みんなの投稿

検索結果・・・「」を含む投稿

おっちゃん

徳島城跡案内図 (2016/11/03 訪問)

現地案内板より抜粋

+ 続きを読む

おっちゃん

庭瀬藩邸内略図 (2017/01/04 訪問)

現地案内板より抜粋

+ 続きを読む

りあそーる

でかい。

広い。見晴らしが凄く良い。お城の事は皆さん書いてらっしゃるので、せっかくなので津山の街並みも散策しましょう。街並みも外敵の侵入を想定していますよ。資料館には浦上宗景書状もあります。少し足を延ばしてB’zの稲葉さんのご実家を見たり、ホルモンうどんを食べるのもいいですね!

+ 続きを読む

りあそーる

真庭市図書館

の裏から「本段」は登城できます。登ってグラウンドにつくので、そこからまたグラウンドを通り過ぎて登ると本丸です。グラウンドの奥に石垣があるみたいで・・。見逃しました。また、「出丸」は時間もなかったので登り口がわかりませんでした・・。
名門三浦氏の栄枯盛衰のお城、牧氏や2度ほどあった高田城奪還の戦いに思いをはせて・・。
城下の「のれんの街並み」で日本酒や地ビールもおすすめです!

+ 続きを読む

カズサン

本丸東西に模擬二重隅櫓が再建 (2005/05/02 訪問)

 出石城は昭和43年(1968年)に本丸東西隅に二重の模擬隅櫓が、また平成6年には下の曲輪に登城門と登城橋が再建されました、城郭誌に再建された隅櫓、登城門と大手門跡櫓台に建てられた辰鼓楼が出石城頁には掲載されて居り何時か訪ねたいと思って居りました、故郷鳥取に京都東ICから国道9号線を利用して何度も帰省してるのですが、出石は路線が北に外れて居り中々訪ねる事が出来ず、今回17年前の平成17年5月の連休中、90歳を過ぎた母の見舞いの帰りに9号線を北にコウノトリの里を通り初登城しました。

 車は麓の駐車場を利用。有子山の麓に石垣四段の居城が築かれて居る、上から稲荷曲輪、本丸、二の丸、下の曲輪、三の丸と成り現在は下の曲輪と三の丸間に谷山川が流れてる。本丸には模擬西隅櫓続土塀、模擬東隅櫓続土塀が再建され、城址探訪に景観がきりっと締まります。
 上段の稲荷曲輪の東側に有子山城への登城路が確認出来ましたが山頂の有子山城は登城して居ません、麓から眺めるだけ、三の丸大手門跡に内堀が残って居り、また三の丸側には石垣もしっかりと残って居ます。
 仙石騒動で有名な家老仙石左京屋敷も見学。

 城下町は伝統的建造物保存地区にも成って居り、但馬の小京都として町並み家並がしっとりして居ます、また名物の出石そばを提供する店はあちこちに在り入るのに迷うほど、一軒の蕎麦屋に入り初めて出石そばを頂きました、その店には出石城下絵図が大きくパネルに掲示されて居り、出石愛が溢れています。
 歴史は皆さんの投稿に記載があり省きます。
 今回もサブのコンパクトデジカメに残っていた数少ない写真より投稿させて頂きます。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

イオ

とことん江戸城(常盤橋門~八重洲) (2022/06/23 訪問)

(続き)

常盤橋門は大手門へと続く江戸城外郭の正門にあたり、外郭の門の中で最も状態良く枡形の石垣が遺っています。日本橋川(外堀)に架かる常磐橋は往時は木橋でしたが、明治に小石川門の石垣を転用して石橋に架け替えられました。東日本大震災で被災し、ブラタモリ・東京駅の回で取り上げられた時はまだ修復工事中でしたが、現在は歩いて渡ることができます。往時は石橋ではなかったにしても、常磐橋越しの常盤橋門はなかなか絵になる光景です。

常盤橋門の南隣に建つ渋沢栄一像を横目に日本橋川を下って行くと、一石橋の南詰に一石橋迷子しらせ石標があります。いわば江戸期の迷子情報の伝言板で、このあたりは繁華街で迷子も多かったことから設けられたものなんだとか。宮部みゆきの時代小説(江戸もの)にも迷子しらせ石が描かれていましたが、こういうものが各地に設けられていたんですね。

