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にのまる

٩(๑❛ᴗ❛๑)۶

ぴーかるさん。
アガリのお城は特別なお城!
100名城のラストは
“地元の松本城”
“現存天守の丸亀城”
と仰った方々を思い出しました。
ヘタレな私は大変そうなところを後回しにしてしまっています。。。
大阪府コンプカウントダウン、噛み締めてくださいませ。

ヒロケンさん。
絶対に寒いとわかっていても長野県には冬に行きたくなるのです。そして凍えながら雪だるまをつくる⛄️
楽しいです(o^^o)
みなさまもぜひ⛄️⛄️

朝田さん。
先だって教えてくださっていた三井記念美術館の〈どうする家康〉特別展に、本日行ってまいりました。久能山東照宮の所蔵品、各種屏風絵、肖像画などなど2時間くらい楽しみました( ´ ▽ ` )ノ
年パスを買ったのでまた見に行きます(^-^)/

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じゅんじん

公園 (2023/03/04 訪問)

町を見渡せます。車でらくちん。ロウバイが自生しています。

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チェブ

雨と城と井戸とプリン。 (2023/04/15 訪問)

雨が降っていたので、鎌倉・葉山ドライブ。そして、「住吉城」に寄り道です。
晴れていたら最高なんですが、、、、。
渋滞するので、いつも空いている季節と天気を選びます。

「住吉城」は三浦 道寸さん、弟の道香さんが北条 早雲さんと戦ったお城です。

逗子マリーナ近くの『正覚寺』で「住吉城」の名前を発見。お寺の左手に階段があり、上がると『正覚寺』。更に石段を上がります。
写真では分かりにくいかもしれないですが、ザーザー降りです。傘を持っていたので、写真はブレブレのみ。添付は控えます('~`;)
晴れていたら絶景だと思いますが「行った」をポチっとしたかったので、良しとします。
『正覚寺』の階段の反対側に、『六角ノ井』の説明板と、後ろに石碑を見つけました。
説明板には、源 為朝さんが伊豆から放った矢が、こちらに刺さったんだとか。為朝さんは源 頼朝さんの叔父さんです。
頼朝さんの伝説も、すごい話がたくさん ありますが、叔父さんも、負けてません。
肝心の井戸はブルーシートに覆われてます。

葉山に『MARLOWE』という プリンが美味しいお店があります。
この辺の、お城攻めは鎌倉・湘南エリアに近い為、観光する方々で、いつも賑わってます。
ちょっと疲れたら、『MARLOWE』のプリンで一息、いかがでしょうか。

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キンヤ

小谷城② 本城尾根の中心部 (2023/04/08 訪問)

本城の西側斜面の遺構に続いて、本城の中心部を投稿させて頂きます。

御茶屋跡から最高所の山王丸まで曲輪が連なり見所満載です。

御馬屋敷そばの石垣で囲まれた馬洗池は今も水を湛えていて堀の役割もしていたと思われ、上の桜馬場から横矢が効いています。
首据石から長政が自刃した赤尾屋敷までの東側斜面は、以前より整備されており、いくつもの箇所で石垣を確認できましたので、写真を多めに添付します。
大広間南側の黒金門跡は両サイドに大きな石が用いられ、石段も残り威厳があってカッコいいです。
時期的に期待していた本丸・大広間の桜は残念ながら散ってしまっていましたが、本丸の石垣が立派です。
本丸背後と中丸の間は大堀切で完全に分断されています。本城の尾根では唯一見た堀切です。
山王丸の南側の石垣は崩されていますが巨石の荒々しい石垣で、南東下の大石垣は小谷城で最も良好に残された石垣で見事です。破城を受けていなければ、この大石垣のような石垣が更にあったのかもしれません。

改めて本城だけでも大規模で見応えがある素晴らしい山城だと思いました。

大嶽城や出城の続きは後日投稿させて頂きます。

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小荷駄

かるた 赤穂城の 読み札 (2023/04/10 訪問)

死角なし 横矢枡形 赤穂城




4月10日に赤穂城跡を散策してきたのですがその帰り道に思いついたので拙作ですが参加させて頂きます。

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キンヤ

小谷城① 本城の西側斜面の遺構 (2023/04/08 訪問)

