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3️⃣城下町 (2022/10/09 訪問)

至るところに石垣が

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2️⃣浮城 城下町 (2022/10/09 訪問)

駅と直結する浮城

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1️⃣石垣とねこ🐱 石垣と駅 (2022/10/09 訪問)

ねこってお城が好きなんでしょうか?
早朝だったので、🐱ちゃんの目が光ってます【写真③】

石垣の中に駅入口があり、驚き!

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城主出羽元とも(毛利元就6男) 没後450年 記念限定御城印 (2022/10/15 訪問)

城主 出羽元ともは、毛利元就死後僅か2ヶ月後に他界しているので毛利元就と没年イベントが重なる。

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毛利元就の六男の居城 (2022/10/15 訪問)

【出羽氏と二ツ山城を語る】講演会に参加
【二ツ山城】は山城の山上居住?

石見の国二ツ山城は、備中国から石見国の入口に位置しており、石見銀山制服への入口でもあった。

毛利元就は、自身の死後の石見国、石見銀山支配を見据えて、自身の六男元ともを、二ツ山城主である出羽氏の養子とする。

しかし、元ともは、毛利元就の死後僅か2ヶ月後に他界。
何やら、事件の匂いが、、そう言えば、毛利隆元も早世してますよね。その後、城主には、出羽氏の直系出羽元勝(元祐)が就任。元勝は、毛利輝元の従兄弟(尾崎局の甥)

講演会はワクワクしながら視聴。講演会の日は、ガイドさんと一緒に城巡りもありましたが、私は、仕事の為に不参加。次回の攻城が楽しみです。
道路沿いに二ツ山城の、のぼりもありました。

【二ツ山城】の由来は、【東の丸】と【西ノ丸(本丸)】の【二ツ】の大きな郭があるから。

【二ツ山城】は、複数の出土品から、七尾城と同様、山城の山上(城内)居住が示唆されている様子。

石見国には、毛利、石見銀山関連のお城が多数。今年の秋は、イベントもめじろ押し。詳しくは、大田市、邑南町観光協会のHPを。

ガソリン代の補助もあり。中四国(島根県を除く)在住者限定、石見国ガソリンスタンドにて実施中。

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ランフランコ

#19 亀山城 (2022/10/15 訪問)

地元の方の憩いの場となっているようで、お城のある街に住むのはほんと羨ましいです。

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カズサン

紅葉には早すぎ田峯城の帰りチョイ寄り (2022/10/13 訪問)

 長篠城には昨年3月上旬、下旬に登城して居り、武田軍の北方陣所巡りで往時の雰囲気なりとも体感できないか?を廻り少しは感じたかな? 下旬には長篠城の桜を満喫をして居りました。

 今回、田峯城を12年振りに探訪しての帰り、地道を通れば長篠城前、それでは寄らなくちゃと1年半ぶりにチョイ寄り、15時半と廻って居ましたが4,5人の方が登城されて居ました。

 長篠城の見所は北側の本丸主郭高土塁と深い堀です、まだ楓はみどりのまま紅葉にはまだ早く、11月下旬頃が見ごろでしょう!
本丸、高土塁、空堀、土塁に上がり往復、JR飯田線で開削された土塁の辺りも見学、本丸のフェンスには鳥居強右衛門磔の看板、宇連川と寒狭川の合流地点渡合を示す看板、ここは牛淵橋から眺めるのが見所絶景スポットです、武田軍の5砦を示す看板、その一つ鳶ヶ巣山砦は対面に樹間より見る事が出来ます、本丸主郭を廻ってチョイ寄り終了。

 皆さんもよくご存知でしょうが長篠城史跡保存館の前には、「長篠・設楽原の戦い布陣図」と「長篠の戦い史跡めぐりコース」の案内大看板が有ります。時間に余裕の有る方は長篠の戦い史跡めぐりコースを廻ったり、近くの設楽原歴史資料館、馬防柵、徳川・織田陣所巡りと歴史ロマンいっぱいの長篠城、設楽原です。
 
 投稿写真は私の見所かな?の高土塁、深い空堀中心です。
 

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AIAI

安祥城に行ってきた (2022/10/16 訪問)

お寺が建っている処が本丸で入口は北側の一つだけ。詰めれる兵力はそれ程多くはないものの、攻め口が限定される分守りやすい。織田軍に取られてから奪還に失敗している事からもそれなりの防御力があったという事。

三河の交通の要衝は伊達じゃないという事か。

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にのまる

関ヶ原陣跡巡り(東軍~反応軍) (2022/09/25 訪問)

① 細川忠興陣跡
1stチェックポイント。とりあえずまわりの人たちについていきました。公園です。石碑や説明板があって、早くも古戦場を歩いているんだなあという気がしてきました。

② 丸山:黒田長政・竹中重門陣跡
リアル狼煙が上がっていました。見晴らしもよかったです!

