黒野城からの転戦です。常誓寺参拝者専用駐車場入口(35.437312、136.691382)から進入して駐車しようとしましたが、手前の道路で工事中。
付近を車でウロウロして、説明板(35.437132、136.691643)前で路駐して、北方城の石碑と案内板の写真を撮ってすぐ撤退しました。
築城年代は定かではないようですが、明応年間(1492~1501年)に伊賀太郎衛門光就によって築かれたと云われています。
4代目城主の伊賀太郎衛門守就から安藤氏を名乗り、安藤守就に改名します。
守就は当初、土岐頼芸に仕えていましたが、美濃が斎藤道三によって奪取されると、道三の家臣として仕えました。稲葉良通や氏家直元らと並んで西美濃三人衆と称されたそうです。
1556年(弘治2年)道三と斎藤義龍の抗争(長良川の戦い)では義龍に協力し、義龍の没後は斎藤龍興に仕えました。
1567年(永禄10年)織田信長の美濃侵攻に対して他の三人衆らと共に内応し、そのまま信長の家臣として仕え、引き続き北方城城主となります。
しかし、1580年(天正8年)河渡城主であった実子安藤尚就が、甲斐の武田勝頼と内通したという罪により、信長によって織田氏から追放され、北方城城主は稲葉良通がなりました。
1582年(天正10年)本能寺の変で信長が明智光秀により討たれると、守就は子の安藤尚就と共に挙兵して北方城を奪い、再起を試みますが、稲葉良通に攻められ敗死し、北方城は廃城となりました。
北方城の跡地には、1668年(寛文8年)に北方陣屋が築かれ、美濃国加納藩藩主松平光重の三男である戸田光直(戸田光賢)、旗本5,000石の陣屋となり、1868年(明治元年)まで存続します。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=軽海西城に向かいます。
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