小学校低学年だった私はある日、近所の公園の砂場でひたすら穴を掘っていました。1時間近く経ったでしょうか。搬入された砂の層は底をつき、手元からは赤褐色の砂質粘土が姿を見せていました。これが私と関東ローム層の出会いです(笑)。
あれから約40年。目の前にあるのは同じく富士山の火山灰が風化して粘土質になった赤土の層ですが、あの時とは比べ物にならない大土塁。そして周囲には畝を伴った横堀。非常によく滑るため、一度下に降りてしまうと登ることはおろか、しがみついているのも一苦労。右往左往しているうちに上から狙い撃ちされるという仕組みですね。
三島駅からバスで40分ほど(往復するなら一日乗車券がお得です)。山中城はローム層をフル活用した、後北条氏にとって最前線の砦。現存する堀障子は近年、その形がベルギーワッフルに似ていてインスタ映えするなどと話題になりましたが、その機能は実にエグいものがあります。発掘調査では夥しい数の銃弾が見つかっているそうです。
1590年3月29日、秀吉による小田原平定の戦端はこの地で開かれました。多少の誇張はあるにせよ、押し寄せた豊臣軍6万8千。守る北条方は多く見積もって5千と、その差は歴然。結果だけ見れば、わずか半日で落城しています。ただ、実際には特殊な空堀と執拗な銃撃に阻まれて大将のひとりが討ち死にするなど、豊臣方の被害も相当のものだったというのが近年の見方だと某歴史番組で紹介していました。
北条は当時、足柄ー山中ー韮山に防衛ラインをセット。同日に攻められながら、容易に落ちなかった韮山の方がより優れた城だとする向きもあるようですが、これは単に豊臣方が韮山よりも、東海道(旧箱根道中)を抱きこんだ、事実上の“小田原への関門“だった山中攻めを最優先した結果ではなかろうか、と解説される方もいらっしゃいます。
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