③ 陣場野:徳川家康最後陣跡
幟のはためく広場。首実検の床几場がありました。座ってみたけれど天下取った気にはなりませんでした。

④ 田中吉政陣跡
石碑と説明板、幟旗がありました。

⑤ 東首塚
東首塚と西首塚が存在。戦死者を弔うのは死者への表敬。お城や古戦場を訪ね歩くうちにお墓や塚が怖いところではなくなってきました。

⑥ 松平忠吉・井伊直政陣跡
抜け駆け隊は関ヶ原駅近くに布陣。

⑦ 本多忠勝陣跡
ひっそりとしたところだったのがかえって印象に残ります。

⑧ 藤堂高虎・京極高知陣跡
関ヶ原中学校内!

⑨ 福島正則陣跡
抜け駆けされ隊、宇喜多隊を突き崩す!合戦図屏風にも描かれている杉の巨木がありました。

⑩ 脇坂安治陣跡
東軍内通隊、大谷隊を壊滅!

⑪ 松尾山:小早川秀秋陣跡
投稿済みなので略

<続く>

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赤い城

大楠小学校 (2022/09/23 訪問)

大楠小学校が城跡ですが遺構はありません。
周囲の道も狭く駐車場もないので一苦労でした。
小学校は坂の途中にあり、段差があるようにも見えます。
小学校から住宅地の脇の細い道を降りると川沿いに庚申塚の碑が立っていました。
三浦義明の弟、芦名為清の居城です。
衣笠城の支城だったようです。

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ぴーかる

模擬石垣でもこれだけあれば立派 (2022/09/11 訪問)

【花隈城】
<駐車場他>神戸市立花隈駐車場有料
<交通手段>車

<感想>日帰り西摂津東播磨ちょこ城巡りの旅9城目。城跡説明碑によると「花隈城は永禄10年(1567年)織田信長が摂津の有力武将荒木村重に築城させたとあります。が、永禄10年は織田信長は稲葉山城を攻略したばかりで足利義昭を奉じて上洛もまだなので築城年か築城者が誤っているだろうと思われます。信長時代には荒木村重の支城となりますが1578年に村重謀反により有岡城と共に戦います。1580年に池田恒興により落城し廃城となります。穴太衆によって築城されたとされる石垣は池田恒興が兵庫城築城するために運び出されたようです。
 現地の公園は模擬石垣・模擬天守台ながらこれだけお金をかけて総石垣造りは立派です。規模的にはここら一帯と少し北に行った所に天守台跡碑がある福徳寺が本丸跡地になるかと思います。全然城と関係ないですが公園前に神戸のど真ん中なのに無料の原付駐輪場があるのが驚きです。神戸市すごい!

<満足度>◆◇◇

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カルビン

関戸城はバーター側でした (2022/06/05 訪問)

関戸城は既に2014年に訪問済でしたが、術後2週間でどれだけ動けるか確認する為に、未訪問だった[寺方大屋敷(〒206-0003 東京都多摩市東寺方757)]に行った際のタイアップでバーター的に立ち寄りました。
寺方大屋敷がもっと平坦なところにあると思っていたのに、まさかあんな坂上にあるとは。。。(←まだまだ坂登る様な負荷かかる運動は駄目だった)
後で医者から常識を疑う・・・と説教を受けました。。。てかそれ退院の時に早く言ってよ~(危)


で、結構な比高のところまで登ったついでに関戸城に行った次第です。。。丁度未投稿だったのでついで感満載ですが(汗)

ちなみに関戸城は寺方大屋敷から距離はそれ程離れておりませんが、寺方大屋敷から更に登ったところにある為に15~20分くらい掛かったと記憶しております。

関戸城の標柱があるところから階段で下った場所に遺構残っているとの事ですが、正直体に余裕無かったのでスルーしました。


戻りはここから「耳をすませば」の舞台参考とされるスラロームの坂道側から聖蹟桜ヶ丘駅に向かいました。


折角なので写真は関戸城と寺方大屋敷の両方upしておきます。

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じゅんじん

閉校😢 (2022/05/12 訪問)

お城より歴史がある学校が閉校だそうです。
その後は城址公園として整備されるそうです。

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じゅんじん

5年ぶり (2022/05/11 訪問)

公園駐車場閉門までのちょいよりでした。
堀がよいです。

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赤い城

和田城 神奈川県三浦市 (2022/09/23 訪問)

鎌倉殿の13人、和田義盛の居城です。
遺構は残っておらず三浦初声高校和田キャンパスの前に石碑と説明板が立っています。
少し東側に和田義盛の碑も立っています。
和田義盛は和田合戦において由比ヶ浜で北条義時に討たれてしまいました。

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熱田神宮とその周辺 (2022/10/16 訪問)

 桶狭間の戦いの前に織田信長が先勝祈願したと伝わる熱田神宮へ行ってきました。境内には勝利のお礼に奉納したとされる築地塀(信長塀)が残されています。その案内板を見てみると「日本三大土塀の一つとして名高い」との記述がありました。日本三大山城は知っていましたが、日本三大土塀は初めて知りました。他の2つは三十三間堂の太閤塀と西宮神社の大練塀だそうです。
 桶狭間の戦いの前に先勝祈願に立ち寄ったとされるのは熱田神宮だけではないようです。他に榎白山神社、日置神社、法持寺、秋葉山慈眼寺と4つあります。本当だとすると、あの信長にしては意外な気もしますが、神頼みしまくりながら、後から集まってくる兵を待っていたのかもしれませんね。法持寺には名古屋城築城のための石垣の残石がありました。

