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にのまる

畠山重忠古戦場めぐり(濃い目のバーター) (2023/02/03 訪問)

今井砦訪問のあとバスで二俣川駅に戻り、駅の行政サービスコーナーで「畠山重忠ゆかりの地マップ」をいただいてから電車で1駅の鶴ヶ峰に移動しました。
訪れたポイントは以下の6か所です。

① 首塚
二俣川付近で戦死したあと、首が祭られたといわれているところ。大通りから少し入ったところでした。
② 首洗い井戸
首塚のすぐ近くです。かつてこの場所に重忠公の首を洗い清めたといわれる井戸があったのだそうです。
③ 畠山重忠公碑・さかさ矢竹
没後750年を記念して出生地の埼玉県深谷市と終焉の地、鶴ヶ峰の有志によって建てられた碑だそうです。かつて繁茂していたさかさ矢竹は消滅してしまったため、現在みられるのは新たに植えられたものだということです。
④ 薬王寺・六ツ塚
重忠公をはじめ、一族郎党134騎を埋めたと伝えられているとのことで、お寺のまわりと道路をはさんだところに六基の塚がありました。薬王寺には重忠公の霊が祭られているそうです。
⑤ すずり石水跡
道路脇に標柱がありました。重忠公が鶴ヶ峰に陣をはった際にこの水で墨をすったと伝えられているとありました。
⑥ 駕籠塚
<武州鶴ヶ峰駕籠塚碑文>
『元久二年六月二十二日畠山重忠公ハ岳父北條時政ノ策謀ニ因り冤罪を被ムル
北條義時大軍ヲモッテ之ヲ迎撃セントス
重忠公一族百三十四士悉ク死ヲ決スルノ悲報秩父・菅谷ノ館ニ達ス
内室急遽北條に到ラントスルモ公既ニ戦死ス 悲嘆慟哭シ乗駕中殉ズ
駕籠塚ハ永ク其ノ霊ヲ弔ウテ今日ニ至ル』

「矢畑・越巻」と万騎が原の「重忠公遺烈碑」は行きませんでした。上記すべてまわっても1時間かかりませんでしたが、なかなかずっしり重く心にきました。
写真⑦がいただいたマップです。DL版もあります。
マップには、重忠最中・重忠銘茶・重忠まんじゅう、・重忠抹茶マドレーヌ・重忠クッキー・重忠あんぱん・重忠味噌・重忠いなり・重忠丼・重忠ジャムなどなど重忠ブランドのおいしそうなものもたくさん載っていました。

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ぴーかる

毛利元就生誕の地 (2023/02/12 訪問)

【鈴尾城】
<駐車場他>鈴尾城登山口休憩所に駐車可能
<交通手段>車

<見所>堀切・切岸
<感想>1泊2日安芸高田の山城攻めの旅6城目。鈴尾城は別名福原城とも呼ばれ福原氏の居城でした。現地説明板によると、南北朝時代の1381年に毛利元春の5男広世が長井姓から福原村を与えられ福原姓に改姓しこの地に築城しました。第8代福原広俊の娘は毛利弘元の妻となり長男興元、次男の元就が誕生します。なので毛利元就は母の里であるこの城で誕生したとされます。福原氏は毛利家の重臣として毛利家を支えますが関ケ原後に毛利家の萩移封と共に福原家も移転し鈴尾城は廃城となります。
 登山口から少し登ると福原氏居館跡の削平地、毛利元就誕生地碑があります。そこを通りつづら折りを登ります。折れの途中から北方向に山に入り込むと2重堀切があります。戻って再び登山道を登り、段曲輪の最下段に入ります。曲輪を突っ切って先の奥に石組井戸が残ります。井戸の更に奥に進んで行くと広い曲輪があるようなのですが倒木と道がロストしていて断念しました。段曲輪の最下段に戻り4段程の曲輪の上が主郭になります。主郭には段曲輪と長方形の腰曲輪1つ、舌状の腰曲輪が2つ付いています。主郭は狭く小さく段状になっています。石積み跡のような石列も残っています。主郭南側にも大堀切と小さな曲輪、連続堀切になっていて斜面の中腹から回り込んでアタックしましたが斜面がきつく断念しました。全攻略ができず難しい城跡でした。

