のざきじょう

野崎城

大阪府大東市


旧国名 : 河内

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主郭の展望所
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しんちゃん

飯盛山城の支城 (2025/05/31 訪問)

野崎城は慈眼寺の裏山の標高114.4m(111とも)・比高約80mの位地に築かれています。河内守護畠山氏の内紛の際に、畠山義豊が尚順の籠る野崎城を攻めたという記録があるようです。また若江城の支城として守護代の遊佐氏の一族が守っていたともされ、飯盛山城が築かれた後は、その支城(出城)となったようです。
また現地の案内板には「太平記」に、四条畷合戦(1348)において北朝方の縣下野守が、ここに陣を敷き、南朝方の楠正行と対峙したと記述があるとしています。主郭の西に二つの郭を持ち、主郭は二段になっていて、上下に展望所があります。主郭の南東には長さ10mほどの堀切が有り、そこから降って行くと、その先にも郭が有るようです。北西の尾根上にも郭があり、主郭の他に4の郭を持っています。
今回は吊り橋を渡って石造九重層塔のある郭に戻ってから下山しています。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)11日目:野崎城 (2024/10/02 訪問)

三箇城から徒歩25分くらいで、慈眼寺(野崎観音)山門付近(34.718963、135.644448)に着きました。

野崎城は畠山氏が飯盛城の支城として築いた城、または若江城の支城の説もあります。
河内守護・畠山氏の内訌の際には畠山尚順が城主で、畠山義豊に攻められた記録がありますが、それ以外の詳細は不明のようです。

山麓の慈眼寺(野崎観音)から遊歩道が整備されており、本丸跡に城址碑と案内板が設置されています。
登城道の階段は角度がありますが、途中に展望広場が複数あるため、こまめに休憩しながら攻城できます。
攻城時間は30分くらいでした。次の攻城先=岡山城を目指す為、野崎駅から電車で忍が丘駅に向かいました。

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イオ

ハイキングコースの道中 (2023/02/11 訪問)

飯盛山から南西にのびる支尾根上の八幡山に位置し、西麓に迫る深野池との間を走る東高野街道を抑える交通の要衝で、南北朝期には四条畷の戦いで北朝方の陣が置かれていますが、野崎城は室町中期に河内国守護・畠山氏の内紛に際して築かれたものと考えられ、その後、飯盛城の支城として機能し、飯盛城の廃城に伴って廃されたようです。

慈眼寺(野崎観音)の駐車場に車を駐めて登城開始。まず本堂にお参りして、左手奥の鐘楼の脇を抜けるとハイキングコースに入ります。登り始めてすぐに石造九重層塔の建つ郭があり、このあたりからが城域のようです。そこから階段状に曲輪群が設けられていますが、ハイキングコースや休憩所、展望所などにより改変を受けていると考えられ、旧状はよくわかりません。

西端の郭から15分ほどで本郭に到着。本郭には城址碑と説明板が建てられ、西方向の眺望が開けています。本郭から南東に下りて行くと飯盛城へと続く尾根筋が堀切で断ち切られていました。堀切から岩盤の切通道を抜けて南西に下りた先につり橋があり、その南西下には郭が広がっている…はずですが、藪に沈んでいてよくわかりませんでした。

…ということで、明瞭な遺構は堀切くらいのものですが、飯盛城へのハイキングコースの道中にありますので、ついでに訪れる価値はあるかと。

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侍ホリタン

飯盛城の出城跡を訪ねて (2023/04/08 訪問)

野崎観音慈眼寺の裏手、飯盛山南西の尾根標高111m地点に築かれた山城です。本郭と4つの郭で構成されています。三好長慶公が飯盛城を居城としていた頃には飯盛城の出城としての役割を担っていました。御城印は麓の野崎参り公園にて販売されています。

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城郭情報

分類・構造 山城
築城主 畠山氏?
築城年 室町時代
主な改修者 不明
主な城主 畠山氏
廃城年 天正4年(1576)?
遺構 曲輪
再建造物 石碑、説明板
住所 大阪府大東市野崎2-11