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昌官忠

2022夏の青春18キップ12日目:飯久保城 (2022/07/31 訪問)

守山城からの転戦です。飯久保八幡宮入口(36.805140、136.954456)に路駐しました。

築城年代は定かではないようですが、狩野氏によって築かれたと云われています。
狩野氏については詳らかではないようですが、永禄年間(1558年〜1570年)には飯久保城に在城しており、神保長職に従っていたようです。
その後、越中を支配した上杉謙信、佐々成政に従いました。
1585年(天正13年)佐々成政が羽柴秀吉に降ると狩野氏もまた飯久保城を明け渡して退去したと考えられています。

路駐場所が狭く民家前だったので登城せず、飯久保八幡宮に参拝して引き返しました。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=惣領砦に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ12日目:守山城 (2022/07/31 訪問)

古国府城からの転戦です。二上山中継局前駐車場(36.788171、137.010508)に駐車し、公園に向かいました。

築城年代は定かではないようですが、南北朝時代に桃井直常によって築かれたと云われています。
室町時代には守護畠山氏の守護代神保氏の居城放生津城の詰城としての役割があり、1519年(永正16年)越後の長尾為景が越中に侵攻した際に、神保慶宗はこの城に籠って対抗しました。
神保氏は天正年間(1573年〜1592年)に神保氏張が上杉謙信に降り、1578年(天正6年)謙信没後に織田氏が越中に侵攻すると佐々成政に従いました。
1585年(天正13年)富山の役で前田軍が攻め落とし、秀吉から賞賜されて前田利長の居城となりました。
1597年(慶長2年)前田利長が富山城に居城を移すまで在城しました。
以後、前田対馬守長種が守りましたが、城下の寺院や商工業者は富山に移り、城下町は急速に寂れていき、その後廃城となったと考えられます。

現在は万葉ラインや山頂の公園化、駐車場となり城址は破壊されているようです。
電波塔横に竪堀はあるようですが、わかりませんでした。
本丸には観音像が建てられ、説明板があります。
松倉城(魚津市)、増山城(砺波市)と並び越中三大山城と称されたそうです。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=飯久保城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ12日目:古国府城 (2022/07/31 訪問)

放生津城からの転戦です。勝興寺駐車場(36.792935、137.053937)に駐車しました。

天正年間(1573年~1592年)守山城主神保氏張によって築かれたと言われているが、それ以前から存在した可能性もあるようです。
神保氏は放生津城を居城としていたが、越後長尾氏の侵攻により守山城に立て籠もります。 この守山城の出城として築かれたのが古国府城といわれています。
1581年(天正9年)越中木舟城主石黒左近成綱によって、越中安養寺御坊(勝興寺・小矢部市末友)が焼き討ちされ焼失しました。
1583年(天正11年)佐々成政が越中を平定し、神保氏張も平定に尽力し成政の配下に名を連ねます。
1584年(天正12年)佐々成政が豊臣秀吉と敵対姿勢を強め、隣国の前田利家との争いも激しさを増します。
佐々成政は越中一向一揆勢力を味方に付ける為、古国府城の一円を勝興寺に寄進し、安養寺御坊より移設(再建)されました。これにより古国府城は事実上、廃城となります。
1585年(天正13年)富山の役で佐々成政は豊臣秀吉に降伏して前田家の所領となるも、勝興寺は手厚い保護を受けました。以降幕末まで前田家と勝興寺は血縁的にも密接な関係を保ち続ける事となりました。

古国府城は勝興寺の境内一帯に築かれていたそうです。勝興寺内には入らず廻りを散策しました。中に入るには拝観料がいります。
東側に石垣で構築された堀が見られ、その上に物見櫓のような太鼓堂が建てられています。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=守山城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ12日目:放生津城&放生津台場(城びと未登録 富山県射水市) (2022/07/31 訪問)

日宮城からの転戦です。石碑説明板付近(36.777109、137.089987)に路駐し、石碑と説明板の写真を撮った後、放生津台場を攻城する為、放生津八幡宮駐車場(36.780288、137.094021)に向かいました。

築城年代は定かではないようですが、鎌倉時代末期に越中国守護名越氏が置いた越中守護所が始まりのようです。
室町時代には守護畠山氏の守護代神保氏の入城しました。1493年(明応2年)明応の政変で自害した畠山政長の重臣であった神保長誠は、政変で幽閉された十代将軍足利義材(よしき・義伊・義稙)を迎え、上洛のための諸準備を進めます。
義材は放生津に幕府政権を樹立し、京都の幕府重臣細川政元と対峙しました。義材のもとへ公家、大名が出仕し、禅僧、歌人ら多くの文化人も訪れ、放生津は北陸の政治・経済・文化の中心として栄えました。
1520年(永正17年)神保長誠の子慶宗が越後守護代長尾為景(上杉謙信の父)の攻撃で落城し自害し、神保氏は拠点を富山城に移しました。
その後神保氏により再建され、加賀前田氏の武将が城代となったが、江戸時代初期に廃城となりました。城跡は畑とされ、江戸後期に加賀藩前田家の米倉が設けられたそうです。

