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くらのり

赤木城 (2014/11/01 訪問)

城跡は「赤木城跡及び田平子峠刑場跡」の名称で国の史跡に指定。北山郷の丘陵に築かれた平山城で、標高230mに位置しています。天正17年頃に一揆勢力を抑える目的で藤堂高虎によって築城されたと言われて、主郭を中心として三方の屋根に郭群が設け、その配置は中世山城の形態をしているものの、その一方で高い石垣、発達した虎口など近世城郭の要素も見られるお城です。
慶長19年に行った北山一揆で、総勢3000人が新宮城に信攻使用としたが壊滅し、353名が処刑され、その翌年、高虎が築城した赤木城の落成披露の際にとらえられた。

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くらのり

勝連城 (2014/09/30 訪問)

勝連半島の南の付け根部にある標高60~100mの丘陵にあり、南城、中間の内、北城で構成。北城は石垣で仕切られた一、二、三の曲輪を備えており、一から三までの曲輪が階段状に連なり、一の曲輪が最も高いです。
また城の南側には南風原集落が広がり、交易のための港を備えていたそうです。14世紀初頭に、勝連按司によって築城されたと諸説。城内からは中国、元代の陶磁器が出土しており、当時の繁栄を見ることができます。2000年には首里城跡などとともに、琉球王国のグスク及び関連遺産群として世界遺産に登録、その中では最も築城年代が古い。

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くらのり

座喜味城 (2014/09/29 訪問)

1416年~1422年にかけて読谷山の按司護佐丸によって築城されたと言われており、城門のアーチには楔石が用いられています。沖縄戦前には日本軍の砲台、戦後には米軍のレーダー基地が置かれたので、一部の城壁が破壊されましたが、現在では城壁は復元。
2000年に首里城跡などとともに、「琉球王国のグスク及び関連遺産群」としてユネスコの世界遺産にも登録され、城跡の高台からは残波岬、慶良間諸島などを眺めることができます。また、城内で演劇が行われるなど、広く利用されているため、沖縄の人々にとっては馴染み深い場所になっています。

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くらのり

今帰仁城 (2014/09/29 訪問)

沖縄本島北部の石灰岩丘陵上に位置し、琉球王国統一前に覇権を争った3国の一つで、三代続いた北山王の居城。城の創建は明確でないが、発掘調査で発見された城郭跡は12~13世
紀頃の築城で、城内からは中国、東南アジアなどの陶磁器が多く出土しており、その当時の繁栄をうかがわせます。
石垣などの整備が進み、1416年、後に琉球全土の統一を果たした中山王尚の攻撃を受けるも耐えたが、調略によって城は陥落し、北山王統は途絶えた。城の遺構は御嶽・拝所として機能・存続し、2000年には琉球王国のグスク及び関連遺産群として世界遺産へ登録。

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くらのり

首里城 (2014/09/28 訪問)

那覇港を見下ろす標高130mの丘陵地に築かれた城で、創建以来数度に渡り拡張され東西約400m、南北200mの規模を誇る。正殿をはじめ主要な建物が配置された内郭と、それを囲む外郭で構成され、琉球の島々を治め、国々と外交、貿易を展開した首里王府の司令塔として、王とその家族等が住み、華麗な王朝文化に彩られた空間であった。
焼失・再建を繰り返し、太平洋戦争で灰燼に帰し、その後1992年(平成4年)正殿等建物が再建し、2000年(平成12年)年12月、『琉球王国のグスク及び関連遺産群』として日本で11番目の世界遺産となる。

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くらのり

高知城 (2014/05/16 訪問)

関ヶ原戦の功績により初代の土佐藩主として入封した山内一豊が1603年(慶長8年)築城した。この地には、元々南北朝時代に大高坂松王丸によって築かれた大高山城という居城があったという。
1727年(享保12年)天守閣をはじめ大半の建物を焼失したが、1753年(宝暦3年)全域郭が再建され、創建当時の古い様式の姿に戻すことに成功し、特に四重六階の望楼型天守・御殿(懐徳館)・櫓・門などがほぼ完全にそろっている本丸の遺構は全国にも例がなく価値が高い。望楼型の天守閣は現存12天守の中でも比較的古い。豪壮な追手門は創建時の遺構である。

