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宗春

千葉の城を攻めて御城印を頂こうシリーズその28 中峠城 (2022/08/27 訪問)

千葉の城を攻めて御城印を頂こうシリーズその28

遂に出ました!我孫子市初の御城印!早速「アビシルベ」で御城印を購入し、そのまま攻めて来ました。

このテの城址によくある、竹藪放置。残りは宅地開発のために破壊済みという城址でした。
何となく土塁かな?もしかすると曲輪?たぶん堀?と想像するしかありません。

でも、案内板の裏手から古利根沼を望むことができたのですが、その高低差に、やはりここは城だったんだと改めて思いました。

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はなじろー

関東の城 (2022/03/06 訪問)

現存当時の姿を想像できるような堀、土塁が残っていて雰囲気があります。

ナビがないと、辿り着くのが難しいです。

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トク

紅葉の備中松山城と天空の雲海 (2020/11/18 訪問)

2年前ですが、紅葉と雲海に浮かぶ備中松山城が見たくなり訪れてきました。

駅前から観光タクシーで8合目まで行き、そこから徒歩で、紅葉や岩盤と融合した石垣を見ながら天守へ(写真①②)。明治では廃城令の対象でしたが、山の上にあったため誰も手を付けずに放置され荒れ果てたままになっていたのを、昭和初期になって地元の人々の手によって整備されたとの事です。それで運良く残り現存天守になったようです(写真③④)。

天守入口には、人気者の城主の「さんじゅーろー」がいましたが、2年前の事なので、あいつは今どうしているのだろうか?🤔(写真⑤)

この日は11月にしては気温が高く(朝の最低気温14度)雲海は残念ながら下半分しか現れませんでした😩(写真⑥⑦⑧⑨)。天守だけがぽっかり浮かぶ最高の天空の松山城を見たかったのですが残念です。朝の最低気温が10度以下で、かつ晴れた日の寒暖差の大きい日に現れるそうです(10月下旬~12月上旬頃がベスト、それを過ぎると雪で登れないらしい)。タクシー運転手の話では、10日間通っても見られなかった人もいるとか、あなたは1回で半分でも見られたので運がいい方ですよと言われました。みなさんもこの秋に運試しも兼ねてチャレンジされてみてはいかがでしょうか? (という事は、私は「小吉」ですか?)

【アクセス情報】
高梁駅(たかはしえき)から備中松山城の登城や雲海を見に行くには、「観光乗合いタクシー」と「雲海乗合いタクシー」が便利です。城へは駅から8合目のぶいご峠まで行ってくれるので、そこからは徒歩で20分程の軽い登りで天守までたどり着けます。私は、昼頃の特急列車で到着。午後の便の観光乗合タクシーで松山城を見学後、駅前のホテルに泊まり、翌朝の雲海乗合タクシーで雲海を見に行きました。(ホテルでこの時は地域クーポン券3000円をもらえたのでそれを翌朝の雲海乗合タクシーに使いました。よって雲海乗合タクシー代は実質タダでした😊(ラッキ~!なら「中吉」かな?)。

●高梁駅前→8合目ぶいご峠(1日4便)
●高梁駅前→雲海展望台(早朝2便)
いずれも前日17時までに要予約です(詳細はHPで)。

私もまたいつかリベンジの参考にしたいので、大吉の方がもしいらっしゃいましたら、投稿お待ちしております😊。
 

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キンヤ

本丸は県庁となり周囲に石垣と水堀がよく残る城 (2022/08/21 訪問)

2013年以来9年ぶりに行きました。

関ヶ原合戦後、入封した徳川家康の次男 結城秀康によって築かれ、その後、越前松平家が17代まで続き治めました。

明治維新後、外堀は埋められ、二の丸・三の丸などは市街化されてますが、本丸周囲の水堀と石垣はよく残されてます。
現在は本丸に県警本部・県庁・議事堂が建ち、市の中枢部となり、水堀と石垣で今も防御されているかのようです。

特に本丸の大規模な石垣が見応えありました。
ただ、石垣が孕んでいるように見えたり、崩れないか少し心配になる箇所が見受けられました。
小天守台は地震で歪み崩れてしまい痛々しいです。

前回行った時はなかった復元の山里口御門、前回は行かなかった藩主松平家別邸の御泉水屋敷(養浩館・庭園)を見学できて良かったです。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ11日目:増山城 (2022/07/30 訪問)

安川城からの転戦です。続100名城スタンプを栃波埋蔵文化財センター(36.635910、137.011165)で押印後、増山陣屋駐車場(36.655810、137.038762)に向かいました。

