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零汰

九州発:佐賀・福岡:4日目最終・・・阿志岐(あしき)山城+葦城(あしき)城+天ケ城+古代山城

城跡を訪問するようになって城名やその土地名に当て字が多い事に気が付いた。鹿児島市に喜入町という地名がある、そこにある城びと登録の城は給黎城、読み方はどちらも「きいれ」だ。どこかの時代に喜入と当て字になったのだと考えている。熊本の水俣方面にある城びと登録の久多良木城、入口を確認しただけで訪問はしていない。行って気が付いた、入口の目印は百済寺だった、この周辺は百済木というらしい。「くだらき」が「くたらき」になってどこかで当て字になったのではと考えています。

初めて福岡県筑紫野市にある阿志岐山城の名前を見た時になんて珍しい呼び名だと感じた。

最終は阿志岐山城周囲にある城跡を訪問した。歩行距離は5.5km、累計高低差は493m、時間は3時間10分です、行かれる方は参考にしてください。マップ左に位置する円満寺の正面西側より林道が始まっています。私は第1水門を見た後に、マップ下の標高259m地点にある葦城城から宮地岳神社~宮地岳山頂(古代城)と進みました。ここから北に電力会社の管理道路を下がって行き第3水門を目指しましたがこのルートでは行けません、途中から山裾を通り辿り着きました。阿志岐山城のみの訪問でしたら。第1水門から第2・3と林道を通り途中山に入る方が早く、往復で1時間程度で廻れます。

行く前に軽く古代山城と葦城城を調べましたが出てきませんでした。阿志岐山城は発見されて四半世紀経っていない城、想像するに古代山城と共に昔から伝承の類が残っていたのだと思いますが、お互いの関連性は分かりませんし、今後も分からないと思います。古代山城は主郭と思える場所もあり、土塁らしき、浅い空堀らしき場所も確認出来ました。(帰宅後城郭放浪記さんの写真と見比べた所同じ場所の写真が幾つか撮っていたのでその中の1枚を9枚目に添付しています。)歴史的裏付はないけれど確かに存在していたようです。

葦城城は呼び名は(あしき)。阿志岐山城と同じです。きっとどちらかが当て字なのでしょう。こちらは帰って福岡県中近世城館報告書にを見ても出てきません。こちらも伝承の類の城跡か中世以前なのかもしれません。こちらにも曲輪・段曲輪が存在し、虎口らしい場所も確認出来ます。

調査報告書を見ていたらルート内にもう一つ有りました。マップの中で第1水門から南下し分岐する近く、電力会社の鉄塔の建っていた場所に「天ケ城」がありました。こちらは歴史的裏付もしっかりとしていて縄張図もあります。実は他にももう一つ葦城城と天ケ城の阿飯田に浅い堀切で区切られた曲輪と石列に囲まれた場所もありました。それっぽいのですがちょっとわかりません。

こちらの住所は現在、筑紫野市阿志岐と言い、以前は葦城村だったそうです。

参考:困った時の城郭放浪記さん、福岡県中近世城館跡調査報告書

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赤い城

築土八幡神社 (2022/11/20 訪問)

東京メトロ東西線の飯田橋と神楽坂の間くらい、飯田橋のほうがやや近いでしょうか。
築土八幡神社が城跡推定地ですが遺構はありません。
神社は高台の上にあるのでそれっぽいです。
近所の方が通りすがりにお参りされている地域にも親しまれている神社のようです。
ちょうどイチョウが色付いていました。

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マル

吉岡城(宮城県) (2022/11/26 訪問)

仙台藩主伊達政宗公の三男宗清の居城
〒981-3621 宮城県黒川郡大和町吉岡館下
CVWJ+R4 大和町、宮城県
仙台藩主伊達政宗公の三男宗清の居城跡
黒川郡の領主となった宗清は、まず下草城に入り、のち元和元年(1615)より吉岡城の築城にかかり、翌2年(1616)に完成し養母飯坂の局とともに吉岡城に移り城下町を開府した。(飯坂盛衰記)
同時期に発布された一国一城令で城を名乗ることがはばかられたので吉岡宿(吉岡所)ともいう。
吉岡宿は、宿場町の経済的な窮状を、町人たちがお金を集め、藩に貸した利息で宿場町の経済を支えたことを映画化した『殿、利息でござる!』に、宮城県出身のプロスケーター羽生結弦が出演しているのでも有名。

