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higekam

朝倉義景の末路をたどる (2020/09/26 訪問)

越前と若狭を仕切る木ノ芽峠。その東西に延びる山稜に東から西光寺丸城、木ノ芽峠城、木ノ芽峠、観音寺丸城、鉢伏山城と峠を挟んで並ぶ。
 想像以上に高低差が厳しい峠で、整備された部分も限られていて最高位の鉢伏山城は登城を断念。城というより砦というべきで、最新鋭の信長軍団に攻められたら一蹴されたであろう戦国初期の小規模な土塁と堀を活用した様式のように思えた。ほかに一部わずかに石が散乱していた程度。

登城当日は雨にもあい、散々に敗北を喫して帰国を急ぎ峠を越えた朝倉義景の無念さにわずかばかり触れたような気がした。

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城好きのメガネ

「丸根砦」 (2020/04/06 訪問)

<オススメ>★★★☆☆
丸根砦は、織田信長が今川氏を牽制するために築いたとされる。鳴海城を包囲するために丹下砦、善照寺砦、中島砦を築き、大高城との連絡を絶つために、大高城側に丸根砦、鷲津砦を築いた。桶狭間の戦いでは佐久間信重が守備を任される。今川側の徳川家康に攻められ討ち死にした。現在、土塁等が遺されている。

<アクセス>
JR大高駅 徒歩15分

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城好きのメガネ

「鷲津砦」 (2020/04/06 訪問)

<オススメ>★★★☆☆
鷲津砦は、織田信長が今川氏を牽制するために築いたとされる。鳴海城を包囲するために丹下砦、善照寺砦、中島砦を築き、大高城との連絡を絶つために、大高城側に丸根砦、鷲津砦を築いた。鷲津砦には守将として織田秀敏、飯尾定宗・尚清父子が置かれた。飯尾定宗は織田信秀の叔父で、飯尾氏の養子となる。桶狭間の戦いでは鷲津砦の守備を任される。今川の大軍の前に奮戦するも討ち死にした。現在、土塁等が遺されている。

<アクセス>
JR大高駅 徒歩20分

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城好きのメガネ

「鳴海城」 (2020/04/06 訪問)

<オススメ>★☆☆☆☆
鳴海城は、織田信秀の支配下にあり、山口教継が城主を務めていた。信秀の死後、織田信長が家督を継いだが山口教継は今川氏に城と共に寝返る。その後、織田信長の策略により自害に追い込まれ、今川家・重臣の岡部元信が城主となる。織田信長は鳴海城を包囲するために丹下砦、善照寺砦、中島砦を築き、大高城との連絡を絶つために、大高城側に丸根砦、鷲津砦を築いた。桶狭間の戦いでは、岡部元信が今川義元の首級と引き換えに城を明け渡し、織田信長の支配下に入った。現在、遺構は消滅している。

<アクセス>
名鉄名古屋本線 鳴海駅 徒歩15分

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城好きのメガネ

「丹下砦」 (2020/04/06 訪問)

<オススメ>★☆☆☆☆
丹下砦は、織田信長が今川氏を牽制するために築いたとされる。鳴海城を包囲するために丹下砦、善照寺砦、中島砦を築き、大高城との連絡を絶つために、大高城側に丸根砦、鷲津砦を築いた。丹下砦には水野帯刀らが守備を任された。現在、遺構は消滅している。

<アクセス>
名鉄名古屋本線 鳴海駅 徒歩20分

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城好きのメガネ

「善照寺砦」 (2020/04/06 訪問)

<オススメ>★☆☆☆☆
善照寺砦は、織田信長が今川氏を牽制するために築いたとされる。鳴海城を包囲するために丹下砦、善照寺砦、中島砦を築き、大高城との連絡を絶つために、大高城側に丸根砦、鷲津砦を築いた。善照寺砦は、織田家の重臣である佐久間信盛、信辰兄弟が守備した。現在、遺構は消滅している。

<アクセス>
名鉄名古屋本線 鳴海駅 徒歩15分

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城好きのメガネ

「中島砦」 (2020/04/06 訪問)

