のざきじょう

野崎城

大阪府大東市


旧国名 : 河内

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①本郭(野崎城址碑と説明板)
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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)11日目:野崎城 (2024/10/02 訪問)

三箇城から徒歩25分くらいで、慈眼寺(野崎観音)山門付近(34.718963、135.644448)に着きました。

野崎城は畠山氏が飯盛城の支城として築いた城、または若江城の支城の説もあります。
河内守護・畠山氏の内訌の際には畠山尚順が城主で、畠山義豊に攻められた記録がありますが、それ以外の詳細は不明のようです。

山麓の慈眼寺(野崎観音)から遊歩道が整備されており、本丸跡に城址碑と案内板が設置されています。
登城道の階段は角度がありますが、途中に展望広場が複数あるため、こまめに休憩しながら攻城できます。
攻城時間は30分くらいでした。次の攻城先=岡山城を目指す為、野崎駅から電車で忍が丘駅に向かいました。

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イオ

ハイキングコースの道中 (2023/02/11 訪問)

飯盛山から南西にのびる支尾根上の八幡山に位置し、西麓に迫る深野池との間を走る東高野街道を抑える交通の要衝で、南北朝期には四条畷の戦いで北朝方の陣が置かれていますが、野崎城は室町中期に河内国守護・畠山氏の内紛に際して築かれたものと考えられ、その後、飯盛城の支城として機能し、飯盛城の廃城に伴って廃されたようです。

慈眼寺(野崎観音)の駐車場に車を駐めて登城開始。まず本堂にお参りして、左手奥の鐘楼の脇を抜けるとハイキングコースに入ります。登り始めてすぐに石造九重層塔の建つ郭があり、このあたりからが城域のようです。そこから階段状に曲輪群が設けられていますが、ハイキングコースや休憩所、展望所などにより改変を受けていると考えられ、旧状はよくわかりません。

西端の郭から15分ほどで本郭に到着。本郭には城址碑と説明板が建てられ、西方向の眺望が開けています。本郭から南東に下りて行くと飯盛城へと続く尾根筋が堀切で断ち切られていました。堀切から岩盤の切通道を抜けて南西に下りた先につり橋があり、その南西下には郭が広がっている…はずですが、藪に沈んでいてよくわかりませんでした。

…ということで、明瞭な遺構は堀切くらいのものですが、飯盛城へのハイキングコースの道中にありますので、ついでに訪れる価値はあるかと。

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侍ホリタン

飯盛城の出城跡を訪ねて (2023/04/08 訪問)

野崎観音慈眼寺の裏手、飯盛山南西の尾根標高111m地点に築かれた山城です。本郭と4つの郭で構成されています。三好長慶公が飯盛城を居城としていた頃には飯盛城の出城としての役割を担っていました。御城印は麓の野崎参り公園にて販売されています。

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ぴーかる

野崎城 (2021/05/03 訪問)

【野崎城】
<駐車場他>野崎観音駐車場
<交通手段>車

<見所>曲輪
<感想>野崎城は室町時代に畠山氏によって築城されたと推定される。三好氏が飯盛山城築城後はその飯盛山支脈東端の支城として利用された。野崎観音のすぐ山手から曲輪があり、曲輪には石塔・展望所・休憩所の東屋がある。主郭部分には10分程度で登れるので楽々です。主郭の奥には堀切があり、周回コースの東側には巨石の間を通る道があります。眺望は抜群で南はあべのハルカスから北大阪まで見渡せます。
 府内で近場朝駆けでまあ良かれと思い来ましたが、そこそこ人が来ていました<(_ _)>

<満足度>◆◆◇

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城郭情報

分類・構造 山城
築城主 畠山氏?
築城年 室町時代
主な改修者 不明
主な城主 畠山氏
廃城年 天正4年(1576)?
遺構 曲輪
再建造物 石碑、説明板
住所 大阪府大東市野崎2-11