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くらのり

岩国城 (2020/11/22 訪問)

山口県下唯一の城である岩国城は、横山の山頂に要害を築きその南麓に平生の居館を構え両者を合して岩国城を構成していた。1603年(慶長8年)の春夏の頃、吉川広家が起工し、1608年に完成したが、幕府の一国一城の令により1615(元和元年)10月に惜しくも破却された。
その後350年の間山頂の城は廃墟のままであったが、1962年(昭和37年)桃山風南蛮造りの天守閣が再建した。天守からは、清流錦川に映える名勝錦帯橋をはじめ市街地や米軍基地、瀬戸内海の島々が一望される光明媚な城である。

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くらのり

吉田郡山城 (2020/11/08 訪問)

南北朝時代の1336年(建武3年)毛利時親が郡山南東に小規模な山城を築いたのが始めといわれる。16世紀中頃、毛利元就は標高390mの郡山全体を要塞化し、山頂の本丸を中心に多くの尾根に270もの曲輪を配した西日本最大級の中世山城に拡張改造した。その後、元就の孫の輝元も城の整備を行ったが、山城の限界から広島城を築いて1591年(天正19)本城を移した。
1600年(慶長5)の関ヶ原の戦いの後、毛利氏は大きく所領を削られ周防・長門へ移り、広島城・郡山城を含む安芸は福島正則に。江戸初期に廃城となり、石垣や土塁の一部や曲輪の跡がある。

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新ろくべえ

甲府城に行ってきました

甲府城に行ってきました!
 
先に写真を投稿するので、あとで文を投稿することをご了承ください

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城好きのメガネ

「番神山城」 (2020/04/06 訪問)

<オススメ>★☆☆☆☆
番神山城は太田道灌が江戸城の出城として築いたとされる。現在、遺構は消滅している。

<アクセス>
東京メトロ 日比谷線 神谷町駅 徒歩10分

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城好きのメガネ

「伝目黒氏館」 (2020/04/06 訪問)

<オススメ>★☆☆☆☆
目黒氏館は武蔵横山党の目黒氏の館跡とされる。現在、遺構は消滅している。

<アクセス>
東急電鉄・東京メトロ日比谷線 中目黒駅 徒歩10分

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城好きのメガネ

「伝大平砦」 (2020/04/06 訪問)

<オススメ>★☆☆☆☆
大平砦は武蔵吉良氏の家臣であった大平氏の砦跡とされる。現在、遺構は消滅している。

<アクセス>
東急電鉄 田園調布駅 徒歩10分

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イオ

とことん江戸城(浅草橋門~両国橋) (2022/06/24 訪問)

(続き)

3日間の出張を終えて、東京駅から新幹線で帰る前に浅草橋門に向かいます。当初は外郭めぐりはできる範囲で、くらいに考えていましたが、あと一箇所だけとなると行かずには帰れません。

浅草橋駅から南に進むと浅草橋の北詰に浅草見附跡の石碑があります。浅草橋門の遺構は消滅していますが、神田川を渡った南詰の浅草橋南交差点あたりにあったようです。浅草橋門の西側には関東郡代の役宅があったことから、浅草橋南詰の植え込みには郡代屋敷跡の説明板が建てられています。また、開智日本橋学園の南東隅には浅草橋門西側の柳原土手から出土した石垣石が移設されています。

明暦の大火では浅草橋門周辺で多くの死者が出たことから、隅田川に両国橋が架けられ、橋の両側には火除け地が設けられて、両国広小路として江戸有数の盛り場となりました。両国橋西交差点北西の中央分離帯に両国広小路の石碑が建てられています。時間があれば両国橋を渡って回向院や吉良邸にも行きたいところですが、3日間の疲れも溜まっているのでここまでにして、神田川の河口部に架かる柳橋から居並ぶ屋形船と、隅田川との合流点の両国橋を眺めて外郭めぐりを終えました。

