電車の本数,思ったより少ないです。余裕かまして散策していたら,泣きを見ました。JR高徳線で1時間待ち…。しっかりタイムマネジメントしましょう。
また,スタンプ設置場所は隣接するエネオスのガソリンスタンドではなく,100mほど離れたシェルのガソリンスタンドです。
なお,パンフレットは,城館内の仮設プレハブ小屋らしき建造物の,郵便受のようなところに収納されております。
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2022/08/30 20:20
電車の本数,思ったより少ないです。 (2020/11/14 訪問)
電車の本数,思ったより少ないです。余裕かまして散策していたら,泣きを見ました。JR高徳線で1時間待ち…。しっかりタイムマネジメントしましょう。
また,スタンプ設置場所は隣接するエネオスのガソリンスタンドではなく,100mほど離れたシェルのガソリンスタンドです。
なお,パンフレットは,城館内の仮設プレハブ小屋らしき建造物の,郵便受のようなところに収納されております。
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2022/08/30 20:16
本堂のデカさに圧倒されます (2022/08/23 訪問)
この日最後の目的地。
日も傾き人出もまばら。人で賑わう日中よりも良かった気がします。
初めて来たのはNHK大河ドラマ太平記が放送されていた頃。
その頃は蕎麦屋に渋めの土産物屋年配の方しか居なかったのに
今は若い人向けの甘味処や今どきの土産物屋に変わり残っている観光客は若者だらけ。
足利学校は拝観時間を過ぎており見学できませんでした。
北門は解体修理中。
たかうじ君広場の駐車場は無料でした。
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2022/08/30 19:41
2022/08/30 19:39
高天神城 (2022/08/30 訪問)
続日本百名城
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2022/08/30 19:37
2022/08/30 19:36
井伊谷城 (2022/08/30 訪問)
浜松市指定史跡
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2022/08/30 16:54
吉川元春館 (2022/08/28 訪問)
中国地方の雄、毛利元就の次男で吉川氏の当主であった吉川元春が1582年(天正10年)の備中高松城の戦いの後、嫡子の吉川元長に家督を譲り隠居した際に、自身の隠居館として1583年(天正11年)に建設を開始した。
南側正面には高さ約3mの巨大な石垣が約80mに渡って続き、後方は山、両側には土塁を築き、多くの建物や廊下の他に庭園もある。正面の石垣は高さ3mにおよび、特徴のある積み方をしている。
この石垣の建築手法は現在も宮島の厳島神社参道の海側の石垣でも見られ、吉川元春館を築いた石工集団が、この石垣の建設にも関与したことをうかがわせる。
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2022/08/30 16:51
小倉山城 (2022/08/28 訪問)
1313年(正和2年)吉川経高が駿河国吉川邑から安芸国大朝庄に移住し、当初駿河丸城を居城にしていたが南北朝末期に吉川経見が近隣に小倉山城を築いた。
以後「鬼吉川」と呼ばれた安芸吉川氏の拠点として栄えた。毛利元就夫人の妙玖(吉川国経の娘)もここで誕生している。吉川元春が1550年(天文19年)に日野山城を築き、居城を移すと小倉山城はその役割を終えた。
建築物はないものの現在も多くの遺構が残っており、1986年(昭和61年)8月28日に吉川氏にかかわる六遺跡が「吉川氏城館跡」として史跡指定した。
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2022/08/30 16:49
亥鼻城 (2022/07/09 訪問)
千葉介常重が大椎城からこの地に移転して築城した。常重の子、常胤の代の1180年(治承4年)源頼朝が伊豆で挙兵し石橋山合戦で敗北、安房に脱出した際に頼朝を助け、鎌倉幕府樹立に大きく貢献した。
