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狐落城(狐楽城) (2021/09/15 訪問)

 びんぐしの里公園から東に丘越えすると、櫓のような水道ポンプ場があり、その手前に登山口があります。駐車場がないので、びんぐしの里公園から歩いてくるといいと思います。
 登山道の最初は村上大國魂社の参道となっており、鳥居の奥に鹿よけの鉄柵があります。出入りの際に忘れず鉄柵を締めてください。村上大國魂社、十六夜観月殿を経て狐落城(標高665m)、更に奥に登って三水城(標高789m)と続きます。途中、石積みや堀切を見ることができます。きつい登山を覚悟しておいてください。

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イオ

外堀めぐり(南半分) (2021/09/05 訪問)

(続き)

外堀は、蛇ヶ池から南の大職冠裏池に続いていましたが、現在では丘陵の断崖に堀跡を感じられるくらいです。西矢田辻番所跡を経て、箕山裏池から外堀は東方向に折れますが、外堀南辺はほとんど埋め立てられていて、このあたりでは駐車場奥の段差に堀の痕跡を見ることができるだけです。

外堀南西隅部に大和大納言と呼ばれた豊臣秀長の墓所・大納言塚があるので、ちょっと寄り道しました。大和郡山城で病死した秀長はこの地に埋葬されましたが、豊臣家の滅亡により墓所も荒れ果てていたのを、江戸中期に菩提寺・春岳院の僧が城下町の人々とともに土塀をめぐらせ五輪塔を建てたとのことで、徳川の天下にあっても城下町を拓いた秀長は人々から慕われていたんでしょうね。しばし手を合わせてきました。

大納言塚から東方向の箕山裏池や高塚池あたりには堀の痕跡すら見当たりませんが、近鉄郡山駅すぐ南の踏切北の線路の下を流れる水路が堀の名残らしいです。踏切を渡って少し行くと、東西に続く外堀と市役所前の大手堀から南にのびる中堀との合流地点に至り、郡山八幡神社に沿って南から東にL字型に続いています(八幡堀池)。八幡神社の裏手には堀沿いの土塁が遺っており、神社側からは見づらいので、西側の民家の間からどうぞ。八幡神社の南東部にはかつて柳町大門と呼ばれる高麗門があり、伏見城惣門の移築と伝わりますが、
現在では石碑と跡地の銭湯にその名を残すくらいです。

柳町大門跡の東の牢屋裏堀や洞泉寺裏池はスーパーの敷地になっていて、県道側に立派な石碑があるだけでした。県道沿いに北に少し行くと東側に高麗門が見えてきます。外堀緑地の南門で、柳町大門をイメージして建てられた模擬門のようです。門をくぐると、細長い公園が北向きに曲がりながら続いています。外堀緑地は外堀を埋め立てて市民憩いの場として整備したもので、水路や橋、築地塀を設けて外堀の雰囲気を残しています。常念寺裏堀のあたりに城下の木戸をイメージした冠木門(模擬門)の北門があり、外堀緑地はここまで。外堀緑地から北に続く宮本上池も高付上池も、道路整備のため近年に埋め立てられてしまい痕跡も見られませんが、現地の完成予想図を見ると、外堀緑地と同様に外堀の面影を残したミニ公園が設けられるようです。

…と、これで外堀をひとめぐり。約7kmのコースで、自転車でも2時間あまりを要しましたが、北辺は思ったよりも外堀がそのままに近い姿で遺っており、西辺では高低差を利用した様子が見られ、南辺は痕跡すらほとんどなかったものの、東辺では都市整備を進める中で外堀の面影を伝えていこうとする取り組みがあり、それぞれ興味深くめぐることができました。

そのままではいずれ消滅してしまうだろう外堀を、公園整備や道路整備、治水整備に活用しつつ後世に存在を伝えていく大和郡山市の取り組みは、城好きにとっては大変ありがたいものです。おかげさまで半日かけてとことん大和郡山城を堪能することができました。
 

