オダニーといえば浅井( ・᷄ㅂ・᷅ )
浅井といえば( ・᷄ㅂ・᷅ )お市
お市といえば( ・᷄ㅂ・᷅ )お江
と言うわけで、やってきました小谷城=͟͟͞͞(( ・᷄ㅂ・᷅ )
でもクタクタで、浅井三代の里で兜見て終わり
しかも武士やられとるし
次回は登ろう
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検索結果・・・「」を含む投稿
2022/11/05 02:37
オ( ・᷄ㅂ・᷅ )ダニー (2017/08/10 訪問)
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浅井といえば( ・᷄ㅂ・᷅ )お市
お市といえば( ・᷄ㅂ・᷅ )お江
と言うわけで、やってきました小谷城=͟͟͞͞(( ・᷄ㅂ・᷅ )
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2022/11/05 00:24
ここが越後にならなかったのは… (2022/10/29 訪問)
ここが越後にならなかったのは,武田晴信軍の攻めに対し,飯森盛春の援軍要請に長尾景虎軍が間に合わず,ほぼ全員が討ち死にし落城したためかぁ…。当時,越後側から姫川渓谷を越え,平倉城に入るのは相当大変だったと思います。現在は5㎞超のトンネルでアクセスしており,雰囲気を感じれませんが…。
この周辺の信越国境は,越後国内を信濃国がえぐっている形になっています。えぐっている中心が平倉城。
標高:823m,比高:300m。黒倉集落を過ぎたところに登城口。平倉神社から下り,沢を渡ってから平倉山を目指します。山頂部は物見として利用されていたと思います。
雨男のハズが,珍しく晴れました。登城途中の標高:600m付近からの眺望は紅葉も見頃を迎えており,登城疲労も心地良いものとなりました。
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2022/11/04 23:27
2022/11/04 23:24
四国の続100名城を訪ねて(2日目) (2022/11/04 訪問)
駐車場は登城口にあります(風呂ヶ谷駐車場)。パンフレットは駐車場にある案内板隣のポストの中、スタンプは西第十曲輪の建物内にあります。御城印は松丸駅近くの「不器男記念館」内で販売されています。U字状の尾根を利用して幾つもの曲輪が階段状につながっている珍しい構造です。地元の小学生が作成した説明板が随所に設置されていて理解を深める助けになります。
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2022/11/04 21:41
程よい整備された良い城 (2022/10/09 訪問)
住宅地の間の細い道を登ると数台駐めれる駐車場があります。
獣避けの柵があり、これを開けて登ります。
脇にパンフレットと杖も置いてありました。
そんなには登りません。
まずは西側の堀切を目指しました。
まずまずの堀切がありました。
引き返し、主郭に向かいます。
途中、帯曲輪や土塁が残っています。
主郭は円形で南北に虎口がありました。
さらに東側の堀切は二重となり、縦土塁も残っています。
詳細は不明ですが戦国時代に武田氏か織田氏のどちらかによって築かれたとされています。
地元の方によって程よく(これが肝心)整備された城。是非訪れてほしい城です。
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2022/11/04 20:37
内濠に真鯛が飛跳ねてます (2022/10/23 訪問)
77年振りの木造復元桜御門見学探訪し、艮櫓周り天守台周り月見櫓周りと見学探訪もしました、時間も有って初の内濠遊覧をと考えましたが、予約で後の時間まで埋まってる。
内濠遊覧、鯛の餌付けをやってる所を内堀の周辺三の丸西側で眺めて居ましたが、餌付け鯛、ちぬ、赤い真鯛が群がって泳いでおり、飛跳ねてる真鯛も、内濠は瀬戸内海とつながって居り海の魚が多く泳いで居ました、海城、海に浮かぶ城と言われる所以でしょう。
飛跳ねてる真鯛が印象に強く残ったので、高松城投稿5編目で此れで最終です、長らくお付き合い頂き有難うございました。