築城年代は定かではないようですが、戦国時代に神保長職によって築かれたと云われています。
南北朝時代に築かれたとされる和田城は、この増山城の北方にある亀山城と見られています。
1543年(天文12年)頃に神保長職は富山城を築き、新川郡の椎名氏を圧迫するようになります。
椎名氏を支援する越後の上杉謙信は1560年(永禄3年)富山城を攻め落とし、居城であった富崎城も攻め落とされ、長職は増山城に逃れましたが、上杉氏はなおも追撃して長職は再び城を捨てて逃れました。
1562年(永禄5年)頃に神保長職は上杉氏に降伏し、後に増山城に居城を移したが、1572年(元亀3年)頃に没しました。
長職没後、増山城には一向一揆が籠ったが、1576年(天正4年)上杉謙信が攻め落とし、 謙信は家臣吉江宗信を増山城に置いて拠点としました。
1578年(天正6年)上杉謙信没後、織田信長に仕えていた神保長住が織田軍を率いて越中に入国し、1581年(天正9年)には佐々成政の軍勢が増山城下を焼き払い増山城は落城しました。
1585年(天正13年)羽柴秀吉の越中征伐によって佐々成政は秀吉に降り、成政は新川一郡に減封され、砺波・婦負・射水三郡が前田利家に加増。増山城には利家の娘婿中川光重が入りました。
1615年(慶長20年)一国一城令により廃城となりました。

増山城は、富山三大山城(松倉城、守山城)の一つに数えられています。
遊歩道が整備され、堀切や竪堀、横堀が確認できます。
増山陣屋駐車場より和田川ダムを通り過ぎると冠木門が見えてきます。
そこから馬之背ゴ➡又兵衛清水➡石垣跡➡一ノ丸➡二ノ丸➡神水鉢➡鐘楼堂➡安室屋敷➡馬洗池➡三ノ丸と巡り、本日の予定時間を60分オーバしていた為、ここで引き返しました。
御所山屋敷、足軽屋敷、池ノ平等屋敷、小判清水や亀山城は時間の都合でパスしました。
個人的な見所は①馬之背ゴのL字型の大土塁、②神水鉢と安室屋敷間の大堀切、③安室屋敷南東の大土塁、④安室屋敷と三ノ丸間の大堀切といったところです。
写真はたくさん撮りましたが10枚に絞りました。
攻城時間は85分くらいでした。次の攻城先=長沢東城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ11日目:安川城 (2022/07/30 訪問)

庄城からの転戦です。登り口案内板前(36.617761、137.031933)に路駐しました。

長禄年間(1457~60年) 後花園院皇子・淳良親王が安川に滞在したときに、黒田太左衛門尉を般若野荘の荘官に任命しましたが、太左衛門尉は横暴を振るい悪党を従え安川城に籠ったといいます。
ただし、淳良親王は伝承上の人物です。当時、般若野荘を治めていたのは公家の徳大寺実淳であり、荘園経営の立て直しのため1474年(文明6年)に同地に下向しています。
また、実淳の孫・実通は、1541年(天文10年) 同地を視察中に殺害されました。背景には荘園の領主と地頭の対立があり、それが越中古城記の伝承となったと考えられます。
別の記録では、太左衛門尉は長尾為景によって落命したといいます。これらの伝承から、安川城は鬼ヶ城とも呼ばれてきました。

安川城の登り口に案内板があります。安川城到着予定時間が30分遅れの為、登城を諦め登り口で引き返しました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=増山城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ11日目:庄城 (2022/07/30 訪問)

千代ヶ様城からの転戦です。弁天温泉前空スペース(36.589341、136.994385)に駐車しました。

正平年間(南朝暦1346~70年)南朝方で足利一門の有力者の越中国守護・桃井直常が壇城を築いて拠り、砺波郡一帯に越中国一乗寺城、井口城、野尻城、加賀国松根城などの支城を築き支配しました。 
応安元年(北朝暦1368年)対桃井強硬派の斯波義将が越中国守護に任じられ、能登国守護吉見氏頼らと共に桃井氏討伐を開始しました。翌年、義将の配下二宮円阿によって攻められ落城しました。
1510年(永正7年)越後国守護代長尾為景が長森原の戦いの後に一時期居住したようです。 
天文年間(1532~55年)越中国木舟城主・石黒成綱の弟、石黒与三右衛門が拠ったようです。
1576年(天正4年)上杉謙信によって攻められ落城、与三右衝門は庄ノ城を退去しました。
1581年(天正9年)7月、織田信長に近江国長浜へ呼び出された成綱や与三右衝門ら一族三十人が丹羽長秀配下の兵により謀殺されているそうです。
一説によると神保氏が拠っていた折、佐々成政に攻められ落城したとも云われているが確証はなく、廃城年代は不明のようです。

