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小城小次郎

地味にすっごい屋敷なのだ (2022/02/23 訪問)

名城煌めく静岡にあっては地味な存在だが、掛川から菊川に跨って存在した内田荘の下郷の地頭だった内田氏が鎌倉時代から使用していた館であることが発掘でほぼ裏付けられ国史跡にもなっているすっごい屋敷なのだこれが。

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金森長近 (2022/08/11 訪問)

 長良川鉄道「美濃市駅」から、うだつの上がる町並みを見ながら徒歩約15分で城址である小倉公園に行くことができます。石垣や模擬櫓があります。背後の山を登って行くと、約10分くらいで櫓風の展望台のある山頂に行くことができます。削平地はありますが、遺構か否かわかりません。

 「うだつの上がる町並み」は金森長近が作った城下町です。金森氏が改易となり尾張藩の所領となった後も交通の要衝として栄え、今にその町並みを伝えています。美濃和紙は奈良時代からあり正倉院文書の中に美濃経紙が記載されているとのことです。町並みをゆっくり散策し、和紙も買おうかと思っていましたが、この日はかなり暑く城跡見学だけで早々に退散しました。ちなみに昭和のアイドル野口五郎さんはこの町の出身で旧名鉄美濃駅には関連ポスターや「私鉄沿線」の歌碑があります。

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チェブ

番外編「信玄塚」の巻。 (2022/05/06 訪問)

「長篠城」周辺は、長篠・設楽原の古戦場でもあります。
新城市設楽原歴史資料館に向かう途中に『信玄塚』に寄りました。(*資料館はお休みでした。)

入口に小塚があり、奥に大塚があります。
小塚は、徳川・織田連合軍。大塚は武田軍の戦死者を埋葬したそうです。
たくさんの武田家の方々が散ったのでしょう、大塚は小塚に比べ哀しくなる位、大きいです。
近くに、武田家の有名な武将のお墓も あったし、激戦地の近くなので、納得ですが、、、。
大塚の近くに閻魔大王座像がにらんでます。

塚をお祀りした後、蜂が大量発生したんだとか。霊を慰める『火おんどり』というお祭りがあるそうです。
亡くなっても蜂になり、なお 戦おうとする勇ましさ。武田家の誇りを感じられます。
『信玄塚』とありますが、信玄さんは長篠・設楽原の合戦の時には亡くなってます。
武田家=信玄さん、なのでしょう。
武田 勝頼さんや他の武将さん達のエピソードも素敵なんですが。
と、どーも、この戦い、武田家方に気持ちが偏ってしまいます。

どの戦いも、華々しく敗けた方々がいたからこそ、勝者が耀くんだと思います。
先人たちの無念を、覚えておこうと、どちらの塚にも手を合わせてきました。

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イオ

とことん江戸城(中之門~御書院門) (2022/06/22 訪問)

(続き)

二の丸庭園から戻って中之門へ。他の多くの門と異なり中之門には枡形は設けられていませんが、巨石を用いた圧倒的な規模の石垣が遺っています(私の拙い写真では迫力が伝わりませんが…)。門柱の礎石からも中之門の圧倒的な規模を感じますし、古写真によれば、この上に石垣に見劣りしない巨大な渡櫓が建っていて、さすがは本丸への正門だなぁ、と感嘆させられました。中之門の北側には、平成の修復工事の説明板や修復時に交換された元の石垣の石材が展示されています。中之門の手前には百人番所と呼ばれる長大な番所が現存し、南側の植栽も番所風に刈られていました。また、中之門の内側にも大番所が遺っています。

中之門を抜けて坂道(往時は石段)を上って行くと、御書院門(中雀門)の石垣が見えてきます。石垣の上にはふたつの二重櫓が並び建っていたそうで、本丸への最終関門だけに厳重な造りになっています。櫓門の石垣の表面が黒ずんでいたり表面がぼろぼろになっているのは幕末の火災痕なんだとか。また、御書院門にも(中之門の規模には及ばないものの)門柱の礎石がしっかりと遺っています。

御書院門を抜けるとようやく本丸です(続く)。
 

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カズサン

復元直後の飯田丸五階櫓を御覧下さい (2005/10/21 訪問)

 木造復元飯田丸五階櫓は6年前の平成28年4月の熊本震災で一本石垣の雄姿で耐えた姿が有名に成りましたが、熊本地震の11年前に当たる平成17年3月に木造復元完成しました。
 17年前になる平成17年10月下旬、木造復元飯田丸五階櫓を探訪、登閣し、大感激した事を覚えて居ります、現在は熊本震災後、建物の解体、石垣修復の為の取り壊しを行い、修復復元の順番段取りを待ってる所でしょう、10年20年掛かる事でしょうが期待して待って居ります。