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赤い城

遺構もありそうな感じだが。 (2021/09/05 訪問)

妙見神社まで行くと車を停めることができないため手前の那須神社前の空き地に駐車。
徒歩数分で妙見神社に着きます。
ここから下りの細い道、左手の藪の中が城址のようです。
妙見神社脇の道路は切通のようで反対側が前林館跡のようです。
いずれも遺構はなさそうですが何となく地形はそんな感じがしました。

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カズサン

三重県もう一つの上野城伊勢に在り (2013/05/02 訪問)

 内蔵DVDが不具合に成り暫くはお城川柳も有り過去の城写真を掘り起こしを控えてたのですが武漢コロナウイルス禍中緊急事態宣言下出掛ける事も出来ず内蔵DVDを見直して貰い別売の外付けDVDがリーズナブルな対応と分かり本日購入し過去の城写真データーをパソコンに取り込みました。

 平成25年5月2日に熊野山中の赤木城を終えて三重県津市に在る伊勢上野城を初登城しました、平成23年の大河ドラマ「江~姫たちの戦国」で浅井三姉妹が取り上げられ伊勢上野城も一躍脚光を浴びその時点で伊勢上野城を認識し織田信長の弟信包が城主の時浅井三姉妹を庇護したと大河ドラマの影響でしょうかチョット寄りました。

 場所は津市の本城山青少年公園が伊勢上野城に成って居り展望台が天守台跡、北西裏に広い駐車場が有り停める、周囲にグラウンド、日本庭園も有りトイレも完備、展望台に上る、南東面が本丸、周囲に土塁、切岸城塁、その前に二の丸、周囲に曲輪が確認できるが樹木、竹林で覆われており遊歩道越しに眺める、浅井三姉妹江姫の幟、江姫マスコットキャラクターボードも設置され大河の人気、影響が伺えました。

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ぴーかる

ひこにゃん御城印・登り石垣 (2021/07/23 訪問)

【彦根城】
暑さを避ける湖北城巡り2城目。写真撮影をきちんと行いだしてから4度目の訪城です。今回は以下の目的で訪れましたがなかなか全部目的達成とはいかず、見ていない場所もあるので、コンプリートまではまだまだ再訪を誓う見所満載のお城です。

・ひこにゃん御城印購入
 結果→購入できました!15周年記念スタンプ(A6サイズ)も偶然ゲットできました。
・ひこにゃんに会う
 結果→いまだにひこにゃんに会えていません。今回も時間が合わず天守前のボードのみとなってしまった。
・登り石垣を制覇
 結果→彦根城は登り石垣が4本ありまして西側2本は既に攻略してますが東側2本は未攻略、今回は東側2本の攻略に挑みましたが、東南の登り石垣は通路が通行止めになっており攻略できず。登り石垣攻略は諦めます。
・本丸西の丸東側石垣を堪能
 結果→攻略。間近でじっくり見たことがなかったので堪能した。野面の高石垣が圧巻!すごい場所見落としてた。
・新たな気づき→太鼓門前に巨岩と石垣が融合した部分があること知らなかった。鏡石にもなっているのかな。

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イオ

外堀めぐり(北半分) (2021/09/05 訪問)

本丸(極楽橋)、二の丸・三の丸に続いては、自転車で惣構の外堀めぐりです。大和郡山市観光協会公式ウェブサイトでダウンロードできる「郡山城外堀跡コース」のマップを片手に、惣構北東部の広島下池からスタートです。

広島下池・上池は秋篠川を付け替えた元の川筋を堀としたもので、石碑と郡山城外堀案内板が建てられています。時季的にウキクサが水面を埋め尽くしていましたが、L字型に長くのびる堀の内側にはかつては土塁が設けられ、松や竹が植えられていたそうで、堀沿いのお土居公園には往時の名残の松と説明板がありました。

