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橋吉

総構え (2022/08/10 訪問)

鶴岡のホテルを出て、バイクで1時間50分で着きました。
東北電力村上電力センターの入口にて続日本百名城スタンプを押印、パンフレットも置いてありました。
電力センターの少し先に駐車場があります。
村上城は、総構え(城下町全体を要塞化すること)であったのでここらは、すでに城内です。

一文字門跡から山頂にある本丸まで続く七曲道が始まります。
七曲道は緩い勾配で登りやすいですが、それでも息があがり汗が吹き出ます。
やがて四ツ門が見えます。
左へ行くと三の丸、右は二の丸・本丸、直進するともう一つの登城路の中世遺構散策コースと四叉路になっており、ここに門が設けられていました。
合理的ではありますが、防御的観点から見るとどうでしょうか。
私ならば、あえて互い違いにしますが・・・。

訪問する一週間ほど前で村上市を豪雨を襲いました。
よって、訪問すべきか悩みましたが、村上城のあるところは被災地とは違うという情報を得て今回登城することにしました。
しかし、このあと米沢城に向かう途中、災害の爪痕を目にしました。
被災された方々にはお見舞い申し上げます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ12日目:弓庄城 (2022/07/31 訪問)

日中城からの転戦です。弓の里歴史文化館駐車場(36.674763、137.363290)に駐車し、石碑由来碑前(36.673500、137.362525)に向かいました。

築城年代は定かではないようですが、土肥氏によって築かれたと云われています。
土肥氏は相模国土肥郷を本貫とする土肥次郎実平の5代目実綱が、滑川の堀江に入部し、上杉謙信の庇護を受け新川郡一帯を領する戦国領主に成長しました。
実綱から4代後の政道がここに城を築き、政忠、政良(政繁)の3代が居城としたようです。
1578年(天正6年)上杉謙信が死去すると、越中に侵攻する佐々成政、柴田勝家らの織田勢に従うことになります。
1582年(天正10年)織田信長が本能寺の変で討たれると、再び上杉勢に属した為、佐々成政の攻撃を受けることとなります。
1582年(天正10年)と1583年(天正11年)の二度にわたって、佐々成政の攻撃を受けたが落城しなかったそうです。
土肥氏は籠城しますが、越後の上杉景勝からの来援もなく、上杉勢の拠点魚津城が落城したため、孤立しました。
1583年(天正11年)佐々成政と和議を結び、城を明け渡し越後に逃れました。その後、上杉軍と共に奪還を図ったが失敗し、越後に在住したそうです。

「弓の里歴史文化館」の北側駐車場横に説明板があります。
西側の水田の一角に「弓庄城本丸跡」の石碑、由来碑があります。 
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=郷柿沢館に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ12日目:日中城 (2022/07/31 訪問)

宿泊先のホテルルートイン富山インターから、墓地付近空スペース(36.674027、137.355203)に着きました。

1583年(天正11年)佐々成政によって築かれたようです。
弓庄城の城主土肥美作守政繁は初め上杉謙信に従っていましたが、1578年(天正6年)謙信が急死し、織田信長が越中に進出すると、織田方に従うようになりました。
しかし、1582年(天正10年)本能寺の変で織田信長が没すると、再び上杉方に通じるようになりました。
これに対して佐々成政は、1582年(天正10年)から1583年(天正11年)にかけて、越中支配のために上杉方がいる越後の西海岸まで侵攻しました。
佐々成政は弓庄城主・土肥政繁を攻める為、4つの砦を築きますが、日中城や郷田砦はその付城であったといわれています。
土肥氏は弓庄城で籠城を続けますが、豊臣秀吉が賤ヶ岳の合戦による戦後処理として成政の越中支配を認めた結果、上杉方に通じていた政繁は弓庄城を明け渡して越後の糸魚川へと退去したそうです。

現在は墓地となっています。崖となっている東側(白岩川)を除く三方に土塁と堀が巡らされていますが、草が凄くわかりにくいです。
虎口は南西にあり土橋が架かっています。土橋脇には立派な城址碑があります。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=弓庄城に向かいます。

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スミヤキ

信州の五稜郭 復活の狼煙! (2022/08/27 訪問)

