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昌官忠

2022夏の青春18キップ13日目:高尾城 (2022/08/01 訪問)

富樫館からの転戦です。教育センター駐車場(36.515660、136.636611)の一番奥に駐車し、その先右側の登城口から攻城しました。

築城年代は定かではないようですが、1488年(長享2年)以前に富樫氏によって築かれたと云われています。
1488年(長享2年)加賀国守護大名の富樫政親は一向一揆衆徒に攻められ、籠城し、抗戦むなしく自害した場所のようです。

頂上は「高尾城址見晴し台」となっており、金沢市街が一望できます。見晴し台に説明板が設置されています。
攻城時間は25分くらいでした。次の攻城先=槻橋城に向かいます。

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赤い城

甲斐源氏祖の城 (2022/08/15 訪問)

北杜市考古資料館の駐車場の他にも幾つか駐車場があります。
資料館に石碑が立ち、向かい側すぐに入口があります。
早速空堀が出迎え、さらに公園内に進むと四郭。
郭の間にも空堀が走ります。
本丸の虎口もよく残っていました。
この時季は下草が元気で堀に降りることができる部分も少ないですが冬なら歩くこともできそうです。
五郭の先には竪堀も二条、見応えのある城でした。
最後搦手側にも周り、動線となる竪堀を見てここを後にしました。
甲斐源氏の祖とされる逸見氏の居城。
国指定史跡でもあり見学もしやすくおすすめです。

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小城小次郎

雨山合戦の舞台となった (2022/02/23 訪問)

三河総劇の一部に位置付けられる雨山合戦で奥平方と菅沼方が戦い、多大な犠牲を出しながら親今川派の菅沼方が勝利したのは桶狭間の戦いの3年前。所在すら定かでなかったこのお城が整備されたのはごくごく最近のことらしい。

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侍ホリタン

日本三大水城を訪ねて (2022/01/04 訪問)

JR高松駅から徒歩5分、玉藻公園内にあります。訪問時が夕暮れ時でゆっくり回れませんでしたが、整備された堀と石垣が印象的でした。

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侍ホリタン

石垣の名城を訪ねて (2022/01/04 訪問)

青春18切符を使用しての訪問、金毘羅詣でから丸亀城、高松城の予定でしたので効率よくまわる必要がありました。ちなみに私の地元からですと今治城までだと滞在時間3時間半、松山城までだと滞在時間1時間となるので今治城までが限界のようです。いずれは今治城にも行ってみたいです。丸亀城は現存天守の中で一番小さなものなのですが、やはり一番の見所は石垣の高さと美しさです。石垣の高さ合計は約66mで日本一です。

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カズサン

築城400年祭特別公開筋鉄御門・鐘櫓 (2022/08/28 訪問)

 福山城築城400年祭イベント当日、天守閣のリニューアルオープン日に合わせ各櫓が公開されて居ました、特に筋鉄御門と鐘櫓は伏見櫓と同じく、運良く内部見学が出来ましたので投稿致します。

 筋金御門は、福山城本丸の大手に当たり西向き建つ櫓門です、国の重要文化財指定され江戸期からの現存です、名前の通り門扉に筋金が張られて大手の要とした風格です、櫓部は白漆喰仕上げで、今回のリニューアルオープンに合わせ白漆喰の化粧直しがされて真新しく綺麗に成って居ました。
 内部は通路部のみ板張り、左右の南側と入口の北側は土間のたたきに成って居ました、今まで見てきた櫓門の内部は全面板敷しか見ていなかったので、こうゆう土間仕様もあるのかと納得、櫓石垣台の上が土間仕様。
 以前より筋鉄御門外桝形の多聞櫓復元計画が有ったようですが松も切られて発掘調査して復元かな?と思ったのですが、案内係の方に伺うと遅れている様子、まだはっきりしないのかも? 復元されると筋鉄御門、伏見櫓の間に白漆喰の多聞櫓が入り素晴らしく絵に成るのですが・・待たれます。