…ということで、行けなかったところもいくつかありますが、都合4日間で内郭・外郭ともにほぼひとめぐりすることができました。ちょうど夏至の頃だったこともあり、日中は仕事でも朝夕に活動できる時間を長くとれたこと、出張の翌日から東京は連日猛暑日だったことを思うと、曇天続きで写真映えはしなかったものの、暑くなる前にめぐれたのはラッキーだったな、と。

今回は、内郭はもちろんながら、外郭(外堀)をほぼ全区間歩いて江戸城の縄張を体感できたのが一番の収穫であり、その結果として(今さらながらですが)江戸城が名実ともに日本一の城であることを思い知らされました。でも、まだまだこれで終わりではありません。皇居部分をはじめ今回行けなかったところは次の機会の楽しみにしたいと思います。
 

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昌官忠

2022夏の青春18キップ12日目:大峪城 (2022/07/31 訪問)

富山城からの転戦です。まず、呉羽山にある佐々成政剃髪趾を見学する為、考古資料館駐車場(36.709692、137.189131)に向かいました。
その後、シルバー人材センター駐車場(36.698951、137.182653)に駐車させて頂き、付近を散策しましたが、何も見つかりません。

築城年代は定かではないようですが、神保長職によって築かれたのがはじまりと云われています。
1585年(天正13年)豊臣秀吉による佐々成政征伐で、秀吉が白鳥城に本陣を置くと前田氏の家臣片山伊賀守が白鳥城より大峪城へ移り出城として守備、成政が降伏した後は延高が城主となります。
1599年(慶長4年)延高は利長の命を受けた石川源太、松田直憲によって大坂で殺害されました。利家の死から僅か七日後の事でした。
利家の遺言状には延高には謀反の気配があるから油断しない様書かれており、それに従ったものと思われます。徳川家康が延高を高く評価し手を回していたからと云われています。
延高の後、大峪城には代官が置かれますが、その詳しい時期は不明ですが、関ヶ原の戦い前後までには廃城となっていたようです。

佐々成政が豊臣秀吉に降伏した際、呉羽山にある佐々成政剃髪趾で髪を剃り僧衣をきて服従の意思を示したそうです。
大峪城跡は五福小学校の移転後、スポーツ広場になっており、何も残っていません。案内板も見つからなかった。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=白鳥城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ12日目:富山城 (2022/07/31 訪問)

仏生寺城からの転戦です。城址公園駐車場(36.693234、137.212524)に駐車しました。
富山城は2回目の攻城です。前回(2017/11/03)は次男と二人でクラブツーリズム「北陸7名城2日間」で来ました。

富山城は現在の富山県庁の南側にあり、富山城址公園として整備されています。
本丸大手桝形に築かれている模擬天守は昭和29年に建設された富山市郷土博物館で、国の登録文化財になっています。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=大峪城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ12日目:仏生寺城 (2022/07/31 訪問)

小出城からの転戦です。舟橋村役場駐車場(36.703809、137.307041)に駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、戦国時代に細川氏によって築かれたと云われます。
城主は細川兵部大輔入道、細川宗十郎が伝えられ、宗十郎は高野郷を領し越中五大将の一人に数えられるそうです。
宗十郎は佐々成政が弓庄城の土肥氏を攻めた頃に生け捕り城中にて自刃したとも、佐々成政によって仏生寺城が攻め落とされたとも云われています。

仏生寺城は現在の舟橋村役場付近に築かれていたそうで、遺構は全く残っていません。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=富山城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ12日目:小出城 (2022/07/31 訪問)