五稜郭の中に素朴な学校の校舎と校庭がすっぽりと納まった、緑豊かな素敵な城跡・小学校です。

幕末の頃、若年にして西洋事情に深く関心を持ち、とりわけ洋式の築城技術、火砲を熱心に学んだ英明な殿様が、1863年24歳で幕府大番頭登用を期に三河奥殿から信濃佐久郡に本領移転を願い、併せて新陣屋五稜郭建設の許可を申請、翌年着工して、1867年4月竣工するも、当初思い描いたようにはならなかったようです。明治新政府の時代となり1871年、廃藩とともに全国の城郭取り壊しが布告され、築城僅か数年で龍岡城は歴史の幕を閉じます。殖産興業に力を注ぎ、蚕種、生糸の増産を奨励、薬用人参の栽培を指導し、領村に富をもたらした名君の殿様がどんなお城の完成形を考えていたのか興味がつきません。

そしてこの素敵な小学校も今年度末で役割を終え、閉校することが決まっているそうです。小学校全施設を解体撤去した後、そうです! 竣工当時の龍岡城に復元整備する計画が、今後進められるとのこと。御殿、美しい稜堡の石垣、五稜郭をどのように見せてくれるのか、大注目です。

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宗春

青春18きっぷで城攻めしよう その4 新府城 (2022/08/28 訪問)

青春18きっぷの期限まで残り僅かとなった8/28、4月に悪天候のために中止した「青春18きっぷ+レンタサイクル」による城攻めを敢行しました。今回も雨が心配され、実際本丸で少し降られましたが、概ね曇り(薄陽が差す事も)で快適な旅でした。

何故にレンタサイクルか?ご存じの方もおられると思いますが、続百名城スタンプが設置され御城印を販売している韮崎市民族資料館が中途半端な場所にあり、車でないと行きにくい。車で行っては青春18きっぷを使えないので、韮崎駅の観光案内所で電動アシスト自転車をレンタルしました。電動アシスト自転車は初めて乗りましたが、結構キツイ登り坂もあったので大正解でした。

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にのまる

大手門へ。 (2022/06/10 訪問)

40分かけて中ノ門から市橋門まで見て歩いたところで中曲輪の門巡りは一旦終了。西御屋敷跡庭園(好古園)は後まわしにして、大手門に向かいました。
内堀沿いの石垣の、補強、拡張、修理したと思われる箇所や、石積みの基本的な分類に属さないデザイン性に富んだ個性的な箇所などを見ていると、その向こう側にいる人たちのことを思います。
城を残し後世に伝えることがなぜ大切なのか、石垣からメッセージを投げかけられた思いです。

いよいよ桜門橋と大手門です。
(大手門は何とか人が写り込まない写真を撮れましたが、桜門橋は無理でした。)
どちらもかつての姿とは異なるようですが、大手門を潜ると広大な三の丸広場が現れ、大天守が目に飛び込んできました。

<続く>

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姫街道

総構えが凄い! (2022/07/10 訪問)

7月の暑い日でしたが、念願の総構えを一通り歩きました。
自然地形を生かしているとは言え、凄いスケール!よくこれだけ残してくれたと感謝。とても一回来ただけでは勉強しきれないが、念願の小田原城総構えを歩けた事は記念となった。

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姫街道

見事な石垣 (2022/06/24 訪問)

これぞ石垣と言うような見事なお城。城域も綺麗に整備されており歩きやすい!甲府の街を一望出来、素晴らしいの一言。

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姫街道

さすが戦国最強の武田信玄 (2022/06/24 訪問)

武田氏館跡は、後世の変革も大きいと決めつけていたので、何となく足が向かなかったが、、行ってみて、戦国期の遺構が思いの外残っていた事と、その巨大さに驚いた。「よく徳川はこの武田を相手にしようとしたな」と言うのが、武田氏館を見た第一印象だった。

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姫街道

勝頼公を感じる城 (2022/06/24 訪問)

天正9年の築城。その後、武田の築城技術を徳川が活かして我々遠江の国や本坂道筋に数々の山城を築いていった。感慨深い。残念ながら6月はまだ草が生い茂っていて縄張りを理解するには至らなかったが、業者の方が主曲輪部だけでもと一生懸命に草刈りをして頂いていて、お陰様で勝頼公を感じられる事が出来た。

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T-Shionoya

山中城訪問 (2005/03/20 訪問)

久々の過去のお城巡りの振り返りは第18弾。障子堀で有名な静岡県三島市の山中城。

箱根外輪山の中腹、南東部は来光川、北西部は山田川の谷に挟まれたエリアを城郭とした城。
1560年代、小田原北条氏により箱根越えの東海道に築かれ、田方平野から富士の裾野に掛けての眺めが良好。
武田や徳川に睨みを利かせる役目の城だったことでしょう。
しかし秀吉の小田原征伐では、事前に城を拡張・強化したものの、圧倒的な兵力の差に半日で落城し廃城に。