高松城探訪ではJR快速マリンライナーを利用しました、児島駅ホームで別れのマリンライナーの先頭部写真も投稿します。
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2022/11/04 18:59
電車の時間との戦い (2022/10/23 訪問)
東武線はお城巡りするのには有りがたく、かなり遠方まで走っており助かってます。
そのかわり郊外に行く程に運行本数が少ないの痛いがところ・・・佐野線に至っては一時間1本間隔なので、現地での見学時間と徒歩時間を考えておかないと待ち時間が厳しい事になります。
今回訪問した植野城こと堀田佐野城は最寄り駅の田島駅から2kmちょいあり、一般の人なら片道30分の距離になります。
そんな植野城に1時間で行って見学して戻る工程を決行したのが失敗だったかなぁ・・・高松城で僥倖だったからテンション高くて決行したっていうのもあったんですが。。。
植野城は碑石と解説があるエリアと、道を挟んでとなりに城址公園のエリアがあります。
どちらも遺構は残っていない・・・おそらく城址公園も後世に整備されたものだと思われます。
ものの10分程度で見学を終えて田島駅へ戻る・・・発車時間まで@22分・・・
全盛期だったらなんてこと無い時間だったんですが、道中が国道50号線沿いで空気が悪いのに加えて調子はまだ完全にはほど遠い状態だったので。。。
ギリギリ電車には間に合いましたが、やはり判断力が落ちていたのか・・・
自販機で冷たい無糖のお茶を買おうと思ったのに、あろうことか暑いカレースープを買ってしまうという・・・上下のボタン間違えるなんてなんて日だ!
折角のラッキーデーが台無しになってしまったというオチ(笑)
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2022/11/04 12:55
西播磨の山城「尼子氏再起の夢城」 (2022/10/30 訪問)
「西播磨山城11」の投稿です。
上月城はご存じのように秀吉が播磨攻めの際に立てこもる赤松氏を攻略し落城。
落城後、再起を掛けて羽柴勢に味方していた尼子氏が入るが、毛利勢に囲まれ孤立した。
その援軍として羽柴勢が駆けつけるも離反した三木城攻めに向かったことから見捨てられ、落城。
尼子氏の再起の夢は露と消え去った。
歴史を感じる山城。麓にも尼子勝久の追悼碑など祀られています。
高さも手ごろで、整備されて歩き易い山城ですが曲輪や堀切も多く残る歴史のあるお勧めの山城。
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2022/11/04 12:27
西播磨の山城「山頂の石垣要塞:長水城」 (2022/10/30 訪問)
久しぶりの投稿となります。
4月に愛知県の単身赴任から兵庫県に戻り、今年は西播磨の山城巡りをしています。
今回は「西播磨山城11」のひとつ長水城。
宍粟市山崎町の登城道から約90分かけて標高595mの主郭に到着。
麓から約40分ほどで尾根まで上がり、そこから50分(約2km)の尾根道歩き。
尾根道は大きなアップダウンもなく、整備されて非常歩き易く、長時間の歩きでもそれほどの疲れはありませんでした。
でも途中で目の前をイノシシ2匹が駆け抜けるなど、非常に自然の中での行程。
本郭に辿り着くと最大6mの壮大な石垣が現れ、またそこにはお寺があり、非常に驚きました。
そこからの眺めは紅葉の始まった西播磨の山々が見渡せる絶景を独り占め。本当にここまで来て良かった。
主郭の石垣は、戦国期前に赤松氏が築いたのを後世に積み直ししたと説明が書かれていますが、この場所に石垣があるだけで感動。
「西播磨山城11」を順に巡って行きますので、また投稿します。
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2022/11/03 23:52
感動しかない!! (2022/10/11 訪問)
赤木城から、丸山千枚田・さぎりの里・花の窟・獅子岩に寄っていただきながら鬼ヶ城へ行きました。
そこらじゅう世界遺産\( ˆoˆ )/
城跡の展望台まで往復する時間はなさそうだったので、岩場の遊歩道を行けるところまで歩きました。楽しさいっぱい、驚きいっぱい。自然の力ってすごい!