一石橋で日本橋川を離れて呉服橋門へ。呉服橋交差点のあたりが門跡のようですが、交差点の少し西に説明板が建てられているくらいで痕跡も窺えません。

呉服橋門跡の説明板から永代通りを渡った丸の内トラストシティのあたりが北町奉行所跡(別途投稿します)で、丸の内トラストタワー本館の東側には鍛治橋門周辺で発掘された外堀石垣が移設されています。また、東京駅八重洲中央口の外堀通り沿いにも鍛治橋門北側の外堀石垣が移設されています。ブラタモリで見たとおり、石垣は薄くスライスされていました(笑)

…と、今朝にも訪れた八重洲に到達し、これで外郭めぐりも雉子橋門から四谷門までは踏破しました。明朝は市ヶ谷門から浅草橋門を目指します(続く)。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

2022夏の青春18キップ10日目:東郷槇山城 (2022/07/29 訪問)

清水山城からの転戦です。槇山城入口(36.008391、136.272839)の由来板を確認して、槇山公園(36.010254、136.276661)に駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、応永年間(1394年〜1428年)に朝倉正景によって築かれたと云われています。 朝倉氏景の次男正景が東郷庄の庄官となり槇山城を居城にしました。
1471年(文明3年)頃、朝倉氏が一乗谷に本拠を移してからは、その支城となりました。
朝倉氏の滅亡後、柴田勝家の支配を経て、1584年(天正12年)長谷川秀一が城主となりますが、秀一が文禄の役で朝鮮で病没した後、北庄城の丹羽長秀の次男・長昌が城主となり、15万石を領しました。
しかし、関ヶ原合戦で西軍に組した丹羽氏は改易となり廃城となりました。

二の丸が駐車場になっています。二の丸を挟んで北側に本丸、南側が千畳敷曲輪になっています。
本丸に当たる北の城山に天守閣跡があり、「長谷川秀一公碑」、「忠魂碑」の石碑が建てられています。その下段に曲輪があります。
千畳敷曲輪は芝生広場の公園として、滑り台等の遊具が設けられ、一角に句碑がありました。千畳敷曲輪の南側に堀切があります。
攻城時間は35分くらいでした。次の攻城先=成願寺城に向かいます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

2022夏の青春18キップ10日目:清水山城 (2022/07/29 訪問)

織田城からの転戦です。清水山上公民館(36.006429、136.158676)に駐車しました。
そこから歩いて、毘沙門神社入口(36.006665、136.160792)に向かいました。

越前国守護斯波氏の家臣太田貞敏によって築かれました。城主は太田美作守、太田小源吾でした。太田氏は毘沙門を守護神として城内に祀っていました。
1480年(文明12年)清水山合戦で、朝倉勢に攻められた太田美作守は討ち死にし、落城しました。

城址は毘沙門神社の境内及びその裏の杉林付近のようです。
毘沙門神社に城跡碑、毘沙門堂大杉碑と空堀跡らしきものがありました。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=東郷槇山城に向かいます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

2022夏の青春18キップ10日目:織田城 (2022/07/29 訪問)

織田城は山城ですが、登城口の林道入口が立入禁止だとの事前情報より登城を断念し、麓にある劔神社を目指すことにしました。
ということで、武生駅でレンタカーを借り、25分くらいかけて織田文化歴史館駐車場(35.958311、136.054516)に着きました。
織田文化歴史館は10:00開館なので、まだ開いていません。そこから歩いて、劔神社入口(35.957450、136.055916)に向かいました。

戦国時代、朝倉氏の一族・朝倉兵庫助景綱が織田庄を領し織田氏を名乗り、織田城を築城しました。
1570年(永禄13年)に織田信長が越前国を攻めた際は、景綱は500の軍勢で河野口を守備しました。
また、1573年(天正元年)の刀禰坂の戦いでは、木ノ芽峠で敗残兵をまとめ一合戦しようとする朝倉義景の命令を無視して織田城に退却します。
景綱は、そのまま織田信長の軍門に降り、朝倉氏滅亡後も引き続き織田城を守りました。
1574年(天正2年)越前一向一揆が勃発すると、本願寺の七里頼周が率いる大規模な一向一揆勢に城を攻められます。
織田城に篭城したが多勢に無勢であった為に、景綱は織田城の兵を見捨てて、妻子のみを連れて海路から敦賀郡へ落ち延び、その後の消息は不明だそうです。