<満足度>◆◆◇

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朝田 辰兵衛

戸吹トンネルを通過する選択は間違いだった… (2023/02/25 訪問)

JR秋川駅から徒歩で目指しました。途中,ショートカット目的で戸吹トンネルを通過。次第に具合が悪くなり,頭痛がし始めました。
トンネルを抜けて左に行かなければいけないところ,ボーっとしたまま右へ行ってしまうという大失態。気がつけば,明大中野八王子中学校・高校の裏山に登っていました。
尾根がつながっていれば下山しなくていいな…と思いましたが「この城はたしか崩落部があったな…」と思い,変なところにアクセスしても困るので登り直しました。
すでに夕方近く空はどんよりとし,風が強くなってきました。頭もまだスッキリとしなかったので,八幡社の北側空堀よりさらに北進することは控えました。遠景写真も失敗…<泣>。
東尾根ピークは眺望が開けていたので,物見や狼煙台として有効だったのではないかと思いました。

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侍ホリタン

五重の層塔型天守が存在した名城を訪ねて (2022/08/18 訪問)

明智光秀公が丹波攻略の拠点として築城したのが始まりです。徳川政権下で天領となり藤堂高虎公の縄張りによる天下普請が行われました。この時今治城の天守が移築されています。その後天守は明治政府の廃城令が出されるまで存続することになります。
JR亀岡駅を出てまっすぐ進むと数分で明智光秀公の銅像がある南郷公園に着きます。 そこから徒歩10分程度で受付事務所、事務所で拝観料を払い、拝観の説明を受けてからの見学となります。敷地内全体が宗教法人の所有地なので見学範囲が限られてます。天守石垣は見学できますが天守跡には入れません。

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WEST

宇都宮城址探訪 (2023/03/02 訪問)

宇都宮城址公園を訪問しました。
残念ながら戊辰戦争等で往時の建物は残っていませんが、土塁、櫓、堀等が復元整備されていました。

2つの櫓、清明台と富士見櫓は内部も見学ができ、往時の雰囲気を味わうことができます。
ちょうど桜の開花の時期であり、梅越しに見る櫓も良いものです。

公園の土塁下に「宇都宮城ものしり館」が常設されており、展示やボランティアの方の説明があり、事前に覗いてみると前知識が得られると思います。

自動車で訪問される方は、市役所の駐車場を無料で利用でき大変便利です。また、パンフレットも用意されています。

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イオ

丸毛兼利推し (2023/02/04 訪問)

室町中期に土岐氏家臣の福束益行が築き、その後は丸毛氏代々の居城となりましたが、関ケ原の戦いでは丸毛兼利が西軍についたことで松ノ木城の徳永寿昌や今尾城の市橋長勝ら東軍の攻撃を受け(福束城の戦い)、大垣城に逃れ、戦後に廃城となりました。

揖斐川に複数の支流(水門川、牧田川、相川)が合流する舟運の要衝に築かれた平城でしたが、木曽三川分流工事により遺構は消滅しており、福束城に隣接していたとされる福満寺(分流工事により現在地に移転)に「丸毛兼利と関ケ原の戦い」の説明板が立てられているくらいです。また、福満寺から東に約3.7kmには、福束城の戦いでの両軍の死者を埋葬した北塚(と説明板)があります。

…と、見るべきものは限られているものの、輪之内町では大いに福束城と丸毛兼利推しで、町立図書館内の歴史資料館には福束城のコーナーが設けられ、パネルやジオラマ、福満寺に伝わる福束城跡が描かれた版木(複製)が展示されています。さらには丸毛兼利を主人公とするアニメ「丸毛戦記」制作に、先日開催された第3回丸毛サミットも盛況だったようで、かなりの力の入れようです。かく言う私も、丸毛サミットにあわせて輪中の城めぐりをするつもりだったのが、当日に別用が入ったためにわざわざ半月繰り上げて訪れるなど、輪之内町にうまく乗せられている気もします(笑)
 

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todo94

京阪沿線③ (2023/02/18 訪問)

願得寺がその故地とのことですが、城に関する表示はありませんでした。願得寺境内山門横に「天雨華」てんうけ というアート作品が設置されていました。「天雨華」のリーフレットも頂いてきました。