いつか熊野古道の松本峠に抜けるハイキングコースを歩いてみたいです。
①〜⑥鬼ヶ城
⑦丸山千枚田
⑧花の窟
⑨獅子岩
⑩お土産
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2022/11/03 23:46
鉄道開業150年パスを利用!東北シリーズその4 多賀城 (2022/10/23 訪問)
鉄道開業150年パスを利用して東北シリーズその4
宿泊は全国旅行支援で40%OFF♪
2日目は宮城県。
中近世のお城ではなく古代のお役所ですね。戦う感じがしません(^^)
国府多賀城駅から徒歩で登城しました。駅近くには観光案内所(というほど立派ではなくプレハブ)があり、おじいさんが丁寧に教えてくれました。手書きの地図は助かりました。
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2022/11/03 22:59
2022/11/03 21:47
番所 堂沢出城 若槻里城 (2022/11/03 訪問)
番所(ばんどこ)
若槻山城主郭から約400mの位置に番所跡はあります。標柱のある曲輪では土塁等を見ることができます。背後には堀切がありますが、さらに登って行くと連続堀切があります。若槻山城主郭背後にある堀切より深いような印象を受けました。「埋もれた古城」さんのHPの縄張り図が役に立ちました。
堂沢出城
若槻山城と若槻里城の中間にある遺構です。曲輪跡、土塁、堀跡を見ることができます。
この遺構は平成15年若槻小学校6年1組の生徒が山城を探訪した帰りに発見したと案内板に書かれていました。Good Job!!ですね。
若槻里城
若槻頼隆が築いた居館跡で、若槻山城は詰城とされています。若槻里城公園となっていて案内板と石碑があります。
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2022/11/03 21:33
若槻頼隆 (2022/11/03 訪問)
12世紀後半に麓にある若槻里城の詰城として八幡太郎源義家の孫、若槻氏を称した頼隆により築城されたとされています。ただ現在残る遺構は上杉謙信により整備されたものらしいです。背後に番所、下方に堂沢出城があります。
林道三登山山麓線(未舗装)に登城口から登り始めると城の遺構かと思える削平地があり、10分くらいで五の郭に行くことができました。段々になった曲輪を見ながら主郭に行くと案内板や土塁等があります。見どころは主郭背後にある堀切です。三本あると思いますが、二本は見ごたえのある堀切です。堀切から竪堀も落ちているのですが、浅くなっているのと木の葉等で少し見づらい状況です。もう少し葉っぱが落ちた季節の方がいいかもしれません。城域はトレッキングコースとなっていて比較的歩きやすい。
長野駅からバスに乗り東条中バス停で降りて若槻温泉近くから堂沢出城跡を経由して登って行くと先に述べた林道に出ます。その林道の出口の近くに若槻山城への登城口があります。林道を使えば車で登城口までいけますが、未舗装で道もそれほど広くないので要注意です。
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2022/11/03 21:31
2022/11/03 18:52
2022/11/03 14:13
【島津VS大友:最終決戦の城巡り】 (第8回)鶴賀城②(戸次川合戦の地) (2022/09/22 訪問)
「鶴賀城①」からの続きです)
鶴賀城(利光山)を下り、川沿い(国道10号線沿い)を歩くと、ここで合戦があった事を示す標柱が立っていました(写真①)。まさにこのあたりで激戦があったものと思われます。そしてそこから500m程東の所に、戦死した「長宗我部信親」の墓がありました(写真②)。
1587年(天正14年)12月11日、豊臣秀吉から命を受け、「仙石久秀」を軍監とした四国連合軍「長宗我部元親・信親、十河存保」6,000が豊後に到着し、「大友義統(よしむね)」(宗麟が家督を譲った嫡子)と合流します。鏡山城まで進んだ所で軍議を開き、義統は鶴賀城に籠城する利光宗魚を助けてほしいと久秀に嘆願します。存保は同意しますが、長宗我部親子は秀吉本隊が到着するまではここを動いてはならぬと秀吉様から命を受けていたはずと反対します。実は、この仙石と長宗我部は1年前まで四国で戦っていた敵同士、最初からお互いを信用していませんでした。
