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カズサン

内濠越しに眺める天守・高石垣は圧巻です (2005/08/08 訪問)

 木造復元四重天守閣大洲城探訪が主の四国旅、前日宇和島城、復元天守に登閣、眺めしつくした大洲城、時間の関係で松山城は三の丸、二の丸下、道後温泉本館、湯築城を車窓見学して、松山の宿に宿泊。
 朝早くに近くの四国八十八ヶ所めぐり51番石手寺を参拝、土産に家内趣味の砥部焼の丈夫な器を購入し現在も大切に使って居ます、高速で香川へ、途中に弘法大師ゆかりの善通寺参拝、長く高い石段を登って金刀比羅宮参拝讃岐の眺めは最高。

 丸亀城は50数年前に初登城、今回17年前の平成17年8月上旬に金毘羅さん参拝、昼を済ませ二度目かな?家内と登城しました、内濠、内濠越しに高い石垣、天守閣を眺め、久しぶりの感激、躍動感に胸震えます、大手土橋を渡り大手枡形門、見返りの坂道を登って、高石垣が眼前に、石垣を触ったり上部の高石垣天端を眺めたり、三の丸、二の丸、本丸、小振りな現存12天守の一つである天守閣に登る、天守からの眺め、本丸からの眺めは素晴らしく最高です。

 近世の丸亀城は秀吉の四国征伐後、讃岐を生駒正親が拝領し高松城築城、隠居城として丸亀城を築城、関ヶ原で東軍についた子の生駒一正は讃岐一国17万石余を拝領し丸亀城は完成したが元和の一国一城令で廃城、生駒氏のお家騒動で寛永17年(1640年)減封転出、寛永18年(1641年)山崎家治が5万3千石で入封し城の再建し現在の姿に、山崎氏三代続くが世継ぎ無く改易、代わって万治元年(1658年)京極氏が6万6千石で入封、七代続き明治を迎える。
 丸亀城は生駒氏、山崎氏、京極氏に引き継がれて現在の姿に天守閣、大手桝形一の門二の門、御殿表門が現存です。

 さて4年前の平成30年(2018年)7月の大雨で高石垣が崩落被害に遭い、現在復旧復興工事中です、被害見舞いと早い復旧復興を願って居ります。 頑張れ丸亀城❕

 この後は瀬戸大橋を渡ってふるさと鳥取へ、途中に瀬戸大橋唯一のPA、与島PAに寄り、休憩し瀬戸大橋、瀬戸内海、遠く讃岐富士を眺める、丸亀城は目視出来ず。
 2泊3日四国旅は復元したての大洲城木造復元四重天守閣を観覧するが主目的でしたので満足旅でした、平成16年には新発田城三階櫓が7月、大洲城天守閣が9月に完成しています。
 

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イオ

とことん江戸城(南町奉行所) (2022/06/23 訪問)

南町奉行所は、江戸期の大半を北町との月番交代で江戸町方の行政と司法を担った幕府の機関で、江戸中期に常盤橋門内から数寄屋橋門内に移転して明治まで続きました。

跡地は有楽町イトシアになっていて遺構はありませんが、発掘調査で石組下水溝や井戸、穴蔵などが発見されており、有楽町駅前広場には南町奉行所跡の石碑と発掘された石材で復元した石組下水溝が、地下広場には発掘された穴蔵をモニュメントとして展示し、両脇には水道木樋を再利用したベンチ、向かい側の柱の周囲にも発掘された石材によるベンチ(写真を撮りそびれました…)が設けられています。

ところで、南町奉行というと真っ先に大岡越前守忠相の名が思い浮かびますが、日比谷公園の西隣、弁護士会館や東京家庭裁判所のあたりにかつて上屋敷があり、弁護士会館の南東隅に屋敷跡の説明板が設けられています。官庁街の一角ではありますが、名奉行の屋敷跡が外務省や農水省などでなく裁判所と弁護士会だとは、何とも出来過ぎた話ですね。

# 訪問時は石碑の向かい側の有楽町マルイでお城EXPO POPUP SHOP×「センゴク」原画展が開催中でしたが、時間が合わず観覧はかないませんでした。残念…。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ8日目:物集女城 (2022/07/27 訪問)

寺戸城からの転戦です。洛西口駅から徒歩15~16分くらいで、城跡付近(34.962801、135.695139)に着き、その後、物集女公民館(34.962143、135.694523)に向かいました。

築城年代は定かではないようですが、室町時代に物集女氏によって築かれたと云われています。 物集女氏は秦氏の一族とされ、物集女荘の代官としてこの地の有力者でした。
戦国時代には物集女忠重がいましたが、上洛した織田信長は細川藤孝を勝龍寺城主としてこの辺りを支配させました。
忠重はこれに従わず、1575年(天正3年)勝龍寺城で謀殺されました。これによって物集女城も廃城となりました。