<オススメ>★☆☆☆☆
中島砦は、織田信長が今川氏を牽制するために築いたとされる。桶狭間の戦いでは、中嶋砦の守将として猛将と名高い梶川高秀が置かれた。桶狭間の戦い後に廃城となる。現在、遺構は消滅している。※砦跡は私有地のため見学の際は注意が必要である。

<アクセス>
名鉄名古屋本線 鳴海駅 徒歩10分

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赤い城

近くに大河ドラマ館 (2021/08/22 訪問)

深谷駅から徒歩で15分。
深谷城址公園となっています。
石垣とか塀とかそれっぽいですがいずれも模擬。
遺構はほとんど残っていません。
公園隣の富士浅間神社の水路が外堀跡のようです。
上杉房憲により築城され、北条氏との攻防の舞台になりました。
近くの公民館が大河ドラマ館になっていました。
やっぱり深谷は今年が旬?

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ふゆづき

小田原城の外郭 (2021/07/22 訪問)

小田原城の外郭を形成する小峰御鐘ノ台大堀切になります。
小田原駅から見て北西の方角にあたり、大きな堀切が残されています。
堀切内は散策が可能で、土塁の高さが印象的です。
意外なことに、ここから小田原城天守閣(すなわち本丸)が丸見えであり、攻城軍にここを落とされると、場内の様子が丸見えになるようです。

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ふゆづき

街中に残る石垣 (2021/08/18 訪問)

高崎駅から徒歩約15分の場所にあります(駅の観光案内所で行き方は教えてもらえます)。
公園の一部となっており、乾櫓(群馬県唯一の城郭建築物)まわりと内堀が遺構です、
平城ですので、石垣の高さは低く、土塁もそれほど堅固という感じではありません。
寧ろ、関ヶ原の直前に築かれたということから、政庁としての性格が強かったのではないかと思います。
近隣には音楽堂などがあり、市民の憩いの場所となっているようです。

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キンヤ

長島一向一揆の本城で、大手橋の下に石垣が残る城 (2021/08/22 訪問)

城びとの先人の方々の投稿で石垣があることを知り、10年ぶり位に再訪しました。

長島一向一揆の本城で、今は小学校となり説明板が設置され、校内に樹齢3百数十年の大松があります。

城跡の東側に堀跡の川があり、大手橋の下には石垣が残り江戸時代のものとされます。
石垣の真ん中は後世の積み直しに見えますが、両端の隅部は当時の遺構と思われます。

蓮生寺には大手門が移築され残っています。

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キンヤ

今は長良川に沈んでしまい移転した城郭寺院 (2021/08/22 訪問)

城びとの先人の方々の投稿を参考にさせて頂き行きました。

織田信長と長島一向宗門徒の間で起こった長島一向一揆の中心となった城郭寺院です。

願證寺跡は長良川に沈んでしまっていますが、河川敷に説明板が設置されています。

その寺跡から南東へ5㎞位の場所へ移転した願證寺が城を思わせる佇まいでカッコいいです。
境内には長島一向一揆殉教之碑があります。

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キンヤ

レンコン畑と田んぼに囲まれ気持ち良い城跡 (2021/08/22 訪問)

戦国時代に織田氏が長島一向宗徒との戦いの為に築き、織田信長の弟の信興が守っていましたが、1570年長島一向宗門徒に攻められ討死したとのことです。

城跡には富岡神社が鎮座し、石碑と説明板が設置されています。
堀跡のような所もありましたが、遺構ではないかもしれません。
城跡の横に流れる川が当時は天然の堀だったのでないかと思いました。

城跡の周りはレンコン畑と田んぼで気持ち良かったです。
この時、ハスの花は、ほぼ散っていましたが、僅かに咲いており綺麗でした。

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T-Shionoya

関宿城訪問 (2004/08/12 訪問)

過去のお城巡りの振り返り、第11段は先週投稿した逆井城に続いて行ってきた千葉県野田市の関宿城。

現在は城郭の北側を太平洋へ利根川が流れ、西側を分岐した江戸川が東京湾へ流れるエリア。
戦国期は西側を渡良瀬川が江戸湾に注ぎ、北側は常陸川が太平洋へ注いでいたでしょうか。
つまり江戸湾に流れる水系と太平洋へ流れる水系の分水界。
関東における河川交通の重要拠点でした。

