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赤い城

旗岡八幡神社の一帯 (2022/08/14 訪問)

東急の荏原町駅からすぐ近く。
旗岡八幡神社と法蓮寺の辺りが跡地とされます。
遺構は残っていません。
住宅地になっていて近くの方々の散歩コースにもなっているようです。

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朝田 辰兵衛

雨で感動だだ下がり… (2020/07/12 訪問)

ここは「晴れてなんぼ」の観光スポットだと思います。周辺もじっくり散策したかったのですが,豪雨と重なったため断念しました。撮れ高ショボ…。

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カズサン

築城400年祭天守北面鉄板張再現 (2022/08/28 訪問)

 姫路城の特別公開を見学の後、築城400年祭で、昭和41年天守再建から56年振りのリニューアルオープン当日福山城へ登城しました、主の目的は天守閣北面の鉄板張の姿を是非観たいとの、三年前に訪ねて以来、先の大戦で空襲焼失した国宝天守閣の北面鉄板張往時の姿の再現を期待願望でした。
 13時過ぎの登城と成りましたが、イベント最中で大勢の人で賑わって居ました、福山城のHPでは各櫓の特別公開、天守閣の公開と報じられており、期待は胸いっぱい、しかし各櫓とも整理券、事前予約との事で入館できない、大変残念な事に。
 主目的の天守閣北面の鉄板張りの天守はバッチリ撮る事が出来ました、イベントテント、イベントの櫓、仮設足場も残って居り400年祭当日の雰囲気は充分感じ取れ大満足です。
 全体では約2時間半の滞在でした。
 先ずは天守閣の鉄板張北面、各種破風、白漆喰真白な天守閣を写真投稿します。
 
 続いて伏見櫓、筋鉄御門、鐘櫓には運よくグループに混じって見学する事が出来き、投稿致します。
 

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イタさん

城跡は舊城寺(旧城寺)、周囲は民家 (2022/08/30 訪問)

 説明板によれば、年代不明だが山田右京之進の居城と言われる。築城は上杉憲清と伝えられ、自然地形を利用し、本丸を最高部におき、二重に空堀をめぐらし、土塁を築き、大手口は喰違虎口になっていた。東側の堀は谷を利用していたとある。
 上杉憲清の子憲直が永享の乱(1438)に敗れ、その後の城主は不明だが、後北条氏の時代に小机城に対し出城の役目をしていたと載っている。慶長年間(1596-1614)に舊城寺(旧城寺)が開かれたと。寺林は、県指定天然記念物に指定されている。
 北側の道路左の斜面切れ目から舊城寺北側の一部が見え出す。門柱があり入れないが、入口で覗わせてもらうと、遺構かは不明だが斜面が数段になっているのが見える。西に回り込み、三保天神前公園を抜けた小道から境内に入れるが、境内との高低差が目立つ。
 簡易な縄張図に喰違虎口があり、山門辺りにでもあったのだろうか。山門を潜った右に横浜市指定、名木古木指定のカヤ、左にイチョウとカヤがあり、その背後がやや高く土塁跡を思わせる。本堂裏から左に一段高く、山田右京之進 城跡碑入口と弓道場がある。土塁?末端に碑が建っている。本堂裏の多くは墓地になり、少し平坦地が続くが竹林で先は急斜面となる。下を見れば遺構らしきものが見えるが、竹などが密生し北から北東側へは踏み込みを躊躇してしまう。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ12日目:二塚城 (2022/07/31 訪問)

木船城からの転戦です。城碑横(36.716505、137.014340)に路駐しました。

越中守護名越時有の居城で、越中守護所である放生津城の支城でした。
いろんな石碑が建っています。
攻城時間は5分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストで本日の宿泊先に向かいました。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ12日目:木船城 (2022/07/31 訪問)