現在の放生津城小学校一帯が城址で、小学校北側の道路沿いに案内板があります。

放生津台場(城びと未登録 富山県射水市)
1850年(嘉永3年)加賀藩によって築かれました。 加賀藩主前田斉泰が台場を見分したとき、放生津八幡宮に参拝したそうです。
放生津台場は放生津八幡宮境内付近に築かれていたそうです。
境内の北側にある「奈呉之浦」の碑が建っている所が台場の土塁跡だそうです。
現在境内の東側から北側にかけて土塁らしき境界があります。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=古国府城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ12日目:日宮城(火宮城) (2022/07/31 訪問)

願海寺城からの転戦です。薬勝寺石段前(36.704611、137.083985)に路駐(付近は狭いです)し、日吉神社参道入口(36.704225、137.083004)に向かいました。

築城年代は定かではないようですが、戦国時代に神保氏によって築かれたと云われます。
1572年(元亀3年)武田信玄の調略に応じた加賀国、越中国の一向一揆が侵攻し、落城させました。
勢い付いた一向一揆勢は、そのまま越中国白鳥城を攻め、越中国富山城(翌年に謙信によって再度攻略された)をも落としました。
日宮城はその後史料から姿を消し、まもなく廃城となったようです。

現在、城址は本丸に日宮神社が、南郭に薬勝寺が建てられています。
薬勝寺の本堂の裏に曲輪、空堀、土塁が残っています。
薬勝寺の西に空堀を隔てて日宮神社があり、案内板が鳥居の左側に建てられています。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=放生津城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ12日目:願海寺城 (2022/07/31 訪問)

安田城からの転戦です。城址碑説明板前(36.717344、137.140835)に路駐しました。

築城年代は定かではないようですが、戦国時代に寺崎氏によって築かれたと云われています。
寺崎氏は畠山氏の家臣でしたが、1550年(天文19年)上杉謙信によって落とされ、当主の寺崎行重が敗死しました。跡を継いだ子・盛永は謙信や越中国富山城主神保長職らとの間で巧みに立ち回ります。
1552年(天文21年)謙信に属していた寺崎盛永が越中国井田城主飯田(斎藤)利忠と戦います。(天神林の戦い)
戦いは利忠の弟である利常、利憲が討たれ利忠は同族である斎藤信利が拠る越中国城生城へと逃れるなど、盛永の勝利に終わり、盛永は余勢を駆って城生城を攻めたが、こちらは上手く行かず撤退しました。
1574年(天正2年)能登国を治めていた畠山氏の当主・義慶が死去すると、これに乗じて越中の一向一揆勢は能登国へ攻め込み畠山方と二宮で戦うが敗れました。
この頃、盛永は一向一揆に与していたとみられ、この戦いの総大将を務めていたとみられます。
1576年(天正4年)謙信が能登国の畠山氏を攻め、翌年その拠点七尾城を落としました。この戦いに盛永も参戦していたと思われ、この頃には上杉家に属していたようです。
1578年(天正6年)謙信没後に織田氏が越中に侵攻すると織田氏に降りました。
しかし、上杉氏が再び越中に侵攻すると再度降り、1581年(天正9年)織田氏によって攻められ落城、城主寺崎父子は近江に送られ自刃させられました。

遺構は残っておらず、GPS座標付近に説明板と城址碑があるだけです。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=日宮城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ12日目:安田城 (2022/07/31 訪問)

白鳥城からの転戦です。安田資料館駐車場(36.679849、137.159324)に駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、1585年(天正13年)頃に築かれたようです。
1585年(天正13年)羽柴秀吉による佐々成政征伐で、秀吉が富山城攻めの本陣となった白鳥城の支城として現れるのが史料上の初見だそうです。
白鳥城にいた前田氏の家臣岡島一吉が安田城に移っており、築城もこの頃と見られるそうです。
1587年(天正15年)佐々成政は肥後に転封となると、新川郡は秀吉直轄領となり、安田城の役目は一旦終わったものと考えられるようです。
1597年(慶長2年)には前田利長が守山城から富山城に移ると、岡島一吉は白鳥城へ入り、その後、ふたたび安田城へ移ったそうです。
1599年(慶長4年)前田利家死去により、利長は金沢へ帰還し、岡嶋一吉もそれに従いました。
その後しばらく代官平野三郎左衛門が居城しましたが、慶長年間(1596年~1615年)には廃城となったようです。