古河公方設立に伴い家臣の簗田氏の居城が築かれ、北条氏の領地拡張時には3度の関宿合戦を経て氏政&氏照が城を奪取。
北条氏滅亡の後は、まず家康の弟である松平康元が入城。その後、小笠原氏や牧野氏などが城主となり、江戸中期以降は久世氏が治め明治を迎えました。

現在は本丸と二ノ丸の2/3が明治以降の河川改修で堤防の下に埋没。
残る本丸跡地に石碑が立ち、二ノ丸や三ノ丸等はほぼ名残なし。しかし大手門跡には説明板と堀の跡がある模様。
そして本丸の約500m北に建つのが、御三階櫓を模した関宿城博物館。
河川工事と水運がメインの博物館で、利根川の流れが江戸期に変えられたことを知りビックリ。江戸時代の土木技術は侮れませんね。

またいくつかの建造物が移築され残っているのですが、埋門を見つけることができなかった思い出のある城。
そこで17年前に見逃したものを急遽昨日見てきました。
改めて本丸周辺を歩くと、土地の高低差に二ノ丸や天神曲輪の名残があるような。

※1,2,6,8,9枚目の写真は昨日撮影

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ミッチー

二条城で集印帳をGET (2019/07/15 訪問)

御城印を集めます!集印帳は駿府城か二条城か迷いましたが、二条城に!

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todo94

新・城カードゲット (2021/07/22 訪問)

旧・城カードは手に入れてあったのですが、ニューバージョンの城カード目的の攻城です。萬翠荘を見学した後、二の丸の角から登り石垣を眺めながら登城できるお気に入りのコースをとりました。登り石垣が以前より見学しやすくなっているように感じました。松山城の大きな魅力の一つなのでもっとアピールしても良いのかなと思います。松山城近くのホテルに泊を取ったのに光のおもてなしin松山城はパスしてしまいました。道後ビールを優先してしまった結果です。

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ふゆづき

雨に煙る山城 (2021/08/18 訪問)

吾妻線の群馬原町駅から徒歩で登城。
東吾妻町役場がお城風の建物なのは、この岩櫃城を記念してのものなのですかね?
群馬原町駅の観光案内所で地図と御城印の入手が可能。
岩櫃山の平沢登山口案内所まで約2.6キロで、徒歩約40分強ですが、道案内がでており、車道を歩けば迷うことは無いと思います。
平沢登山口案内所では、城のジオラマが飾られており、城の概要がわかります。
今回は尾根伝いの道で、中城跡を通って、二の丸、本丸と上ること15分程度で本丸跡に到着します(完全な山道なので、少なくともスニーカーでなければ登城は難しいと思います)。
あいにくの雨で、雲が低く視界が限られましたが、天気がよければ眼下に国道145号線と吾妻線を監視することができそうです。
遺構は、土塁、空堀、虎口といったところだと思いますが、安土桃山時代のような洗練された城では無く、無骨な戦国時代の木と土の城に思いをはせることが可能な城という印象です。

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赤い城

上杉憲英の墓所がある (2021/08/22 訪問)

深谷駅から徒歩で25分。
国済寺のあたりが城址となります。
深谷上杉氏が深谷城に移る前の本拠地で境内に上杉氏の墓所があります。
市街地となっているので遺構はほぼ残っておらず、国済寺境内の裏手に堀の痕跡と土塁と思われる築山が残っています。
深谷は渋沢で盛り上がっているようですがここは関係無さそうでした。

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小城小次郎

今川義元は最後の夜をここで過ごしたという (2021/05/29 訪問)

今川義元は桶狭間前夜、つまり最後の夜をこの城で過ごしたという。芝が貼られ綺麗に整備された姿には「作り物」感が漂うが、古絵図を見ると意外なくらいほぼ昔のまま。絵図にある丸馬出が本当にあったのかはぜひ知りたいところ。

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新ろくべえ

力丸城に行ってきました (2021/08/28 訪問)

力丸城に行ってきました。
ここは力丸町会議所のとなりに石碑があります。
石碑を見ると力丸古城と書かれていました。
その横には「力丸」「宿阿内」城の跡と書かれた
下川淵カルタの看板がありました
他は何もないです
〔城情報〕
・築城年代 ?
・平城
・築城者 力丸広宗
・主要城主 力丸氏
・主な遺構 消滅

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