 鐘櫓は伏見櫓の北側、元御台所門南に現存鐘櫓として残って居り、市の重要文化財に指定されて居ます、二階建て二階部は東側に片寄って居ます、二階部に鐘がぶら下がって鐘が自動で突かれています、現在は午前6時、正午、午後6時、午後10時に時を告げてる福山の名物名鐘です。全国の現存建物では珍しい櫓です。
 
 特別公開資料、見学を運良く導いてくれた方々に感謝いたします。
 
 

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侍ホリタン

南海の名城攻城 (2022/01/01 訪問)

ここは本丸の建築群が唯一全て現存する城郭です。三ノ丸には長宗我部元親による築城時の石垣が見学できます。また雨対策として排水のための石樋が石垣に設けられています。令和4年の元旦は無料開放されていました。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ13日目:富樫館 (2022/08/01 訪問)

寺中御台場からの転戦です。久安殿屋敷公園石碑付近(36.533916、136.630652)➡石碑(36.532237、136.621768)➡説明板(36.528817、136.620195)の順番で巡りました。

築城年代は定かではないようですが、1335年(建武2年)富樫高家が加賀国守護に任ぜられた後に、野々市に守護所を設けたものとされています。
1488年(長享2年)富樫政親は高尾城に籠って、加賀一向一揆を迎え撃ちますが敗れて自刃しました。
その後一向一揆に加担していた富樫泰高が守護として富樫館に入りますが、守護は名目上だけで実態は一向宗門徒が握っていたようです。
1570年(元亀元年)富樫晴貞は織田信長と結んで兵を挙げますが、一向一揆によって攻められ伝灯寺で自刃して富樫氏は滅亡しました。

遺構は残っていないので、石碑と説明板巡りです。
攻城時間は移動時間込で20分くらいでした。次の攻城先=高尾城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ13日目:寺中御台場 (2022/08/01 訪問)

堅田城からの転戦です。大野湊緑地公園駐車場(36.594857、136.597689)に駐車しました。

幕末期に外国船渡来に備え城下町防衛の為に加賀藩が築いた台場跡です。
現在は大野湊緑地公園として整備されており、説明板と共に土塁の一部が復元されています。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=富樫館に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ13日目:堅田城 (2022/08/01 訪問)

津幡城からの転戦です。墓地入口橋の手前(36.609903、136.7049)に説明板あり、橋を渡り墓地の間を登ると終点に駐車スペースと登り口があります。
ただし、墓地終点の駐車スペースまでの道は狭く急坂ですから注意してください。

詳細は不明のようで、木曾義仲による築城伝説があるが詳らかではないようです。 現在の遺構は一向一揆によるものと推測されています。

現在は公園として遊歩道が整備されています。
主郭の切岸は高く、北側尾根に堀切があり、主郭北側に畝状阻塁があります。
最初、主郭西側にある二郭への登り口から登城しましたが、草が多く主郭に辿り着けず、三郭下の分岐点まで戻り三郭経由で登城しました。
攻城時間は45分くらいでした。次の攻城先=寺中御台場に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ13日目:津幡城 (2022/08/01 訪問)

森城からの転戦です。説明板前(36.673858、136.734328)に路駐しました。

1183年(寿永2年)木曽義仲の軍を迎え撃つ為に、平家軍の平維盛が、小高い丘に砦を設け布陣したことがはじまりと云われています。
1190年(建久元年)には、井上庄の地頭津幡隆家が居城としました。その後、1351年(正平6年)富樫氏春が籠って桃井直常と戦ったそうです。
1576年(天正4年)から一向一揆が立て籠もっていましたが、1581年(天正9年)織田方の柴田勝家らに攻められ落城しました。
1583年(天正11年)前田秀継が築城し居城とし、1584年(天正12年)末森城合戦の時、ここで前田利家と秀継は末森城救済の軍議を開いたそうです。
1585年(天正13年)前田秀継は越中国今石動城の守将となり、後に越中国木舟城へ移りましたが、地震により没しました。

物見櫓跡と呼ばれる土壇に城址碑が建てられており、その手前に説明板があります。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=堅田城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ13日目:森城 (2022/08/01 訪問)

