うまがだけじょう

馬ヶ岳城

福岡県行橋市

別名 : 馬岳城、馬ヶ嶽城、大谷城
旧国名 : 豊前

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①	馬ヶ岳城全景(麓のあぜ道より)
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トク

22【秀吉の九州平定をたどる③】太閤岩(秀吉と官兵衛:密談の場所) (2026/08/20 訪問)

JR行橋駅か平成筑豊鉄道に乗替え15分「豊津駅」で下車しました(写真⑩)。ここから黒田官兵衛の「馬ヶ岳城」を目指します(写真①)。

駅から県道58号の脇道を30分程歩いて進むと登山者用臨時駐車場があります。そこから左に折れてあぜ道を歩く事15分、大谷登山口に到着しました(写真②)。ここから登山を開始します。

馬ヶ岳城は、小倉を出発し西ルートを進軍する秀吉が最初に宿泊したとされる場所です。秀吉が九州平定を終えた後は、豊前一国を与えられた黒田官兵衛・長政父子がここに入り居城としました。しかし手狭で山城はやはり不便なため、官兵衛は山国川の河口に、翌年新たに「中津城」を築城し移り住みます。しかし若き長政は、反旗を翻した城井氏(宇都宮鎮房)を討伐するため、しばらくここに留まったようです。

登山口から登山道を登っていると、途中には堀切・土塁・畝状竪堀がいくつか見られました(写真③④⑤)。これらは、官兵衛の時代に築かれたのではないかと言われています。さすがは官兵衛! ここはかなりの要塞堅固な城だったようです。

そして汗を拭きながら登る事30分、標高144m「太閤岩(展望台)」に到着しました。ここには、秀吉と官兵衛が座ったとされる岩があり(写真⑥⑦)、二人はここから香春岳城(かわらだけじょう)を眺めながら密談したようです(写真⑧)。私も同じように、ここから座って眺めてみました。秀吉や官兵衛の気分に浸れて、もう感動です! しかしこの日は気温35度。本当はこの上の本丸(標高216m)まで行きたかったのですが、暑さと体力を考えて断念、ここで下山しました。冬になったらまた再訪し頂上を目指そうと思います。

秀吉は麓で2泊し、宿泊中に黒田官兵衛・蒲生氏郷・前田利長らと軍議を開いたそうです。そして頑強に抵抗する秋月種実の「岩石城」「益富城」「香春岳城」「古処山城」をどうやってこれから攻め落として行けばよいか、作戦を練ったものと思われます。しかしここで意外な一言が・・・🤔。

秀吉は自分の家臣である官兵衛に対し、「西九州は我々に任せ、そなたには毛利とともに東九州を行く秀長を助けてほしい」と頼みます(写真⑨:秀長の豊前松山城)。秀吉は密かに官兵衛に、弟の事を託したのではないでしょうか。しかしこの判断が、根白坂で見事に功を奏する事になります。

次は秀吉の筑後平定の地(吉見岳城)を訪れます。
 

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送りバント

20181124馬ヶ岳城(福岡県行橋市) (2018/11/24 訪問)

山上の横堀や眺望も良いが、見どころは特徴的で大規模な山麓の遺構。惜しむらくは畝状竪堀が竹藪に覆われて分かりづらいこと

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山麓の遺構 (2024/12/27 訪問)

 山麓には集落のある谷を守るように、隣接する尾根の東斜面に横堀、土塁、畝状竪堀などを観ることができます。ただ竪堀は浅くなっていたり藪になっていてわかりにくいです。

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黒田官兵衛 (2024/12/27 訪問)

 豊前を領地とした黒田官兵衛、長政親子が中津城に移るまで居城とした城です。
大谷登山口から山麓にある土塁、横堀、畝状竪堀群を見て登って行きました。坂は急なところもありましたが、歩きやすく整備されています。途中、堀切などを観ることができました。二の丸から本丸までは少し離れていて尾根を移動します。本丸手前に横堀の表示があり行ってみると見事な堀とそれに続く竪堀がありました。縄張り図には堀切となっています。自分も堀切の方がしっくりきます。本丸に説明板がありました。眺望はすばらしく京都平野や周防灘を見渡せます。

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城郭情報

分類・構造 連郭式山城
築城主 源経基
築城年 天慶5年(942)
主な改修者 緒方氏、新田氏、長野氏
主な城主 源経基、緒方氏、少弐氏、菊池氏、規矩氏、新田氏、大内氏、大友氏、宇都宮氏、長野氏、細川氏
廃城年 慶長20年(1615)頃
遺構 曲輪、土塁、堀切、畝状竪堀群
再建造物 石碑、説明板
住所 福岡県行橋市大字大谷/京都郡みやこ町犀川花熊
問い合わせ先 行橋市教育委員会文化課
問い合わせ先電話番号 0930-25-1111