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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征3日目:介良城 (2022/07/22 訪問)

吉田城からの転戦です。潮見台緑地登り口付近(33.558217、133.616124)に路駐しました。

詳細は不明です。横山氏の居城である花熊城の詰城と考えられています。
1203年(建仁3年)に横山朝泰が土佐介良庄に来て以来、横山氏が介良庄を拠点に勢力を拡大・保持していたそうです。
戦国時代には、1547年(天文16年)に長宗我部国親によって攻められ、長宗我部氏に降りました。本領を安堵された横山時継は、天正年間(1573年-1592年)に長宗我部元親に従って軍功を重ねている。

路駐場所に選んだ場所(付近に適当な駐車場所はありません)が悪く、長時間の路駐が無理そうなので潮見台緑地登り口の写真を撮って撤退しました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=高知城に向かいます。

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にのまる

火の山城(城びと未登録) (2022/06/09 訪問)

所在不明の朝鮮式山城・長門城(ながとのき)の可能性として名前が挙げられる山のひとつです。
関門橋を眼下に見ることのできる観光名所となっています。

また思い出話になってしまいますが、以前、山頂には回転展望レストランがありました。席が海側に来るとワクワクしたものです。
記念メダルをつくる販売機や、自分の星座のところに100円入れてレバーを引くと筒形のおみくじが出てくるアレがあったり(わかっていただけますように!)といったTHE昭和なレストランでした。復元しないかな……。
高校の修養会では全員で麓から山頂まで歩いて登りました。(登らされました。)
セーラー服にローファーの女子高生数百人が集団でゾロゾロと!帰り道、下り坂を走らされてへろへろになったことをはっきりと覚えています(;’∀’)
この時に「山城は歩いて登るものだ!」と刷り込まれたのかもしれません⁉︎

今回は地元経済をまわそうとロープウェイを利用しました。往復520円です。
関門海峡を見下ろす絶景ポイントがいくつもあり、晴れた日はとても気持ちがいいです。
少し歩きますが下関要塞の砲台跡もぜひ。

長州砲の展示してあるみもすそ川公園は壇ノ浦古戦場でもあり、源義経、平知盛像があります。
関門人道トンネル入り口もここです。

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おっちゃん

武田神社全図 (2015/07/18 訪問)

現地案内板より抜粋

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おっちゃん

賤ヶ岳城案内図 (2017/05/20 訪問)

現地案内板より抜粋

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おっちゃん

鷲城案内図 (2016/12/10 訪問)

現地案内板より抜粋

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えの

原城とセットで訪れて欲しい (2022/08/07 訪問)

ここと原城を訪れる前には有馬キリシタン遺産歴史館に行って欲しいです!
有馬氏統治下におけるキリスト教の繁栄から島原の乱のきっかけとなった厳しい弾圧まで、多くの資料と解説があります。

1番の見所は石垣と階段遺構かな?
階段遺構は保存の為に埋め戻されていますが、発掘当時の様子が先程の資料館にありますので是非

本丸だと思われる曲輪には草が生い茂って行けず
他の方の登城履歴を見た感じだと、大手口ではなく浦口から登るのかな?
それだけが後悔です…皆さんも十分下調べをして向かってくださいね!

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朝田 辰兵衛

ホラースポットのギリギリ井戸… (2022/04/30 訪問)

松江城は,天守内に現存井戸があり,どうしても注目はそちらに集中します。しかし,天守北側には,ギリギリ井戸跡が存在します。ここは,いわゆるホラースポットです。
松江城の築城時,何度積んでも完成間近になると崩れてしまう石垣があったそうです。ちょうど城の鬼門の方角。城主の堀尾吉晴は宮司に調査を依頼しました。宮司は石垣の根本付近の一点を示し,そこを掘るよう指示。するとそこから,槍の穂先が刺さったしゃれこうべが出土しました。宮司が三日三晩の大祈祷の末に手厚く祀ると,ようやく石垣は積み上げることができたとのこと。この時に掘った穴をさらに深く掘ると,清らかな水が滾々と湧き出しました。この井戸が「ギリギリ井戸」。ギリギリはつむじの方言だそうです。また,石垣に関しては盆踊りを開催し,その中でもっとも美しい少女を人柱にしたという言い伝えが残ります。