上梅沢館からの転戦です。小出神社鳥居前(36.733693、137.313083)に路駐しました。

1545年(天文14年)越後長尾氏と従属関係にあった越中国松倉城主・椎名長常に仕えていた式部大輔唐人兵庫によって築かれたようで、唐人氏はその名が示す通り大陸由来の氏族と思われるようです。
当時椎名氏は東へと勢力を伸ばしていた富山城主・神保長職との攻防は、主に小出川を挟んで繰り広げられており、小出城はその最前線で椎名側にとって川を挟んで神保側の越中国鶯野城と睨み合う、防衛上重要な拠点だったようです。
1563年(永禄6年)には越中に侵攻した上杉謙信によって落城、その後揖美庄助五郎が城主となりますが、1566年(永禄9年)上杉謙信によって再び落城、家臣長尾小四郎景隆が城主となりました。
謙信没後の1579年(天正7年)佐々成政によって落城し、成政の家臣久世但馬が城主となりました。
1581年(天正9年)織田信長が催した馬揃えの為に成政が上洛している隙を突いて、上杉景勝が小出城を包囲しますが、急ぎ引き返した成政らの軍勢が来援する知らせを聞いて包囲を解いて退いたそうです。
その後成政は、佐々喜藤次、佐々喜右衛門を城代として小出城に置いたそうです。
1582年(天正10年)本能寺の変が起こると、織田方の混乱に乗じて上杉方の須田満親が小出城を奪取しました。
1583年(天正11年)体勢を立て直した成政は魚津城を攻め落とし、上杉方の須田満親は小出城も明け渡して越後に退いたそうです。
1583年(天正11年)成政の支配に抵抗していた弓庄城主土肥政繁が、小出城と新庄城を攻め落としますが、維持する力は無く、まもなく撤退しました。
1585年(天正13年)豊臣秀吉による富山の役で成政が敗れ平定されると、小出城は役目を終え、廃城となったようです。

小出神社付近に築かれていたようです。遺構はありませんが、小出神社に説明板がありました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=仏生寺城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ12日目:上梅沢館 (2022/07/31 訪問)

郷柿沢館からの転戦です。光明寺付近空スペース(36.745672、137.357712)に駐車しました。

築城年代は定かではないようです。 堀江城を居城とした土肥氏の館ともいわれますが、これも定かではないようです。

現在の光明寺一帯が館跡といわれ、寺の東側と西側に一部土塁が残っています。
ここにたどり着く途中に、「上梅沢館」への道標(写真を撮るのを失念)がありましたが、光明寺には何の案内もありません。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=小出城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ12日目:郷柿沢館 (2022/07/31 訪問)

弓庄城からの転戦です。西養寺門前空スペース(36.719080、137.367895)に駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、土肥氏によって築かれたようです。
中世に中新川一帯に勢力を持った土肥氏の一族の居城で、城主は土肥孫十郎、土肥源太郎、土肥孫太郎、土肥弥太郎などの名が残っているようです。
土肥美作守政繁が佐々成政との戦いに敗れた際に、郷柿沢館城主は出陣することができず降伏して帰農しました。
その後、松倉城主椎名氏の子孫椎名兵部を招いて西養寺を開山し現在に至るそうです。

館跡には現在西養寺があります。
その周囲には土塁と濠(写真を撮るのを失念)が残っており、虎口は西側(山門があります)と南側に2か所ありました。
南側の2か所のうち、ひとつは車が通れるように幅が広げられており、土橋の脇にも倉庫もあったので、こちらは虎口ではないかもしれません。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=上梅沢館に向かいました。

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はなじろー

若武者隊のみなさん、ありがとう! (2020/02/01 訪問)

何回か訪問していましたが、国宝指定後初の訪問でした。

天守はもちろん立派ですが、大手門跡から天守までの経路も、
立派な石垣に囲まれ、往時の雰囲気を感じられ素晴らしいです。

面白くない子どもたちは、文句を言い続けてましたが、
若武者隊の方々に励まされてテンションが上がり、
天守まで登ることができました。
若武者隊の方々に感謝です!

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