広島浅池は広島下池・上池から小川町裏池に続く堀で、小川町裏池は水をたたえた堀が東西にのびています。小川町裏池から西は埋め立てられていますが、正願地上池では外堀跡を利用した保水池整備事業により、堀跡と土塁上の竹藪を見ることができます。また、その西側の代官池でも保水池整備事業により外堀の存在をはっきりと認識できます。

代官池に隣接する鴫ヶ池は溜池を堀代わりとしたもので、現在は南半分が埋め立てられています。鴫ヶ池から続く番鐘池も溜池を堀としたものですが、現在は住宅地になっていて痕跡もありません。番鐘池から西の尼ヶ池までの間は一面に金魚池が広がっていて、柳沢氏入封以来の金魚の産地らしい景色です。

尼ヶ池とその南西の蛇ヶ池をつなぐ細長い堀は竹藪になってしまっており、蛇ヶ池も埋め立てられて住宅地になっていますが、道路との高低差に痕跡を見ることができます。このあたりで外堀めぐりも約半周。後半に続きます。
 

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todo94

2巡目の続日本100名城のスタンプラリー41城目 (2021/08/08 訪問)

赤れんが郷土館にて「あきた羽州街道」なる小冊子を頂きましたので、歩いて土崎のホテルに向けて羽州街道をたどることとしました。その途中で秋田城資料館にも立ち寄ってスタンプをゲットしました。勿論、古代の水洗トイレにも脚を伸ばしましたとも。これがなかったら続100名城に選ばれることはなかったと今でも思っています。かなり暑い日だったので大汗をかいてしまいました。ホテルの部屋飲みのビールのうまかったことと云ったら。

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にのまる

第95次調査中 (2021/07/04 訪問)

 国府多賀城駅から館前遺跡を通り抜けて、5年ぶりに多賀城碑に再会してきました。この碑はほかのところの城碑とはやはり別格。格子にへばりついて見ながら141文字にドキドキ♡してきます。鬱蒼とした木々の中にポツンとあるのもいい雰囲気です。
 南門が復元工事中でした(創建1300年を迎える2024年に完成予定)。正面の門だけあってかなりデカイ!翌月に予定されていた内部公開日を迷わずメモしました。(※コロナのせいで中止になりました。)
 政庁跡へ続く南北大路は現在でも突き抜けた感があって爽快ですが、南門が完成するとまた一層素晴らしい眺めになるのだろうなと今から楽しみです。その一方で、多賀城碑のあるうら寂しい(←好き)雰囲気はどうなってしまうのかな?と少し気になります。
 今回の探索はここで終了にはいたしませんで、外郭西門~奈良時代の外郭東門跡まで見て歩きました。めっちゃ広かったです!でも“こんなところにこんなものが!”の連続で楽しくて仕方がなかったです。多賀城の歴史は難しすぎて全部覚えたり理解したりするのは私には到底無理ですが、それでも目にするものひとつひとつに感動。気づけば3時間近く経過し、帰りによる予定だった仙台城どころか駅近くの東北歴史博物館にも多賀城廃寺跡にも行けませんでした。でもそれもまた次に行く楽しみができたということでOKです。
 以前、お城川柳でもちらっと書いたのですが、作貫地区北側の怪しげな(ゴメンナサイ!)小屋は中世の土塁跡と空堀跡を露出展示した覆屋ですのでお見逃しなく。

【お城川柳124】トラロープ?じゃないよこいつは動いてる!

