【徳倉城】
<駐車場他>駐車場はなし。県道61号線道路脇<34.778113, 133.899706>に停めました。
<交通手段>車
<見所>櫓台石垣・主要部石垣・連郭曲輪
<感想>日帰り今シーズン山城攻めラスト旅2城目。現地説明板によると、徳倉城の築城年代は不明だが、「太平記によれば1362年に高師秀徳倉城に退き」とあり、また御津町郷土歴史資料館で頂いた資料によると、備前の守護代金川城主の松田元隆の四男、元資が1476年には居城していたとあります。戦国時代は松田氏の一族宇垣氏の居城でした。1568年に主家の松田氏が宇喜多直家に滅ぼされると徳倉城も宇喜多氏の家臣の遠藤河内守秀清が入城します。宇喜多氏が備前を平定した後は遠藤氏も岡山城に移り、徳倉城には城番を置いていたようです。関ヶ原の合戦後岡山に小早川秀秋が入城すると城は廃城となりました。
上記駐車ポイントが大手口になり空き地が小屋か民家跡のようですが、山の壁面に古い石垣が少し残っています。私も大手道から登り、そのまま大手道から下山したので搦手道は見ていません。大手道には出丸跡(藪化)、出丸長郭・堀切があり、中腹辺りに竈門跡のある舌状曲輪があります。斜面に堀切が1条あります。そこから段々の曲輪になっていて、櫓台らしき石積み跡、井戸跡を通り主要部の下の方に着きます。
主要部は主郭と二郭が一帯となった南北に長い長方形の曲輪で、主要部北側に3段の舌状曲輪、西に1つ腰曲輪、南に2段の腰曲輪があります。各腰曲輪の下方は急斜面の谷になっていて堀切はありません。最大の見所である野面積みの高石垣は主要部の東側虎口にあたります。おそらく宇喜多氏家臣の遠藤秀清が入城後に主要部全体と所々に残る石積み遺構をこの時改修されたものと思います。主要部の曲輪壁石垣は東面に鉢巻き石垣に残っており、北側はかつて石垣があったであろう石が3つだけ残っていて、ほぼ全て崩落してしまったものと思います。西面は急斜面で石垣の痕跡は見当たらず、南面は多門櫓跡の石垣が良く残っていて、その下段に腰巻石垣のように一部石垣が残っています。
主要部内部は北側半分が二の丸跡で南側半分が本丸跡の看板がありますが、中間に堀切もなく、一体となっているので明確な仕切りは無かったように感じます。中心に瓦片が大量に落ちています。主要部南端にくの字状の多聞櫓跡の石垣が良好に現存しています。郭内部からの高さは低いですが、南の郭壁と一体となっているので南下段から見ると圧巻の見応えです。
おそらく織豊期であろう高石垣がよく今日まで美しく残されていて感動しました。お勧めの城跡です。
<満足度>◆◆◆
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