長崎歴史文化博物館は長崎奉行所(立山役所)跡に建てられています。ほかにも
いくつか長崎奉行所跡と名のつくポイントはあるようです。内部にかつての奉行所を
再現しており、対面所や書院、御白洲を見学することが出来ます。
長崎奉行は初期は竹中重義など徳川秀忠側近の大名が務めますが、やがて旗本が務めるようになり
元禄3年(1690)老中の支配で詰席は江戸城芙蓉の間で従五位下・諸大夫格とされ、将軍に
拝謁できる身分でしたが、長崎奉行は芙蓉の間の末席とされ、正式に諸大夫として
扱われなかったそうです。当時の奉行・牛込重忝から待遇改善の請願が出ましたが、大老酒井忠清に
却下されます。外国人の対応を低い身分の役人にさせることで幕府の格があがるとのことですが、
実にケツの穴の小さい話です。(下品で御面)元禄12年(1699)川口宗恒が従五位下摂津守と
なったころから長崎奉行の格は上がっていきますが、文化5年(1808)
フェートン号事件が起こってしまいます。
イギリス海軍のフリゲート艦がオランダ船を装い無断で入港し、人質を撮ったり水や食料を要求したり
長崎の街を焼き討ちするぞと脅したり、狼藉の限りを尽くします。当時の奉行・松平康英は
己の身上をはるかに上回る出来事に必死で対処しますが平和ボケして人員削減を勝手に行っていた佐賀藩に
足を引っ張られて満足に対応できず、まんまとフェートン号に水と食料を持ち逃げされてしまいます。
結果的に死者が一人も出なかったのですが、幕府も奉行も完全に面子を失い、康英は責任を感じて
自害したとあります。康英は高家旗本の三男で従五位下図書頭と、奉行としては悪くなかった
のですが、時代の変化に幕藩体制がついていけていなかったようです。
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