翌12日、鶴賀城を包囲する島津兵は伊集院久宣が率いるわずか2,000。意外と少ないと悟った久秀は、救援すべく川を渡る事を決意します。(実はこれが罠!また島津得意の「釣り野伏せ」です! 島津家久18,000の兵が回りに潜んでいました)。鶴賀城を囲んでいた島津兵2.000は南にいったん逃げます(これはおとり)。長宗我部親子と存保は逃がすまいとこれを追いますが、ここで隠れていた家久の兵が一斉に現れ両者(仙石軍と長宗我部・十河軍)を分断。仙石久秀はこの大軍を見て真っ先に北へ逃げました。取り残された長宗我部親子の最後尾にいた元親の方は何とか逃げる事ができましたが、信親と存保は逃げきれず結局討ち死にしてしまいました。
信親は失った長宗我部家の信用を秀吉から取り戻そうと積極的に前へ出ましたが、それが結局あだになってしまいます。なぜ信親は土佐のためにならぬこの戦にそこまでしたのでしょうか? そして最愛の嫡男を失った元親の悲しみはいかばかりであったのでしょうか? この後、四国に逃げ帰った仙石久秀は、秀吉から命令違反を責められ讃岐を没収、長宗我部元親は信親の死に免じて土佐を安堵されたとの事です。
戸次川合戦の内容を、また遊びで写真図を作ってみました。よければ御覧下さい。(写真④)
次は大友館へ向かいます。
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2022/11/03 13:57
女城主の山城 (2022/10/09 訪問)
訪問時は上の駐車場への道が工事中で通行止めだったこともあり、岩村歴史資料館の駐車場を利用。
スタンプもここにあります。
また、復元された藩主邸もあります。
登城路を登り一の門、土岐門と進んで行きます。
追手門にはかつて三重櫓が建っていましたが今は石垣が残っています。
八幡曲輪からさらに登るとお馴染みの六段壁に。
6段になった石垣はやはり圧巻でした。
桝形となった虎口の先が本丸となります。
本丸の裏門は3種類の石垣がある埋門も残っていました。
標高771メートルのところにある山城、眺望も良いはずですがこの日は生憎の曇天。
ちょっと残念でした。
信長の叔母が一時期女城主を務めた城です。
やはり下から歩いて登るのが正解ですね。
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2022/11/03 10:16
正法寺山荘 (2022/09/25 訪問)
【正法寺山荘】
<駐車場他>城跡内に8台程度の駐車スペースあり。
<交通手段>車
<見所>石垣・屋敷跡
<感想>現地説明板によると正法寺山荘は関一族の武将、関盛貞(織豊時代の関盛信の曽祖父にあたる人)が永正年間(1504年~)の初めに築いたそうです。戦国時代にあってもこの砦へは連歌師が訪れ、詩歌や茶の湯が行われたそうですから関氏の拠点亀山城の保養所的な役割の砦だったかのように思います。当時は周辺にも寺院が建ち並んでいたそうです。
城跡は3方向に小野川が回り込むように流れており、西方向は山になっています。広い削平地に郭は石垣で方形に仕切っています。石積みの虎口や石段や暗渠・石組井戸も見られます。石は角が取れた丸みのあるもので脇にある小野川から集めたものと考えます。全体を小野川に沿うように土塁で囲んでいます。
16世紀初頭に築造されたとは思えないほど遺構が明瞭に残されていて納得の国史跡で見応えあります。夏場に伸びきった雑草がそのままで来訪時期を間違えたのが少し惜しかった。城跡に桜が植えられているのでその時期はすごくいいと思います。
<満足度>◆◆◇
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2022/11/03 01:10
知立古城址と池鯉鮒宿 (2022/10/21 訪問)
短時間だが知立城址に立ち寄った。現在は住宅地で西町児童公園に城址碑と案内板のみが建っています。遺構らしきものは見当たらなかった。知立神社の神主を務めていた永見氐の居城で、今川義元に仕えていたが、永禄3年(1560年)桶狭間の戦いで織田信長によって落城となりました。天正年間に刈谷城主水野忠重によって御殿が建てられ、将軍上洛時の宿泊施設となっていましたが、元禄12年(1699年)の大地震により倒壊しました。案内板にある17世紀後半(江戸時代前半)の池鯉鮒宿(品川宿より39番目の宿駅)の宿並図にある、本陣、脇本陣、問屋場跡は時間の都合で確認出来なかったが、敷地三千坪の雰囲気を味わって来ました。
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