これで,とりあえず1ゴールド。

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カズサン

田辺城は復興櫓門がシンボル (2006/05/06 訪問)

 田辺城は現在舞鶴公園として整備され、昭和15年(1940年)には本丸北の残存石垣台に彰古館なる二層隅櫓が復興され、平成4年には二層隅櫓から南に折れた西向き外堀跡に復興櫓門が完成し舞鶴公園の大手門の様です、櫓門は田辺城資料館として活用されて居ます、本丸に低い石垣台ですが整備されてあり日の天守閣跡を示して居ります。
  
 16年前の平成18年5月の連休に故郷鳥取に帰郷し、母を見舞った後に天橋立を観たいと言う家内と天橋立散策、リフトで展望所に登り天橋立全体を俯瞰、股覗きも楽しみ、天橋立で一泊、家内の楽しみの後に城廻り、まだ登城して居なかった田辺城を初登城。
 駐車場はその当時本丸北の石垣が在る北側外に駐めた記憶は有るのですが、グーグルマップを見ると田辺城の北、約50mの所に舞鶴西支所駐車場が在り現在そこを利用されてる様です。
 
 探訪は、本丸内部、隅櫓、櫓門を外から内から見学し、天守台跡、庭園、東側のJR舞鶴線側、外の周り櫓門西に明倫小学校が有り学校の南側に板土塀の中間に移築校門として藩校明倫館の門が残って居ます。
 
 また田辺城は細川藤孝、忠興父子の城としてでも有名で、本能寺の後、光秀の誘いを断り籠城戦、この戦いで古今伝授を伝える唯一の細川藤孝であったので後陽成天皇の仲介に入り救われたと伝えられてる。
 関ヶ原後細川氏は息子忠興の東軍戦功により豊前小倉城に加増転封、寛永9年(1632年)肥後熊本の加藤忠広の改易で肥後熊本城に54万石の太守として転入し、以後明治を迎えるまで熊本を治政した。
 

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びーこ

猛暑の二本松城 (2022/07/26 訪問)

広い駐車場から立派なアカマツを眺めながら箕輪門を抜け、桝形を通り、三の丸の下段、上段と登って行くが、とにかく暑い!既に汗だく。もっと上まで車で行けば良かったとすぐに後悔・・
それでも本丸の石垣を見たら、暑さもすぐに吹っ飛んだ。天守台に登って辺りを見回すと爽快な気分になった。

平成三年に建てられたという立派な城報館。ここで状態の良いスタンプを頂く。
また、無料で見られる、城の成り立ち、石垣の説明、四季折々の美しい風景の映像は登城前に見るのがお勧め。
また見方が変わってくると思う。
当時と現在の城周りをラップアップさせた映像を見ていると、次回は徒歩で街を巡ってみたいと思った。但し、暑くない季節にね。

せっかく夏の福島を訪れたのだから、ぜひとも桃パフェを頂きたいと思い、有名な農家さんカフェに行ってみたが
平日だというのに長蛇の列・・ということで、今回は断念しました。あぁ・・桃食べたかったぁ・・

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駿府城

駿府城限定記念符を販売しています!

歴史博物館のプレオープンを記念して、駿府城限定記念符を販売しています。
 
枚数は限定2,000枚で、1枚1,000円です。
記念符は駿府城東御門・巽櫓が切り絵で描かれています。
石垣の細かい部分も表現されていて、駿府城の文字と葵御紋部分は金色箔押しになっています。
こちらの記念符は、駿府城公園 東御門・巽櫓、坤櫓、紅葉山庭園の各入場券販売窓口にて販売しています。
枚数は限定なので、購入を希望される方はお早めにお買い求めください。
詳しくはこちらをご覧ください。【https://sumpu-castlepark.com/info/archives/2026】

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イオ

とことん江戸城(二重橋前~和田倉門) (2022/06/22 訪問)

(続き)