4度目の小谷城ですが、今回は一般的にあまり知られていない本城の西下斜面の曲輪を巡り、本城尾根の中心部、更に大嶽城や山崎丸まで1日掛りで行きました。
見所が多過ぎるため、5回位に分け、まずは本城の西側斜面の遺構を投稿させて頂きます。

浅井氏三代の居城です。
1573年に羽柴秀吉が京極丸に攻め上がり、小丸の二代久政と本丸の三代長政の間を分断し、長政は赤尾屋敷で自刃し落城したとされます。

麓の歴史資料館から清水谷を通り、東側斜面に5本位の竪堀が見られました。
そして、秀吉が攻め上がったとされる清水谷の水ノ手から京極丸へ向けて谷筋の斜面を登りました。
中丸西下斜面の曲輪に石垣が1ヶ所、京極丸西下斜面の曲輪群に石垣が数ヶ所で見付かり、見事な石垣でした。
竪堀も3本位見られました。
※ 水ノ手からは本当にこんな所を攻め上がったのかと思うような険しい斜面で道も無く危険を伴いますので、充分な装備をされ複数人で登られる事をお勧めします。
京極丸を目指してましたが、北隣りの小丸に辿り着いたので移動し、秀吉が攻め上がって来た所ともされる京極丸西側曲輪の枡形虎口を見ました。

その後、本丸経由で虎御前山砦展望台まで一旦降りて西側へ廻り込んで、御馬屋敷・桜馬場西下斜面の5本位の竪堀群を通りました。
最初に見た清水谷まで竪堀が繋がっているようで、西側は長い竪堀を数多く掘って防御されたことがよく分かりました。
そこから上に登り大広間西下腰曲輪を通って北へ向かい、御局屋敷西下斜面で2段の石垣を確認できました。

これまで本城は主要部の重要な部分に石垣を用いた城と思っていましたが、西側斜面にも石垣が見られ、かなり石垣を取り入れた城造りである事が分かりました。

続きは、本城尾根の中心部として投稿させて頂きます。

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美夢

【かるた】熊本城の読み札

熊本城 復活待つよ 宇土櫓

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にのまる

天下取ってきた。 (2023/03/04 訪問)

3月唯一の連休は初・全国旅行支援利用で大阪方面8城巡りをしてきました。
1城目は山崎城。JR山崎駅で下車すると目の前に妙喜庵があってびっくりでした。いつかちゃんと予約して見学させていただきたいなと思いつつ、大山崎町歴史資料館に行くと原寸大の待庵が!こじんまりした資料館で撮影不可でしたが山崎の歴史が凝縮されていて、登城プロローグに行ってみてよかったです。

ふだんお城(特に山城)に出かけるときは、無事に行って戻ってこられるか、ちゃんと見どころを押さえられるかということで頭がいっぱいで「城攻めするぞ!」という気持ちで向かうことはほぼないのですが、登城口の「天王山登り口」の石柱を見ると、“ちょっと戦ってくるわ!”という気持ちになってきました。
アスファルトの坂道を5分ほど登ると第1チェックポイントの宝積寺。重文の三重塔を見て天王山に向けて登山開始です。そこそこゴツゴツした道を登っていくと旗立松展望台に着きました。「秀吉の道」の特大パネルに迎えられ、その世界へと導かれていきます。展望台から見渡す合戦の地。このあたりの地理に明るければもっとリアルにイメージできて盛り上がれるのでしょうが、方角も距離感も掴めないのでそこはちょっと難しかったです。

先へ進んで禁門の変十七烈士の墓へ。幕末の大事件。長州出身者として身近に感じなくもないのですが、思うことは戦は過去のものであってほしいということ。「義」の一字の重さと怖さを思います。

「秀吉の道」のパネルは『明智光秀の最期』まできました。自玉手祭来酒解神社(たまでよりまつりきたるさかとけじんじゃ)の重文神輿庫などを見学し、再び山道を登ります。
麓からは40分ほどで天王山山頂に到着しました。ついにパネルは『秀吉の「天下人への道」はここから始まった』へ。