弁天温泉の東の一段高い畑となっているところが、館跡のようで説明板があります。
犬が吠えて見学できず早々に撤退しました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=安川城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ11日目:千代ヶ様城 (2022/07/30 訪問)

隠尾城からの転戦です。細道入口(36.587513、136.998007)から進入し、この場所(36.581243、136.999370)に路駐しました。

正平年間(南朝暦1346~70年)に南朝方の越中守護桃井直常によって庄ノ城と共に築かれたようです。
応安元年(北朝暦1368年)越中国守護に任じられた斯波義将が桃井直常討伐を開始しました。
これに敗れた桃井直常はそのまま北朝方の吉見氏が治める能登国末森城へと侵攻するも激しい抵抗に遭い撤退します。
直常の子桃井直和は再び転じて、加賀国守護富樫昌家が拠る加賀国富樫城を攻めました。
能登国守護吉見氏頼の救援により敗走した直和は越中国一乗寺城に籠るも追撃を退けられず、千代ヶ様城へと退きます。
吉見氏は追撃の手を緩めず越中に兵を進め、1369年(応安2年)千代ヶ様城は越中国井口城と共に落城し、直和は越中国松倉城へと落ち延びました。
廃城時期などは不明ですが、曲輪の周囲に土塁を巡らせる等戦国期の特徴も見受けられ、当時の庄ノ城の主であった石黒氏が改修して使用していた事を窺わせるそうです。
廃城時期は戦国時代末期と思われるそうです。

調査不足&スマホ通信不可で路駐予定場所に辿りつけず登城断念。付近まできたので攻城とさせて頂きました。
攻城時間の10分はウロウロした時間です。次の攻城先=庄城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ11日目:隠尾城 (2022/07/30 訪問)

井波城からの転戦です。八幡宮前空スペース(36.575528、137.013552)に駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、南部氏によって築かれたと云われます。
南部氏は南部遠江守宗継の弟宗治が足利直義に仕え、直義滅亡後に鉢伏山城を居城として代々続いていたそうです。
1560年(永禄3年)椎名氏は上杉謙信の援助を受けて神保氏を攻め、富山城から増山城へ逃れた神保氏をさらに追撃して五箇山に敗走させました。
隠尾城主南部源左衛門尚吉も上杉氏と戦って敗れ尚吉は討死、子の源右衛門は一時飛騨国へ逃れていたが後に戻り城跡の近くに住んだといいます。

隠尾城は鉢伏山の南中腹にある隠尾集落に築かれていたようです。
北を除く三方が急峻な地形で、北側の道路との間が堀跡と伝えられ、一部池になっています。
主郭は中央が一段高くなっています。二郭方面はやぶ状態で行けません。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=千代ヶ様城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ11日目:井波城 (2022/07/30 訪問)

井口城からの転戦です。松島古城公園横(36.559581、136.974452)に路駐しました。

築城年代は定かではないようですが、文明年間(1469年〜1487年)に瑞泉寺によって築かれました。
1481年(文明13年)福光城主石黒右近光義は、医王山惣海寺と組み井波瑞泉寺と山田川にて戦ったが敗れて滅亡しました。
これにより山田川の東は瑞泉寺領、西は安養寺領(勝興寺)となり、勢力を拡大した瑞泉寺は要害を構えこれが井波城の前身となったようです。
1581年(天正9年)佐々成政は越中の一向宗の二大勢力となっていた瑞泉寺を攻め、これを攻略しました。
その後、井波城には成政の家臣前野小兵衛が城主となりましたが、1585年(天正13年)前田利家によって攻略されました。
成政が降伏した後には前田家の管理下に置かれましたが、この時点で既に城としての戦略的価値は無くなっており、時を置かずして廃城となったと思われるようです。

井波城は現在の瑞泉寺の東にある井波八幡宮のある丘陵に築かれており、 本丸は井波八幡宮のある地で、北の招魂社のある地が二ノ丸のようです。
瑞泉寺門を入ると庭園のある臼浪水(きゅうろうすい)があり、招魂社には説明板があります。
臼浪水付近に三方を囲む土塁が有り、井波八幡宮の南、土塁上に在る櫓の様な建物は後世に建てられた蚕堂であり、石碑、案内板があります。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=隠尾城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ11日目:井口城 (2022/07/30 訪問)

