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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征5日目:樺崎台場(城びと未登録 愛媛県宇和島市) (2022/07/24 訪問)

石城からの転戦です。入口前(33.226866、132.554942)に路駐しました。

1855年(安政2年)宇和島藩によって築かれました。
1855年(安政2年)3月宇和島藩は宇都宮綱教、松田常愛の二人を奉行に任じて、宇和島湾に樺崎砲台の築造を開始し、同年12月完成しました。台場には五門の砲が据え付けられたそうです。

宇和島市立歴史資料館の敷地に面して北側に砲台跡が残されています。 西に面した石垣の上に砲眼が一門分残されていました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=宇和島城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征5日目:石城 (2022/07/24 訪問)

法華津城からの転戦です。吉田図書館駐車場(33.282661、132.538535)に駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、西園寺氏によって築かれたと云われています。
西園寺氏の居城黒瀬城の出城として築かれ、後に法華津氏の枝城となったと云われています。
1546年(天文15年)西園寺実充の要請を受けた大森城主土居清宗が、一族を率いて石城に入り城を大改修しました。
土居氏は石城にあって豊後の大友氏の攻撃を数度凌いだが、1560年(永禄3年)板島から上陸した大友氏の大軍により落城、清宗・清貞・雲影父子は自刃して果てました。
1566年(永禄9年)土居清宗の孫土居清良が再度この地を領することになり、1567年(永禄10年)に城を修築して土居似水を城代としました。
1568年(永禄11年)再度、大友勢によって攻められますが石城は落ちず、大友勢は退去しており、これ以降の記録は確認されていないそうです。

喜佐方トンネル出た右側に農道入口があり、農道を1.5Km進めば主郭に着くそうですが、時間の都合上、攻城は諦めました。
そのかわり、城の南麓にある江戸時代に宇和島伊達氏の分家伊達宗純が築いた陣屋跡周辺(吉田図書館周辺)を散策して、石城攻城としました。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=樺崎台場(城びと未登録 愛媛県宇和島市)に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征5日目:法華津城 (2022/07/24 訪問)

黒瀬城からの転戦です。日吉神社参道脇(33.316318、132.518315)に駐車しました。

築城年代は定かではないようです。 法華津清家の持つ7城の一つで本城であったそうです。
1560年(永禄3年)大友氏の大軍が宇和各地に押し寄せ法華津本城にも来襲したが落ちなかったようですが、西園寺氏の説得により大友氏の支配下に入り人質を豊後に送っています。
1566年(永禄9年)法華津範延は、大友宗麟出兵中の豊後に繰り出し人質を奪いかえしています。
1588年(天正16年)戸田勝隆が宇和郡の領主になると城を追われたそうです。

事前調査の登り口は登れず、日吉神社を参拝して攻城としました。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=石城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征5日目:黒瀬城 (2022/07/24 訪問)

河後森城からの転戦です。宇和運動公園(33.358151、132.509553)に駐車し、登山道入口/案内板付近(33.358381、132.5088)から攻城しました。

築城年代は定かではないようですが、天文年間(1532年~1555年)頃に西園寺実充によって築かれたと云われています。
西園寺氏ははじめ松葉城を本城としていましたが、豊後の大友氏や土佐の一条氏に備えるために黒瀬城を築いて居城を移したそうです。
1584年(天正12年)実充の跡を継いだ西園寺公広のとき長宗我部氏に降伏しました。
公広は豊臣秀吉による四国征伐の後、伊予一国を与えられた小早川隆景の時代は在城を許されていたそうですが、その後宇和地方の領主として大洲城へ入った戸田勝隆によって下城を命ぜられ、翌年謀殺されました。

一の郭に鉄塔、城址の東端(曲輪VIII?)に東屋がありました。
遺構としては土塁、堀切、横堀、竪堀、井戸跡を確認しました。
黒瀬城の西側に岡城がありますが、時間の都合で攻城していません。
攻城時間は55分くらいでした。次の攻城先=法華津城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征5日目:河後森城 (2022/07/24 訪問)

宿泊先の中村プリンスホテルからです。河後森城駐車場(33.222855、132.708972)に駐車しました。
続100名城スタンプは河後森城跡西第十曲輪馬屋で押印しました。年中無休24時間、押印できるのは有難いです。

築城年代は定かではないようです。 戦国末期の城主は河原淵教忠(渡辺)で、土佐一条氏一族の東小路家から政忠の養子となった人物です。
1578年(天正6年)から翌年の間に、城主・渡辺教忠の近習だった芝源三郎が謀略により当城を奪いました。芝氏は土佐を統一した長宗我部氏に通じ西園寺氏に敵対していました。
1583年(天正11年)の四国の役の後、戸田勝隆により芝源三郎は放逐されました。
その後、当地を治めた藤堂高虎は当城の天守を移築して宇和島城(板島城)の月見櫓に移築したとそうです。
1614年(慶長19年)伊達秀宗が宇和島に入部すると、付家老桑折氏が7,000石をもって居城としましたが、元和の一国一城令により廃城となったようです。