 平成17年(2005年)10月探訪時の木造復元飯田丸五階櫓の雄姿をご覧下さい。

 復興に係わってる、熊本市、熊本県、全ての皆さん、城郭愛好家の皆さんに感謝を申し上げます。
 
 

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赤い城

相模川に沿って (2022/07/18 訪問)

この日は相模線の相武台下駅から遊歩道を歩き20分ちょっと。
跡地には能徳寺が建っています。
近くの御嶽神社辺りも城域のようですが遺構はありません。
ここから北に相模川に沿って進むと上磯部の土塁があります。
説明板が立っていて川に垂直に僅かに残っています。
本丸からは少し距離があるので出城なのか別の城なのか。
詳細はわかりません。

長尾景春の乱で太田道灌に攻め落とされました。
周辺は住宅地で静かな感じです。
それにしてもこの日は暑かった。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征4日目:姫野々城 (2022/07/23 訪問)

須崎台場からの転戦です。白雲神社駐車場(33.441271、133.21500)に駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、津野氏によって築かれたと云われています。
津野氏は藤原仲平の子山内蔵人経高が伊予より、913年(延喜13年)に土佐に入り津野山を本拠として津野氏を名乗ったことに始まると云われています。
津野氏は土佐七雄の一人に数えられる勢力を誇っていたが、1517年(永正14年)津野元実は一条氏の家臣戸波城の福井玄蕃を攻めて敗れ討死しました。
これによって津野氏の勢力は衰退し、天文年間(1532年〜1555年)には一条氏に降りました。
1571年(元亀2年)頃になると勢力を拡大していた長宗我部元親の三男親忠を養子に迎えその支配化に入りました。
津野親忠は長宗我部元親が豊臣秀吉の四国征伐により降伏し、土佐一国を安堵されると秀吉の元に人質となって大坂に送られました。
豊臣秀吉による九州征伐で元親の嫡子信親が討死すると、家督相続争いに巻き込まれ、1599年(慶長4年)には元親によって岩村に幽閉されました。
長宗我部盛親が1600年(慶長5年)の関ヶ原合戦で西軍について敗れると、親忠は親しかった藤堂高虎を通じて徳川家康に長宗我部家の存続を願い出ていたが、盛親によって殺害されたそうです。

城山公園として整備され、白雲神社から遊歩道(入口に案内板)があります。
竪堀、堀切のオンパレード。堀切好きな自分は大満足です。
白雲神社駐車場にあるトイレは令和4年7月21日より使用禁止になっていました。
攻城時間は45分くらいでした。次の攻城先=久礼城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征4日目:須崎台場 (2022/07/23 訪問)

須崎城からの転戦です。西浜公園トイレ手前空スペース(33.387795、133.283536)に路駐しました。

1863年(文久3年)土佐藩によって築かれました。
幕末の海岸防備の為に設けられた台場で須崎には東・中・西に台場が設けられたが、現存するのはこの西の須崎台場のみだそうです。
1867年(慶応3年)イギリス水夫殺害事件で公使パークスは土佐藩と交渉するため軍艦(バジリスク号)で須崎港に入港し、幕府艦(回天丸)や坂本龍馬も来港して外国交渉の舞台となったそうです。

現在は「西浜公園」となり、石碑や説明板が建てられ、弧状の土塁や石垣が残っています。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=姫野々城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征4日目:須崎城 (2022/07/23 訪問)

土居屋敷(城びと未登録 高知県佐川町)からの転戦です。月極駐車場前(33.391671、133.290709)に路駐しました。

築城年代は定かではないようですが、姫野々城主津野氏の一族によって築かれたと云われています。
津野氏は勢力を伸ばし土佐七雄の一つに数えられたが、津野勝興の時に長宗我部元親に降伏し、元親の三男・親忠を養子に迎えました。
津野親忠・山内右衛門大夫の土居が山麓にあったそうです。

現在城址は「城山公園」として整備されています。
城山公園前に駐車場はありますが、途中に切り返しが必要な場所があり、さらに駐車場が狭くUターンが困難との事前情報より、麓で駐車しました。
須崎城は三角点のある南の峰と北の峰に築かれており、主郭は北の峰のようですが時間の都合で、「城山公園」の散策のみで撤退しました。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=須崎台場に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征4日目:土居屋敷(城びと未登録 高知県佐川町) (2022/07/23 訪問)