この活躍で千葉氏は下総のほか、奥州、九州等にも所領を増やし、最盛期となった。1455年(康正元年)、前年に勃発した古河公方と鎌倉公方(堀越公方)の対立による騒乱(享禄の大乱)で千葉氏も内紛が勃発、宗家・千葉介十四代胤直・胤宣父子を一族の馬加城主馬加康胤らに急襲され落城、千葉宗家を継いだ康胤の孫、輔胤により廃され本佐倉城に移った。
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2022/08/30 16:46
本佐倉城 (2022/07/09 訪問)
将門山に築かれたお城で、千葉氏後期の本拠地となった本佐倉城は、文明時代に築城された。1615年(元和元年)に藩庁の佐倉城への移転と一国一城制度によって本佐倉城は廃城。
本佐倉の城下町は、酒々井宿に移設され、成田が移動の宿場になったと考えられています。城の構造は、内閣と外郭に分かれており、内郭は半島状の丘陵上に占地し、往時は湿地帯で囲まれた要害でした。
一方外郭は内閣からつながる丘陵上を自然地形と空堀で分断した広大な地積を持っています。現在でも本佐倉城の土塁や空堀などの遺構はほぼ完全な姿で残っている。
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2022/08/30 16:43
佐倉市 (2022/07/09 訪問)
近世のお城で、現在、佐倉城跡は佐倉城址公園として整備されています。標高30mの鹿島山に築かれた城は、西側と南側を囲みこむように鹿島川とそれに合流する高崎川が流れています。
戦国時代に千葉親胤によって築城が始まりますが、千葉親胤が暗殺されたため工事は中断し、その後、1610年に徳川家康の命を受けた土井利勝によって築城が再開され、佐倉城は完成しました。
城主は江戸幕府の要職に就くことが多く、入れ替わりが多いことでも知られ、城郭は石垣を一切用いず、干拓以前の広大だった印旛沼を外堀にして、三重櫓を天守の代用とした。
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2022/08/30 16:41
新高山城 (2021/07/11 訪問)
小早川氏の居城は沼田川の対岸にあった高山城でしたが、沼田小早川家を継いだ小早川隆景は1552年(天文21年)に沼田川をはさんだ対岸に新高山城を築城しました。
1596年(慶長元年)に三原城へ移るまでの間、新高山城は小早川氏の本拠となったのです。三原城が築城される時に、新高山城の石垣を持ち去ったといわれています。
新高山城には本丸、中の丸、西の丸、北の丸、鐘の段などの櫓跡が残存し、小早川家の菩薩寺である匡真寺の跡もあります。
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2022/08/30 16:37
三原城 (2021/07/11 訪問)
最盛期には天守台を北にいただいた本丸、東・西・南側に二の丸、それらの東側に三の丸と東築出、西側に西築出を設けていました。
海に向かって舟入りを開いており、郭を隔てる縦横の堀の重なるも加わると、満潮時には海に浮かんだように見えたことから「浮城」とも呼ばれたそうです。
1567年(永禄10年)頃に毛利元就の三男である小早川隆景によって、大島・小島をつないだ埋め立て地に建て始められたのが始まりと言われています。現在は天守台、舟入櫓の一部しか残っていないものの、当時は西は約900m、南北には約700mの長さがありました。
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2022/08/30 16:34
福山城 (2021/04/18 訪問)
別名「久松城」「葦陽城」とも呼ばれており、日本における近世城郭円熟期の代表的な遺構です。
天守閣部分は景観重要建造物の指定に。慶長20年(1615年)の一国一城令発布後の元和8年(1622年)に竣工したお城で、大規模な新規築城による近世城郭では最後の例です。備後福山藩の藩庁かつ藩主の居城であり、形式は輪郭式の平山城。2重の堀、瀬戸内海へ抜ける運河を持つために海城としても知られ、五重の天守と7基の三重櫓を有していた。明治以降は福山町の請願によって本丸の天守等の5棟は残されたが福山大空襲により伏見櫓、筋鉄御門を残して焼失。
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2022/08/30 16:32
青木城 (2020/11/27 訪問)
中世瀬戸内海中央に勢威をふるった因島村上氏の主要な城跡群の一つであり、島の北端にある青木城跡は向島の余崎城とともに布刈(めかり)瀬戸を見張る城として利用され、標高50mの本丸を中心に東の大手にむかって郭が連なる。
