いいのじんや

飯野陣屋

千葉県富津市


旧国名 : 上総

投稿する
口コミ・画像を投稿する

みんなの写真投稿

投稿する

みんなの口コミ

投稿する

城好きのメガネ

「飯野陣屋」 (2023/04/06 訪問)

<オススメ>★☆☆☆☆
飯野陣屋は、1648年頃に保科正貞が1万7000石の大名として立藩し、廃藩置県まで10代にわたって治めた。保科氏は甲斐・武田氏の家臣で先方衆をつとめた名門。藩主の多くは大坂定番、江戸城の守備など幕府からの信任も厚かった。10代・保科正益は若年寄にまで栄進し、第二次長州征伐では征長軍の指揮を任された。戊辰戦争では新政府側に与する代わりに徳川慶喜の助命嘆願を求めて京都に入るが、親戚筋にあたる会津若松藩が徹底抗戦の構えを取り、飯野藩も連座し、謹慎処分となる。廃藩置県に伴い廃城となる。三条塚古墳・亀塚古墳・稲荷塚古墳などを再利用している。現在、土塁、横堀(水堀)が遺されている。

<アクセス>
JR青堀駅 徒歩25分

+ 続きを読む

宗春

千葉の城を攻めて御城印を頂こうシリーズその31 飯野陣屋 (2023/02/12 訪問)

千葉の城を攻めて御城印を頂こうシリーズその31

【海城サミット2023 in Chiba】のイベント『②金谷城に関する非公開遺構(頂上:主郭部分)の限定公開』に参加した帰り、青堀駅で途中下車して攻めてきました。

現在ではほぼ私有地のようですが、周囲を囲む水濠は遺されていました。

周辺には古墳も多いようなので、合わせて訪れてみるのも良いかもしれません。

+ 続きを読む

まーやん

古墳と同居する日本三大陣屋 (2022/12/18 訪問)

ここは保科正直の三男正貞が整備した広大な陣屋で知られていおり、日本三大陣屋の一つに数えられている。
周囲の古墳にあった濠を利用した曲輪の配置となっているが、正直このような形態は初めて見て驚いた!
今は飯野神社が鎮座するあたりから稲荷塚古墳あたりが二ノ丸で神社後方に前方後円墳の三条塚古墳があり、三ノ丸の多くの部分を占めている。本丸は神社手前になる。
とにかく古墳をそのまま利用する感覚が面白い。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

カズサン

外濠が四方残存広大な陣屋です (2022/05/30 訪問)

 坂田城址を終えて、地道と初めて圏央道を使い、館山道から木更津南ICを降りて、飯野陣屋跡内に在る飯野神社鳥居前に到着、車は鳥居前の脇駐車エリアに駐める。坂田城址から行程は約80km程有り約1時間半、17時からの探訪と成る。
 情報と案内は古城盛衰記さん余湖図コレクションさんに依る。
 
 飯野陣屋は外濠、土塁が完全に残って居り、外周長方形で約1400mは在るのか?、三大陣屋の一つと言わられる、他は徳山陣屋、敦賀陣屋。訪ねて居ませんが西地域に三条塚古墳、その東前に飯野神社が中心地に鎮座、南東に本丸、二の丸、三の丸の悌郭式、西外に外郭が有った模様、現在古墳と神社以外は住宅と畑に成って居ます、元藩士の方々の住宅かも?
 南側の中間地に折れが有る、又東側の中間地辺りに出隅があり折れを作ってる。

 外濠探訪は南側半分、東側、北側半分の東地区中心、濠の土塁側が垂直に立って居るので石垣、石積の護岸が有るのかと訝るも草が茂り良く分からない、近くを通った方に聞くと石垣と答えてくれたが良く分からない。
 その方と会話してたら浜松ナンバーの車を観て、浜松から来たの、私は磐田市出身と言われ故郷の話で盛り上がる。

 歴史は、保科正忠が慶安元年(1648年)築いた、17000石、分知し15000石に成るが後5000石加増し2万石で明治を迎える。飯野藩は大坂城番、江戸城の門番を務める事が多く、飯野陣屋には代官2名がいて事務処理を行っていた。

 飯野陣屋を終えてアクアライン経由を選択、これがトンネル内の事故2件の渋滞に掛かり、圏央道の事故渋滞情報で分かって居ましたが3時間も経てば空いてるのではと、木更津南ICより18時過ぎ入り、海老名SAまで3時間、やっと夕食、浜松帰宅は深夜過ぎ。

 岩手宮城茨城千葉4県未踏11城チョイ寄り2城、天気に恵まれ昨年11月から6ヶ月振りの良い城廻りでした。

 

 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

城郭情報

分類・構造 陣屋(古墳利用)
天守構造 なし
築城主 保科正貞
築城年 慶安元年(1648)?
主な城主 保科氏
廃城年 明治4年(1871)
遺構 土塁、横堀(水堀)
指定文化財 県史跡(飯野陣屋濠跡)
再建造物 石碑、説明板
住所 千葉県富津市下飯野833他
問い合わせ先 富津市役所教育部生涯学習課
問い合わせ先電話番号 0439-80-1342