安田城跡資料館(月曜、祝日の翌日、年末年始は休館日 9:00~17:00(休日は16:30) 入館無料 無料駐車場50台)の駐車場が利用できます。
安田城は現在、城址公園として整備されています。
城は、3つの郭(本丸、二の丸、右郭)を配置しており、その周囲は水堀がめぐらされています。
駐車場から土橋を通り右郭に入りますが、何もありません。
右郭から土橋を通り二の丸に入ります。本丸へ続く西側を除いて土塁で囲まれています。
二の丸から土橋(土橋の上に木橋があります)を通り本丸に入ります。本丸へ続く西側を除いて土塁で囲まれています。
本丸の周囲は上端幅が広い土塁で囲まれています。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=願海寺城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ12日目:白鳥城 (2022/07/31 訪問)

大峪城からの転戦です。城山公園駐車場(36.698247、137.166063)に駐車しました。
ナビが指定したルートは工事中で通行禁止。現地でルートを捜し、呉羽ハイツに向かうルートなら行けることがわかりました。
城山公園駐車場に着いた時、FMとやま呉羽送信所横(駐車場手前)で工事してました。

築城年代は定かではないようですが、古くは1183年(寿永2年)源義仲の部将今井兼平が御服山に陣を張るなど要害として活用されていたようです。
1537年(天正6年)には神保八郎左衛門が居城としていたとも云われるが定かではないようです。
神保氏は越中国中央部に勢力を持った国人で、1543年(天文12年)頃に神通川を越えて富山城を築き、新川郡を支配していた椎名氏と対立していました。
1560年(永禄3年)頃から越後の上杉謙信は圧迫された椎名氏を援助して神保氏を攻め、1562年(永禄5年)神保長職は呉増山に立て籠もってこれに抵抗したが敗れて城を去ったそうです。
1572年(元亀3年)西から攻める一向一揆勢により落城しました。
1578年(天正8年)謙信死後、越中が織田信長の支配に入ると、佐々成政が富山城に入り白鳥城は引き続きその支城となりました。
1585年(天正13年)羽柴秀吉の佐々成政征伐では、秀吉の本陣が白鳥城に置かれ、白鳥城に籠もっていた前田氏の部将岡島一吉は南麓の安田城に出城を築いて移りました。 この頃に現在に残る縄張に改修されたようです。
佐々成政が降伏すると成政は新川一郡に減封となり、砺波・婦負・射水三郡が前田利家に加増されました。
利家は越中三郡を支配するため守山城に前田利長、木舟城に前田秀継、増山城に山崎長鏡、白鳥城に岡島一吉、城生城に青山佐渡を置き、佐々成政に備えたそうです。
1587年(天正15年)佐々成政は肥後に転封となると、1597年(慶長2年)には前田利長が守山城から富山城に移り、岡島一吉は白鳥城から安田城へ移ったそうです。

「FMとやま呉羽送信所」の道路反対側が駐車場で、城山には遊歩道が設けられ公園として整備されています。
西側の階段を登ると「東出丸跡」があり下って少し行くと空堀があり、階段を登ると三の丸跡になります。
三の丸跡の西に二の丸跡があり、間に横堀があります。
本丸下の空堀の横に井戸が残っているようですが、ヤブが凄く確認できません。
本丸には土塁が残り、案内板、平面図看板や「天測点」があり、一段高い土壇は天守台跡のようです。東方に富山の市街地が眺望できます。
本丸の北側に本丸下郭があり、間に横堀があるようですが、ヤブが凄く確認できません。
本丸下郭の北西側の堀切(木橋がついています)の先に北二の丸があり、西側に土塁が確認できます。
攻城時間は40分くらいでした。次の攻城先=安田城に向かいます。

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キンヤ

本丸の荒々しい野面積み石垣が見所の城 (2022/08/21 訪問)

本丸の石垣は、1576年からの金森長近による築城時のものと考えられるそうで、荒々しい野面積みで1番の見所でした。
但し、積み直しされた部分が多いそうです。お福池そば辺りの石垣は当時のままらしいです。

復興された大天守は古風な感じで、なかなかカッコよかったです。
天守内に展示してあった古絵図では、かつては御殿風の天守群だったようです。

城下町は雰囲気良く武家屋敷や清水などを巡り楽しかったです。
武家屋敷旧田村家の庭には、外堀の土塁が城下で唯一残ってました。
名水の町で、かつては殿様の御用水に使われていた湧水の御清水では飲むことができ美味しかったです。

近くの光明寺には元は二の丸・三の丸間の鳩門だった立派な移築門がありました。

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肉球

駅から徒歩0分 (2022/08/23 訪問)