外桜田門を抜けて濠沿いに北に進むと、正門石橋と伏見櫓が見えてきます。いわゆる二重橋前の観光スポットですね。江戸城内郭を訪れるのは小学生の頃以来で、家族旅行のはとバスツアーで二重橋前で記念写真を撮った覚えがあります。正門石橋もその奥の正門鉄橋も明治以降の架け替えですが、伏見櫓を背景に実に絵になる光景です。 皇居正門(西の丸大手門)は一般参賀の時以外は閉ざされているようですが、いつか通ってみたいものです。

二重橋前から二重橋濠沿いに北へ。坂下門も一般参賀と乾通り一般公開の時しか通れないことは承知していましたが、せめて近くでと柵に向かうと、不審者(キャリーの中身は爆発物!?)と思われたのか、皇宮警察の人が行く手を遮るように近づいて来たので、そそくさと写真を撮って退散しました。

蛤濠越しに蓮池巽櫓の櫓台を眺めながら桔梗門へ。桔梗門は一般参観では出入りできますが、今回は時間が合わないので、またの機会には是非とも。桔梗濠沿いに東に進むと現存の桜田巽櫓が見えてきます。派出所の裏手からは桜田巽櫓と桔梗門、奥に富士見櫓が並び建ち、定番の撮影スポットです。

内堀通りを渡って和田倉門へ。門は関東大震災で大破し撤去されたようですが、枡形石垣はしっかり遺っており、和田倉濠に架かる木橋風の和田倉橋とあわせて往時の雰囲気が感じられました。和田倉門の内側は和田倉噴水公園になっていて、公園整備の発掘調査で出土した上水道の分水石枡が櫓門跡の脇に見られます。和田倉休憩所で100名城スタンプを押して、いよいよ江戸城の中心部に向かいます(続く)。
 

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征3日目:吉田城 (2022/07/22 訪問)

岡豊城からの転戦です。カフエ・ククサ付近の空スペース(33.589245、133.629043)に駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、吉田氏によって築かれたようです。
吉田氏の出自は相模国吉田荘の武将で、その末裔が足利氏に与して戦功をあげ、土佐国長岡郡吉田に所領を賜ったようです。
吉田周孝は長宗我部兼序の妹を妻とし、1561年(永禄4年)井口城主となります。周孝の弟備後守重俊は上夜須城主となりその武勇をもって「大備後」と称され、その次男江村備後守親家は「小備後」と呼ばれました。
長宗我部氏が改易となった後は一族離散して生駒氏、藤堂氏、堀田氏、山内氏に仕え、幕末の土佐の家老吉田東洋はその子孫だそうです。
カフエ・ククサさんのお店の脇の細い道(ちょっとわかりずらいです)を進むと、土塁らしきものが見えてきます。その一角に「吉田備後守邸跡」の石碑が建っています。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=介良城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征3日目:岡豊城 (2022/07/22 訪問)

山田城からの転戦です。歴史民俗資料館の駐車場(33.595963、133.622894)に駐車し、続100名城スタンプ押印後、攻城しました。

鎌倉時代初期に長宗我部能俊が信濃から土佐へ移住しました。これが土佐長宗我部氏の始まりであるといわれ、長宗我部氏は長岡郡宗部郷(現在の南国市岡豊町)に定住し、この時に岡豊城が築かれたものと思われるそうです。
応仁の乱後、1508年(永正5年)土佐七雄の本山氏、山田氏、吉良氏などの連合軍により攻められ岡豊城は落城しました。この岡豊城攻めの際に当主・長宗我部兼序(かねつぐ)は自刃しました。
土佐南西部の中村の一条氏のもとに落ち延びていた兼序の子・国親は1518年(永正15年)一条氏の取り成しで旧領に復し、岡豊城に入りました。
岡豊城を足掛かりに国親は土佐の有力大名へと成長し、一条氏、本山氏、安芸氏とともに土佐を四分するまでになりました。
国親の子・元親の代に長宗我部氏は飛躍します。1574年(天正2年)主家であった一条兼定を豊後に追放し土佐を平定し、この城を拠点に1585年(天正13年)には四国を統一しました。
しかし、同年、羽柴秀吉による四国征伐によって降伏し土佐一国が安堵されました。
この後、1588年(天正16年)大高坂山城(現在の高知城)に本拠を移しますが、治水の悪さから再び岡豊を本拠としました。
しかし、1591年(天正19年)新たに浦戸城を築いて移った為、長宗我部氏累代の本拠・岡豊城は廃城となりました。
1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いで元親の子・盛親は西軍に与したため、改易されました。