主郭は私有地のようで中にははいれませんが、説明板はあります。
物集女公民館に入り、玄関先にある簡単な模型と縄張り図などを見学させていただきました。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=革嶋城を目指す為、電車で洛西口駅から桂駅に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ8日目:寺戸城 (2022/07/27 訪問)

開田城からの転戦です。東向日駅から徒歩10分ちょっとで例慶公園(34.951588、135.698795)に着きました。

寺戸城は室町将軍直轄の家臣団である西岡被官衆(西岡中脈衆)のひとり、竹田氏の居城として知られています。
応仁の乱では、1468年(応仁2年)に東軍が陣取ったとされています。

現在城址は宅地化されており遺構はありませんが、推定地とされる例慶公園の一角に標柱があります。
標柱は公園の中から見ないと分かりません。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=物集女城を目指す為、電車で東向日駅から洛西口駅に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ8日目:開田城 (2022/07/27 訪問)

宿泊先最寄りの長堀橋駅から長岡天神駅に着きました。
長岡天神駅から徒歩4~5分で開田城土塁公園(34.926169、135.691586)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、中小路氏によって築かれたと云われています。

開田城土塁公園になっており、土塁の一部が保存されています。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=寺戸城を目指す為、電車で長岡天神駅から東向日駅に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ8日目:楼ノ岸砦 (2022/07/27 訪問)

野田城からの転戦です。天満橋駅から徒歩4分くらいで、坐摩神社行宮(34.689677、135.513295)に着きました。

織田信長と本願寺勢力が戦った石山合戦の際、織田信長が築いた砦です。
本願寺勢力の攻撃で奪取され本願寺勢力の防衛拠点となりました。
本願寺落城の際に廃されたと考えられていますが、詳細は不明のようです。

何もありません。工事中のようで神社がなくなっていました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=開田城を目指す前に、一旦ホテルに帰り朝食を取ります。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征8日目:野田城 (2022/07/27 訪問)

野田城からの転戦です。玉川駅から徒歩3分くらいで、JR野田駅近くの石碑(34.689482、135.476435)を確認して、極楽寺山門石碑前(34.688305、135.478343)に向かいました。

築城年代は定かではないようですが、 1531年(享禄4年)三好元長と細川晴元が対立したとき、三好方の浦上掃部が野田・福島に陣取ったのが始まりと云われています。
1570年(元亀元年)畿内での勢力回復を狙う三好三人衆が阿波から軍勢を率いて上陸し、野田・福島の砦を補強して立て籠もりますが、1576年(天正4年)織田信長の猛攻によって落城しました。

地下鉄千日前線玉川駅2番出口前ピュア玉川入口と、そこから徒歩5分の極楽寺前の2箇所に城名石碑がありましたが、遺構はありません。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=楼ノ岸砦を目指す為、電車で玉川駅から、天満橋駅に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ8日目:三津寺砦 (2022/07/27 訪問)

朝早く起きて、ホテルの朝食前に三津寺砦&野田城&と楼ノ岸砦を攻城しました。
宿泊先のアークホテル大阪心斎橋野田城から徒歩12~13分くらいで、三津寺前(34.670371、135.500754)に着きました。

三津寺砦は、築城年代や築城者は定かでないようですが、戦国時代には石山本願寺の支城の一つとして機能し、1576年(天正4年)に織田信長に攻められて敗れています。
寺院としての歴史は古く、奈良時代に聖武天皇の勅命で、「東大寺の四聖」の一人と言われる僧・行基により開基されたそうです。

大阪なんばのスグ近く、都会の真ん中に残る石山本願寺の城砦の跡ですが、ホテル?の工事中で囲いがあり、中を覗うことはできませんでした。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=野田城を目指す為、電車で、なんば駅から、玉川駅に向かいます。

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おっちゃん

川之江城跡案内図 (2018/01/03 訪問)

現地案内板より抜粋

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おっちゃん

鹿児島(鶴丸)城館想定再現図-江戸時代後期- (2017/11/03 訪問)

現地案内板より抜粋

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T-Shionoya

先祖が幕末を迎えた館林城 (2022/08/14 訪問)

今年の夏休みは群馬県館林市の館林城へ。

東と南を城沼に守られた邑楽館林台地東端のいわゆる舌状台地を城郭とした館林城。
忍と佐野を結ぶ日光脇往還の利根川と渡良瀬川に挟まれたポイントで、家康が東北への抑えとして重要視した模様。

残っている記録では室町後期に上野赤井氏が居住しており、家康が江戸に入ると徳川四天王の榊原氏を配置。城は近代城郭に改修され、徳川綱吉が城主になると本丸西に三階櫓を建設。その後しばらくの廃城期間を経て越智松平氏が修築し、秋元氏の時代に明治を迎えました。

現在は土塁が点在するものの、堀は埋められ公共施設や科学館が建つ城感の薄い城跡。
土橋門が復元された三の丸西部のみが城の雰囲気を残すエリアで、その桝形を形成する目隠しの土塁が蔀土居と呼ばれている模様。秋元氏時代の絵図を見ると二の丸の門も同じタイプで、本丸の門には異なるタイプの仕掛けが見られます。

