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higekam

越前朝倉氏の末路 (2020/09/26 訪問)

朝倉氏が若狭武田氏を侵略する際の拠点となった城。本丸を固める堀、石垣は見事だ。

しかし、訪問した目的は朝倉氏が滅亡した道をたどるため。
小谷城救援の第二回目の派兵では信長に奇襲され朝倉義景は戦線離脱を決意して一乗谷へと帰路をとる。が、刀根坂で信長の軍勢に追いつかれ大敗北、義景は命からがらこの疋田城に駈込み一夜を明かしたという。
この城を訪れ、この時の義景に思いを馳せた。この後、義景が一乗谷へ帰国するため越えた木ノ芽峠へも足を運ぶ。峠をはさんで複数の砦もあったが、すでにわずかの兵しかなく帰路を急ぐ他しかなかったようだ。

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kazu

■黒田官兵衛(如水)が築き、家康の末裔が引き継いだ「中津城」 (2021/06/23 訪問)

「官兵衛は中津城を手掛けるものの、完成させることなく慶長5(1600)年、黒田家は筑前、つまり福岡に転封(てんぽう)、国替えになります。
築城、修復を繰り返しながら形を整え、徳川家とゆかりの深い奥平家が維新までの約150年、中津藩主とこの地を納めました。
堀には海水が引き込まれているため、水城(海城)ともされ、今治城・高松城と並ぶ日本三大水城の一つに数えられるそう!
本丸上段北面石垣(模擬天守北面下)は、黒田家の石垣に細川家が石垣を継いだ境が見られます!
黒田は戦乱の時代に本丸にふさわしい堅固な石垣(右)を組んだのに対し、
細川は平和時に加工していない自然石(左)を使い合理的に石組みを行った。

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kazu

鶴が羽を広げたように見える優美な唐津城(からつじょう) (2021/06/25 訪問)

東西に伸びる松原が両翼を広げた鶴のように見えることから、別名「舞鶴城」と呼ばれています。
唐津城は、豊臣秀吉の家臣“寺沢志摩守広高”が慶長7年(1602年)から7ヶ年の歳月を費やして完成したと伝えられています。
現在の天守閣は昭和41年に完成したものです。
*海沿いの石垣「唐津城」 海から直接そびえる石垣
*虹の松原と海のコントラスト!国の特別名勝で、「日本三大松原」の一つ。(静岡:三保の松原、福井:気比の松原)
 長さ約4.5km、幅約500mの松原が虹のように弧を描く!江戸時代のはじめ、初代の唐津藩主であった寺沢広高が防砂や防風のために、    植林をしたのがはじまりだそう。

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こまぴょん

城びと川柳

今回の城びと川柳で、作った川柳の一作が入賞に選ばれました😊
とても嬉しいです🥰
有難う御座いました🙇

次回開催も楽しみにしております。

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イオ

博労淵砦(大阪市西区立売堀) (2021/08/15 訪問)

博労淵砦(城びと未登録・伯楽淵砦とも)は、大坂冬の陣において豊臣方により築かれた砦で、守将として薄田兼相が置かれましたが、蜂須賀至鎮、石川忠総らの攻撃を受け、陥落しました。

木津川の中州(伯楽島)に築かれたとされますが、遺構はもとより石碑も説明板も何もありません。ただ、木津川沿いに建つ朝日プラザ長堀西のあたりは周囲より一段高くなっていて、この辺りにあったものと思われます。その他、朝日プラザ長堀西から南に徒歩5分の伯楽橋にその名の名残を感じられるくらいです。

…ということで、所用で近くに来たついでの大坂の陣史跡めぐり(第12回)です。

冬の陣の博労淵の戦いは、守将の薄田兼相が女郎屋に泊まり込んでいて不在だったため、博労淵砦はあっさりと陥落し、薄田兼相は「橙武者」(見た目は立派だが飾り物にしかならない)と誹られることになりますが、その汚名返上の思いが夏の陣の道明寺の戦い(勇戦するも討死)につながっていったのかなぁ、とも。
 

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todo94

日本遺産「村上海賊」 (2021/07/22 訪問)

