つるがじょう

鶴賀城

大分県大分市

別名 : 利光城
旧国名 : 豊後

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二の丸石碑
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零汰

高低差も少なく散策し易いです。 (2024/07/19 訪問)

こちらの城跡は標高193mの場所にあり、最長部が400m角の範囲に納まる規模です。二の丸まで行く事の出来る林道を通りましたが梅雨明けもあり滑って途中で断念しました。林道分岐に駐車して歩いていくと直ぐに三の丸入口が有りましたのでそこから散策を開始しました。

二の丸~三の丸、三の丸からその先に渡って一部を除き土塁(現地の表示は防塁)が施されています。その距離は200m近くになります。また二の丸には立派な石碑があります。

本丸周辺が見所で、本丸入口から虎口の間に堀切・畝堀や土塁が施されています。本丸は二段になっていて現地縄張り図では一寸分かりずらいでした。本丸には北側と一部南側に土塁があり、南側土塁の背後には7・8本程度の畝堀が残っています。こちらは北九州に多い小波では無く大波の畝堀で最大の見せ場になっています。本丸二段の件、大分城郭報告書では上段は2郭下段が主郭となっており二の丸・三の丸は呼称の無い曲輪扱いとなっています。主郭に関してはその方が分かり易いかと思います。

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トク

【島津VS大友:最終決戦の城巡り】 (第8回)鶴賀城②(戸次川合戦の地) (2022/09/22 訪問)

「鶴賀城①」からの続きです)

鶴賀城(利光山)を下り、川沿い(国道10号線沿い)を歩くと、ここで合戦があった事を示す標柱が立っていました(写真①)。まさにこのあたりで激戦があったものと思われます。そしてそこから500m程東の所に、戦死した「長宗我部信親」の墓がありました(写真②)。

1587年(天正14年)12月11日、豊臣秀吉から命を受け、「仙石久秀」を軍監とした四国連合軍「長宗我部元親・信親、十河存保」6,000が豊後に到着し、「大友義統(よしむね)」(宗麟が家督を譲った嫡子)と合流します。鏡山城まで進んだ所で軍議を開き、義統は鶴賀城に籠城する利光宗魚を助けてほしいと久秀に嘆願します。存保は同意しますが、長宗我部親子は秀吉本隊が到着するまではここを動いてはならぬと秀吉様から命を受けていたはずと反対します。実は、この仙石と長宗我部は1年前まで四国で戦っていた敵同士、最初からお互いを信用していませんでした。

翌12日、鶴賀城を包囲する島津兵は伊集院久宣が率いるわずか2,000。意外と少ないと悟った久秀は、救援すべく川を渡る事を決意します。(実はこれが罠!また島津得意の「釣り野伏せ」です! 島津家久18,000の兵が回りに潜んでいました)。鶴賀城を囲んでいた島津兵2.000は南にいったん逃げます(これはおとり)。長宗我部親子と存保は逃がすまいとこれを追いますが、ここで隠れていた家久の兵が一斉に現れ両者(仙石軍と長宗我部・十河軍)を分断。仙石久秀はこの大軍を見て真っ先に北へ逃げました。取り残された長宗我部親子の最後尾にいた元親の方は何とか逃げる事ができましたが、信親と存保は逃げきれず結局討ち死にしてしまいました。

信親は失った長宗我部家の信用を秀吉から取り戻そうと積極的に前へ出ましたが、それが結局あだになってしまいます。なぜ信親は土佐のためにならぬこの戦にそこまでしたのでしょうか? そして最愛の嫡男を失った元親の悲しみはいかばかりであったのでしょうか? この後、四国に逃げ帰った仙石久秀は、秀吉から命令違反を責められ讃岐を没収、長宗我部元親は信親の死に免じて土佐を安堵されたとの事です。

戸次川合戦の内容を、また遊びで写真図を作ってみました。よければ御覧下さい。(写真④)

次は大友館へ向かいます。
 

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トク

【島津VS大友:最終決戦の城巡り】 (第7回)鶴賀城① (2022/09/22 訪問)

「岡城合戦(その3)-鬼ヶ城②」からの続きです。

岡城のある「豊後竹田駅」からローカルなJR豊肥線に乗り、思わず「南こうせつ」の歌を口ずさみながら白滝川(→戸次川→大野川)沿いの景色を楽しみました。
 「汽車はゆくよ~♪ 煙はいて~♪ トンネル超えれば竹中だ~♬」
その歌詞に出てきた「竹中駅」で列車を降り、そこから「鶴賀城」を目指します。

北上する島津家久は、大友重臣の「利光宗魚」が籠る鶴賀城を包囲し攻めますが、秀吉から命を受け大友を救援しようとする「四国連合軍」と戸次川(へつぎがわ)のほとりで激戦が行われました。

私は、竹中駅から鶴賀城本丸の利光山山頂まで登ろうとしましたが、ちょっと距離がありそうなので、駅から途中までタクシーを使いました。「とある煩悩」さんの投稿で、二の丸までタクシーで直接行ける道があると書いてあったので、そこまで行ってもらおうとすると今では荒れ果てた道になっており、運転手さんから「これは無理通れない」と言われたので、成大寺からも登山道があるとの事なのでそちらに行ってもらい、そこから徒歩で登城する事にしました(成大寺から山頂本丸まで徒歩30分です)(写真①)。成大寺には城主の「利光宗魚」の墓もありました(写真②)。

登山道の途中には、のろし台跡(写真③)、穀物倉庫跡(写真④)、堀切や畝状竪堀(写真⑤)などが見られました。二の丸には鶴賀城跡の石碑が立っており(写真⑥⑦)、そして本丸まで登ると急に眺望が開け、戸次川の合戦場を一望する事が出来ました(写真⑨-高崎山や由布鶴見の山々まで遠望できとても気持ちよかったです。自然の栗が山ほど落ちていたので持って帰り食べたらおいしいだろうなと思いましたが、とげがあり・・・痛!これは無理(笑)(写真⑩))。

利光宗魚は戦の最中に流れ弾に当たり、ここで戦死します。そして死は敵味方にもばれぬよう、しばらく家臣から伏せられたようです。鏡山城まで来るも、そこからからなかなか動かぬ援軍(大友・四国連合軍)を、宗魚はどんな思いでここから見つめ、そして亡くなっていったのでしょうか?

次は、鶴賀城(利光山)から山を下り「戸次川合戦の地」を歩きます。
 

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todo94

戸次川の戦い (2019/07/20 訪問)

「センゴク権兵衛」のクライマックスとも云える戸次川の戦いで、島津家久軍に包囲される城です。山城オフシーズンだというのに、しかも雨が降りしきっているというのに、城攻めに踏み切ってしまいました。傘をさしての山城攻城は初めての体験かと思います。コンクリートの登城路を勢いよく水が流れており、積もった落ち葉もたっぷり水を含んでいて靴はびしょ濡れとなってしまいました。二の丸には立派な城址碑。三の丸まで足を伸ばしてから本丸へ。堀切や畝状竪堀の先に主郭。その一角には櫓台もありとても楽しめる山城でした。大野川は降り続く雨のため濁流となっていました。この流れだったら仙石秀久も渡河を諦めたと思うのですが。帰宅後、思わず、センゴク権兵衛を読み返してしまいました。

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城郭情報

分類・構造 山城
築城主 利光氏
築城年 不明
主な城主 利光氏
遺構 曲輪、土塁、横堀(空堀)
再建造物 石碑、説明板
住所 大分県大分市大字上戸次字利光