御舘館からの転戦です。八幡神社鳥居前付近(36.715502、136.713352)に路駐しました。

詳細は不明のようですが、城主は村上左衛門と伝えられています。
八幡神社の祭神は応神天皇で、創建は841年(承和8年)で、1637年(寛永14年)森を領地とする野村佐馬丞重政は、信仰する八幡神社に神鏡を寄進しているそうです。
八幡神社の鳥居横に「八幡神社縁起」の石碑が建てられており、丘の上には、かって森城と云う砦があったそうです。

路駐付近から石段を登ると、すぐに山頂の八幡神社に到達します。境内には土塁の一部が残っています。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=津幡城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ13日目:御舘館 (2022/08/01 訪問)

末森城からの転戦です。説明板前(36.803091、136.767396)に路駐しました。

詳細は不明のようで、城主は順徳天皇、岡部忠澄とも伝えられているがそれを裏付ける史料は残っていないようです。

案内板の背後の土手を登ったところが、城の周囲を巡る細長い郭の上で、その先に大きな堀があり、その先の一段高くなっているところが主郭のようです。
主郭の東側に土塁と空堀があります。空堀はそのまま主郭の空堀の周囲に伸びています。主郭の北側と西側は二重の空堀となっています。
主郭は整備されておらず深い薮に覆われています。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=森城に向かいます。

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侍ホリタン

西国の伊達家9代の居城を訪ねて (2021/12/30 訪問)

伊達家といえば仙台を思い浮かべる方が多いと思いますが、宇和島藩も大阪冬の陣の武功として政宗の長男秀宗が宇和島城に入城してから伊達家9代が治めていくことになります。
現存12天守の一つですが、現在の層塔型天守は2代目宗利が藤堂高虎が建てた望楼型天守を撤去して新たに建てたものです。駐車場は桑折氏武家長屋門の近く観光情報センター隣の駐車場が便利です。天守は80mの城山頂上付近にあるので石段、登山道を登って行くことになります。

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おっちゃん

史跡備中松山城案内図 (2013/05/11 訪問)

現地案内板より抜粋

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おっちゃん

肥田城跡地図 (2017/12/29 訪問)

現地案内板より抜粋

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おっちゃん

飯盛城跡縄張図 (2017/02/04 訪問)

現地案内板より抜粋

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小城小次郎

人質の命と引き換えに (2022/02/23 訪問)

日近には日近奥平氏がいたが日近城の縄張は地方小領主のそれではないようだ。人質おふうの命と引き換えに徳川への忠誠を誓った見返りに、徳川が武田の攻撃にも耐えうるお城を日近奥平氏にプレゼントしたと考えたら考えすぎか。

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朝田 辰兵衛

沖縄で路線バス旅が展開されない理由は… (2022/03/19 訪問)

この日は,那覇バスターミナル→勝連城跡前間 路線バス(52番:与勝線)を利用しました。沖縄の路線バス利用は初めてではありませんでしたが,この日は遅延が顕著で約40分遅れの到着。本土では,10分でも遅れれば謝罪アナウンスを入れますが,一切ナシ。この地の路線バスでは「定時運行」というワードすら耳にしません。
さらに,本土の交通系ICが利用できないので「信号で停車している間に両替をしておこう」と両替を試みるも,「降りる時にしてください」と静止されました。どうやら,ドアを開けたタイミングでないと,両替機が作動しない仕様のようです。乗車人数に比例して遅れるのが簡単に推測できます。
また,那覇中心部から北へ向かうルートは,ほぼほぼ嘉手納基地を過ぎるまで同一ルートです。慢性的な渋滞が発生しています。
沖縄で路線バス旅が展開されない理由は,たぶん以上の理由からではないかと思います。
時刻表を確認しながら,キツキツのスケジューリングは泣きを見ます。みなさんは,「これが沖縄時間なんだ」と本土との差異を感じ,笑い飛ばすぐらいの余裕で受け入れてください。

勝連城についてですが,勝連城跡前バス停から,徒歩約3分であまわりパーク到着。
あまわりパークでチケットを購入しないと,勝連城には立ち入れませんのでご注意を。

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スキー小僧

犬山城と木曽川

犬山橋から撮影した犬山城です。

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