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ぴーかる

桂城 (2023/02/12 訪問)

【桂城】
<駐車場他>駐車場はなし。ごみステーションのある道路脇<34.631842, 132.649698>に駐車しました。
<交通手段>車

<見所>堀切・竪堀・切岸
<感想>1泊2日安芸高田の山城攻めの旅5城目。桂城の築城は戦国時代初めに桂広澄によって築城されました。桂氏は毛利家の庶家である坂氏の分家で桂広澄が坂氏の嫡流でしたが分家して桂氏を興しました。やがて本家の坂氏が毛利元就に謀反し尼子氏に通じた為に広澄は責任を取り自刃します。無実であった為に毛利元就は子の元澄をそのまま宿老として一族を存続させます。関ヶ原後に城は廃城となります。桂氏の末裔は桂小五郎(木戸孝允)や桂太郎(内閣総理大臣)を輩出します。
 桂城は独立した山に築かれており、山の尾根上に沿って曲輪が築かれた連郭式の山城です。大きく西の城・中の城・東の城に分かれています。登城口(国道から案内あり)からの案内に登っていくと中の城に着きます。中の城は西と東の城を繋ぐような役割があったようで尾根上を比較的広く削って削平地にして堀切で仕切っています。
 先に西の城に行きました。中の城の尾根上から行くと主郭手前の堀切を渡り切岸を登るとまず主郭に入ります。主郭から西側と北側に段曲輪が多く派生しています。北側斜面には竪堀と堀切が入り乱れて凄い見応えがあります。主郭南側に土塁があります。
 東の城は西の城より比高が高い位置にあります。ここも尾根上から行くと主郭に入り込みます。東の城の主郭は広いです。主郭から北東方向に段曲輪が3段程伸びています。段の高さが非常にあり、堀切で仕切り非常に見応えがあります。
 下山し最後に桂広澄公墓所にお参りしました。城跡の広さとダイナミックな遺構で堪能しました。いい城跡です。

<満足度>◆◆◆

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小城小次郎

防御思想が永世中立国のそれみたいだ (2022/11/10 訪問)

世田谷城の支城とされ旗本服部氏の陣屋もあったが正確な場所はわからず六所神社のあたりと推測されている。それにしても世田谷吉良氏の支城群はやたらと密で、その防御姿勢はさながら永世中立国のそれと似ているような気がする。

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城巡り500城

素晴らしい土のお城です (2023/03/05 訪問)

地元の方の努力で維持されている素晴らしいまだまだ未開発な土の城です(これが良いです)規模もなかなかのものです、まだまだ分からないところもあるようです、東京からなら半日コースですぜひ訪れてみては!

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赤い城

尾附城 群馬県多野郡神流町 (2023/02/25 訪問)

ドコモの鉄塔横に1台分の駐車スペースがあります。
ここから登ります。
一応神社の参道で石段にはなっているもののほぼ直登状態。
石段の体をなしていません。
登ったところが主郭で神社が建っています。
ここから東西へ尾根上に展開しています。
まずは西側の二郭側、堀切があります。
ここの地盤は脆く、崩れやすい感じです。
戻って東側に。
こちらにも深い堀切があります。
この尾根の両サイドは急な崖で落ちたらひとたまりもありません。
ちょっと恐怖を感じました。
秩父からも峠越えでアクセスも難しいエリアかと思います。
おすすめか、と聞かれると微妙ですが悪くは無い城かと思います。

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イオ

竹藪の中の内堀 (2023/02/04 訪問)

室町中期に高木氏が築いたとされますが、詳細は不明です。関ケ原の戦いの際には高木正家の居城でしたが、西軍についたことで松ノ木城の徳永寿昌や今尾城の市橋長勝ら東軍に攻められて落城し、廃城となりました。

