津田城からの転戦です。圓福寺公園入口空スペース(34.048247、134.534064)に駐車しました。
駐車した場所から100m先のカーブミラー(34.048749、134.534580)の下に小さな夷山城址碑があります。
1552年(天文21年)細川真之によって築かれました。
1562年(永禄5年)城主篠原佐吉兵衛は、三好義賢とともに和泉国久米田で畠山高政の戦いで戦死しました。
篠原佐吉兵衛の息子である篠原右京は幼少のため、篠原長房や伊沢頼俊に保護されていましたが、1576年(天正4年)に、家臣庄野兼時を伴って夷山城に入りました。
翌年、一宮城主の一宮成助(成祐)が三好康長と争って長宗我部元親に援軍を求めた際、庄野兼時も長宗我部方に降りました。
篠原右京は19歳になった1580年(天正8年)讃岐国の十河存保の元へ去りました。
1582年(天正10年)織田信長による四国攻めの先陣として三好康長が夷山城を攻めると、兼時や長宗我部方武将は城郭を破壊して去りました。
康長は夷山を根拠地として三好氏の旧臣を招き、麻植氏や一宮成助らがこれに応じたが、同年六月、本能寺の変により康長は急遽上洛します。
三好康長の上洛を知った長宗我部元親は再び阿波に侵攻し、中富川の戦いで長宗我部元親により攻められ落城しました。
阿波を平定した元親は、一宮成助の変心を許せず、成助を夷山城に招き誅殺しました。
庄野兼時には新たに加増されが、1585年(天正13年)羽柴秀吉による四国征伐で、土佐に敗走しました。
公園入口には夷山城址の石碑があります。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=一宮城に向かいます。
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