山崎の戦いの翌年に秀吉が築いた山崎城は大坂城築城が本格化したため一年余りで破却されたとのこと。ひとつところに立ち止まらず過去に固執せず前向きで常に貪欲。好きか嫌いかは別にして、そういった秀吉のイメージがここでも感じられました。

標高270.4メートルの天王山山頂には、天守台、曲輪、土塁、井戸跡と城の名残を感じられる遺構があり「天下分け目の天王山」の幟旗の前で、“天下取ったどー!!”の気分に暫しの間浸ってきました。

下りは旗立の松あたりの分岐から登ってきたのとは別の道を下ってみると、予備知識も何もなかったのですが大山崎瓦窯跡公園(国史跡)に出て、テキトー旅に転がってきた出会いの楽しさを味わいました。
最後に駅前のデイリーヤマザキに寄って登頂証明書(100円)を購入しました。佐柿国吉城、茶臼山陣城に次いで3枚目です。達成の証として、また思い出にもなるので証明書を発行していただけるのはとてもうれしいです。

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侍ホリタン

2023年春桜の名城を訪ねて② (2023/03/30 訪問)

龍野城は鶏籠山山頂に築かれた山城で赤松氏4代の居城でしたが、秀吉軍を前に無血開城、以後豊臣配下の大名が城主となっています。江戸時代になると播磨の領主となった池田氏の領地となり龍野には城代が置かれました。その後も領主が移り代わり信州飯田より転封となった脇坂安政公によって鶏籠山の麓に御殿式の城郭が築かれました。これにともない山城は廃城となっています。
現在の龍野城は絵図を参考に木造、土塀で再建されたものですが、非常に良く整備されていて、特に城内に植えられた桜が満開になる頃の桜とお城のコラボは圧巻です。
訪問時は近くのたつの公園一帯の約3000本の桜がほぼ満開状態でした。龍野公園の無料駐車場から徒歩10分で龍野城へ到着、先ず目の前に現れた隅櫓を取り囲む様に咲き誇る桜は素晴らしかったです。通常版の御城印は完売でプレムアム版が龍野公園近くの「観光売店さくら路」さんで販売されていました(ただし龍野古城のものは販売されています)。

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侍ホリタン

2023年春桜の名城を訪ねて① (2023/03/25 訪問)

去年に続き2度目の訪問ですが、今回は桜目当ての訪問です。「日本さくら名所100選」に選定されていて、城跡一帯に約800本の桜が植えられています。3月24日から4月7日まで桜祭りが行われており沢山の屋台も出ていました。桜はまだ5分咲程度でしたが、天守台から眺める城跡一帯に咲き誇る桜の眺めは圧巻でした。

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todo94

2巡目の続日本100名城のスタンプラリー62城目 (2023/02/23 訪問)

山間の松平郷から山間の作手への移動はなかなか骨が折れます。少しずつですが、樹木が伐採され整備が進められているようで、昔に比べて見事に入り組んだ空堀がだいぶ見やすくなったような気がしています。

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ぎりょう

武田氏時代の雰囲気を感じる西曲輪 (2023/04/01 訪問)

甲府市・韮崎市訪問の三ヵ所目は躑躅ヶ崎館(武田氏館)跡を訪問。武田信虎、信玄、勝頼の三代にわたって武田氏の本拠地として使用された館である。天正九年に勝頼が韮崎市に新府城を築城して本拠地を移すが、武田氏滅亡後、文禄年間に甲府城が作られるまで再びこの館が領国経営の拠点となったという。その時期に南側に新しい曲輪が築かれ、大手筋の馬出が石垣造りの防塁に変わり、主曲輪の北西隅に天守台石垣(天守があった?)が築かれるなど大きく改変されたようだ。
館の構造は200m四方の主曲輪を中心にいくつかの曲輪を設けた構造だった。主曲輪は現在、信玄公を祀る武田神社として利用されており原状をとどめていない。今回は南側と北側に桝形虎口を設ける西曲輪とかつて丸馬出と三日月堀があったという大手筋を中心に見て回った。桝形虎口は規模・構造が新府城のものとよく似ており武田氏の築城技術の一端を感じることができた。また主曲輪と西曲輪を画する堀や北側の堀もよく残っており武田氏時代のイメージを伝えているようだ。
主曲輪、西曲輪の北側は現在も発掘調査が続いており、新しい発見や遺構整備に大いに期待したいものだ。