城端城からの転戦です。墓地石碑と説明板前(36.544654、136.931111)に路駐しました。

延喜年間(901年〜923年)頃に、井口三郎光義によって築かれたと云われていますが定かではないようです。
井口氏は南北朝時代には南朝方の桃井直常に属し、1369年(応安2年)北朝方の能登吉見氏によって攻められ落城しました。
文明年間(1469年〜1487年)頃には今村氏の居城で、城主今村小太郎の頃に再び落城したといいます。
戦国時代末期には一向一揆の拠点となっていましたが、1581年(天正9年)佐々成政によって攻め落とされたようです。

遺構は残っておらず、水田と墓地です。「井口城址碑」石碑及び、「宗良親王御詠歌」碑、説明板があるのみです。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=井波城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ11日目:城端城 (2022/07/30 訪問)

福光城からの転戦です。公営駐車場(36.515722、136.902667)に駐車し、善徳寺山門(36.515554、136.901807)に向かいました。

築城年代は定かではないようですが、この辺りを治めていた土豪の荒木善太夫(大膳とも)によって築かれたと云われています。
荒木大膳は1572年(元亀3年)に城地を善徳寺に寄進して廃城となったと云われています。
善徳寺は瑞泉寺や勝興寺と共に越中一向一揆の中心として活躍した寺であり、大膳は一向一揆勢力に属していたと思われます。

唯一の遺構と伝えられていた移築大手門(36.620305、136.940774)が万福寺にあるようですが、時間の都合でパスしました。建立は1688年(貞享5年)のようです。
また、善徳寺の太鼓堂は城端城の遺構とする言い伝えが在るようです。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=井口城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ11日目:福光城 (2022/07/30 訪問)

上見城からの転戦です。石段前案内板前(36.558940、136.869418)に路駐しました。

築城年代は定かではないようですが、1183年(寿永2年)砺波山の合戦で、木曽義仲軍に加わり平家の大軍と戦い活躍した石黒太郎光弘が、福光城を築き、以来300年間石黒氏は栄えました。
1481年(文明13年)山田川で井波瑞泉寺の一向宗徒と戦って敗れ、石黒氏が滅亡したときの福光城主は石黒右近光義でした。
慶応年間(1865~68年)前村礼蔵、波多易直らが、学問奨励のため、漢学者宮永菽園、弟の半仏両人を福光に招き教えを仰いだところ、弟子が増え1869年(明治2年)にこの荒れた城址の一角に郷学所を建て「栖霞塾」と称し、地方の学問の中心としたそうです。

福光城は現在の栖霞園の辺りに築かれていましたが遺構は残っておらず、栖霞園の入口の所に説明板があるのみです。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=城端城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ11日目:上見城 (2022/07/30 訪問)

寺家新屋敷館からの転戦です。未舗装入口(36.499594、136.883270)先の登城口付近に駐車しました。
上見城北側道路沿いに「上見城跡」説明板があり未舗装の道路が登り口付近まで続いています。

築城年代は定かではないようですが、天正年間(1573年〜1592年)の城主は笹村太左衛門(太郎左衛門とも)であったと伝えられています。

南北二郭で、南の曲輪は四方に土塁が巡り、東と北に虎口があります。
北の曲輪は南北に長く南端に井戸があり、東西の端には南の曲輪の土塁から延長された土塁が続いています。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=福光城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ11日目:寺家新屋敷館 (2022/07/30 訪問)

野尻城からの転戦です。山之内病院駐車場(36.590532、136.917631)に駐車させて頂き、碑のある「やから史跡公園」に向かいました。

築城年代は定かではないようです。
城主は南北朝時代に南朝方の有力者として活躍した越中国守護桃井直常の家臣であった田中権左衛門貞行、その子孫田中太郎兵衛のようです。越中国庄ノ城(壇城)の出城のようです。

神明社鳥居付近に説明板、「寺家新屋敷古館趾」の碑が建てられています。
東から北にかけて土塁が残っており、東外側は石垣です。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=上見城に向かいます。

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イオ

とことん江戸城(牛込門) (2022/06/24 訪問)

(続き)