現状、一の丸があったとされる場所は、福祉センターが建つひだまりの丘(館下公園)となっており、その南方の隅櫓があった地域が城内大堤公園となっていて隅櫓が復元されている。近くの保福寺本堂の玄関は、吉岡城から移築されたものとされている。同寺には、後に吉岡を拝領し、戊辰戦争において奥羽越列藩同盟軍を率いて西郷が率いた西軍と戦った但木土佐成行の公邸の門も移築保存されている。

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チェブ

おしゃれな街で穴城を想う。 (2022/11/27 訪問)

友達に会う為に都内へ。
【行った】をポチっとする為、JR山手線の恵比寿駅から「目黒氏館」に向かいました。
多分、ついで じゃなかったら、巡らなかったかもしれません。

鎌倉幕府御家人の目黒氏の居城です。
調べても情報が少なく、ポチっの為だと、歩きます。

恵比寿駅から緩く下りました。
左手を見ると上り坂。街道の向こうも上ってます。
おしゃれな お店や建物で、土地は覆われてますが、谷間を緩く下ってます。
驚いた事に、「目黒氏館」を示す『目黒学院中学高等学校』は、更に階段を降りた所にありました。
、、、地形、どうなってるんだ?

写真を写して、ふっと見ると ラガーマン。ラグビー部の練習なのか、走って行きました。
不審者と思われる前に退陣です。

お城攻めは、上って行く事が多いのですが、下って行った「目黒氏館」は穴城のような感じなのでしょうか?
目黒川方面から攻めたら印象が変わるかもしれません。
情報の少ない「目黒氏館」。
情報が無い分、想像力が豊かになりました。

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ばばよ

門に石垣に紅葉に (2022/11/13 訪問)

大手門と三の門が現存の建築物で、国の重要文化財に指定されています。
木の柱というんでしょうか、漆喰で隠していないので、無骨な印象を受けます。素敵です。
野面積みの石垣が大手門横や、二の丸(一部積み直しはあるよう)から本丸にかけて長々とみられ、迫力があります。
懐古園と表記されることが多いですが、多くの紅葉と深い谷から成っており、非常に趣深い景観で、単なる「城址公園」とするよりはこの名称が非常にマッチします。
大手門の内部は公開されており、現地のおとうさんが親切に解説してくださいました。
城下町よりも低いところに城があり「穴城」とも呼ばれるわけですが、「小諸は城下町じゃなく城上町だね」と教えてくださいました。なるほど!
ちょうど紅葉まつりの時期の日曜日でしたが、10時半ごろなら直近の駐車場に停めることができました。

黒門(一の門)を移築したものが正眼院にあるとのことですが、少し距離があるため寄れず。
またお城に復元移築していただけないものですかねぇ。
足柄門も光岳寺に移築されていますが、こちらは元あった場所がふつうの道路っぽいので、復元移築するのは現実的ではないのかも。

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カズサン

中枢部消滅でも遺構がよく残ってます (2022/11/13 訪問)

 一郷山城跡展望台、模擬天守閣風より四方を眺め終えて、東南東方向直線約13~14kmの本庄市雉岡城を目指す。
 昨年の10月群馬県埼玉県未踏の城廻りの時間調整予備として藤岡城と雉岡城をリストアップして居ましたが藤岡城で夕刻時間制限で雉岡城は探訪出来ませんでした、今回の上野、武蔵未踏の城廻りに入れ初登城致しました、でも夕刻近くで写真写りはよく有りません。

 情報源の古城盛衰記さん余湖図コレクションさんグーグルマップで城址公園南東の公園入口に駐車場とトイレが有りここにナビを定めて走行、ぴったりと到着しました。

 到着してまず、土塁の規模にびっくり、大手郭内に突出した塁が有り出構えの様子、南には土塁が残り、東には土塁と水堀、北東部には水堀と伯耆郭が南に突き出てる、大手郭北と北東伯耆郭、西の本丸、本丸南の郭の間に水堀が残ってる、大手郭北側と本丸南郭の間に夜泣き石の有る空堀が在る、大手郭の北側の西に角馬出が残るが近年の改築で石垣は後世の物、角馬出の西に雉岡城縄張推定復元図が掲示して有り、郭の名称はこれを使用しました。
 遺構消滅した部分は、本丸と本丸南郭が児玉中学校、三の丸と二ノ丸が児玉高校として使用されて居ます、南東部だけでも残って居り土塁、空堀、水堀、郭がこれだけの規模でも残り大切に城址公園として整備保存されてる事は大変ありがたい事です。
 尚、グーグルマップの航空写真を見ると北側の三の丸跡北側の堀跡土塁跡塁線が樹木で痕跡が残ってる様に見受けられます。
 