岡豊城は現在、県立歴史民俗資料館が併設され、城跡は公園として整備されています。
山頂に詰(主郭)を置き、詰(主郭)の南西方向に三ノ段、さらに西下に四ノ段と腰曲輪が配されています。
詰(主郭)の東尾根には土橋が架かる堀切を設けて二ノ段があります。 西尾根の峰には伝厩跡曲輪があり出丸となっているようですが時間の都合で行っていません。
詰(主郭)の北西側には横堀の遺構があり、堀切で遮断されています。
攻城時間は35分くらいでした。次の攻城先=吉田城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征3日目:山田城 (2022/07/22 訪問)

香宗我部城からの転戦です。市民グランド駐車場(33.611204、133.698714)に駐車し、天満宮鳥居前(33.611300、133.699921)に向かいました。
天満宮背後を進み墓地の脇から山に入りましたが、夏だから当然ですが、草が多く墓地に辿り着くまで草をかき分け進みます。

築城年代は定かではないようですが、鎌倉時代に中原秋家による築城とも云われ、現在残る遺構は戦国時代のものと思われています。
山田氏は中原秋家の後裔で鎌倉時代に香美郡宗我郷・深淵郷の地頭として入部したと云われ、後に土佐の七守護の一人に数えられる程の勢力を持ったそうです。
しかし、天文年間(1532年〜1555年)の当主山田元義(基道とも)は猿楽を好んで武道を好まず、政治を疎かにしていました。
重臣である烏ヶ森城主西内常陸・雪ヶ峰城主山田監物はこれを諌めましたが、元義はかえってこれを遠ざけてしまいました。
岡豊城主長宗我部国親の家臣吉田重俊は謀略を持ってまず西内常陸を討ち、大軍をもって山田城に攻め寄せます。
山田監物が江村小備後によって討ち取られると、山田元義は韮生へ逃れ山田氏は滅亡しました。

山田城は大きくわけて詰の段、一ノ段、茶ヶ森の三つの曲輪で構成されているようですが、山中で迷子になりかけたので詰の段や一ノ段方面の登城は諦めました。
茶ヶ森は天満宮方面から北西側にあり、一ノ段と堀切で遮断されています。茶ヶ森下には横堀がありました。
攻城時間は35分くらいでした。次の攻城先=岡豊城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征3日目:香宗我部城 (2022/07/22 訪問)

姫倉城からの転戦です。説明板横(33.558662、133.722942)に路駐しました。

築城年代は定かではないようですが、中原太郎秋家によって築かれたと云われています。 秋家は楠目城山田氏の祖ともなった人物です。
1526年(大永6年)香宗我部親秀が安芸氏との戦いで敗れ、嫡子秀義が戦死すると弟秀通を養子として家を継がせたが、長宗我部氏が台頭すると長宗我部国親の三男親泰を養子として迎えようと画策します。
既に秀通には嫡子がおり、これを拒否したが親秀は秀通を殺して親泰を養子に迎えました。
1569年(永禄12年)長宗我部氏が安芸氏を滅ぼすと、親泰は安芸城主となり、後に阿波国方面の軍代として活躍します。
1592年(文禄元年)豊臣秀吉による朝鮮の役では嫡男親氏が出陣したが戦死し、代わって親泰が出征したものの長門国で病死しました。このため親氏の子親和が幼少の身で家督を継ぎました。
1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで西軍に付いた長宗我部盛親が改易となると、親和は肥前国唐津の寺沢氏に仕官しました。

わずかに残った土塁と城址碑を確認しました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=山田城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征3日目:姫倉城 (2022/07/22 訪問)

安芸城からの転戦です。トイレ横空スペース(33.539563、133.744598)に駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、 安芸氏に属した姫倉右京・姫倉豊前が城主でしたが、1569年(永禄12年)長宗我部氏によって攻撃され落城しました。
その後、1580年(天正8年)頃に、長宗我部元親の命により廃城となったそうです。