佐川城からの転戦です。国道494号線沿いの説明板前(33.495043、133.293104)に路駐しました。

1601年(慶長6年)頃に深尾氏によって築かれました。
深尾氏は関ヶ原合戦後に土佐一国を与えられ高知に入部した山内家の家老で、初代深尾重良は10,000石を与えられて佐川城に入りました。
深川氏の時代に佐川城も改修されたようですが、元和の一国一城令によって廃城となり、以後深尾氏はこの土居屋敷を中心にこの地を支配し、明治まで続いたそうです。

国道沿いの案内板と石碑の写真を撮って撤退です。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=須崎城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征4日目:佐川城 (2022/07/23 訪問)

戸波城からの転戦です。青山文庫駐車場(33.497983、133.288471)に駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、1573年(天正元年)頃に久武内蔵助によって築かれたと云われています。
松尾城の中村越前守信義が1571年(元亀2年)に長宗我部元親に降ると、元親の重臣久武内蔵助が松尾城主となりましたが、城内の水不足を嫌い向かいの山に築いたのが佐川城だそうです。
関が原合戦によって長宗我部氏が改易となり、変わって山内一豊が土佐へ入国すると、その重臣深尾和泉守重良が10,000石を賜って佐川城主となりました。
しかし、元和の一国一城令によって佐川城は廃城となり、東麓に土居屋敷を構えて明治まで続いたそうです。

青山文庫駐車場から舗装された道をひたすら登ります。青山文庫駐車場より少し先の青源寺駐車場にも止められます。
最初、主郭への登り道がわからず3郭下から主郭城塁を直登しましたがムリでした。少し廻りをウロウロしたら登城路を少し戻った所に主郭への登り道がありました。
大きな物見岩に行く途中の竪堀、物見岩と主郭の石垣、主郭と2郭との間の堀切が見所だと思います。
じつは、佐川城に来る途中の道で木の伐採作業を行っており、時間規制の通行止めの為、到着が予定より30分遅れとなってしまいました。
攻城時間は55分くらいでした。次の攻城先=土居屋敷(城びと未登録 高知県佐川町)に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征4日目:戸波城 (2022/07/23 訪問)

蓮池城からの転戦です。戸波城址碑と説明板前(33.469466、133.371951)に駐車しました。

最初の築城は定かでないようですが、初め津野内蔵左が居城し後に一条氏に攻略され、家臣福井玄蕃が城代となったようです。
1517年(永正14年)津野元実が奪還を図り山裏の江良沼の合戦で討死し全滅しました。
1570年(元亀元年)吉良左京進親貞は一条軍を追い長宗我部右兵衛親武が城主となり、戸波氏を名乗ったようです。
その子右衛門尉親清の時、関ヶ原の戦いの後、長宗我部氏の改易に伴い廃城となりました。

時間の都合で攻城は諦め、戸波城址碑と説明板の写真を撮って撤退しました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=佐川城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征4日目:蓮池城 (2022/07/23 訪問)

波川玄蕃城からの転戦です。城山公園駐車場(33.494264、133.416360)に駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、1170年(嘉応2年)頃に、平氏の家臣・近藤家綱が平氏荘園の守護として蓮池城を築き、蓮池姓を名乗ったそうです。
1182年(寿永元年)蓮池家綱は平田俊遠とともに、平家打倒の兵を挙げた源頼朝の弟源希義を年越山で討ちとったが、まもなく伊豆右衛門有綱と夜須行宗によって攻められ討たれました。
1192年(建久3年)藤原国信が蓮池城を居城として大平氏を名乗り、以降大平氏の代々の居城となりました。
1508年(永正5年)大平元国は本山氏・吉良氏・山田氏などと岡豊城の長宗我部兼序を攻め敗死させました。
天文年間(1532年〜1555年)になると一条氏が津野氏に攻め込み、1543年(天文12年)一条房基は津野基高と戦います。
大平氏は本山氏とともに津野氏に援軍を送りますが、1546年(天文15年)大平氏は中村城一条氏に破れ蓮池城を失いました。
1557年(弘治3年)南土佐に進出してきた本山茂辰は、森山城・秋山城を攻略して仁淀川を渡り蓮池城をも奪いました。
1560年(永禄3年)本山茂辰は長宗我部元親と争うとその隙を付いて、一条氏が蓮池城を取り戻しました。
1569年(永禄12年)吉良城主吉良親貞が計略をもって蓮池城を奪い、戸波城へ逃れた城兵を追って戸波城をも落としました。
蓮池城は吉良親貞に与えられ、子の吉良親実が城主となりますが、吉良親実は戸次川合戦で討死した長宗我部信親の後継争いで盛親の家督相続に反対し、元親の怒りをかって比江山親興とともに自刃させられました。
長宗我部氏は四国の覇者となりますが、豊臣秀吉による四国征伐に破れて土佐一国に減知され、1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いでは西軍に付き、土佐に生還したが、改易されました。
1601年(慶長6年)山内一豊の入国のころ、廃城となりました。