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カズサン

日本の山城147掲載の歴史道Vol.17を買ってみました。 (2021/09/09 訪問)

 城郭放浪記さんのツイッター(9/8)で紹介が有りましたので近くの本屋さんで購入しました。税込み990円で別冊付録付き日本の山城147城のガイドブックです。
 本冊には日本の山城が50城解説ベスト21城までは縄張図付、小和田先生、千田先生、萩原さんのおすすめベスト10城も有り武漢コロナウイルス禍中緊急事態宣言下では自宅自粛の昨今では有り難い読み物で見ながら山城廻りが出来ます。
 147城の中でまだ登城して無い山城が29城も有りましたが全国城廻り中に比高が高く最初からパスしてるとか認識して無かった、城廻り中優先登城が有り外した、離島の城でした、今後チャレンジしたい山城は3~4城程か? 登城山城選びが体力的に段々難しく成って来ました。
 城びと投稿の皆さんの文章、写真が楽しみです。

 投稿写真は歴史道V17と別冊付録日本の山城147、全国山城MAP東日本編、西日本編を掲載します。
 訪問日は購入日です。

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ふゆづき

関越を扼する堅城 (2021/08/18 訪問)

越後から関東平野に出るための要所である沼田城。
岩櫃城から転進すると、岩櫃という逼塞した城を本拠地にしていた眞田氏としては、関東平野に進出する手がかりとして、どうしてもこの地が欲しかったであろうということが理解できるように思います。
上越線沼田駅から城までは、徒歩約20分といったところですが、駅と城との高低差が50メートル程度あるので、足腰が弱い人は結構大変かもしれません(駅には注意書きが書いてありますが)。

城跡で残されている遺構は、堀、土塁と櫓の土台を形成した石垣の一部程度であり、眞田氏を巡る経緯で有名な城ですが、遺構は少ないと感じます。
城内は公園となっており、御城印を配布している観光協会(沼田城の全景の模型があります)は公園内にあります。
写真に掲載した櫓(時鐘)は、復元ですが、なかなか良い佇まいを持っています。

冒頭に述べたように、小高い丘の上に位置するので、眼下には上越線や国道を納め、名胡桃城を遠望できます。
北条側(城代の猪俣氏)の視点から見ると、この名胡桃城が本丸からの視野に収まるというのは確かに目障りであったろうと思われます。
城内を一回りして、30分程度というところだと思います。

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イオ

門と石垣と堀 (2021/09/05 訪問)

(続き)

本丸を出て、中仕切門の前を過ぎて西に少し行くと、二の丸と麒麟郭を結ぶ松蔭門があり、道路の両脇に石垣が遺っています。松蔭門の北側には松蔭堀(松蔭池)と呼ばれる水堀があり、石垣が門から続いています。松蔭門から南に進むと、鷺池と鰻堀池の間に南御門があり、南御門から南に徒歩2分の永慶寺は柳沢氏の菩提寺で、山門は南御門の移築とされます。

鷺池は二の丸(現在は郡山高校)南側の溜池を堀代わりとしたもので、南岸の遊歩道からは、池越しに生い茂る樹木の間に坤櫓や砂子の間前櫓などの石垣を見ることができます。

鷺池の東、市役所南西の交差点には柳御門と頬當門があり、二つの門で枡形を構成していたようです。門の東側、市役所正面には大手堀が水をたたえ、大手堀東端には南にのびる中堀に架かる大手橋の欄干が遺っています。

三の丸緑地北の踏切を渡ったところには、三の丸と二の丸を結ぶ鉄御門があり、巨石を用いた石垣が見られます。鉄御門から踏切を戻って北に行くと、五軒屋敷堀の北端に桜御門があります。桜御門の石垣には武蔵坊弁慶の足型と伝わる窪みのある石があるようですが、見落としてしまいました…。

桜御門の北の踏切を渡り、空堀沿いに西に進んで行くと、左京堀越しに天守台が見えました。左京堀は北西隅で南に折れ、幅広く深い堀が西御門まで続いています。西御門の南からは堀底に下りることができます。堀代わりの鰻堀池の水上には遊歩道が設けられ、水面近くから石垣を眺めることができました。

これで二の丸、三の丸など周辺の曲輪をひとめぐり。大和郡山市観光協会公式ウェブサイトでダウンロードできる「郡山城跡案内絵図」を参照しながら1時間あまりかけてめぐりましたが、あちこちに門と石垣と堀が見られ、実に見応えがありました。でも、まだまだ終わりではありません。車に積んできた折りたたみ自転車に乗り換えて、外堀めぐりに出発です(続く)。