なお、城麓には的場・裏木戸の地名を伝える。因島村上新蔵人吉充が向島の余崎城り移り居城した。
因島のほぼ北端、城は現在の重井東港を望む小丘陵上に在り、比較的旧状をよく保った郭が5段重なり、武者走りも残っている。
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2022/08/30 16:29
矢筈城 (2020/08/10 訪問)
石見銀山遺跡に登録された城館(山吹城・石見城・矢筈城・矢滝城)のうちの一つであり、城は石見銀山から温泉津へ抜ける銀山街道の北西側にある標高479.9mの山頂に築かれて、山頂の主郭部と北側の尾根の北曲輪群で構成されている。
主郭は山頂にある南北に長い曲輪と、南下の腰曲輪で構成されている。北尾根は細尾根で先端が岩場になっている。南尾根には東西に八の字状に竪堀があり、この辺りの切岸には天然の石が石垣状になっている。三段ほどの曲輪は主郭部一帯より広く、その間の谷間はやや傾斜があるものの概ね平坦になって、曲輪の北側には土塁が残っている。
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2022/08/30 16:26
亀居城 (2020/03/14 訪問)
毛利氏の上方への侵攻を防ぐために安芸国西部に城を造ることとなった。1603年(慶長8年)に山陽道を押さえる要地に築城が開始され、5年もの歳月をかけて、非常に巨大な堅城として完成した。
城主になる予定だった福島正則の甥・福島正宣は前年に死去しており、山田小右衛門と森佐助の両名が城代として城に入った。豊臣氏と徳川氏の軍事的衝突の危機が高まると豊臣恩顧の福島氏への徳川氏の圧力が非常に強くなり、正則は徳川氏の意向に従うこととなった。結局、亀居城は完成よりわずか3年後の1611年(慶長16年)に破却され、その役目を終えた。天守や主要な建造物は撤去された。
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2022/08/30 16:23
金沢城 (2020/01/25 訪問)
天文15年に本願寺が金沢御堂を創建したのが始まりと言われています。その後天正11年に前田利家が入城し、明治2年まで加賀藩前田家14代の居城となっていました。
前田利家は文禄元年(1592年)から改修工事を始めて、曲輪、堀の拡張、5重の天守や櫓を建て並べました。城址を含む一帯は金沢城公園として整備され、白い漆喰と石垣のコントラストが映える外観の石川門は国の重要文化財にも指定されています。
日本3大庭園の1つである金沢市の兼六園は、加賀藩5代藩主前田綱紀が金沢城に付属して作らせ、代々の藩主が改修した大名庭園です。
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2022/08/30 16:20
福岡城 (2019/12/29 訪問)
別名「舞鶴城」「石城」と呼ばれ、現在、福岡城跡は舞鶴公園と大濠公園になっています。江戸時代初期に、関ヶ原の戦いで功績をあげた外様大名の黒田長政が、警固村福崎の丘陵地に築城しました。
築城期間は7年だったとされ、城の規模としては九州一の巨城です。それ以降、明治まで福岡藩黒田氏の居城となりました。本丸、二の丸、三の丸などの中心部は総石垣づくりなことから「石城」とも呼ばれています。現在も美しい石垣が四層に分かれて、広大な史跡となっています。また城跡には現存櫓、移築、復元された櫓・城門も点在しています。
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2022/08/30 16:18
大野城 (2019/12/29 訪問)
古代山城で、標高410mの大城山(四王寺山)に所在し、山頂を中心に土塁と石垣の外周城壁は6.8㎞もあります。上位機は東西約1.5m×南北約3㎞で日本一の大規模な古代山城になり、城門は9か所が開かれていました。また谷部には浸透式で自然排水の百間石垣や、屯水石垣などが確認されています。
白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗した後、大和朝廷が倭(日本)の防衛のために築いたと言われています。また城郭の建設を担当したのは亡命百済人であったそうです。
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