きたそねじょう

北曽根城

岡山県和気郡

別名 : 曽根城、和気北曽根城、古城、名黒山城
旧国名 : 備前

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①本丸
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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征29日目:北曽根城 (2026/06/08 訪問)

今日の天気は曇のち15:00頃から雨の予報ですが、和気駅南駐車場についた12時前には小雨が降っていました。
富田松山城から車で25分くらいで、和気駅南駐車場(34.796376、134.152398)に着きました。
そこから、最上稲荷鳥居入口(34.799241、134.148300)に向かいました。

この城には最初、恒次(経次)氏が居城していたようです。恒次氏は和気郡新田庄内に地盤をもつ土豪で、1511年(永正8年)頃、恒次新左衛門尉家員なる者が和気にいたようです。
1553年頃(天文後期)天神山城に浦上宗景が蜂起し兄政宗に叛旗をひるがえすと、政宗は恒次新左衛門と森氏を恩賞をもって誘い、味方して天神山城の通路をふさぐよう命じています。
恒次氏らの不穏な動きを知った宗景は、先手を打って彼らを攻撃し、未然に滅ぼしたそうです。
恒次氏を押えて和気地方を制した宗景は、北曽根城に宿老明石行雄(景親)の弟(長男とも)である明石三郎左衛門景行を入城させます。
1568年(永禄11年)景行は城の東にある由加神社に征矢を寄進しています。主君宗景は播磨出兵に着手しており、戦勝を祈願して奉納したのかもしれません。
1574年(天正2年)宇喜多直家が浦上氏から離反し毛利輝元を頼んで謀叛すると、景行は行雄とともに宇喜多氏方についています。
景行は直家に仕え活躍したものの、1577年(天正5年)「上月城の戦い」で羽柴秀吉に敗れ、討死しました。
その後、一族の明石右近が城主となりましたが、豊臣秀吉の朝鮮出兵に従軍し1593年(文録2年)戦死したため廃城となりました。

和気富士の頂上にあり、和気駅からだと徒歩30分ほど、攻城口からだと20分くらいで着きます。
攻城口から、ずっと階段を登って行く感じです。和気富士と言われるだけあって、美しい形の山で、登っていく途中の景色も良かったです。
現在城址には石垣や土塁などの遺構が良好に保存されていました。
攻城時間は60分くらいでした。次の攻城先=太鼓丸城(城びと未登録 岡山県和気町)に向かいました。

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ランフランコ

#26 名黒山城 (2023/02/25 訪問)

和気アルプスに登山に行った際の最初の山が城跡でした。大層見晴らし良いです。

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ぴーかる

和気富士 (2022/12/04 訪問)

【北曽根城】
<駐車場他>和気町営和気駅前駐車場を利用(100円)
<交通手段>車

<見所>石垣・巨岩
<感想>1泊2日城びと美作・備前山城攻めの旅2日目5城目。朝一に2日目メインの天神山城登城口(和気美しい森)に行ったがあいにくの雨模様で断念し、次の城 数キロ南の北曽根城は曇天ながら行けました。
 
 北曽根城の築城・築城者とも定かではないですが戦国時代には明石景行の城だったそうです。北曽根城は和気富士とよばれる山の山頂にあり、和気富士は北方向に伸びる和気山脈の先端部分にあたります。山全体に巨岩が多くあり麓に大正時代に自然石に彫られた大題目岩があります。松茸山で秋は入山禁止のようです。
 登城ルートはいくつかあるようですが<34.799246, 134.148301>ポイントの奥から入るルートを選択しました。ハイキングコースにもなっているので傾斜はきついですが登り易いです。途中に岩場の眺望の良い所(山頂は木々が少しあり完全には開けていない)、2段程の曲輪があります。25分程で山頂に着きます。急斜面の為か曲輪は山頂部分に集約されています。主郭部分に電波塔があるので少し改変されていますがコの字状の石垣曲輪や巨岩を組み合わせた石垣遺構は見応えあります。ただ分かる城跡遺構の面積が小さいので少し物足りない。

<満足度>◆◆◇

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小城小次郎

山上には磐座もあるようだ (2021/05/02 訪問)

宇喜多家の重臣となった明石氏の一族である明石景行(明石全登の息子の景行とは別人)が居住したとされる。和気富士と呼ばれる美しい山の上には磐座もあるようで、和気清麻呂も参拝したかも、などと思うとちょっと楽しい。

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城郭情報

分類・構造 梯郭式山城
築城主 不明
築城年 不明
主な城主 明石氏
遺構 曲輪、石垣、横堀(空堀)
指定文化財 町史跡(和気北曽根城跡)
住所 岡山県和気郡和気町曽根