 歴史:城域は東西約270m、南北約430mに及び、山内上杉氏の築城、後北条氏の領有と成り鉢形城の支城、小田原征伐後徳川氏の領有と成り松平家清が1万石で入封し約10年治める、関ヶ原後松平氏は三河吉田城に転封となり廃城。
 後北条氏の大改造で北条流築城、松平氏が10年で改造したのかどうかは?1万石では改造も余り無かったのではと思ったりしたり?

 夕刻迫る登城探訪でしたが2年振りにやっと登城する事が出来、規模の大きい土塁、曲輪、水堀に感嘆しました。
 

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宗春

紀伊半島中央突破シリーズその4 岸和田城 (2022/11/22 訪問)

紀伊半島中央突破シリーズその4
地元の友人と一緒に名古屋から紀伊半島の中央を車で突破してきました。

自分的には初めての大阪府の城です。
外観は良いですね。犬走りも好物です。天守はRC造の外観復元天守ですか。まあそうでしょうね。天守前の「八陣の庭」の印象が強く、天守内部の展示物(?)の記憶がありません。

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todo94

献血後の攻城 (2022/11/12 訪問)

郡山での献血に時間がかかってしまい、遅い昼食をとった後、赴きました。住宅地となってしまっていて遺構はほぼないも同然かと思いますが、大河ドラマ「独眼竜政宗」で三浦友和が演じた伊達成実が陣を敷いた歴史の地であるようです。小さな公園に城址碑と説明板が建っています。

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赤い城

鍋島氏の墓所もある成願寺 (2022/11/20 訪問)

中野坂上駅から徒歩で数分、坂を下ったところにあります。
成願寺が屋敷跡ですが遺構はありません。
中野長者と呼ばれる鈴木九郎の屋敷跡となります。
境内には石碑があり、鈴木九郎のものがたりのパネルが設置されています。
読んでみるとなかなか面白いですよ。
成願寺には鍋島氏の墓所もあり、近くをお散歩する際には立ち寄ってみて下さい。

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トク

【島津VS大友:最終決戦の城巡り】 (第14回)臼杵城(丹生島城)② (2022/09/26 訪問)

(臼杵城①からの続きです)

大友宗麟は、心血を注いで建てた教会・修道院・学校・病院が焼き払われ、臼杵の街が廃墟となったことに相当な怒りを憶えました。そしてこの無念を晴らすべく、このまま籠城せずに何と討って出る事にします!

この時、宗麟にはある秘策がありました。それは秘密兵器「国崩し(フランキ砲)」です(写真①)。ポルトガルから輸入し、日本ではまだ誰も使った事もない見た事もない兵器でした。宗麟は平清水(ひらそうず)に布陣している島津軍めがけ砲撃しました(臼杵城から平清水を眺めた写真②から想像イメージ写真③を作ってみました。こんな感じでしょうか?)。すると、凄まじい爆音とともに着弾し、島津軍はもう度肝を抜かれ大混乱! そして多くの兵が死傷しました。

その隙に、前日から海を渡り隠れていた兵が、平清水(龍原寺付近)(写真④)の島津軍の本陣めがけ果敢に討って出ます。そして、動揺している島津軍へ襲いかかりました。島津兵はさらに驚き退却を始めますが、二王座の切通し(岩を砕いて作った狭い道)(写真⑤)まで退却したところで、同じく前日に海を渡り待ち伏せていた吉岡統増(妙林尼の子)が率いる鉄砲隊が一斉射撃! これに多くの武将が打ち取られてしまいました(またイメージ作ってみました:写真⑥)。

島津義久は、多くの死傷者が出た事と秀吉の大軍が豊前を南下中との知らせを受け、今後の豊臣との決戦に備え、薩摩全軍の体制を立て直すべく、家久へ「もはやこれまで、薩摩へ撤退せよ!」と命令します。念願の宿敵「大友宗麟」の首を討ち取れる寸前あと一歩の所までせまっていた島津家久でしたが、命により無念極まりなく撤退をする事にします。これで、島津の九州制覇の野望は完全に消えてしまいました。そして大友宗麟はこれにより豊後を最後まで守りぬく事ができたのでした!

