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もふもっふ

みかんが食べたくなりました。 (2021/11/29 訪問)

半年以上前の訪問記録です。

朝早くに駿府城公園を訪れました。
まだ人が多くなく気持ちのよい公園でした。
発掘調査を外から見ることもできましたし、9時になったら中に入る事もできました。
石垣に藩の印があったりと、この掘った人はどんな思いで掘ったのかすごく気になりました。

発掘所を見て帰る際に、徳川家康公の植えたとされるミカンがありました。
訪問した時期にはたくさん実がなっていて、昔はどんな人がこれを食べていたのかなぁー、たべたいなーって気持ちになりました。。。
また関係ないですが、新幹線に乗っても赤いネットに入ったみかんがないなーって思いながらも見てました。。

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カズサン

高遠コヒガンサクラ満開の探訪 (2005/04/17 訪問)

 高遠城は軍師山本勘助の縄張と伝えられる山城でもあり、南河岸段丘の崖で三峰川に落込み南堅固の城郭、本丸を二の丸、三の丸が取囲む城郭です、城主としては武田勝頼が有名です、、織田と武田の天正10年2月攻防戦は有名ですが数千の将兵が討取られています、武田滅亡後の6月には本能寺の変で織田信長、高遠城攻めの総大将織田信忠も自刃し高遠攻めから4ヶ月後の事でした。
 関ヶ原後は保科氏が返り咲き、保科正光が秀忠三男正之を養子で迎え、正之は山形城主、会津若松城主となり会津で明治まで継承しますが戊辰戦争の悲劇を会津は迎えます。

 高遠城には二三回訪ねていますが、17年前の今回平成17年4月中旬、町内会のシニアー有志の集まりで観光バスを貸切、日帰り温泉と高遠城コヒガンサクラ花見と出掛けました。
 当日、コヒガンサクラは満開で観光バス駐車場も満車、人は混み合うほどの人・人の賑わい、桜満開と人の混雑で、高遠城の遺構は中々撮れず、高遠コヒガンサクラに目が行き、城郭投稿と言うより花見投稿と成って仕舞いました。ご了承ください。
 また南側200~300mの所に絵島生島事件の絵島囲い屋敷が復元され観光名所に成って居ります。
 

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もふもっふ

お城に行く事になった最初のきっかけです (2021/12/05 訪問)

半年以上前の訪問です。

お城に興味を持ちだしたきっかけです。なのでまだあまり写真はとっていない時期です。
ゲームから始まっています。それまでのお城のイメージは天守閣がおっきくあるイメージでしたが
城跡など場所だけが残っているのも初めてみました。
その場に何がどんな風にあったんだろうと想像するきっかけにもなりました。
周辺には国立博物館があり、上野にならぶ国立博物館です。
ゆっくりみるとかなり時間が必要ですが、貴重な資料やご当地お祭りなど色々展示してありました。
時間があればぜひ見てみてください。
因みに佐倉は医学が有名です。(長嶋茂雄さんが一番かもですが・・・)
順天堂記念館などありますのでそちらも足を延ばしてみてください。
某ドラマの撮影現場などもありますよ。

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イオ

とことん江戸城(市ヶ谷門) (2022/06/24 訪問)

(続き)

出張3日目の朝、のんびり寝ていたい気持ちもありますが、ここまで来たら外郭もめぐり尽くしたい、ということで、疲れた体に鞭打って5時に起き5時半にホテルを出て、東京メトロ南北線で市ヶ谷駅へ。市ヶ谷駅の南北線コンコース(改札内)には江戸歴史散歩コーナーが設けられていて、雉子橋から出土した石垣や南北線の工事に伴う発掘調査の成果などが展示されています。

市ヶ谷門は現在の市ヶ谷駅交差点あたりにあり、市ヶ谷濠と新見附濠を隔てる土橋が市ヶ谷門に続いていました。新見附濠側の釣り堀の駐車場からは土橋土台部分の石垣が見られる…んですが、まだゲートが閉まっている時間だったので遠目に眺めるだけでした。市ヶ谷門の枡形は撤去されていますが、市ケ谷見付交番裏手の公園に市ヶ谷門櫓台の石垣と説明板が設置されています。

公園から遊歩道になっている新見附濠沿いの土塁上を牛込門に向かいます(続く)。
 

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昌官忠

2022夏の青春18キップ11日目:野尻城 (2022/07/30 訪問)