本丸跡は城山公園として整備され、階段近くに「蓮池城趾」の石碑が建てられ、西端に蓮池家綱を祀る蓮池神社がありました。
消防署近くの城山公園駐車場に駐車しましたが、公園まで思っていた以上に距離がありました。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=戸波城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征4日目:波川玄蕃城 (2022/07/23 訪問)

朝倉城からの転戦です。波川玄蕃城跡駐車場(33.535223、133.402529)に駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、天正年間(1573年〜1592年)始めに波川玄蕃頭清宗によって築かれたと云われています。
波川玄蕃は長宗我部氏に降伏したのちは重用され、長宗我部元親の妹を妻に迎え、一条氏滅亡後は幡多郡山路城主となりました。
しかし、伊予国大洲に軍勢を進めた際に伊予河野氏の来援に駆けつけた小早川隆景と和睦を結んで引き上げたことから元親の怒りを買い、山路城を没収され波川城へ戻されたそうです。
1580年(天正8年)波川玄蕃は秘かに謀叛を企てたが露呈し、阿波国へ逃れたが、阿波国海部で自刃させられました。
清宗の死後、一族が元親に亡ぼされ、廃城となったと推定されるそうです。

主郭には放送塔が設置され、土塁が残り、石碑、説明板が建てられています。
波川玄蕃城跡駐車場までの道が狭いので注意が必要です。
自分は波川玄蕃城跡駐車場に車を置いて徒歩で主郭に向かいましたが、主郭直下まで車で行くことは可能です。
攻城時間は15分(主郭直下まで車で行けば時間短縮可能です)くらいでした。次の攻城先=蓮池城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征4日目:朝倉城 (2022/07/23 訪問)

宿泊先の高知パレスホテルからです。北城山公民館(33.547251、133.481577)に駐車し、説明板を確認しました。
ここからだと登り口は西登り口(33.547061、133.480511)と東登り口(33.548214、133.481876)がありますが、若干近い、西登り口から攻城しました。

築城年代は定かではないようですが、大永年間(1521年〜1527年)本山清茂によって築城されたと云われています。
本山城主の本山清茂は岡豊城の長宗我部兼序を攻めてこれを討ち、長浜・浦戸など土佐中央部に領土を拡張し、その拠点として朝倉城を築城したそうです。
永禄3年(1560年)長宗我部国親は本山茂辰の長浜城を急襲して攻め落とし、さらに追撃して浦戸城も落城したが国親が病に倒れ撤退した。
国親が没して元親が家督を継ぐと、1562年(永禄5年)には朝倉城に攻め寄せ包囲しました。
周辺の諸豪族が長宗我部方に降っていったため、 1563年(永禄6年)本山氏が本山城に退去した際に当城は焼かれ、廃城となったそうです。

主郭に行く途中の登山道は切通しのような竪堀で、横堀や石垣も確認できます。
主郭は公園として良く整備されており、東側に土塁が確認できます。また、石碑と説明板が建っています。
比高もさほどなく比較的、攻城しやすい城ですが、北城山公民館までの道が狭いので注意が必要です。
攻城時間は45分くらいでした。次の攻城先=波川玄蕃城に向かいます。

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北条氏勝

田原本の街をつくった「田原本陣屋」 (2022/08/01 訪問)

 先日、「田原本陣屋」に行ってきました。近鉄橿原線田原本(たわらもと)駅から徒歩約10分。「田原本陣屋」があった場所は現在、田原本町役場となっています(正確には町役場の南側)。

 田原本の領主は賤ケ岳の七本槍の一人である平野長泰。江戸時代、平野家は大名ではなく旗本として存続し、明治時代になって大名となりました。なので、田原本藩が置かれたのはわずか3年間でした。

 現在、陣屋自体は残っておらず、遺構も確認することができませんでした。ですが、住宅街となっている陣屋西側には、今でも水堀が水路として残っていました。他にも田原本陣屋ゆかりの場所は残っており、領主平野家のお墓がある本誓寺、伏見城から移築された高麗門がある浄照寺が田原本駅近くにあります。

