国民食となって久しい佃煮。元は家康が摂津・佃村から江戸に呼び寄せた漁師たちの保存食だったとのこと。ところで、そもそもなぜ技術指導に招かれたのが彼らだったのか。その背景に家康の伊賀越えがあるというのですが、本当でしょうか。
本能寺の変(1582)勃発後、堺から三河への逃避行の際、家康一行が佃村の神崎川を渡れず立ち往生していると、地元の漁師が船を用立ててくれたという話。まさに九死に一生スペシャルですが、摂津から分霊された東京・佃の住吉神社の由来には書かれていません。どうやら諸説あるようです。ちなみに由来書には家康が天正年間に摂津・多田神社に参詣した際に漁夫らが渡船を務めたとだけ書かれています。
伊賀越えは「苦労人・家康」にとって最大の苦労話のひとつ。関係者も多いため、真相と拡大解釈の境が見えにくいのかもしれませんね。一方で、佃煮のヒットは歴史的事実。とにかく日持ちするというのが売りで、参勤交代の大名にも重宝されたことから、一気に全国に普及したそうです。
さて、現在の佃(東京都中央区)はというと、高層マンションに威圧されながらも、その足下には当時の雰囲気がしっかり漂っています。鎮守の住吉神社も地元のみならず海運業者からの信仰が厚いようです。
一方、隣接する石川島は幕臣・石川氏が代々居住。あの鬼平(長谷川平蔵)が犯罪者の更生施設「人足寄場」を設置したことでも有名ですね。ちなみに平蔵、予算増額が認められず幕府の資金を投機で増やしたというエピソードが残る規格外の御仁。それが原因かどうかはわかりませんが、松平定信との折り合いはあまり良くなかったとのこと。
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