訪問時は、まず三の丸から八幡郭までを1周し、続いて大手門跡や総郭の土塁跡へ。この時期、加法師口付近の土塁はヤブ化していたものの、下戸張口寄りの土塁跡(?)は明瞭。
そして秋元氏時代の館林城絵図を確認するため、館林市第一資料館へ。先祖が秋元大名の馬廻衆だったと聞いており、屋敷の名前を確認していくと、見難いものの総郭加法師口の外に私と同じ名字を発見。ここに先祖もしくは親戚が住んでいたのかな?
こんな館林城訪問が私の城巡りの130城目でした。

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おっちゃん

城山周辺案内図 (2017/04/22 訪問)

現地案内板より抜粋

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朝田 辰兵衛

冬場が散策しやすいと思います。 (2019/12/21 訪問)

冬場が散策しやすいと思います。運が良ければ富士山を眺望できるようですが,私は朝駆けでチャレンジするも,運が悪かったです…。

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スティクラ

2度目の犬山城へ (2022/08/11 訪問)

2度目の犬山城へ。

今回は天守だけでなく、外側からの城の景色も目的。

人が多く天守まで階段で待ちがあり、少し時間がかかった。
階段はかなり急なので、足が悪い人はきついかもしれない。
天守にあがると風があり、かなり気持ちいいのでぜひ体験してほしい。

天守をみてまわった後、一番の目的である外側から犬山城を眺めることに。
木曽川からの眺めをホントに素晴らしい。
木曽川の対岸に回って一周するのに1時間近くかかるが、見る角度によって犬山城の魅力が変わってくる。
犬山城に行く計画がある人は、大目に時間を取って木曽川からの眺めをみてもらいたい。

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赤い城

石碑の後ろに (2022/07/30 訪問)

周囲は住宅地と農耕地になっています。
柵で保護された中に石碑が立っていました。
訪問時は草も刈ってあり、見やすかったです。
石碑の背後に堀跡、西側に土塁が僅かに残っています。
単郭の城だったようですが周囲は湿地で水城として要害性は高かったようです。

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スティクラ

のぼりが多すぎる小里城へ (2022/08/11 訪問)

それまで知らなかったが、岩村城へ向かう前に見つけたので、岩村城にいった後に訪城。

駐車場は看板が小さくわかりにくいが、登山口の道路の反対側にあり。

遺構は入口近くの大手門跡の石垣と頂上の天守跡の石垣を中心。
登り時間は30分くらいだが、勾配が結構あり平坦な場所が少ないので、かなり体力を奪われた。

天守がある頂上は石垣が石積みが残っているが、それ以上にのぼりが多く、瑞浪市か稲津町かは知らないが、押しが凄かった。

頂上からの景色は木に覆われているため、頂上からの景色を期待することはできない。道中に一か所だけ。

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ぎりょう

模擬天主が建つテーマパーク (2022/08/14 訪問)

由利本荘市の二ヵ所目は亀田城に。本荘城址から日本海東北自動車道を秋田方面へ、松ヶ崎亀田IC経由で19km、23分ほど。
ここは戦国時代は由利十二頭の赤尾津氏が拠った地。最上氏が由利郡を領有するにあたりその臣楯岡氏が配され赤尾津城に入るが、その後、支配の拠点は本荘城に。最上氏改易の後、本多氏を経て、由利郡は亀田・本荘・仁賀保・矢島の四藩に分割され、亀田には信濃川中島より岩城修理大夫吉隆が20、000石で入部すると、吉隆はかつての赤尾津城の麓に亀田陣屋を築いた。元和9年(1623)の事である。その後岩城氏は13代続くが、嘉永5年(1852)8代隆喜(たかひろ)のとき、善政を認められ城主格となり亀田城と呼ばれるようになったと云う。慶応4年(1868)の戊辰戦争にあっては、当初は奥羽越列藩同盟に加盟するも久保田藩が新政府軍側に付くと亀田藩も列藩同盟を離脱する。しかし列藩同盟側の庄内藩勢が矢島藩・本荘藩を攻めると、一転して庄内藩側に組みしたため、久保田藩勢に攻められ焼失したと云う。
富原文庫蔵の陸軍省城絵図には「旧亀田県城郭之図」として明治五年時点の姿が描かれている。東西百五間南北百間とあり、本丸・二ノ丸ともに建物は焼失したためか描かれていないが、本丸と二ノ丸の土塁、水掘、大手外舛形と喰違虎口三ヵ所がしっかりと残されており、かつての堅固さを偲ぶことができる。
現在城址周辺は、史跡保存伝承の里「天鷺村」として美術館や藩政時代の士農工商の建築物、石垣と櫓門、模擬天主が並ぶテーマパークとなっている。


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諏訪原城 (2022/08/07 訪問)

続日本百名城

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駿府城 (2022/08/07 訪問)

日本百名城

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古宮城 (2022/07/30 訪問)

続日本名城

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