道坪野城からの転戦です。木船城址公園駐車場(36.688659、136.914034)に駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、 石黒荘を本拠とした石黒氏が南北朝時代以前に進出して木舟城を築いて居城とし、木舟石黒氏となったと云われています。
本流福光石黒氏が1481年(文明13年)山田川で一向一揆との戦いで滅亡したのに対し、木舟石黒氏は戦国時代まで続き、石黒左近蔵人の時代には一大勢力を築いていました。
1574年(天正2年)上杉謙信に攻め落とされて臣従しましたが、1578年(天正6年)上杉謙信の死去を契機に成綱は上杉家を離反して織田信長方に付きました。
1580年(天正8年)、1581年(天正9年)と二度にわたって一向一揆勢の重要拠点で、当時上杉方だった越中国安養寺御坊(勝興寺)を焼き討ち、結果焼亡させていますが、その直後に勝興寺の訴えを聞いた上杉景勝配下の吉江宗信によって木舟城は攻め落とされました。
1581年(天正9年)成綱を始めとする石黒一門30人が信長に近江国佐和山城へと呼び出されますが、その意図が彼らの暗殺である事に気づいた一行は逃走を図るも、近江国長浜で丹羽長秀配下の兵に追いつかれて皆殺しに遭い、豪族としての石黒氏は滅亡しています(成綱の子は後に加賀藩に仕えています)。
1581年(天正9年)木舟城を手に入れた上杉氏は吉江宗信を城将として守らせていましたが、織田方の圧力に抗し切れず吉江宗信は木舟城から海路を使って退去しました。結果木舟城は織田方の手に落ち、佐々成政の支配下に入り、重臣佐々平左衛門が入りました。
1584年(天正12年)佐々軍1万5千名、能登国末森城攻略のため木舟城を出発するも撤退します(末森城の戦い)。
1585年(天正13年)木舟城主佐々平左衛門が越中国守山城主・神保氏張、越中国井波城主・前野勝長と共に、前田方の越中国今石動城を攻めますが、守将の前田秀継、利秀親子によって撃退されました(今石動合戦)。
1585年(天正13年)羽柴秀吉による越中平定で佐々成政が降伏すると、前田利家の弟前田秀継が入城したが、同年の大地震によって秀継夫妻は没し、子の利秀は翌1586年(天正14年)に今石動城に居城を移し廃城となりました。

水田の中の微高地(土塁?)に芝が植えられ、「木舟城跡」の石碑と標柱、説明板が建てられています。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=二塚城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ12日目:道坪野城 (2022/07/31 訪問)

安楽寺城からの転戦です。国道471号農道入口付近(36.690063、136.827518)から進入して、溜池付近(36.686631、136.827724)に向かいました。

詳細は不明のようで、城主は影野左衛門、松岡新左衛門、三宅新左衛門など諸説あるそうです。

失敗しました。農道入口付近の道が広いから、溜池付近まで車で行けると判断して車で進入してしまいました。
駐車スペースも車を回転するスペースもなく、バックで戻りました。国道471号農道入口付近に路駐して徒歩で行くことをお薦めします。
上記状況で少しパニクリ登城せず撤退しました(入口の写真も撮り忘れています)。今、思えばどうせバックで戻るなら登城すればよかったと悔やんでいます。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=木船城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ12日目:安楽寺城 (2022/07/31 訪問)

当初は安楽寺城攻城前に今石動城を攻城する予定でした。
今石動城登り口説明板付近(36.682942、136.857564)にGPS座標を設定して向かいましたが、工事の通行止めに翻弄され辿り着くことが出来ません。
迂回ルートを捜しながら廻りを30分くらい車でウロウロしましたが、途中で断念して安楽寺城に向かいました。
よって、鴨城からの転戦です。源平トンネル手前の非常駐車帯(36.676293、136.835866)に駐車しました。

1369年(応安2年)土豪高橋與次衛門が居住していた『法信寺由緒』(城跡説明板)ようです。
築城年代は戦国時代前期とみられるようです。
天文年間(1532~55年)城主高橋与(與)十郎則秋が拠っていたが、木舟城主石黒左近将監に攻められて野寺村で討死したようです『越中志徴』。
その後天正年間(1573~92年)後期に佐々成政と前田利家との攻防戦において兵が入った可能性はあるが、改修を施された形跡はないようで、江戸時代には既に放棄され荒れ果てていたそうです。

源平トンネル手前の非常駐車帯の東に安楽寺城跡の標識があります。そこを登って行くと北陸電力㈱の鉄塔に出ます。
本来なら鉄塔の下を南に登るところを間違って北方向?に進んでしまい、辿り着くことが出来ませんでした。方向音痴が情けないです。
攻城時間は35分くらいでした。次の攻城先=道坪野城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ12日目:鴨城 (2022/07/31 訪問)

赤丸城からの転戦です。鴨城址周辺案内図付近(36.725465、136.919879)に到着した時、雨雲が立ち込め、雷が鳴りはじめました。
山城攻城は難しいと判断し、鳥倉集会所の登城口付近で登城を断念しました。

1363年(貞治2年)頃に築城されたようです。当時鴨城には室町幕府方の軍勢が一時駐屯していたことがうかがわれるそうです。
1491年(延徳3年)「カモ山のフタツ城」との記録が在るようです。廃城年代は不明のようですが、戦国期以降に使用された形跡はないようです。

攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=安楽寺城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ12日目:赤丸城 (2022/07/31 訪問)

浅井城からの転戦です。八幡宮入口付近(36.739695、136.926212)に路駐しました。

築城年代は定かではないようですが、城主は五位庄一帯に勢力があった国人領主中山氏で、天正年間(1573年~1592年)頃は中山国松が城主でした。
天正年間前半、上杉謙信に攻められました。1581年(天正9年)中山氏が佐々成政の支配下に入ります。
1584年(天正12年)頃、前田利家に対する防衛拠点の一つとして改修が施されたようで、虎口などにその痕跡が見られるそうです。また成政による前田方の能登末森城攻めに参加しました。
1585年(天正13年)富山の役によって佐々成政は豊臣秀吉に降伏して越中国新川郡に追われ、佐々成政に与した中山氏は赤丸城から退去し越前の敦賀に移り住んだそうです。
廃城年代は不明のようですが、この時点で赤丸城の存在意義が失われ、間もなく廃城となったそうです。
以前は赤丸城が本城とされ、北東にある浅井城はその出城であるとされていましたが、近年の調査によって浅井城こそが本城であり、赤丸城はその出城であった事が判明したそうです。

八幡宮入口に入口標識が建てられ、拝殿左横に登り口があり登山道が整備されています。
登山道を登って行くと鉄塔の所に出ます。そこを越えていくと主郭手前に大堀切が確認できます。
主郭は山頂東端部で、そこから西に下った空堀に「殿様池」と呼ばれる素掘りの井戸があります。
案内板によれば、これは昭和のはじめに地元で掘りおこされたもので、そのときに木製の滑車や井戸枠のようなものが出土しているようです。
この山頂部の曲輪群から伸びた各尾根に堀切が確認できます。
攻城時間は55分くらいでした。次の攻城先=鴨城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ12日目:浅井城 (2022/07/31 訪問)

惣領砦からの転戦です。
予定時間を60分遅れで到着した為、観光用トイレ前林道入口付近(36.742049、136.933315)で引き返しました。

延元年間(1336~40年)石黒光景によって築かれたようです。
1341年(興国2年)には南朝方であった光景によって宗良親王が浅井城に奉迎されているようです。
勝興寺の坊官・下間氏(しもつまし)が神保長職との戦いで一時的に拠っていたとされます。
天正年間(1573~92年)五位庄の領主であった中山治部左衛門国松が拠り、弟の次郎兵衛を赤丸城に配置したが、その後、上杉謙信によって攻められたそうです。
1581年(天正9年)中山氏が佐々成政の配下となります。
1585年(天正13年)富山の役によって佐々成政は豊臣秀吉に降伏して越中国新川郡に追われ、佐々成政に与した中山国松は浅井城を退去し、その後、間もなく廃城になったようです。

清水山から南東に延びる尾根先端に位置するようです。
時間の都合で登城しませんでしたが、林道終点まで行けばよかったと悔やんでいます。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=赤丸城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ12日目:惣領砦 (2022/07/31 訪問)

飯久保城からの転戦です。
ナビが示した道(氷見南IC付近から進入)にはコンクリート塊にポールがついたものでガードしてあり進入できず、しかも誤って国道160号(高速?)に乗ってしまい、氷見ICまで行って戻ってしまいました。
ふたたび戻ってきて、現地付近より北側から駐車場に行けることがわかり向かいました。30分以上ロスしました。
駐車場入口(36.807812、136.945433)から進入して、90mくらい先の駐車場に駐車しました。

戦国時代に築かれ、氷見南部地域の在地領主狩野氏の出城と考えられています。
狩野氏は1560年(永禄3年)頃には越中守護代の神保長職に属していましたが、神保氏の勢力が衰えた天正はじめ(1573年~)頃からは上杉氏に属したようです。
1578年(天正6年)上杉謙信没後には、いち早く織田方に通じました。飯久保城の詰城として、家臣の大前左近と奥野主馬が在城したそうです。
狩野氏は1585年(天正13年)富山の役で佐々成政の降伏後、飯久保城を離れたと推測され、惣領砦はこの頃廃城となったようです。

時間ロスを取り戻す為、遊歩道入口で引き返しました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=浅井城に向かいます。

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カズサン

姫路城特別公開拝観して来ました (2022/08/28 訪問)

 ヒロケンさんの投稿に触発されて、武漢コロナウイルス新株感染拡大中ながら心配でしたが、娘夫婦孫を連れて帰省して呉れ孫とのお遊びも済、8月末前後行事の空き及び週間天気の晴日が28日でしたので新幹線を乗り継いで出掛けました、当日は福山城の築城400年祭イベント日ですので福山城へも出向きました。