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赤い城

須賀山城 千葉県東庄町 (2021/09/04 訪問)

森山城と隣り合わせの城です。
登城口に案内板が立ち、駐車場もあります。
こちらが搦手のようですが、少し登ると椎茸が栽培されていてここも私有地であることがわかります。
見学できることに感謝。
右手に馬出しがあり、その先が主郭です。
綺麗な土橋が残り、主郭の周りを空堀が囲んでいます。
主郭の反対側は第六天曲輪となり、ここにも椎茸が。
戦国期には森山城の支城として使われていたそうです。
森山城とセットでの訪問が良いですね。

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todo94

増田城(土肥城)・横手市増田町 (2021/08/08 訪問)

内蔵で有名な重要伝統的建造物群保存地区・横手市増田町に行ってきました。偶然、増田城を見つけてしまいました。増田小学校がその故地で学校の北西にある二本杉・貞治碑の建っているところが土塁遺構のようです。標柱の文字は非常に読みにくいですが、土肥城となっています。説明板の近くにある土塁はきれいに整備されたもので遺構ではないとのこと。

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ぴーかる

敏満寺城 (2021/07/23 訪問)

【敏満寺城】
<駐車場他>高速道路多賀SA上り
<交通手段>車

<感想>暑さを避ける湖北城巡り1城目。敏満寺は平安時代に天台密教寺院として建立、戦国時代には佐々木氏、京極氏と対立し浅井氏によって焼き討ちされている。この敏満寺もこれまで行って見て来た湖東側にあった城郭寺院と同じように当時は坊塔や曲輪が沢山山全体に広がっていたと思われるが今は多賀SAの麓部分に曲輪・空堀の一部しか遺構は残されていないようです。石垣も残されているようですが見当たらずレストランの外側に巨石が転がっていたのがそうなのかどうかというところです。

<満足度>◆◇◇

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チェブ

ガードをくぐってタイムトラベル? (2021/05/02 訪問)

横浜市の金沢八景にある、六浦藩主 米倉さんの「六浦陣屋」で写真をパチッ。
疾きこと風の如く退陣しました。

もともと武田氏に仕えていた米倉氏。武田家滅亡後、徳川家に仕えます。

金沢八景駅近くのコインパーキングに車を駐車し出陣。写真③の高架下のガードをくぐると左手が「六浦陣屋」です。
遺構は石段が当時の物とあり、道路からパチッ。
今でも米倉氏の末裔の方がお住まいの御宅があるという情報に、それ以上は控えました。
引き返し、写真②の右側が「六浦陣屋」です。

帰って来て横浜・横須賀の海近くに「六浦陣屋」があった事を確認し、外国船に慌てたんだろうな、なんて、、、。

風の如く退陣した「六浦陣屋」の米倉氏は長い歴史を繋いでます。

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イオ

極楽橋復元 (2021/09/05 訪問)

平安末期に郡山衆が築いた城(雁陣之城)がはじまりで、織豊期には織田信長の大和一国破城令により筒井城から筒井順慶が入城し、天守を築くなど居城として改修しました。順慶の死後、筒井定次は伊賀上野に転封となり、代わって入った羽柴秀長が大和・和泉・紀伊100万石の居城に相応しく大規模に改修、現在見られる曲輪と城下町を築きました。秀長と豊臣秀保の死後は増田長盛が入城し、惣構の外堀を完成させましたが、関ケ原の戦いで西軍に与したことにより長盛は高野山に追放され、大和郡山城は奈良奉行所の管理下に置かれます。大坂夏の陣では、城主となっていた筒井定慶が豊臣方の誘いを拒んで大野治房らの攻撃を受け、福住中定城へ撤退しましたが、一戦もせずに城を捨てたことを恥じて自害し、大坂の陣終結後には水野勝成が入りました。その後、松平氏、本多氏を経て、江戸中期には柳沢吉里が入封し、柳沢氏のもとで明治を迎えました。廃城令により城内の建物は撤去(移築)されましたが、昭和に追手門、追手東隅櫓、多聞櫓、追手向櫓を復元、平成には天守台を修復、今年(令和3年)3月には極楽橋が復元されています。