 田原本の街並みは、昭和の時代のまま取り残されたような雰囲気で、レトロな建物を多く見かけました。おそらく昔は活気があったのだろうと推測します。それと、街中では田原本町内にある唐古・鍵遺跡のイラストなどが目に付きました。史跡好きとしては、せめて田原本陣屋の石碑だけでも設置してほしいところでしたが、同地で今でも政治をする場としての役割が続いているので、田原本陣屋は終わっていないのだな、と思いました。楽しかったです。

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朝田 辰兵衛

グルリ1周で。 (2020/09/21 訪問)

グルリ1周で終わりました。散策時間よりも,湯築城資料館内での時間のほうが,たぶん長かったと思います。

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とってぃ

偉人たちの記念館のついでに (2022/08/10 訪問)

高野長英記念館、後藤新平記念館、斎藤實記念館のついでに。
門しかわかりませんでしたが、城跡にある市役所にちょうど大谷翔平の2桁勝利、2桁本塁打達成の垂れ幕がつけられているところでした。

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カズサン

天守台、本丸石垣が素晴らしい (2006/05/06 訪問)

 天橋立、田辺城を終えて昼前でしたので舞鶴軍港跡に赤レンガ倉庫群が観光名所に成って居ましたので見学と昼食で寄り、昼食後国道27号線を通って16年前の平成18年5月上旬小浜城へ登城、小浜城・小浜神社東門前にある駐車場を利用。

 小浜城は本丸跡が周囲を石垣に囲まれて残って居り、初代藩主酒井忠勝も祀ってる小浜神社が鎮座して居ます。南西角に大天守台が残って居ますが、民家が直近まで迫って居り天守台撮影には困難を来たします、本丸周囲は濠で囲まれて居ましたが現在は埋めててられて居ます、西側は湿田の様で堀跡を窺う事も出来ます。
 天守台、小天守台、西側多聞櫓台、北東櫓台を撮影して終了としました。
 また以前より小浜城の天守閣復元計画が有りましたが今はどう成ってるのでしょうか、南西角の大天守、北と東に小天守の有る二重複合式天守構造の様子、貞享2年(1685年)の俯瞰した小浜城絵図が残っていて、二重複合天守閣、本丸の各櫓、濠、本丸を取り巻く西の丸、北の丸、二の丸、三の丸が描かれ櫓が多数も描かれて居り、往時の壮大な小浜城が垣間見られます。
 早く復元二重複合式三層天守閣が見て観たいものです。

 小浜城を終えて国道27号線を敦賀へ、当時まだ舞鶴若狭道は開通して無く、地道走行、途中美浜の道の駅休憩、五木ひろしの故郷なのか、五木ひろし記念館の様に成って居ました。暫し五木ひろしの名曲を聴いて居りました、敦賀ICからは高速で浜松まで一直線、天橋立、舞鶴赤レンガ倉庫、田辺城、小浜城の旅行、城廻りは終了。
 

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イオ

とことん江戸城(大手門~二の丸庭園) (2022/06/22 訪問)

(続き)

内堀通りを北に進み、大手門から皇居東御苑に入ります。手荷物チェックを受けて高麗門をくぐると、枡形を囲む土塀と石垣の間に石狭間が並んでいます。行く手に立ち塞がる巨大な櫓門は空襲で焼失したのを戦後に復元したもので、枡形内には焼失前の渡櫓の屋根に飾られていた鯱が説明板と並んで置かれていました。

大手門を抜けると皇居東御苑の受付があり(コロナ禍のため入園票の受渡しは省略)、工事中の三の丸尚蔵館を横目に進んで行くと大手三の門に至ります。かつては三の丸と二の丸の間は濠で隔てられ、大手三の門には木橋が架けられていたようですが、埋め立てられて面影もありません。大手三の門は枡形を構成する高麗門と櫓門の石垣が遺り、枡形内には同心番所も現存しています。大手道に設けられた番所だけあって、同心番所の鬼瓦には三つ葉葵紋が施されていました。大手三の門は下乗門とも呼ばれ、御三家以外はここで乗りものを下りて二の丸に進むことになります。

中之門から本丸に進む前に、まず二の丸庭園へ。大手三の門の西側に並んで設けられていた銅門にも櫓門や枡形の石垣が遺っています。銅門の先には二の丸御殿や大奥が建ち並んでいましたが、現在は都道府県の木が植えられ、二の丸雑木林が広がり、二の丸庭園が復元されています(続く)。
 

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