【島津VS大友:最終決戦の城巡り】 (第5回)岡城合戦(その3)-鬼ヶ城①
(2022/09/21 訪問)
「岡城合戦(その2)-滑瀬橋」からの続きです。
ついに戦いは第3戦までもつれてきました。
志賀親次はキリシタンであり「ドン・パウロ」という先洗名を持っていました。キリシタンは義のためなら自らの命をも惜しまない、島津軍にとっては予想外の難敵となりました。
義弘の命で片ケ瀬の陣に戻った歳久ですが、やはりこのままではどうしても川を渡る事ができません。そこで、ならば逆に誘い出そうと親次にこう話を持ち掛けます。「城に籠るは臆病者のする事。正々堂々と城から出て我と戦おうではないか!」 ならば親次も誘いに乗ったふりをしてこう返事をします。「そなたもこのままでは川を渡れぬであろう。ならば案内を出し少し上流の渡れる場所を教える故、そこから川を渡られるがよい。渡った場所にある鬼ヶ城で我は待っておるゆえ、そこで戦おうではないか!」 兄の義弘はかつて木崎原の戦いで伊東氏を破り、弟の家久は沖田畷の戦いで龍造寺氏を破りそれぞれ名声を上げていました。そんな義弘・家久に比べ、兄弟の中では華々しい手柄がまだない歳久、故にこれは好機とこの誘いにまんまと乗ってしまいます。そして案内に従い渡れる場所まで行き、歳久6,000の軍勢が川を渡りきったその時、またも隠れていた志賀軍の鉄砲隊が一斉に射撃! 歳久はそこでだまされた事に気づき、命からがら逃げようとします。そこを志賀軍の騎馬隊がさらに追撃、歳久軍は名だたる武将級370をも討ち取られるという大損害を出してしまいました(志賀軍の損害はわずか50)。この失態を知った義弘はまたも大激怒! 急ぎ片ケ瀬へ戻りますが、そこに豊臣軍12万が豊前小倉に上陸したとの知らせが届き、死傷兵も増えていたところに義久からの撤退命令も届きます。よって義弘は岡城攻撃を断念し撤退する事にしました。こうして志賀親次は、3度に渡り島津軍を撃退し勝利したのでした!
まず川の橋から鬼ヶ城を眺めて見ました。歳久はこの川を右から左に渡ったようです(写真①-前回説明したダムが今度はこのすぐ下流にあるため現在は水量がとても多いですが当時は渡れるというくらいなのでもっと少なかったはずです。地図写真③)。
また遊びでイラストを作ってみました(写真②)こんな感じの戦だったのではないでしょうか?
島津義弘・歳久はここで撤退しますが、義弘は最後にこうつぶやきました。
「志賀親次は楠木正成の再来である」
この間に、四男の島津家久は佐伯氏の籠る栂牟礼城も退け、順調に進軍していました。そして、いよいよ大友家臣「利光宗魚」が籠る「鶴賀城」の攻略を開始します。
私も鶴賀城へ行く前に、もう少しだけ鬼ヶ城を歩いてから行く事にします(鬼ヶ城②へ続きます)。
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