 浜松始発6時32分に乗るために4時起きまだ暗い、夏休み最終日曜日でしたが、こだま乗り継いだひかりともガラ空き、9時の姫路城開城前に着くも大勢の人が来城されてます。

 天守閣に登るのは平成の大修理工事中に二度見学所から観て以来、1000円の入場料を払い先ずは天守閣を目指す、最近は天守に登らず周囲から白亜の天守群を眺めてるだけなのですが、特別公開の拝観は天守閣階上階まで登らないと入れない、昔からの急階段は一歩一歩手すりを持って、辛い行脚の様なもの、その先に光が! 天守閣は登り階段と下り階段が付き流れはスムーズ、下り切って東小天守入口に、今回の特別公開の受付、500円を払い進と階段前に人数調整の為か東小天守に入った方が降りるまで順番待ち、乾小天守も同じように人数調整。
 
 今回の特別公開は過去一回あったきりで二回目との事、後には公開あるかわからない?、冥途の土産に成るのかな? 公開場所は東小天守、乾小天守、イの渡櫓、ロの渡櫓、ハの渡櫓に成って居り過去には見てない処です。姫路城の写真集などでは見て居りましたし、最近はTVでお城の博士ちゃんが特別に拝観した映像が流れて居り、脳裏に焼き付けて居た処です。
 
 乾小天守の最上階は窓が全開で連子格子も無く撮影は良好、ただ近すぎて大天守閣を全姿撮るのが至難、近くで見る大天守、小天守の東、西、乾と渡櫓のイ、ロ、ハと中庭を写真集ではなく本物を見た事は最高の感激です、また説明の方がロの渡櫓の敷板は築城当時手斧の痕が残ってると説明、投稿写真に入れえおきます。

 今回の滞在は3時間半2時間が天守閣と特別公開の東・乾小天守、イ・ロ・ハ渡櫓、久しぶり備前丸、残りが西の丸、東側の帯曲輪下高石垣、秀吉、官兵衛の頃の石垣を見学、後は姫路駅までの歩き時間。
 アナゴ弁当を駅で購入、運よくキティちゃんこだま新幹線に当たり車中美味しく頂きました。

 次は築城400年祭の福山城へ
 
 
 

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赤い城

湯殿神社 (2022/08/14 訪問)

この日は新井宿城、池上氏館と歩き、3城目がここです。
湯殿神社という小さな神社になっています。
梶原景時の末裔と称する梶原氏の居城とされます。
周辺は住宅地になっていて遺構はありません。湯殿神社の拝殿は少し高い位置にあり、さらにその上に祠もあります。
地形的には何かあっても不思議ではないですね。
わざわざ行くことも無いと思いますが

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おっちゃん

白鳥城址平面図 (2016/12/05 訪問)

現地案内板より抜粋

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おっちゃん

白鹿城跡・真山城跡案内図 (2017/04/02 訪問)

現地案内板より抜粋

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おっちゃん

白鹿城跡・真山城跡案内図 (2017/04/02 訪問)

現地案内板より抜粋

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まっちゃん88

鹿沼城跡 現地説明会 (2022/09/03 訪問)

9月3日、4日午前
鹿沼城 障子掘り発掘調査の現地説明会があります。

障子掘り(北条掘り、畝掘り)最後の機会かもしれません。

https://www.city.kanuma.tochigi.jp/0300/info-0000008162-1.html

https://www.city.kanuma.tochigi.jp/0538/info-0000008185-1.html

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モト

三重櫓がカッコ良い (2022/05/24 訪問)

久ぶりの建物のある城跡への攻城です。
三重櫓が復興されてましたがこれがまたカッコ良い。
城跡は広い公園に整備されました。
駐車場もあるので立ち寄りやすいと思います。
遺構は本丸跡に高い土塁が残っており、堀と三重櫓が雰囲気あって満足です。

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肉球

足利陣屋・栃木県足利市 (2022/08/23 訪問)

宇都宮藩戸田氏の分家筋の陣屋跡ですが市街地になり
遺構らしいものは、ほとんど失われています。
藩主が使用していたと言われる井戸が民家敷地内に残り
公園整備されるような記事を読んだ気がしたのですが
まだまだ先のようです。
足利学校の北側に移築されている表門は16年前と比べて
かなり劣化が進んでいます。
個人宅に移築されていますので所有がどこなのかは分かりませんが
早急な保護活動に着手して頂きたいです。

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