河後森城は西第十曲輪、本郭、古城、南東の新城の各曲輪群から構成されています。。
西第十曲輪には復元された門、建物、土塁がありました。本城に石垣(石積)がありました。
堀切は西第2曲輪と西第3曲輪間、大きな堀切は本城から古城に向かう途中の古城手前にあり、新城にも二重堀切?がありました。
日の出前に到着した為、続100名城スタンプを押すまでは暗かったですが、攻城中に明るくなり、見学することができて良かったです。
攻城時間は55分くらいでした。次の攻城先=黒瀬城に向かいました。

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朝田 辰兵衛

七尾湾で経済活動するなら… (2022/07/16 訪問)

七尾湾で経済活動するなら,七尾城より小丸山城だな…と,来ただけで察知することができます。祭りの前日でしたが,とても静かでした。
七尾駅にエレベーターが設置されていないというのは,驚きとともに落胆しました。

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イタさん

本庄台地末端の城跡 (2022/07/07 訪問)

本庄台地北東の末端に、弘治2年(1556)に本庄実忠によって築城され、北は小山川、南東は久城堀を要害とし、東は八坂神社、西は旧簡易裁判所(現市役所付近)辺りまでの城域だったと案内にある。山内上杉氏・後北条氏と変遷し、秀吉の関東攻めで落城。家康の関東入国により小笠原氏が城主となるが、慶長7年(1612)に古河に移封し廃城と、案内に記されている。城山稲荷神社から東は城下公園で、公園から八坂神社が建つ台地上は数mの高低差があり、利根川などによって出来た河岸段丘を利用している。市役所裏辺りに木々が多く何か遺構があるかと思うが、周囲は私有地であり公園・神社境内・参道以外は入れない。

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小城小次郎

群郭式のお城ということでよいのだろうが (2022/02/23 訪問)

東・中・西の三エリアに大別されるが東西の優劣関係には決め手がなく、広域的には群郭式のお城として捉えればよいのだろう。横堀ひとつとってもその用途がわからず、わからないことだらけと言っていい。それが楽しい。

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BUCHI38

結構きつい (2022/08/07 訪問)

サブアカウントをあまり使っていなかったのでこちらで投稿させていただきます。
安土城に行ったあと、安土考古資料館の前にある文芸レストランで昼食を済ませて、そこから40分歩いて観音寺城の追手道まで行きましたが、多分ルートを間違えました。歩いてて思ったもが、ずっと山の有料道路でこれは車が通る道ではないかなと思いながらも30分くらいかけて登りました。だいぶ辛かったです。ただ地獄はまだ続き、追手道に無事に着いたのですが、階段がきつく足を痛めました。10分ほど登ったら大石垣の看板がありましたが、どこにあるかわからず5分ほど探すと、ビックリ。大石垣がありました。ひとまず写真を撮って、本丸へ向かおうと思ったら、路が分からず、路らしきところを登っても違ったりして山に迷い込みましたが、立派な虎口を2つ発見しました。その後、本丸へ向かおうとしましたが、水分補給ができておらず、友人が自動販売機を必死で探していたので本丸は行けず泣。適当に路を歩いていくと観音正寺が見えました。急いで自動販売機を探し、水を買って一休み。もうくたくただったので本丸なしで参道の階段何百段を降りて山を降りました。山を降りた後、自分の足は勝手に震えていました。
すみません自分のエピソードを話してしまって、では城の紹介をしようと思います。
観音寺城は足利義昭の政治に反対していた六角氏が築城しました。その後、代々受け継がれましたが、足利義昭を攻めたことにより、織田信長が六角氏を攻め、観音寺城のそばに安土城を築き、攻め落とす計画を立てていましたが、不安を抱えた六角氏が無血開城し、廃城となりました。観音寺城の主な遺構は石垣で、安土城の石垣の技法を取り入れているように感じます。是非見て帰ってください。あと、歩いていく人は十分に準備をして、日吉神社を通って階段を登っていくように。

評価
遺構:4
行きやすさ:1
全体:3

攻城時間
2時間以上だと思います。

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イタさん

未登録の御嶽城 (2021/12/19 訪問)

埼玉県神川町のほぼ中央にある武蔵国二宮の金鑚神社からのコースが駐車場があり便利。他に3コースが紹介されている。すぐに国の重要文化財の多宝塔が見え出す。阿保郷丹荘の豪族、阿保弾正全隆が天文3年(1534)に寄進した旨が記されている。先には拝殿があり、山そのものをご神体とする。日本に3社しかない珍しい形式。