城跡は本慶寺になっていて、来客用駐車場に車を駐めて登城開始。本慶寺の門前には津屋城跡の石碑と説明板が立てられており、山門は津屋城城門の移築と伝わります。説明板によれば、山門をくぐった本堂が建つあたりが二の曲輪で、南辺に土塁が続いています。本堂の奥の一段高いあたりが一の曲輪で、奥へ通じる門はあったものの、スズメバチ注意の表示に加えて鍵がかけられていたため断念しました。
山門を出て南側に回り込むと、南辺の土塁の外側に内堀がある…にはあるんですが、竹藪と化していてよくわかりません。それでも何とか突入できそうな箇所から竹藪に入ると突入箇所は土橋状になっていて、その両側に内堀が続いているのが確認できました。とはいえ、倒竹が激しかったのでそれ以上は踏み込めず、撮った写真も我ながらただの竹藪にしか見えませんが…。
 

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じゅんじん

長野氏 (2022/12/30 訪問)

鎌倉殿の13人で登場の子供が三重に土着。主郭はそれなりの広さでした。

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赤い城

ひたすら登ってひたすら下る (2023/02/25 訪問)

宇賀神社の奥宮から登って行きます。
駐車場もあります。
まずは尾根道があるのでひたすら登って行きます。
15分くらいで広い削平地に着きます。
ここが北曲輪のようです。
さらに登って行きますがここからは道はなくひたすら上を目指します。
北曲輪から15分くらいで段になった曲輪に。
その先が主郭、さらに南の高い位置に鐘撞場があります。
ここが主郭だったのかもしれません。
南と西に尾根が伸びています。
登った割には遺構は今一つ。
なのでわざわざ登ることも無いと思います。
長尾景春の乱で太田道灌に攻められた景春が築いたとされていますが詳細は不明です。
他のサイトでも「帰りに注意」とあるように目印を見つけておかないと遭難の危険性あり。
GPS利用、もしくは目印を見つけながら登ることをおすすめします。

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じゅんじん

城山公園 (2022/10/22 訪問)

鹿島神宮の向かいの山になります。駐車場も完備。桜が咲くときれいだろうな。

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じゅんじん

飯沼観音 (2022/10/22 訪問)

お城はこのあたりだったかも。

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じゅんじん

5年ぶり (2022/10/09 訪問)

自転車トレではよく走っていますが訪れたのは5年ぶり。今年は混んでるだろうな。

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ぴーかる

駿河丸城 (2023/02/11 訪問)

【駿河丸城】
<駐車場他>駐車場はなし。<34.778558, 132.463038>道路脇に駐車しました。
<交通手段>車

<見所>土塁
<感想>1泊2日安芸高田の山城攻めの旅4城目。現地説明板によると駿河丸城は鎌倉時代末期に1313年に駿河国から下向した吉川経高が築いた城で南北朝時代に小倉山城を築くまでの約70年間居城とした城です。しかし裏付け資料が乏しいようで平家丸城との別名もあるようです。
 城跡入口は<34.777012, 132.460428>にあり、進入口に説明板があります。とあるさんの投稿に馬蹄形城の城跡という表現通り、主郭と二郭がアーチ状の曲輪になっています。主郭と二郭の鞍部から進入しますが積雪がすごくて二郭の切岸をよじ登りました。二郭と主郭の間は小さい堀切があり、城跡背後は谷(雪が多くて多分ですが)になっています。主郭は2段状になっていて、主郭が上段で片側に土居が残ります。小さい城跡で良かった、雪でもなんとか観れました。

<満足度>◆◆◇

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朝田 辰兵衛

ここでの🗻眺望は必須と考えてました。 (2023/02/25 訪問)

ずっとこの日の天気予報は晴れでした。ここでの🗻眺望は必須だろうと。
甲府駅南口4番乗り場から,一高経由韮崎駅行き(8:30発)に乗車し「塩部」バス停下車。ここから(登城口の)緑が丘スポーツ公園を目指しました。
天気が良かったせいか,年齢を問わず多くの登山者が訪れてました。たぶん登城目的は私一人だったと思います。
御坂城攻城のすぐ翌日とあってか,ここの堀跡は子供だましぐらいにしか感じず…。

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ホリタカ

車で出丸まで行けるのです (2023/03/04 訪問)

城下町では「女城主」で有名な岩村醸造がイベント開催中で大盛況でした。麓の資料館でスタンプ押して登城。道程の6割はひたすら急坂を登る感じです。ようやく頂上に着いたら、車を出してくれた友人は、一足先に頂上の出丸に車を停めて出迎えてくれました。

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