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小城小次郎

復元木造建造物もよし、手つかずの遺構もよし (2022/11/03 訪問)

数年前に復元された門に続き本丸木橋が復元された。木橋の下にあった石垣が埋もれて見えなくなった?ような気はするが、木造構造物があるとないとではイメージが大きく変わる。白川口埋門のほぼ手つかずの風景もよし。

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TMN97

小谷城 (2022/10/09 訪問)

訪問が遅かった為、歴史資料館のみ訪問。次回は登城したい。

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TMN97

竹中氏陣屋跡 (2022/10/09 訪問)

竹中氏陣屋跡

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TMN97

駿府城 (2023/02/24 訪問)

駿府城

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TMN97

平井城址 (2023/02/25 訪問)

平井城址

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TMN97

一郷山城 (2023/02/25 訪問)

一郷山城

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三浦の晃ちゃん

麓に冠木門 (2023/02/25 訪問)

続100名城の一つです。麓に冠木門があります。御城印は、砺波市埋蔵文化財センターで、購入しました。

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三浦の晃ちゃん

堀が素晴らしい。 (2023/02/25 訪問)

数年ぶりに登城しました。公園として、整備されています。堀が見事です。御城印は、公園内の三の丸茶屋で購入しました。前田利長公の像が象徴的です。

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綾部八幡宮 (2023/02/25 訪問)

 綾部八幡宮より登城しました。城ダンといわれる曲輪には土塁と石碑があります。主郭まで行き周囲の帯曲輪を散策した後、北東の曲輪周辺にある竪掘りを見に行きました。上下二段になった畝状竪堀が確かにあると思いますが、浅くなっていました。写真にするとわかりにくいですね。なぜ北東部だけ畝状竪堀があるのかなと縄張り図を見ながら散策しました。

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大間八幡神社 (2023/02/24 訪問)

 大間八幡神社付近が城址です。案内板に「周辺には、空堀、土塁、水堀などの遺構も残っており、、」と記載がありますがよくわかりませんでした。
 新幹線「新大牟田駅」からバスに乗り「羽山台小学校前」で下車。徒歩10分くらいで大間八幡神社に行くことができます。

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加藤清正の縄張り (2023/02/24 訪問)

 一国一城令により破却されてしまいまたが、案内板には「その縄張りの規模は、近世の宇土城跡や肥前名護屋城跡に匹敵する大きさを持つ近世城郭でした」とあります。天候もよくなかったので、あまり周囲を散策しませんでしたが、どのように石垣があり、どのような規模であったのか、在りし日の姿が気になる所です。

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大津山阿蘇神社 (2023/02/24 訪問)

 南側の大津山阿蘇神社側には曲輪が展開し、北側は堀切で防御されています。北側の登城路になる案内板では堀切は3ヶ所と記載されていましたが堀切に架かった橋は4本ありますので堀切は4カ所ではないでしょうか。最も主郭側の堀切は2重堀になっていて見ごたえがあります。
道は南北とも整備されていますが、ほとんどは階段路です。主郭からは眺めがよく阿蘇山や雲仙普賢岳が見えるとのことですが、あいにくの雨で見えませんでした。

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肥後国衆一揆 (2023/02/24 訪問)

 肥後国衆一揆の舞台となった城址です。主郭を中心に独立した丘陵となっている出丸が備えられています。よく整備され小雨が降っていましたが足元もそれほど気にすることもなく散策できました。ただ出丸のなかで別の縄張り図で三の丸と日明屋敷と書かれていた曲輪には登って行く道が見当たらず少し苦労しました。弾正屋敷に井戸はありますが、縄張り図を見るともう1カ所主郭の南に井戸と書かれていました。少し足元が不安定ですが何とかそれらしき所へたどり着くことができました。各所に雛壇状に曲輪が展開していてそれなりの規模があったのではないかと思いました。概ね歩きやすく散策しやすい城址です。

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三連水車ウオーターランド江迎公園 (2023/02/23 訪問)

三連水車ウオーターランド江迎公園として整備されています。石碑と案内板がありました。

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蓮池公園 (2023/02/23 訪問)