能島城から松山市に向かう途中、撮影してみました。国道196号の両側に駐車スペースがあるので車でのアプローチが便利ですが、撮影スポットまでは予讃線伊予亀岡駅から1km程度なので徒歩でのアプローチも難しくはありません。島に渡るにはチャーター船を使うしかないので、遠望しただけですが、攻城と云うことにさせてください。日本遺産「村上海賊」の構成資産なので、いつか上陸ツアーなんか催されることを期待しておきたいと思います。

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赤い城

「青天を衝け」にも登場 (2021/08/22 訪問)

岡部駅から徒歩で20分弱。
住宅地と畑の中に石碑が立っています。
石碑の隣には3台駐めれる駐車場が出来ていました。
この石碑、砲術家の高島秋帆が幽閉された地として立っています。
ここから北側に陣屋があったとされています。
ちょうど石碑の前は名物深谷ネギ畑。
美味しそうでした。。。

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小城小次郎

ちょっとしたスーパースター対決だ (2021/05/29 訪問)

織田を見限って今川についた山口教継が今川に粛清された後、鳴海城に入ったのは後に高天神城でその名を馳せる岡部元信。目と鼻の先の善照寺城にいた佐久間信盛との対峙は、なんだかスーパースター対決みたいではないか。

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チェブ

井田城のデジャブ。 (2021/05/02 訪問)

昨日、投稿した「井田城」と同じく公園をウロウロして、学校の回りをグルグルした「蒔田城」です。

足利将軍家の分家、エリートクラス吉良 頼康さんの「蒔田城」です。
頼康さんは、北条 氏綱さんの娘と結婚しました。
北条家の家臣と言うより食客の扱いだったようです。
エリートですから、、、。
『蒔田殿』なんて呼ばれていたんだそうです。

「蒔田城」は蒔田の森公園に馬場があるそうで、まずは公園を目指しました。
と、これは帰ってきて気がついたのですが、私が行ったのは『蒔田公園』。
『蒔田の森公園』が正解です。
蒔田公園はきれいな花壇とカラフルな遊具があり、たくさんの親子連れが遊んでました。
遺構を探しても見つからなかったのは当然です。
その後、高台にある女子高を目指しましたが、お城跡は確認できませんでした。

またしても退陣。
吉良氏も呆れたにちがいない「蒔田城」攻めでした。

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小城小次郎

砦の跡は、今でも砦なのだ (2021/05/29 訪問)

今川方の手に落ちた鳴海城への備えとして築かれた三砦の中では最も鳴海城に近く、守将も佐久間信盛とエース級だった。跡地は現在「砦公園」となり、住所は名古屋市緑区鳴海町「砦」。これだけでわくわくするではないか。

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赤い城

御茶屋御殿 千葉市若葉区 (2021/08/16 訪問)

千葉モノレールの千城台駅から徒歩で40分くらい。
御成街道のセブンイレブンから産廃工場?沿いにさらに進むと入口の案内があります。
入口のところに説明板が立っていて駐車スペースもあり。
家康が東金で鷹狩を行う際の休憩所として造られました。
四方を土塁と空堀が廻る単郭の方形館跡です。
南北に虎口があり、枡形になっていたようです。
さすが家康、休憩所としてはやたら立派な造りです。

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城好きのメガネ

「刈谷城」 (2020/04/06 訪問)

<オススメ>★☆☆☆☆
刈谷城は徳川家康の実母・於大の方の父である水野忠政が築いたとされる。水野信元は織田信長から武田家への内通を疑われ、命を受けた徳川家康に殺害されるという非業の最期をとげる。一時的に刈谷城は、織田家の佐久間信盛の支配下に入る。その後に水の信元の末弟・忠重が城主となり水野氏の領有に復した。水野勝成が関ヶ原の戦いで功績をあげ刈谷藩として立藩する。江戸時代には、深溝松平家、久松松平家、稲垣氏3代、阿部氏2代、本多氏、三浦氏3代と頻繁に城主の交代があった。土井氏が入封し9代の支配の後、廃藩置県を経て廃城となる。現在、遺構は消滅している。