西ノ京丘陵の南端に位置する平山城で、京街道、奈良街道、伊賀街道、高野街道に通じた交通の要衝であり、城郭部を内堀と中堀で区画し、城下町を5.5kmに及ぶ外堀と土塁で囲んだ惣構の巨大城郭です。発掘調査で発見された礎石により天守の存在が確認され、慶長期二条城を経て淀城に移築されたと考えられています。

大和郡山城は2年半ほど前に登城していますが、今回のお目当ては前回は復元工事中だった極楽橋と、周辺の曲輪と堀、そして外堀めぐりです。まずは復元された極楽橋へ。本丸と毘沙門郭を隔てる内堀に架かる橋で、構造の詳細は不明ながら、江戸期の史料や発掘調査の成果に基づき木造で復元されました。本丸へ至る大手道だけに高欄に擬宝珠を設けた立派な造りで、橋の上から内堀を見下ろすと、堀の深さと幅広さを実感させられます。橋を渡ったところの白沢門付近はまだ工事中で、引き続き整備されるようです。柳澤神社にお参りして天守台に登る前に、東側の月見櫓趾へ。ここからは内堀に架かる極楽橋がよく見えます。天守台はさかさ地蔵が有名ですが、それ以外にも転用石があちこちに見られます。付櫓台から天守台に登ると、展望台からは奈良盆地を一望する絶景! やっぱりいいですね。

本丸周辺は前回ひとめぐりしているのでこれくらいにして、竹林門を出て中仕切門の前を通って、今度は周辺の曲輪と堀をめぐります(続く)。
 

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肉球

戸神代代官屋敷・宮﨑家屋敷・埼玉県越生町 (2021/09/11 訪問)

案内板によりますと
太田道真と道灌親子によって再建された龍穏寺。
その寺領を江戸時代江戸詰めだった住職の代わりに差配していた宮﨑家の屋敷跡です。
このお寺は関三刹任命され全国の曹洞宗寺院15,000寺を統制していたようです。
のちに十万石の格式を与えられ永平寺の貫主は関三刹(下野大中寺・下総總寧寺)
から選ばれるようになったようです。 

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肉球

解体されてました (2021/09/11 訪問)

元は今川家家臣のち徳川家康に仕えた安部氏の陣屋跡。
跡地には僅かな案内板があるだけで遺構はありません。
市内の全昌寺に移築されていた門が解体されたようでガッカリ。
以前見学した時トタンで覆われていましたので老朽化のためかと思われます。
保全できないものですかね〜

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ひで

案内板のみが残る (2021/09/12 訪問)

仙川駅から徒歩20分程度、島屋敷通り沿いを歩いて
たどりつきました。団地の中の案内板のみが遺構ですが、
団地の敷地が広いので探すのに苦労しました。
団地の広場に青いフレームの案内板があります。
柴田勝重の屋敷跡という伝承が案内にありますが、
仙川駅くら島屋敷通りを歩いている途中にある春清寺
には柴田勝重の墓所も残っています。

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キンヤ

溝口秀勝の生誕の城 (2021/09/05 訪問)

城主は織田氏に仕えた溝口勝政で、長男の溝口秀勝の生誕地とされます。
秀勝は、丹羽長秀、織田信長、豊臣秀吉などに仕え、関ヶ原の戦いでは東軍に属して越後新発田藩の初代藩主になっています。

民家のようで寺には見えない成願寺に石碑があります。

実際の城跡は成願寺から南西へ150m位の辺りであったようで、今は空き地や田んぼになっていました。

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