 熱田神宮の西側には源頼朝の生誕の地があります。熱田大宮司藤原季範の娘・由良御前は源義朝の正室となり、実家のある熱田に戻って頼朝を産んだと伝わっています。誓願寺の前に石碑と案内板があります。ちなみに山門に葵の紋があるのは開祖善光上人が人質時代の竹千代(徳川家康)の教育係だったことや、後に尾張藩になったことが関係しているようです。

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うさ

松代城 (2022/10/15 訪問)

子供のコンクール応援で寄らせていただきました。
土曜日でしたが見学しやすく、駐車場も近くにあるので利用しやすかったです。
美しく土塁が復元されていました。
城とは関係ないですが、とても立派な柳の木?がありました。

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カズサン

田峯城の曲輪群 (2022/10/13 訪問)

 先に投稿した「12年振りの2度目の登城」の続きです、各曲輪及び遺構が標柱と共に案内されて居り非常に見やすく見学し易い気遣いが感じれます、約1時間弱堪能しました、模擬再建建物群も素晴らしいですが、先の建物中心投稿写真10枚では尽くし足りませんので、各曲輪、遺構を追加投稿させていただきます。
 初登城は平成22年12月18日それから12年目の再登城でした。

 田峯城は田峯菅沼氏の城で奥三河山家三方衆(田峯菅沼氏、長篠菅沼氏、作手奥平氏)の一勢力です、武田氏、徳川氏・織田氏の攻防戦の国境の城、地域、双方に分かれての攻防と、長篠・設楽合戦の勝敗で武田方の敗退逃避行の中、田峯城に逃げ込めず、この怨念復讐が悲惨な事件と成り、謀反の一族の惨殺となった。処刑場所、首塚は訪ねて居ません。
 駐車場、トイレ完備です、しかし導入路は狭いので要注意。

 近くの「道の駅したら」にお寄りになる事をお勧めします、食事と土産物、設楽町観光協会で設楽の山城マップと個別山城パンフレットを頂けます。
 
 

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ヒロケン

予土国境最前線の山城 (2022/08/17 訪問)

河後森城は、伊予と土佐の国境地帯の山間部に位置し、四万十川の支流広見川、その支流の堀切川・鰯川の三つの川に囲まれた独立丘陵上にある大規模な山城で、最高所の本郭を中心として、山の稜線部には馬蹄形に曲輪が展開しています。中央を南北に通る風呂ヶ谷を取り囲むように、本郭から西は九つの曲輪があり、東は古城を含め七つの曲輪、南には新城の曲輪群が階段状に連なっています。いづれも、南側の土佐方面の守りを意識した堅固な構えで、古城、本城、新城と城域が順次拡張されていったものと推測されています。
平成3年から発掘調査が開始され、貿易陶磁器・備前焼等の豊富な遺物が多数出土しています。本城では瓦も出土し、礎石も確認されていることから、瓦葺建物の存在が推測されています。小規模な石垣遺構も検出されていることから、豊臣系の築城技術が導入された可能性が考えられているとのことです。

河後森城は川原淵殿と呼ばれた渡辺氏が代々居城しており、天文後期から天正年間にかけて機能し、1580年から翌年の間に、城主城主・渡辺教忠の近習だった、芝源三郎が謀略により当城を奪っています。1583年の四国の役後、戸田勝隆公により芝源三郎は放逐されたとのことです。その後、この地を治めた藤堂高虎公は当城の天守を移築して宇和島城の月見櫓にしたという話も残っています。1614年に伊達秀宗公が宇和島藩を立藩した際、付家老の桑折氏が河後森城に入り、その後、1615年の一国一城令により廃城になったとされています。

この城の見所は、本郭を中心に馬蹄状に展開された曲輪群と西第十曲輪・古城双方からみた景観であろうと思います(私見)また、再建されている建物に関しても、手作り感満載で予土国境最前線の城としての緊張感とのギャップがあり、ほっこりさせてくれます(#^^#)
河後森城へは初めての訪問で、石垣好きの自分としては、若干期待薄でしたが各曲輪を巡っているうちに、在りし日の城の姿を妄想し、さすが続100名城と納得の訪問でした。

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赤い城

油壷に臨む (2022/09/23 訪問)

京急油壺マリンパークは閉館、キャンプパークになっていました。
そこからすぐ、油壺湾に沿って遊歩道があります。
城跡は東大の臨海実験所となり通常は立入禁止です。
一部空堀を見ることができます。
遊歩道に沿った土塁も高さがあり、海側から攻めるのも困難ですね。
油壺は北条氏に滅ぼされた三浦氏一族の血で油を流したようになったことから名付けられたとのこと。
想像するだけでゾッとします。
帰り際ちょっと歩いてみると、朝市用の駐車場からフェンス越しに空堀を見ることができました。

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