登り途中の左右には、石像・句碑が建ち並ぶ。尾根手前に1億年前の断層活動で出来た鏡岩があり、その上左が郭跡なのか平坦地で、東端は展望台になっている。西は尾根状で掘切・土橋跡と思わせる場所もある。山頂手前は崖のようでロープが張られ、切り岸とする意見がある。山頂が主郭で尾根が四方に派生し、堀切・郭があるようだが確認せず。南尾根を下るが遺構の判断がつかなかった。

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肉球

藤心陣屋・千葉県柏市 (2022/08/10 訪問)

仕事で千葉県柏市に行く機会があり藤心陣屋跡に行ってきました。
本多正信の弟正重が下総国相馬郡に領地を賜り1616年頃この地に陣屋を築いたようです。
ここには痕跡と思われるものは無く石碑と説明書だけがありました。
表門は柏市内の観音寺、中門は法林寺へそれぞれ移築され保存状況も良好でした。
領地は近くの村にも点在していたようで柏市船戸にも代官所を築いていたようです。
船戸陣屋跡地には不動堂があり説明書があります。
本多家はその後加増を重ね上野国沼田藩、駿河国田中藩と領地替えされましたが
この地は幕末まで本多家の領地だった様です。

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カズサン

清々しい長塀の景観 (2005/10/21 訪問)

竹の丸の長塀も平成28年の熊本地震の被害を受けて倒壊、飯田丸五階櫓が復元した直の平成17年10月に登城しましたので、地震前の坪井川沿い草を刈られて綺麗な土手、長塀下の長い石垣、黒下見板張の長塀約240mを東の須戸口門の高石垣、乗っかってる復元平御櫓から西方向復元馬具櫓間を坪井川沿いの散策路を長塀景観を楽しみながら歩きました、詰りは行幸橋たもとの清正公様の像を仰ぎ見ます、熊本城を護ってる様です。地震前の姿をご覧下さい。

 ちなみに馬具櫓は昭和41年再建され平成28年の熊本地震前には前の櫓を解体し古い図面を基に木造復元し続土塀、櫨方門枡形の土塀と合わせて完成一般公開前でしたが被害に遭い、次の修復復元計画の順番待ちです。
 馬具櫓の復元、櫨方門枡形土塀の復元の次は飯田丸五階櫓の北に続く百閒櫓が復元予定だったのですが、惜しまれます、地震崩壊した石垣、建物の次の次になって仕舞いました。
 末尾の投稿写真は行幸坂辺りから眺めた往時の熊本城の櫓が連なった幕末頃の写真です、このような姿を復元したいとの希望計画で進んで居ました。
 生きてる内には見れないかもしれませんが復旧修復が全体済みましたら、幕末古写真の櫓が連なった往時の姿復元を大いに期待して居ます。
 

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おっちゃん

国史跡「勝瑞城館跡」遺構配置図 (2018/01/05 訪問)

現地案内板より抜粋

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おっちゃん

勝賀城縄張図 (2018/01/04 訪問)

現地案内板より抜粋

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おっちゃん

基肄城跡概要図 (2017/12/02 訪問)

現地案内板より抜粋

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イオ

とことん江戸城(本丸) (2022/06/22 訪問)

(続き)

かつて表・中奥・大奥の御殿が建ち並んでいた本丸は、現在では芝生の広場になっています。本丸北部の天守台に向かう前にまずは南隅の富士見櫓へ。木立越しに見える程度かと思っていましたが、すぐ近くまで遊歩道が整備され、説明板も各種建てられています。裏側には破風は設けられていませんが、寛永期天守が焼失した後は天守代用とされただけあって、堂々とした佇まいの三重櫓でした。一般参観では表側から間近に見上げられるようですし、いつかは是非とも…。

本丸の西側を北に進むと、松の大廊下跡の石碑と説明板が建てられています。ここが元禄赤穂事件の発端の地なんですね。忠臣蔵ものは好きなので石碑や説明板があるだけでも想像が膨らんで嬉しいものです(元禄繚乱での勘九郎さんの内蔵助が好きでした)。

蓮池濠沿いには御休息所前多聞(富士見多聞)が現存しています。内部公開されているので入ってみると、蓮池濠越しに西の丸を見渡すことができました。一般参観、一般参賀や乾通り一般公開では西の丸側から高石垣の上に建つ姿が見られるようなので、これもいつかきっと…。

御休息所前多聞を出ると、本丸を横切って東側へ(石室を見落としてしまいました…)。本丸休憩所の南隣には寛永期天守の復元模型が展示されています。案内表示に1/30スケールと書かれてはいたものの、想像していたより遥かに巨大でびっくりしました。天守台約14mと天守約45mで高さは約59mあったとされますので、1/30だとほぼ2mになるんですね……道理ででかい訳だ。

