推定地とされています。
遺構はありません。
戸越公園も推定地の一つとのことなので足を伸ばして見ました。
こちらにも遺構はありませんが細川藩の下屋敷跡でもあり、薬医門が残っています。
池のある趣きのある公園でした。
さらには西光寺も推定地らしいのですが今回は行かず。
又の機会に行ってみますかね。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

マダム卑弥呼 

意外なお城跡 (2021/11/21 訪問)

お勧めです。まさかあんなに感動するとは思っていませんでした。土日しか開いてないので気を付けて

+ 続きを読む

マダム卑弥呼 

村重が大好き (2021/11/21 訪問)

やっと行けた。原田城(豊中市)にも一緒に行きました
村重の城。川との関係性も重要です。逃げて生き延びた男の城。

+ 続きを読む

ページ697