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【かるた】観音寺城の読み札

石造り 安土見下ろす 観音寺城

石垣は 安土に先立つ 観音寺城

安土城と山続きの繖山の観音寺城は、石垣において安土よりも早く、山頂も安土山より高いことを盛り込みたいが。

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にのまる

【かるた】甲府城の読み札

1)中央本線 北も南も 甲府城

2)富士拝み 城下見下ろす 甲府城

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にのまる

【かるた】武田氏館の読み札

60余年 武田氏三代 躑躅ケ崎を駆け抜けり

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にのまる

【かるた】八王子城の読み札

1)百世経て 日本遺産なり 八王子城

2)哀しみの 滝忘るまじ 八王子城

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にのまる

【かるた】江戸城の読み札

無血開城 グッジョブ江戸城

韻を踏んでみた!?

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ヒロケン

穴城 (2023/04/01 訪問)

小諸城は城下町、三の丸・二の丸・本丸と順に低くなっていることで、「穴城」と呼ばれる独特の構造でしたが、本丸の背後は千曲川が侵食した谷を天然の堀とし、鉄壁の守りを誇りました。
第一次・第二次上田合戦の折には、今に残る縄張りではありませんでしたが、江戸幕府二代将軍徳川秀忠公が本陣にしたことで有名です。
現在に残る縄張りにしたのは、豊臣秀吉公天下統一後、5万3千石で仙石久秀公が入城し、仙石久秀公・忠政公父子により近代的な城郭へと改修されました。今に残る大手門・三の門はこの頃建てられたものです。
明治維新を迎えると小諸城は廃城となりましたが、旧小諸藩士達の手により公園として整備され、懐古園と名付けられています。

小諸城へは二度目の訪問ですが、自分の小諸城のイメージとしては、雪だるまでしかありません。にのまるさんの「雪だるまを探せ」で懸命に雪だるまを探したことで、小諸城=雪だるまとなってしまいました"(-""-)"。勿論、小諸城の見所・時代背景ともに日本100名城に相応しい城郭なのですが"(-""-)"

この日、懐古園第一駐車場へ駐車し(日/400円・トイレ完備)、入城しようとしたが、開城前だったので、大手門・三の門を堪能し、三の門料金所へ、時間が早かったこともあり、暫し待機"(-""-)"待機していると、散歩されている皆さん方は料金所をスルーしそのまま城内へ入っていました。(児童遊園地込みで500円だったかな?)自分も、多少後ろめたさを感じましたが入城(; ・`д・´) 桜の満開には、1週間ほど早めでしたが、それでも城跡と合わせ十分に堪能できました。

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侍ホリタン

三木合戦の舞台となった名城を訪ねて (2023/04/09 訪問)

小寺氏の御着城、三木氏の英賀城と並んで播磨三大城の一つで、三木の干殺しと呼ばれる三木合戦の舞台として有名なお城です。当初織田方として毛利攻めを行う予定であった別所長治公は、突如反旗を翻し三木城に立て籠もり、周囲の支城もこれに同調します。これに対し織田氏の指揮官であった羽柴秀吉公は天正6年(1578年)3月29日より三木城の包囲開始、支城を攻略し補給路を断つ作戦を行いました。天正8年(1580年)1月、孤立した三木城内の食料がつき城主一族の切腹と引き換えに城兵の命を助ける条件で開城、1年10ヶ月に及ぶ篭城戦が終了しました。

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侍ホリタン

幻のキリシタン城を訪ねて (2023/04/08 訪問)

JR学園都市線野崎駅から徒歩15分、当時の遺構は残っておらず、城跡と推定される菅原神社鳥居付近に「三箇城趾」の石碑があるのみです。城主である三好長慶公の家臣三箇頼照公は家臣と共に洗礼を受けてキリシタンとなりました。その様子は宣教師フロイスによってヨーロッパにまで伝わっているとされています。本能寺の変時に明智光秀公についていた頼照公でしたが、山城の戦いで光秀公が敗れると領地を捨てて逃亡したと言われています。

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