市ヶ谷門から外堀石垣と思しき石材が点在する牛込濠沿いの土塁上を歩いて牛込門に到着。牛込門はJR飯田橋駅西口を出て左手すぐの交差点にあり、枡形の北隅と西隅の石垣が現存しています。東半分は道路になっていて石垣は失われていますが、富士見町教会前の歩道に枡形石垣の位置が舗装表示されています。道路の向こう側の枡形石垣とあわせて見れば、櫓門の位置も枡形の規模も体感することができ、素晴らしい史跡整備だと感心しました。また、富士見町教会前から発掘された「阿波守内」の銘のある石垣石が飯田橋駅前交番の西隣に移設されています。

飯田橋駅西口の駅前広場には江戸城外堀跡の解説コーナーがあり、様々な案内図や説明板、牛込濠と飯田濠を隔てる土橋に設けられた水位調整用の堰に用いられていた石が展示されています。また、総武線ホーム(堰が発掘された位置)でも堰の発掘調査の成果などが解説されているようです(未確認)。西口改札外コンコースにも枡形石垣や外堀土塁の説明パネルがあり、その奥には土塁が復元されているようですが、工事中のため確認できませんでした。さらに、西口駅舎2階には牛込門と外堀を望む史跡展望テラスがオープンしていますが、開館時間前のため2階には上がれませんでした…。それにしても、国史跡に指定されているにしても、四ツ谷駅(JR)、市ヶ谷駅(東京メトロ南北線)、飯田橋駅(JR)と、それぞれの駅構内外に外堀や門の解説コーナーが設けられているというのは、さすが江戸城といったところでしょうか。

牛込門の東隣、日本歯科大学と附属病院の間には旗本屋敷跡の説明板があり、附属病院の竣工までこの地にあった富永邸に由来する石碑が遺されています。旗本屋敷跡から坂を下って小石川門に向かいます(続く)。
 

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赤い城

富谷城 茨城県桜川市 (2022/07/30 訪問)

採石場の手前に城跡があります。
この会社の敷地で石碑も説明板もありません。
採石場の手前に切通状の道路があり、土塁のような部分も見られます。
土塁の先が郭のようですが藪で突入は断念しました。
私有地っぽい感じでもあり訪問時は注意ですね。

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肉球

一回りしてみました (2022/08/23 訪問)

何度か訪れている館林城ですが惣堀確認は初めてでした。
車を市役所付近の無料駐車場に停め歩いて武家屋敷、大手門跡、青龍神社、城鐘に寄り館林第一中学校を目指しました。
武家屋敷は土曜日日曜日だけ公開してます。
青龍神社には小さいですが迫力ある青龍がお出迎え。
武家屋敷や城鐘がある応声寺くらい迄なら歩いてもなんとも思わなかったのですが
この日3城目の一回り。コロナ禍で鈍った体には応えました。
行ってわかりましたが長良神社付近は短時間なら駐車できそうです。
惣堀土塁は高い所では5〜6メートルあり鉄壁さを感じます。
のちに将軍になる綱吉公のお城なかなか巨大でした。

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atsufumi

2023年大河ドラマ「どうする家康」放送決定!! (2022/08/26 訪問)

岡崎城下は大変な盛り上がりを見せておるようである。
岡崎城天守に続き、「三河武士の館 家康館」も、しばらく休館とあいなりもうした。

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もふもっふ

出世できそうなお城 (2021/11/29 訪問)

半年以上前の訪問です。

浜松城に行ってきました。
有名な徳川家康公がいたお城だったので、無知の私も興奮しました。

城の中には兜や家康の物語が人形と共に展示してありました。
中は狭いながらもぎっしりとした展示物の数々でした。

天守閣からは浜松市内が一望でき、
徳川家康公もこんなイメージで眺めていたのかなーって思いました。
そこでずっと富士山を探していたのですが見えませんでした。。
後日、浜松からは富士山は見えないと聞いて驚きました。てっきり静岡はほぼ富士山が見てるのかと思ってました。
無知で申し訳ございません。

写真を撮るのが下手ですが綺麗に取れるスポットなどもあり、楽しい時間を過ごしました。

夕方になったので駅周辺の居酒屋にいきました。
ご当地を欲張りたかったので「濱松たんと」に行きました。
乾杯の音頭が独特で出世の町ならではの掛け声「やらまいかー」で乾杯しましたっ。
(店員さん説明で「やらまいかー」はやってやろー的な意味だったと思います。)
色々店員さんが説明してくれるのでとてもたのしく
浜松餃子や三方原じゃがバター、かつおも時期だとの事で頂きました。
さすが天下人の城下町は違うなと思った時間でした。

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