佐野駅北口を出ると三の丸跡。 
江戸時代初期に廃城になっていますが
発掘調査で色々遺構が確認されています。
犬走りが二の丸西側に僅かに見ることが出来ます。
しかし殆どの遺構が保存の為埋め戻され地中に眠っているようです。
城山公園東側にある城東中学校の北東部まで歩けば堀跡を確認できます。
佐野厄除大師で知られる惣宗寺の山門は佐野城の大手門と言われています。

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おっちゃん

白巣城縄張図 (2019/07/13 訪問)

現地案内板より抜粋

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おっちゃん

旧柏原藩織田邸平面図 (2017/05/07 訪問)

現地案内板より抜粋

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赤い城

日蓮入滅の地 (2022/08/14 訪問)

有名な池上本門寺の隣にある本坊本行寺が館跡とされています。
日蓮宗の開祖である日蓮が入滅した地でもあります。
土塁が残ると言われていますが恐らく紀州徳川家墓所横なのではないかと思います。
ただし館の土塁なのか墓所を守る土塁なのかはわかりません。
隣の本門寺には加藤清正寄進の石段や戦国武将関連の墓もあるので見どころはあると思います。
石段を何度も往復する人もおり写真には苦労しました。
あっ、猪木世代の私では萌えませんが力道山の墓もありました。
なかなか立派なお寺です。

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おっちゃん

清水城案内図 (2017/11/03 訪問)

現地案内板より抜粋

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肉球

綺麗な公園に整備されました (2022/08/23 訪問)

2006年以来の訪問でした。
陣屋跡の案内板などは当時のままでしたが絵図面に描かれている池が整備されたのか綺麗な公園が整備されていました。
陣屋南側の僅かに残る土塁の上には堀田稲荷神社が鎮座しています。
表門は陣屋北西にある東光寺に移築され裏門も東光寺から北にある病院に移築されています。

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カズサン

【遠江・市野砦】静岡県浜松市 今川氏の砦案内板のみ (2022/08/27 訪問)

 市野砦は浜松市の広報で紹介されて居ましたので、浜松城の大河ドラマ館建設工事の様子を見た帰りに寄って見ました。
 住所:浜松市東区市野町167-1に在る宗安寺山門の道を挟んだ対面に浜松市の歴史遺産【市野砦】の案内板がある。
 案内板がある草原一体南側が市野砦との事ですが遺構は無く案内板が有るだけです。

 今川氏親が永正10年(1513年)斯波氏に味方する井伊領を攻めるために市野砦に布陣、桶狭間の戦いで今川義元討死し遠州忩劇なる国人衆の叛乱が起き今川氏真が市野砦周辺で攻防戦が永禄7年(1564年)繰り広がった所でした。
 市野砦は宗安寺辺り一帯が市野町の本村に当たり、天龍川の本・支流が縦横に流れる土地の内、比較的安定しており、浜名湖北回りの東海道(のちの姫街道)が通るこの地は古くから要衝でした。
 (案内板抜粋と加筆)

 曹洞宗宗安寺に駐車場が在り利用可能かも?案内板横にごみ集積場が有り小スペースに路駐可?、宗安寺三重塔が有り浜松では方広寺三重塔と双璧です。
 東名高速浜松ICの近く宗安寺住所をナビに入れれば案内板に辿り着けます。
 

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JPN-AZE

With the great view (2022/08/19 訪問)

2022年8月19日朝、真田本城跡こと松尾城を訪問しました。行って気付いたのですが、城址に着く前の道が、割と狭かったです。リンカーン・ナビゲーターや、キャデラック・エスカレードのようなフルサイズSUVだと、ちょっときついかもしれません。私の車はMazda CX-3なので、特に苦労はなかったです。城址に、建物の類はなかったですが、城址の標高が890mなのもあるせいか、見事な信州の山並みを見る事が出来ました。

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朝田 辰兵衛

「帰りのバス停は,どこになりますか?」 (2020/12/20 訪問)

公共交通利用の場合,王道は掛川駅前から路線バスだと思います。最寄りは「土(ひじ)方」バス停。このバス停周辺は変則交差点となっています。向い側に帰りのバス停が見えなかったので,「帰りのバス停は,どこになりますか?」と運転手さんに尋ねました。だいぶうしろで,交差点の向こう…。これは聞いといて正解だと。
この日以降,ほぼほぼ毎回「帰りのバス停は,どこになりますか?」と確認するようになりました。
私の他にもバス攻城者がおられました。意識的に距離を置きましたが,帰りの「土(ひじ)方」バス停で一緒となり苦笑い。少し息が上がっている感じに見えたので,感染予防の観点から声掛けは控えました。

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津城 (2022/08/28 訪問)

続日本百名城

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松阪城 (2022/08/28 訪問)

日本百名城

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