「高知県立月見山こどもの森公園」として整備されています。
曲輪、低いですが土塁などの遺構が確認できました。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=香宗我部城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征3日目:安芸城 (2022/07/22 訪問)

安田城からの転戦です。歴史民俗資料館の駐車場(33.519209、133.913722)に駐車しました。

1309年(延慶2年)安芸親氏によって築かれたと云われています。 安芸氏は蘇我赤兄の子孫といわれ、行経のとき安芸氏を名乗ったそうです。
戦国時代に入ると土佐七人守護の一人に数えられ、1563年(永禄6年)長宗我部氏が本山氏を攻めに出陣した隙を突いて、一条氏の援助を受けて長宗我部氏の居城岡豊城を攻めたが失敗しました。
その後一旦和睦となったものの、1569年(永禄12年)長宗我部氏に岡豊城に招待された安芸国虎はこれを謀略と考え拒否、長宗我部氏に攻められ落城、安芸国虎は菩提寺浄貞寺で自刃し、安芸氏は滅亡しました。
安芸氏を滅ぼした元親は香宗我部親泰を城主とし、後の阿波国への侵攻の拠点となりました。
1600年(慶長5年)関ヶ原合戦で長宗我部氏は改易となり、替わって山内一豊が土佐に入国すると、一豊は重臣五島為重を安芸城主とした。
元和の一国一城令によって安芸城は廃城となったものの、その麓に土居廓中を整備し、五藤氏の城下として明治まで続いたそうです。

歴史民族資料館で貰える安芸城のパンフレットに縄張図や説明が記載されています。
城内には天守を模した歴史民族資料館とその隣にある書道美術館、そして五藤氏の屋敷が残されています。
書道美術館の前には安芸城が落城した原因の一つともされる、毒井戸が展示されています。
遺構として土塁、堀切、石積、水掘、虎口、曲輪などが確認できます。
攻城時間は25分くらいでした。次の攻城先=姫倉城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征3日目:安田城 (2022/07/22 訪問)

佐喜浜城からの転戦です。路肩(33.445586、133.996145)に路駐し、登り口付近(33.445441、133.994682)まで2分くらい歩きました。

築城年代は定かではないようですが、1357年(延文2年・正平12年)頃には安田城主として、当地の豪族・惟宗三河守信綱安田三河守信綱の名が残っているそうです。安田氏は惟宗を祖とします。
信綱の後は益信、七郎次、親信、鑑信と続き、安芸城主安芸氏に属していたが、1569年(永禄12年)長宗我部元親が侵攻するとこれに降り、新たに安芸城主となった香宗我部親泰の下でその武将となりました。
鑑信の後は千熊丸、又兵衛、泰綱、弥次郎と続き、安田弥次郎は長宗我部盛親に従って関ヶ原合戦で戦功を挙げ、大坂の陣にも大坂方として参陣したが、大坂城が落城すると和泉へ逃れ、のちに剃髪して波斎と号したそうです。

登り口付近に折れた「城様」標柱を見つけ、鳥居から登りはじめましたが登城路を発見できませんでした。
もう一つの登り口が津波避難路入口方面にありますが、付近の道路は狭く、車のすれ違いにも苦労しましたので、登城を諦めました。
攻城時間の10分は登城路を捜す為にウロウロした時間です。次の攻城先=安芸城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征3日目:佐喜浜城 (2022/07/22 訪問)

海部城&陣屋からの転戦です。県道36号線沿の空スペース(33.399473、134.198731)に路駐しました。

築城時期は定かでないようですが、戦国時代、大野家源内左衛門貞義が城主と伝えらています。
1575年(天正3年)長宗我部元親の軍勢に攻められ落城したようです。

墓地(33.400167、134.198585)の南端に登り口があるとのことで、10分くらいウロウロして捜しましたが見つからず登城を断念しました。
攻城時間の10分は登城路を捜す為にウロウロした時間です。次の攻城先=安田城に向かいます。

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朝田 辰兵衛

城自体に罪はないが… (2020/07/14 訪問)

城自体に罪はないが,この城のおかげで,多くの民の血と涙が流れてしまった…。城主ガチャでハズレを引きたくはないですね。

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