現在は、土の城を芝生で整備した史跡公園。
最初の訪問時は岱崎出丸、本丸、西ノ丸の順で回り、滞在時間は約2時間。
その中で、田尻の池と箱井戸の間から、土塁に挟まれたクランク状の通路進むと、正面に二ノ丸虎口の櫓台(大土塁?)が現れるところは魅力的。
畝堀と障子堀に囲まれた西ノ丸は、西櫓の曲輪が馬出と考えられていますが、木橋がないとイメージし難いですね。

先週も城びと投稿前の確認のため、3回目の山中城へ。
中腹に雲が掛かっていたものの、西ノ丸で富士山を見ることができました。

※写真は、3、5、8、9枚目が'05年のもの、他は'22年8月のもの

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赤い城

善慶寺と熊野神社 (2022/08/14 訪問)

大森駅から徒歩で15分。
善慶寺とその背後の熊野神社が跡地と推定されています。
善慶寺は領主の厳しい年貢の取り立てに反旗を翻した義民六人衆との関わりで有名だそうです。
勉強になりました。
その背後の熊野神社は高台にあり、それらしさを感じることができます。
推定地なので遺構はありません。
北条氏家臣の梶原氏との関わりがあるとされています。

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朝田 辰兵衛

公共交通利用なら,木古内駅前起点に。 (2021/07/09 訪問)

路線バス本数と時刻を考えるなら,木古内駅前を始発の路線バスで移動するのがベストだと思います。木古内駅前にもようやくホテルがオープンしましたので,前泊利用しました。ただ,注意すべきは天候。木古内町は曇り時々雨だったのですが,上ノ国町は快晴。峠を隔てているので,向こうとこちらでは天候相違。本州の,太平洋側と日本海側のようです。北海道の広さを肌身で感じました。
降車バス停ですが,洲崎館,花沢館を経由するのであれば「北村」で。直接向かう時は「大留」で降車したほうが便利です。どちらで降車しても天の川を渡って,重要文化財の笹浪家住宅付近から登城できます(案内標識アリ)。上ノ国勝山館の北西方向になります。ここから徒歩約50分でガイダンス施設到着です。そもそも,こちら側が大手口でした。
なお,ぬかるみが深かったため,井戸跡へは行けませんでした。

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うさ

亀山城 (2022/08/24 訪問)

まだまだ暑いので、山城ではなく見学しやすい所と考え、亀山城へ。
街中に溶け込み、学校からは部活の元気な声が。
公園になっているので見学しやすかったです。転用石を見つけて大満足。

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はなじろー

落ち着いた街並み (2020/02/16 訪問)

バス通りから垂裕神社までの道(杉の馬場)は、左手に石垣が続き、
何か所かに橋がかかり、気分よく歩くことができます。
訪問した時期は移築門の横で、梅の花が可憐に咲いていました。

城下町も風情があり、久野邸の手入れされた庭や宮地嶽神社からの眺め、目鏡橋の石組みなど、
見どころが多いです。

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はなじろー

石垣が立派! (2020/02/16 訪問)

石垣の保存状態が良かったです。
城東側の石垣は迫力がありますが、横矢部分が駐車場になっているのには笑ってしまいました。
筑後川側の整備が進むと、より魅力的になると思いました。

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はなじろー

土塁と堀 (2020/07/24 訪問)

杉山城から徒歩で向かいました。
杉山城は典型的な山城でしたが、
菅谷館は土塁と堀が思っていた以上に高低差があり、
迫力がありました。

武蔵嵐山駅→杉山城→菅谷館→武蔵嵐山駅
のコースは、歩き慣れた人におすすめします。

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はなじろー

歩き慣れてないとしんどいです (2020/07/24 訪問)

武蔵嵐山駅から嵐山町役場経由で、杉山城を徒歩で目指しました。
城はよく整備されており、城全体や細部の遺構がわかりやすかったです。

スタンプを押すために役場に寄りましたが、
役場が丘の上にあるので、アップダウンが気分的にしんどいです・・。

杉山城の後、徒歩で菅谷館を目指しました。
この日は良く歩いたのでビールをおいしく飲めました。

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はなじろー

いすみ鉄道の鉄橋が見えます (2020/08/10 訪問)

茂原からバスで大多喜を目指しました。
大多喜高校の敷地にある薬医門を見てから、登城です。
見どころが多いとは言えませんが、帰り道に夷隅川を渡る電車を見られてラッキーでした。

有家さんのとんかつがボリュームもあり、おいしかったです!

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はなじろー

北の大地 (2018/08/08 訪問)

夏に訪問しましたが、風が強く肌寒い天気でした。
北の大地の厳しさを表すように、一面の草原のようなところでした。

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