劔神社に「織田一族発祥地」の石碑や本殿横に織田神社が建てられています。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=清水山城に向かいます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

2022夏の青春18キップ10日目:府中城 (2022/07/29 訪問)

龍門寺城から10分弱歩き、越前市役所(35.903179、136.168546)正面玄関付近に着きました。

築城年代は定かではないようですが、文明年間(1469年〜1487年)頃に朝倉氏の府中奉行所があったのが始まりとされるようです。
1575年(天正3年)越前を再び平定した織田信長は北庄城に柴田勝家を置くとともに、府中城には前田利家、小丸城には佐々成政、龍門寺城に不破光治が入りました。
府中城はこの前田利家の時代に改修され、1581年(天正9年)能登国七尾へ移ると、改めて前田利長(利家の嫡男)に府中城が与えられました。
1583年(天正11年)賤ヶ岳の戦い後に越前が丹羽長秀に与えられると、利長は加賀国の松任城に移されます。
1585年(天正13年)長秀の没後に丹羽家が減封されると、木村重茲が十二万石を与えられ入城、文禄の役の後、山城国淀城十八万石に加増転封されました。
1599年(慶長4年)隠居料として越前府中五万石が堀尾吉晴に与えられます。
1601年(慶長6年)結城秀康が越前一国を領して北庄城に入ると、徳川家康より付家老として派遣された本多富正が三万九千石で府中城に入り以後、本多氏が続いて明治に至ります。

越前市役所横の道路脇に石垣、「越府城址碑」、「本多富正公顕彰碑」があります。
説明板によると石垣は、平成28年~平成29年の越前市役所本庁舎建設に係る発掘調査で見つかったようです。
新善光寺城(城びと未登録 福井県越前市)攻城時に見た、正覚寺にある府中城の移築山門の写真はこちらにも投稿します。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=織田城を目指す前に、ホテルに戻って朝食を取り、レンタカーを借ります。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

2022夏の青春18キップ10日目:龍門寺城 (2022/07/29 訪問)

新善光寺城(城びと未登録 福井県越前市)から10分弱歩き、龍門寺山門説明板前(35.898647、136.165730)に着きました。

1573年(天正元年)富田長繁によって築かれたと云われます。もともと龍門寺があった所と云われています。
1573年(天正元年)織田信長によって朝倉氏が滅ぼされると、朝倉氏の家臣であった富田長繁はいち早く信長に降って、府中を領し龍門寺城を居城としました。
1574年(天正2年)一向一揆が起こるとそれに加担して確執のあった守護代桂田長俊(前波吉継)を敗り、更に魚住景固父子を謀殺して越前一国を支配しました。
1575年(天正3年)富田長繁は悪政を施いたため、一向一揆の襲撃を受け、この戦いの最中に家臣の小林三郎次郎吉隆に裏切られ討死にしました。
1575年(天正3年)越前を再び平定した織田信長は北庄城に柴田勝家を置くとともに、府中城には前田利家、小丸城には佐々成政、龍門寺城に不破光治が入りました。
1580年(天正8年)不破光治は没し、不破直光が家督を相続したが、賤ヶ岳合戦後は前田利家に仕えました。
1585年(天正13年)若狭の木村常陸介が府中を支配し、1588年(天正16年)城内の南隅に龍門寺を再興しました。

現在の龍門寺一帯が龍門寺城跡のようですが、遺構はないようです。門脇に説明板があります。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=府中城に向かいます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

2022夏の青春18キップ10日目:新善光寺城(城びと未登録 福井県越前市) (2022/07/29 訪問)

金剛院城(城びと未登録 福井県越前市)から10分弱歩き、正覚寺山門前(35.901851、136.163472)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、 延元年間(1336年〜1339年)越前国守護足利高経が新善光寺城を拠点として北朝方に属していました。
1336年(延元元年)南朝方の瓜生氏によって攻められ落城、間もなく奪還しますが、1338年(延元3年)再び新田義貞の軍勢に攻められ落城しました。
1340年(興国元年)足利高経の将である得江氏・天野氏等によって再び奪還しました。
1366年(貞治5年)一連の争乱による戦死者を弔うため、城跡に如道の長男・良如(江戸時代の良如とは別人)が正覚寺を開いたそうです。
なお、現在の正覚寺の山門は、江戸時代後期に造られた越前府中城の旧表門で、明治時代に移築されたものだそうです。