桑山城からの転戦です。徳仁寺山門説明板前(36.603252、136.913804)に駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、 城主は木曽義仲と共に平家と戦った在地豪族・野尻氏と見られています。
野尻氏は藤原利仁の後裔である斎藤氏の流れを汲むとされますが、古代の在地領主で越中国司も務めた利波臣の後裔とする説もあるようです。
少なくとも中世に越中国砺波郡で勢力を誇った石黒氏を始め井口氏や宮崎氏等と同族と考えられているようです。 
野尻氏は1183年(寿永2年)倶利伽羅合戦に参加しました。
正平年間(1346年~70年)には南朝方の有力者だった越中守護・桃井直常が越中国庄ノ城(壇城)を拠点として周辺を支配すると、野尻氏は井口氏らと共に直常の配下となり各地を転戦し、野尻城は庄ノ城の支城として機能したようです。
南北朝時代には南朝方の桃井直常の拠点の一つで、1362年(正平17年)と1369年(正平24年)に北朝方の斯波氏の攻撃を受けています。
1481年(文明13年)一向一揆に攻められ城主は降伏して落城しました。
その後は一向一揆勢力下にあった様で、廃城年代は戦国時代後期と思われています。

城址は徳仁寺境内で、山門左に大きな「野尻城址」の石碑と説明板が建てられていますが、遺構はありません。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=寺家新屋敷館に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ11日目:桑山城 (2022/07/30 訪問)

御峰城からの転戦です。林道入口(36.575530、136.864607)に着きました。

築城年代は定かではないようです。
文明年間(1469年〜1487年)頃には石黒氏の支城として坊坂四郎左衛門が城主でしたが、故あって城を追われたそうです。
1481年(文明13年)山田川で福満城主石黒右近光義並びに医王山惣海寺の宗徒が、井波瑞泉寺の一向宗徒と戦います。
この合戦で桑山城主であった坊坂四郎は、加賀衆に荷担して医王山と福光城に火を放ち、これによって石黒氏は滅亡したそうです。

時間の都合(到着予定時間を大幅に超過)で林道入口で引き返しました
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=野尻城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ11日目:御峰城 (2022/07/30 訪問)

安養寺城からの転戦です。御坊と砦分岐点空スペース(36.578265、136.806198)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、天正年間(1573年〜1592年)に佐々成政によって築かれました。
1584年(天正12年)〜翌1585(天正13年)にかけて前田利家との争いの中で、国境を防御する為の支城として稗田善助・青木孫右衛門が置かれたそうです。
しかし、その後の戦局の変化(豊臣秀吉との直接対決が不可避となり、佐々軍は兵力を集中させ敵を領内で迎え撃つ戦術へと移行した)に伴って放棄されたようです。

近所の方から危険だから「御峰城(土山砦)」には行かない方がいいと言われ登城は諦め、土山御坊跡の見学のみにしました。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=桑山城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ11日目:安養寺城 (2022/07/30 訪問)

蓮沼城からの転戦です。石碑と説明板前(36.630004、136.834686)に路駐しました。

1519年(永正16年)勝興寺によって築かれました。 勝興寺は1471年(文明3年)に蓮如上人の次男蓮乗が土山御坊(福光町土山)を開いたことが起源のようです。
1494年(明応3年)高木場御坊に移り、火災のため、1519年(永正16年)安養寺御坊に移りました。
1572年(元亀3年)加賀一向一揆が蜂起します。勝興寺もこれに呼応して蜂起し、加賀勢と共に越中富山城を落城させて神通川以西を一時的に制圧するも、謙信に敗れて富山城を奪回されました。この蜂起には武田信玄の要請という側面も有るようです。
1575年(天正13年)謙信が越中を攻略し、勝興寺は和睦しました。1581年(天正9年)当時の住職顕幸が石山合戦に出陣中、木舟城主・石黒左近に攻められ焼失しました。
1584年(天正12年)佐々成政は守山城主・神保氏張を通して、古国府城の地を勝興寺に寄進し、再建されました。

遺構はありませんが、「御堂屋敷」と呼ばれる地の一角に安養寺御坊跡の石碑と説明板が建てられています。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=御峰城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ11日目:蓮沼城 (2022/07/30 訪問)

源氏ヶ嶺城からの転戦です。石碑説明板前(36.654869、136.857690)に路駐しました。

築城年代は定かではないようですが、永享年間(1429年〜1441年)に遊佐氏によって築かれたと云われています。 遊佐氏は越中国守護畠山氏の重臣で礪波郡の守護代を務めました。
永正・大永年間(1504~28年)城主遊佐新右衛門慶親が埴生護国八幡宮に108段の石段を寄進しましたが、この後、慶親は加賀一向一揆勢力の圧迫に抗しきれず越後に亡命しました。
その後は、一向一揆勢力の支配下に置かれた云われています。また、一向一揆と敵対関係にあった木舟城主石黒氏が一時期支配下に置いていたともいいます。
1569年(永禄12年)以降、上杉謙信により松倉城を追われ礪波郡の一向一揆勢力に合流していた椎名康胤が拠っていたようです。
1576年(天正4年)上杉謙信に攻められて落城し、康胤は敢え無く敗死したようですが、康胤終焉の地については諸説あるそうです。
天正年間(1573年〜1592年)に越中に入部した佐々成政は家臣を蓮沼城に入れて拠点としていたが、1585年(天正13年)佐々成政と対立していた前田利家の軍勢が蓮沼城を攻めて落としています。