 蓮池公園付近が城址です。当時とは佐賀江川の流れも変わっているようです。遺構があるのか否か、よくわかりませんでした。

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直鳥クリーク公園 (2023/02/23 訪問)

 犬塚氏の居城であった城で直鳥クリーク公園として整備されています。曲輪も水路もそれなりに残っています。

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菊池武安 (2023/02/23 訪問)

 クリーク地帯に築かれた城跡で南北朝の時代に南朝方の菊池武安が築城したと伝わっています。平面的な城でどのように建物があったのか興味あります。

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少弐冬尚 (2023/02/23 訪問)

 種福寺の左側に登城口があり、案内表示とトラロープに導かれ迷うことなく主郭にたどり着けます。ただそれなりの山道ですのでトレッキングシューズなどの方がいいと思います。所々に縄張り図があり、自分がどの位置にいるかわかりやすくなっています。その縄張り図を見ると城の南側に旧、北側に新と記載してありました。案内板によると南側は小弐氏、北側は龍造寺氏、江上氏の段階の縄張りと考えられているようです。南側には井戸がり、北側へ行く途中にはいい堀切があります。北側の方に竪堀も多いのですが、浅くなっていてわかりにくいものも多い感じでした。北側主郭周辺の尾根にも堀切があります北東の尾根に降りて行くときは道がなく難渋しました。堀切、竪堀、土塁、井戸等遺構も多くあり楽しく散策させていただきました。石積みの跡かと思う所もありました。近郊には関連した遺構があるようですが、今回は主要な城域のみ散策しました。

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にのまる

銅像クイズ

赤い城さん、POYO58さん、お返事ありがとうございます。
浜松城天守門近くの松潤。
正解です*\(^o^)/*
…昨日行ってきました( ̄^ ̄)ゞ

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トク

㉕【関ケ原の26人】(13)平塚為広 (平塚為広と垂井城) (2022/11/29 訪問)

(13人目)は「平塚為広」です。
関ケ原時の居城「垂井城」を訪れてきました。垂井駅から西へ徒歩10分の所です。

城跡の石碑には詩が刻まれていました。私はこの垂井城に立ち、この詩を詠んだとたん、少し熱いものが込み上げてしまいました(すいません)。

平塚為広は秀吉の元では「母衣衆」(ころもしゅう)と呼ばれ、黄色い母衣(風船のような衣)をまとい、伝令や秀吉の周辺警備を担当していたようです。そして大谷吉継とは大変懇意の仲でした。

三成から家康を討つ決意を打ち明けられた吉継は垂井城に行き為広に相談します。そして二人は佐和山城に行き、挙兵しようとしている三成を止めようと説得します。「三成にはまだ西軍をまとめるまでの人望がない時期尚早である」と・・・

しかし三成は決死の覚悟があり、二人ともその覚悟に折れたようです。そして伏見城攻めに加わり、鳥居元忠を攻めたあと、北陸方面を制圧し関ケ原に入りました。

しかしこの時、大谷吉継の容態はかなり悪化していました。吉継は為広の垂井城に入り療養しますが、家康が関ケ原に向かっていると聞き、もはやじっとしているわけにはいきません。持ち場の玉城に戻り、その麓に陣を構えて小早川秀秋と対峙します。

為広は同行し、病気で目が見えぬ吉継に代わり大谷軍を指揮しました。そして藤堂高虎や小早川秀秋と対等に渡り合い、一進一退を繰り広げ何とか持ちこたえていましたが、脇坂安治らが寝返るともはや持ちこたえる事ができません。最期に、この詩を吉継に届けた後、もはやこれまでと藤堂高虎めがけ突進して行きました。

 名の為に
 捨つる命は惜しからじ
 遂にとまらぬ憂き世と思へば

こう詠んだ為広に対して、吉継はこう返したそうです

 契りあらば
 六つの巷(ちまた)にしばし待て
 後れ先立つことはありとも

しかしこ返詩は届く事はありませんでした。なぜならばこの時、為広はすでに討死していたからです。

次は、(14人目)へ続きます。
 

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