正覚寺の境内が新善光寺城跡のようで、境内の北側と西側の一部に土塁跡が残っています。
府中城の移築山門も確認しました。(写真は府中城でも再投稿します)
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=龍門寺城に向かいます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

2022夏の青春18キップ10日目:金剛院城(城びと未登録 福井県越前市) (2022/07/29 訪問)

レンタカーを借りるまで時間があるので、ホテルの朝食前に、武生駅近辺のお城を攻城しました。
まずは、金剛院城(城びと未登録 福井県越前市)です。ホテルから徒歩12~13分くらいで、金剛院入口(35.905017、136.160435)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、城主は青木俊矩(善右衛門)で青木一矩(秀以)の実子とも甥とも云われています。
青木一矩は1594年(文禄3年)に府中城で10万石、1599年(慶長4年)一矩が北庄城主となって20万石余を領しました。

金剛院の境内が金剛院城跡のようで、境内の西側に土塁が残っているようですが、よくわかりませんでした。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=新善光寺城(城びと未登録 福井県越前市)に向かいます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

赤い城

八幡宮の風鈴が涼しげ (2022/07/30 訪問)

大宝八幡宮が城跡です。
鳥居横に高土塁があり、その先に説明板も立っています。
その先は住宅地になっていますが大宝八幡宮の紫陽花園にも土塁や曲輪が残っています。
下氏によって築かれた城ですが戦国時代には多賀谷氏と神社が改修したとされています。
時期的に紫陽花は終了、その代わりに神社境内には風鈴が 
近くの幼稚園児がガラス部分に絵を描いたものでした。
中には生意気な・・・。
暑い日でしたが風鈴の涼やかな音に癒やされました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

小城小次郎

公共施設「奥殿陣屋」として (2022/02/23 訪問)

大給松平氏は大名だけで4系統あるが大給・奥殿・田口藩主となった家系が長く藩庁としていたのが奥殿陣屋。移築された書院が再移築され集会施設「奥殿陣屋」として公式に運営されている。「ジンヤ」の植え込みは実に鮮烈。

+ 続きを読む

朝田 辰兵衛

3年ぶり。ようやく天守内へ。 (2022/07/12 訪問)

3年ぶりの熊本城。ようやく天守内へ入れました。しかし,まだ手つかずのエリアも見受けられました。個人的に念願だった「横手五郎の首掛石」も見ることができ,嬉しかったです。ふと,脳裏をよぎったのですが,熊本地震は横手五郎の怨念では…と。

横手五郎の首掛石ですが…
本丸の西側に凹形の巨石が展示されています。横手五郎という名の力持ちが首に掛けて運んだと伝わります。横手五郎の父は,加藤清正との一騎打ちで戦死。五郎は父の仇討ちのため城内に潜入し,そのチャンスを伺っていました。しかし,身元がバレて井戸に生き埋めにされました。石の重さは約1.8tです。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

もふもっふ

学校とタコのあるお城でした (2022/08/19 訪問)

岸和田で仕事を終えて帰るまでに散策しました。
岸和田駅からは商店街を通って15分くらいだと思います。
有名なだんじり祭りの経路もありました。
お城はお濠で囲まれておりお濠の周りも綺麗に整備されています。
またお城の前には学校があり学生が部活動に励んでいました。
お城入口には綺麗なカフェが併設された休憩所があり、トイレもあります。
八陣の庭は下からも良いですが個人的には、お城の上から見るのが好きでした。
この城のお話にタコに守られた話がありとても珍しく面白いと思いました。
閉館時間ギリギリに行きましたが快く入れてくださった係の方にも感謝です。
駅前でうどん屋の「鶴八」さんに行きました。昔ながらの店ですがうどんはもちろんですが、定食もあり
お酒のつまみがかなり充実しました。もちろんお酒の種類もたくさんあり電車までの時間をゆっくり楽しめました。

+ 続きを読む

もふもっふ

上諏訪散策と一緒に (2022/08/14 訪問)

上諏訪駅に行く事があり、散策しながら高島城を目指しました。
駅の中にも無料の足湯や温泉卵(有料)が作れたりしていました。
駅からゆっくり歩いて20分くらいだったと思います。道も複雑でなくお濠まで行く事ができます。
城内にはいると直ぐに天守閣がありました。
とても気持ち良い風も吹いていて最高でした。
帰りすがりに道にも温泉が出ている場所や足湯などありゆっくりとできる散策でした。