蓮沼城は現在の蓮沼公民館の近くに築かれていたようです。
石垣の上に城址碑と説明板が建てられています。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=安養寺城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ11日目:源氏ヶ嶺城 (2022/07/30 訪問)

一乗寺城からの転戦です。登り口付近(36.656544、136.824021)に路駐しました。

詳細は不明のようです。 源氏ヶ嶺の名の由来は1183年(寿永2年)の源平合戦に由来するものですが、現在残っている城の縄張りは戦国時代のもので、佐々成政によるものと推測されています。
1585年(天正13年)富山の役までには放棄されたようです。

倶利伽羅峠から続く車道脇に登り口があり、案内板が建てられています。
登るとすぐ、展望台が建てられていおり、そこから「くりから古戦場跡」や地獄谷が望めるようですが、テープが張ってあり登れません。
遊歩道が設けられ数分で山頂に着きます。最高所に「源氏が嶺」の石碑が建てられています。
攻城時間は25分くらいでした。次の攻城先=蓮沼城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ11日目:一乗寺城 (2022/07/30 訪問)

松根城からの転戦です。石碑前空スペース(36.637319、136.801241)に駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、1369年(応安2年・正平24年)室町幕府に反抗した桃井直常方の軍勢が立て籠もっていた一乗之城を、幕府方の吉見氏が攻め落としたことが知られています。
1584年(天正12年)佐々成政が前田利家に対する備えとして、家臣杉山小助を配置して越中国源氏ヶ峰城、加賀国松根城、加賀国荒山城 (金沢市荒山)などと共に大改修を施しました。
1584年(天正12年)佐々成政は一乗寺城から「田近道」を通って加賀国朝日山城へと攻め込むも撃退され、末森城の戦いの後には、逆に朝日山城に拠っていた利家の重臣・村井長頼に攻められ落城しました。
村井長頼は後に、同じく攻略した加賀国松根城を本城とし一乗寺城を支城として管理しましたが、前田家が加賀国と越中国を治めてしまっている為に軍事的価値が無く、さほど時を置かずして廃城となったようです。

遊歩道が設けられています。主郭は山頂にあり、西側に向かって二の丸、三の丸と土橋を残して南北に空堀があります。
四郭北側の堀切は大きく、城塁はとても登れません。
攻城時間は25分くらいでした。次の攻城先=源氏ヶ嶺城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ11日目:松根城 (2022/07/30 訪問)

切山城からの転戦です。城址公園分岐点(36.614466、136.782986)を左側へ進めば駐車場が有ります。広い道はゴルフ場に行きます。

築城年代は定かではないようですが、1183年(寿永2年)に木曽義仲が陣を張ったと伝えられています。
正平年間(南朝暦1346~70年)桃井直和が城主となり、一乗寺城を管理下に置きました。
1369年(応安2年)桃井直和が加賀国守護富樫昌家の居城である富樫城を攻めるも吉見氏の援軍により一乗寺城は落城し、直和は越中国千代ヶ様城へ退却しました。直和はこの翌年、斯波義将の軍勢と交戦し敗死しています。
1488年(長享2年)に一向一揆衆徒の城となり、1550年(天文19年)には一向一揆衆の洲崎兵庫が城主となりましたが、織田信長が一向一揆を平定し、織田氏の属城となります。
1584年(天正12年)前田利家と敵対した佐々成政が家臣杉山隆重を置いていましたが、前田利家の家臣・村井長頼に攻略され、村井長頼の本城となり一乗寺城は支城となりました。
1615年(慶長20年)の一国一城令により廃城となりました。

現在、城跡は公園として遊歩道が整備されています。三の丸より北側は草が深いですが、その他は草が刈られており見学し易かったです。
本丸東側の横堀は郭4から本丸方面まで続いており見ごたえあります。
登城口や本丸跡に「松根城址」の石碑が建てられ、説明板があります。
攻城時間は25分くらいでした。次の攻城先=一乗寺城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ11日目:切山城 (2022/07/30 訪問)

宿泊先のホテルルートイン美川インターから、国道304号線の堀切町方面進入口(36.596952、136.742641)から進入し、この地点(36.603491、136.748303)から林道に進入しました。
林道を進むと案内板(36.601145、136.745908)があり、付近に駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、天正年間(1573年〜1592年)に築かれたと云われ、城主は不破彦三直光と伝えられています。

