【島津VS大友:最終決戦の城巡り】 (第8回)鶴賀城②(戸次川合戦の地)
(2022/09/22 訪問)
「鶴賀城①」からの続きです)
鶴賀城(利光山)を下り、川沿い(国道10号線沿い)を歩くと、ここで合戦があった事を示す標柱が立っていました(写真①)。まさにこのあたりで激戦があったものと思われます。そしてそこから500m程東の所に、戦死した「長宗我部信親」の墓がありました(写真②)。
1587年(天正14年)12月11日、豊臣秀吉から命を受け、「仙石久秀」を軍監とした四国連合軍「長宗我部元親・信親、十河存保」6,000が豊後に到着し、「大友義統(よしむね)」(宗麟が家督を譲った嫡子)と合流します。鏡山城まで進んだ所で軍議を開き、義統は鶴賀城に籠城する利光宗魚を助けてほしいと久秀に嘆願します。存保は同意しますが、長宗我部親子は秀吉本隊が到着するまではここを動いてはならぬと秀吉様から命を受けていたはずと反対します。実は、この仙石と長宗我部は1年前まで四国で戦っていた敵同士、最初からお互いを信用していませんでした。
翌12日、鶴賀城を包囲する島津兵は伊集院久宣が率いるわずか2,000。意外と少ないと悟った久秀は、救援すべく川を渡る事を決意します。(実はこれが罠!また島津得意の「釣り野伏せ」です! 島津家久18,000の兵が回りに潜んでいました)。鶴賀城を囲んでいた島津兵2.000は南にいったん逃げます(これはおとり)。長宗我部親子と存保は逃がすまいとこれを追いますが、ここで隠れていた家久の兵が一斉に現れ両者(仙石軍と長宗我部・十河軍)を分断。仙石久秀はこの大軍を見て真っ先に北へ逃げました。取り残された長宗我部親子の最後尾にいた元親の方は何とか逃げる事ができましたが、信親と存保は逃げきれず結局討ち死にしてしまいました。
信親は失った長宗我部家の信用を秀吉から取り戻そうと積極的に前へ出ましたが、それが結局あだになってしまいます。なぜ信親は土佐のためにならぬこの戦にそこまでしたのでしょうか? そして最愛の嫡男を失った元親の悲しみはいかばかりであったのでしょうか? この後、四国に逃げ帰った仙石久秀は、秀吉から命令違反を責められ讃岐を没収、長宗我部元親は信親の死に免じて土佐を安堵されたとの事です。
戸次川合戦の内容を、また遊びで写真図を作ってみました。よければ御覧下さい。(写真④)
次は大友館へ向かいます。
+ 続きを読む