+ 続きを読む

イオ

とことん江戸城(雉子橋門~鎌倉河岸) (2022/06/23 訪問)

(続き)

出張2日目の夕方、北の丸をめぐった後、清水門を出て内堀通りを雉子橋門へ。日本橋川(外堀)に架かる雉子橋の北詰に雉子橋門跡の説明板が建てられていますが、往時の雉子橋はもう少し西にあり、雉子橋門は日本橋川と清水濠の間に設けられていたようです。雉子橋南詰のビルの間には矢穴のある石材が積まれており、Googleマップでは雉子橋門石垣跡とされていますが、枡形の位置からは外れているように思います。

雉子橋門と一橋門の間の日本橋川沿いには外堀の石垣が延々と続いています。ブラタモリでも紹介されていましたが、石垣の上に首都高速の橋脚を設置した部分には石垣を積み直した跡が窺えます(石材の大きさが全く違うので一目瞭然)。石垣を崩した後、コンクリートで固めて簡単に終わらせるのが楽でしょうに、拙いながらも積み直して元の姿に戻そうとする努力が嬉しいですよね。

日本橋川に架かる一ツ橋の北詰に一橋門跡の説明板があり、南詰に枡形門があったようですが、現在では白山通りとなっていて遺構は見られません。一橋門の東側にも外堀石垣が遺っていますが、内側がぎりぎりまで削られたことで倒壊しそうな石垣をコンクリートで補強して維持しています。撤去するのは簡単でしょうが、失われると二度と戻らないものだけに、何としても遺そうという気概が感じられました。

一橋門の東側には一橋徳川家の屋敷が神田橋門まで広がっており、丸紅本社ビルの西側に一橋徳川家屋敷跡の石碑と説明板が建てられています。

神田橋公園に神田橋門跡の説明板が建てられています。往時の神田橋は現在より少し東に架けられており、橋の南詰に枡形門がありました。首都高速の高架下に神田橋門のものと思しき石垣が遺っているほか、大手町川端緑道には発掘された石垣が展示されている……はずですが、訪問日は緑道が工事中で通行止めだったため未確認です。

鎌倉橋(昭和に新設)を渡った対岸は鎌倉河岸と呼ばれ、江戸城の築城時に鎌倉から運んだ石材を荷揚げしたことに由来します。水上物流の拠点として賑わった日本橋川沿いには、外堀の石垣と荷揚げ場が遺っています。

日本橋川をさらに下って常盤橋門に向かいます(続く)。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

カズサン

模擬隅櫓続土塀の景観が美しい (2005/06/06 訪問)

 龍野城は昭和54年絵図を参考に本丸西隅に模擬二階隅櫓、本丸模擬御殿、模擬櫓埋門が再建されて居ます。
 17年前の平成17年6月上旬、ふるさと鳥取の帰路寄りました、車は車、人の流が少ないので隅櫓下裁判所土塀西横に路駐。

 本丸西隅の二階隅櫓と続く土塀石垣、南下の裁判所西側の土塀辺りからの隅櫓景観が見所の様に思って居ります、また龍野古城である鶏籠山城の山頂もその辺りから見上げる事も出来ます。
 隅櫓下から本丸石垣下の土塀に囲まれた搦手道を登ると西門、本丸大手道、渡櫓式の埋門、内枡形に成って居り本丸へ登り坂道、模擬御殿が表、裏と二棟再建されて居る、桜の頃はさぞ綺麗であろうと思う葉桜。

 龍野城の歴史は、中世赤松氏から始まり、秀吉中国攻めで秀吉側の武将が城主を務め、関ヶ原後姫路池田輝政家老荒尾氏が城代、本多氏、小笠原氏、京極氏と続き、脇坂氏が寛文12年(1672年)入封し麓の本丸居館部を再建した、脇坂氏は以後10代治政し明治を迎える。
 脇坂氏入城後、赤穂事件の赤穂城受取りは二代目安照、受取の使者、在番を務める、忠臣蔵で良く出て来る場面でもあります。

 路駐でもあり本丸中心の探訪、龍野市街は車窓見学、揖保素麵、龍野薄口醤油は歴史も有り有名です。
 ※トップ掲載写真がクリックミスで最後になって仕舞いました、この景観を愛でて居たのですが?
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ページ688