東側と西側から林道があるようですが、東の林道が舗装されており距離も短いという事前情報より、東側の林道から進入しました。
主郭は土塁が巡っており、東側と西側に虎口があり、東側の虎口には土橋があります。
主郭の北側と西側に堀切、東側に竪堀が確認できます。
写真はたくさん撮りましたが、ピンボケ写真が多く、とても投稿できません。
攻城時間は30分くらいでした。次の攻城先=松根城に向かいます。

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肉球

一回りしてみました (2022/08/23 訪問)

大半が河川工事のため消滅しています。が
諏訪曲輪には武家屋敷が残り土塁を確認することが出来ます。
町中にあるお休み処坂長に袖蔵と文庫蔵があり、どちらも中を見学することが出来ます。
画像掲載していませんが福法寺に古河城乾門、正定寺には古河藩江戸下屋敷表門が移築されています。 
お城北西部にあたる観音寺曲輪の土塁も頼政神社付近で確認できます。
ここから本丸跡の案内板まで土手を歩きましたが結構遠く感じました。
案内板の縄張り図を見ると土手脇に建つ住宅は三の丸の東端になるのではと希望的な観測。
そのほか桜町曲輪の獅子ヶ崎土塁、その向かいにある長屋門が見どころです。
加須市内の民家に裏門が移築されていますが道路から撮りました。裏門とはどこの門かは?です。
無料の駐車場も歴史博物館付近にあります。

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小城小次郎

なるほど古いのかも (2022/02/23 訪問)

松平氏初代・親氏による築城との伝承も残り松平郷城館群として国史跡にも指定された古いお城。現地に立った際の直観ではあまり古くは見えなかったが文章をまとめているうちになるほどたしかに古いかもという気持ちになってきた。

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赤い城

新善光寺と龍泉院 (2022/07/30 訪問)

城跡はほとんどが畑や住宅地になっています。
新善光寺に説明板が立っています。
お寺の前に小川が流れています。
堀だったのでしょうか。
奥の墓地の外側には堀も残ります。
場所を移動し龍泉院。
この辺りが主郭だったのでしょうか。
ここの墓地横にも堀と土塁が残ります。
時期的に藪でしたが。
小貝川と観音川に挟まれた常陸名物湿地帯の城。
結城成朝が築きましたが戦国時代には結城氏と小田氏が争いました。
周辺を歩くと他にも遺構があるかもしれませんね。

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朝田 辰兵衛

ゆるやかコースで。 (2020/08/08 訪問)

この日は体調が悪く,かなり体が重く感じました。登城道はゴツゴツとした岩場が多いということもあり,ゆるやかコースをチョイス。
眺望のことを考えると,もう少し天候が良ければ…って思いました。

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Red☆53

残る空堀見事! (2022/08/20 訪問)

コロナ禍…久しぶりに人出の少なそうな城(失礼)を選んで出かけてみました。

本丸跡が城址公園になっています。土塁や堀などの遺構が見事に残っていて見応えがあります。二の丸跡には「さくら市ミュージアム」があります。
ただ…残念ながら「さくら市ミュージアム」は9月16日(金)まで休館です(訪ねられる方、ご注意ください)。
入館できずとても残念でした。
この時期、防虫剤をお忘れなく🤗
林の中ですから虫が多いです。

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肉球

礼羽館・設楽氏陣屋 埼玉県加須市礼羽 (2022/08/23 訪問)

城びと未登録の伝承地です。
住宅街に建つ伝承礼羽館の標柱には
吾妻鏡によると建保元年(1213年)五月二日に和田義盛が挙兵し鎌倉幕府を襲撃しました。義盛の三男義秀の乱入を防ごうとして義秀に討たれた武士の中に礼羽氏の礼羽蓮乗の名がみえます。礼羽には番場、早道場、沖坊など礼羽氏に関する地名がみられます。このあたりには礼羽氏の館があったとされるところと古くからの言い伝えられています。礼羽氏が館を構えたのでその地名がついたのか地名をとってその姓にしたのかは不明ですが礼羽氏とこの地は深い関わりがあります。
と記されています。
礼羽氏の標柱から東へ30メートルのところには設楽氏の陣屋跡の標柱があり
約400年前、徳川家康に従って江戸入りをした旗本、設楽甚三郎貞清は、加須・礼羽・馬内・戸崎の旧四ヶ村を賜りました。低湿地だった旧四ヶ村は文禄三年(1594)に利根川を東に流す大工事の結果、水田として開発され以降、明治になるまで設楽家の知行地となっていました。設楽家は江戸に屋敷を持ち、年貢徴収などの領地支配のため、加須のこの地に陣屋を置きました。設楽家累代の墓地は市内馬内の香積寺にあります。
と記されています。
どちらも伝承とされていますので確定された場所ではないようです。

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おっちゃん

小浜宿歴史散策マップ (2017/07/30 訪問)

現地案内板より抜粋

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