かつての深野池西寄りの三つの島にあった水城で、室町中期に河内国守護・畠山氏の内紛に際して築かれたようです。三好長慶が飯盛城に入った頃には飯盛城の支城として機能しており、大坂との間の舟運を担った三箇頼照の居城でした。三箇頼照はキリシタンに改宗(洗礼名サンチョ)すると城下に教会を建て、河内キリシタンの拠点として繁栄しました(ルイス・フロイスの書簡にも三箇の隆盛ぶりが記されています)。三箇頼照は三好氏が滅ぶと織田信長に従うも、本能寺の変以降は明智光秀に味方したため城も教会も焼き討ちされ、三箇城は河内キリシタンの結城如安(ジョアン)に与えられましたが、小牧長久手の戦いで討死したことにより廃城となったようです。
江戸中期に新田開発により深野池が干拓されたため遺構は消滅しており、所在地もはっきりしないようですが、城びと位置情報の三箇菅原神社が比定地のひとつとされ、三箇城址石碑と菅原神社の説明板に三箇城の記述が見られました。神社前の参拝者用駐車場から参拝がてら周囲をひとめぐりしましたが、微高地といえば微高地かなぁ、という感じでした(たぶん気のせい)。
それにしても、下調べの段階では池の中の水城といわれてもいまいちピンとこなかったんですが、飯盛城のスタンプを押しに訪れた大東市立歴史民俗資料館で、大和川の付け替えと新田開発の展示を見て、いろんなことが納得できました。大和川の付け替え自体は知っていましたが、付け替えまでは北に分流してこのあたりで淀川からの分流と合流して池や湿地帯になっており、三箇城は大坂との間の舟運を担うべく池の中に築かれていること、池や湿地帯と生駒山地との間の狭い平地を東高野街道が走っているため、三箇城に加えて野崎城を支城とすることで水陸双方の交通を掌握できること、だからこそ三好長慶は飯盛城を居城としたのではないか…。資料館や博物館を訪れることを今年のテーマのひとつにしていますが、遺構のない城であってもこうして資料館で理解(妄想?)を深められるのは楽しいものですね。
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