本丸休憩所の東にある展望台(台所前三重櫓台)から二の丸と白鳥濠を見渡し、汐見坂へ。汐見坂門を抜けると急坂が二の丸へ続いており、改めて本丸と二の丸の高低差を実感させられます。これだけ高低差があるなら、かつて汐見坂から日比谷入り江が見渡せたとのいうのも頷けますね。

そしていよいよ天守台へ。遠目に見ても巨大ですが、近付くと視界に収まりきらない規模に圧倒されてしまいます。地階部分は半分以上埋め立てられて北側は展望台になっていますが、遺された部分には雁木も見られます。折しも平日のお昼過ぎで天守台には誰もいなかったので、しばし天下人気分にひたってから天守台を下り、美しく積まれた算木積みを眺めながら北桔橋門の前を素通りして梅林坂に向かいます(続く)。
 

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赤い城

来福寺 (2022/07/24 訪問)

立会川駅から徒歩で7分。
来福寺周辺が館跡であると伝わります。
遺構はありませんが高台にあり、それらしさを感じます。
来福寺は平安時代に創建された真言宗のお寺。
かつては品川の海も望めたそうです。
北条氏の家臣の梶原氏の館跡とされます。
梶原景時の館跡説もあるようですが信憑性は低いようです 

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征4日目:中村御所(城びと未登録 高知県四万十市) (2022/07/23 訪問)

中村城からの転戦です。天神橋商店街駐車場(32.992744、132.934483)に駐車しました。

1468年(応仁2年)一条教房によって築かれました。
1468年(応仁2年)前関白一条教房は、応仁の乱の戦火を逃れるため一条氏の荘園であった幡多庄に下向しました。
教房は加久見城主加久見土佐守宗孝の娘を娶り生まれたのが一条房家です。この房家が実質的な土佐一条家の初代です。
戦国時代の土佐は一条氏を別格として、津野氏、大比良氏、吉良氏、本山氏、安芸氏、香宗我部氏、長宗我部氏の七人守護といわれました。

中村御所は現在の一條神社付近に築かれていたそうです。
中村御所跡の北側、一條神社境内に一条家の女官・侍女がお化粧をするために使用したと伝えられる化粧井戸が残っているそうですが、見逃してしまいました。
攻城時間は15分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストで本日の宿泊先に向かいました。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征4日目:中村城 (2022/07/23 訪問)

栗本城からの転戦です。石碑付近(32.996606、132.929819)に駐車しました。
夜遅い為、中村城は開いていないので、模擬天守を外から確認しました。

築城年代は定かではないようですが、1467年(応仁元年)に勃発した応仁の乱を避け、左大臣・関白であった一条教房が、翌年、荘園であった中村に下向しそのまま戦国大名として土着しました。
元々この地にいた豪族の為松氏が家老として取り立てられ、その為松氏により築城されたのが始まりと考えられているようです。
代替わりして一条兼定は、1558年(永禄元年)に伊予国の宇都宮豊綱の娘を娶るが、1564年(永禄7年)に離別して豊後国の大友義鎮(宗麟)の次女を娶り大友氏と結びました。
1574年(天正2年)素行が悪かった一条兼定は羽生、安並、為松の三老臣によって幽閉され、豊後に追放されました。
これにより一条氏は兼定の嫡男内政が擁立され、長宗我部元親に後見を頼み大津御所に送られた。元親は中村城主に実弟である吉良親貞を置いて幡多郡を支配させたそうです。
1575年(天正3年)一条兼定は中村に復帰を試みますが、長宗我部元親に攻められ滅亡しました。
1600年(慶長5年)関ヶ原の戦い後、戦功により山内一豊に土佐一国が与えられ、1601年(慶長6年)山内一豊の弟康豊が20,000石で入りました。
1615年(慶長20年)の一国一城令に伴い、廃城となりました。

二の丸跡に郷土資料館として模擬天守が建てられその南に土塁・虎口が残っています。郷土資料館の開館時間には間に合いませんでしたので、二の丸跡付近のみの攻城でした。
車を駐車した付近に石垣があり、駐車した場所は堀切にあたるようです。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=中村御所(城びと未登録 高知県四万十市)に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征4日目:栗本城 (2022/07/23 訪問)

宿毛城からの転戦です。排水池前(32.983429、132.916258)に駐車しました。

築城年代は定かではないようです。城主としては津島勘助、のちの鳥屋源兵衛などと云われているようです。
1575年(天正3年)豊後に逃れていた一条兼定は中村城奪還のために、伊予の法華津播磨守らの助勢を得て栗本城に要害を構えて拠点としました。
兼定と元親の軍勢は渡川(四万十川)を挟んで戦ったが兼定の軍勢は敗れ、伊予に退き奪還は果たせませんでした。

現在山頂部分には水道施設があり、大半の遺構は消滅してしまったようです。
排水池前付近に栗本城の説明板が建っています。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=中村城に向かいます。

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