<アクセス>
JR逢妻駅 徒歩20分

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城好きのメガネ

「重原陣屋」 (2020/04/06 訪問)

<オススメ>★☆☆☆☆
重原陣屋は、福島藩が三河の飛び地を治めるため当地に陣屋を築いたとされる。廃藩置県の際に廃城となる。現在、遺構は消滅している。

<アクセス>
JR刈谷駅 徒歩15分

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城好きのメガネ

「知立城」 (2020/04/06 訪問)

<オススメ>★☆☆☆☆
知立城は、知立神社の神官であった永見氏の居館跡。戦国時代には桶狭間の戦いで織田軍に攻撃され落城する。江戸時代には将軍家の上洛の際に宿所として利用される。元禄期の地震で倒壊した後、廃城となる。現在、遺構は消滅している。

<アクセス>
名鉄名古屋本線 知立駅 徒歩約10分

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チェブ

古墳も土塁も分からず、、、。 (2021/05/02 訪問)

ただ、井田キッズが遊んでいる所をウロウロしただけの「井田城」です。
何も見つからなかったけど『行った』をポチっとしました。

北条家の家臣で「矢上城」の城主、中田加賀守さんが築いたそうです。
秀吉さんの北条征伐で中田加賀守さんも討死しました。
「井田城」を調べたら神庭緑地がヒット。
まずは神庭緑地の方が緑地公園で緑が多いいので、何か遺構があるんじゃないか?っと安易な考えで向かいました。
、、、井田キッズのオアシスです。
古墳と間違える土塁があるそうですが、分かりません。

次に養護学校が「井田城」跡の情報。
行ってみましたが細い坂道。養護学校をグルッと回りましたが、またしても、分かりません。

「井田城」の石碑や説明板はありません。
公園の案内に『井田山』の文字を見つけ、退陣しました。
うーん、中田加賀守さんも呆れるに ちがいない「井田城」攻めでした。

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じゅんじん

真夏の小田原城 (2021/08/23 訪問)

暑かったです(;'∀')
2年ぶり。外堀際に交流センター?ができていました。

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赤い城

二の丸南側の空堀が見どころ (2021/08/13 訪問)

今回は京王片倉駅から登城、徒歩で8分。
城址公園として整備されています。
腰曲輪住吉神社が建ち、脇に説明板があります。
主郭と二郭は公園になっていて芝生っぽく憩いの場となっています。
お馴染みの主郭と二郭の間の空堀はこの時季草ボーボー。
が、勧め前回無かった南側に降りる道ができていました。
二郭南側の空堀も堀底道を歩けるようになっていました。
二郭の虎口、三郭の空堀などは公園とは異なる雰囲気でした。
まさに城っぽい、城跡だから当たり前なんだけど。
元々は長井氏によって築かれた城ですが戦国期には北条氏のものとなり滝山城や八王子城の支城として機能したとのことです。

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こう

中津川 (2019/08/18 訪問)

ここ小学校の野外学習施設のすぐ近くだったんですね。
(*_*;

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T-Shionoya

逆井城訪問 (2004/08/12 訪問)

過去のお城巡りの振り返り、第10段は茨城県猿島町(現坂東市)の逆井城。

現在、古河市東部から坂東市と八千代町および常総市の境界付近を流れる飯沼川。
これは江戸中期まで飯沼という全長約30km、幅約1kmの細長い沼でした。

この飯沼西岸、台地の縁に築かれている逆井城。
元々逆井氏の居城だったと考えられ、北条氏の勢力下に落ちると北条氏繁により大改修され、対岸の佐竹氏、結城氏、多賀谷氏と対峙した最前線基地の城。
北条氏が滅んだ後は廃城となりました。

現在は本丸、二曲輪、三曲輪の一部が逆井城跡公園となっており、中世の姿が復元されている城。
井楼矢倉から物見櫓(二層櫓)までの一体以外あまり記憶に残っていませんが、訪問時の滞在時間は1時間と少々。
誰でも中世の城にタイムスリップできる、数少ない城の1つですね。

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こう

本丸 (2019/08/10 訪問)

岩村城の続きです。
撮るところの多いお城ですね。

明知城と同日に廻りました🏯

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