次は、津久見(大友公園:宗麟墓所)へ続きます。


【余談:臼杵観光】
臼杵城の周辺は、城下町の面影を思わせる街並みがよく残っていて、散策するにはとても良いところでした。城から正面にまっすぐ続く石畳の道は、宗麟が作った道で、突き当りにはかつては教会やセミナリオ(修道院)・病院・学校などがかつてあり、南蛮人も多く、ゾウもここを歩いていたとか?(イメージ写真⑦)。今ではこの石畳の道に、臼杵名物の味噌・醤油の店(フンドーキン・富士甚)やおみやげ屋が並び、教会を模した休憩所などもありました(写真⑧)。またすぐ横の「二王座歴史の道」には、鉄砲を撃ちかけたとされる切通しや、稲葉貞通時代に建てられた寺が多く残っていました(写真⑨)。少し行った所には「臼杵石仏」などもあるので(写真⑩)、臼杵城を訪れた際には、これらも散策される事オススメです!(私もゆっくり歩いてきました😊)。
 

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朝田 辰兵衛

日没ギリギリで。 (2022/11/26 訪問)

日没ギリギリで間に合いましたが,気持ちの焦りからか少しブレてました。ずっと奥のほうが堀跡なのかな…と思いましたが,閉門されたり不審者扱いされても面倒なことになるので,すぐに退散しました。

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ぴーかる

成願寺城 (2022/11/05 訪問)

【成願寺城】
<駐車場他>成願寺ふれあい会館
<交通手段>車

<見所>堀切・切岸・畝状竪堀
<案内>城びと実質登城者初投稿いただきます。昌官忠さんが登山口が見つけられず断念したとのことなので詳細に。私の前投稿の波着寺跡にも投稿していますが、まず波着寺跡を目指します。<36.030677, 136.280050>のポイント岐路に波着寺跡方向の板がありますので北方向に曲がり150m程直進(途中から土の道の民家の間を通る)すると公衆電話BOXを再有効利用した波着寺記帳所と鳥居がありますのでそこが登山口になります。参道はつづら折りを登りますが真ん中を割くように1つづつに竪堀があり見応えあります。この竪堀は波着寺の遺構か焼失後に成願寺城の補強の為に造られたものかは分かりませんが明確に残るいい遺構ですので一見です。25分程度登ると波着寺跡にたどりつきます。ここで先に波着寺跡を一巡り見ておく方がお勧めです。それは波着寺の方が古くからあり、波着寺が一向宗に焼き討ちにあった後に成願寺城が出来たかあるいは時代が重複し相関関係にあったかもしれないので自分の中で考察できると思うからです。
 波着寺跡から山頂の成願寺城跡を目指します。私は本堂跡から直登し連続堀切の尾根上まで出ましたが、鐘楼堂跡の奥に山頂方向へ登る階段があります(階段は途中で無くなると思います)のでそこから成願寺城跡へ向かうことができると思います。帰路で迷ったので尾根の途中で出たら目印を付けておくのが良いと思います。尾根上に出たら左手西方向に尾根(連続堀切になっている)を進んだら主郭切岸下に着きます。波着寺跡から城跡まで15分くらいです。

<感想>成願寺城の詳細はよく分かっていませんが、戦国時代に築城され、主な城主に朝倉氏の重臣で信長に内応した前波吉継(のちの桂田 長俊)がいます。城跡は東西に伸びる細尾根を利用した縄張りで前述の東側の連続堀切を過ぎ主郭の手前に2重堀切があります。主郭とその先に各々ある曲輪の切岸は高く攻略しがいがあります。主郭は狭く土塁囲みで南側のゆるやかな傾斜に畝状竪堀がありますが少し薄くなっています。城跡の西側は南に伸びる尾根とそのまま西へ下っていく尾根が分岐して曲輪になっています。西端には巨石があり城はここまでかなといった感じです。
 山地の西麓付近に城びと未登録の成願寺城下の城があるのですが山頂から少しトライしましたがだいぶ距離があるようなので断念しました。波着寺跡の御清水跡から西方向へ向かうと比較的楽に行けるようです。
 戻り道が尾根から適当に直降りしたものだからロストして迷いまして最後波着寺の鐘楼堂跡に出ることができました。途中ぬかるみにブヒブヒの足跡が無数にあったので確実に居ます(怖)。

<満足度>◆◆◇

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零汰

九州発:佐賀・福岡:3日目

3日目は朝6時前に糸島市にある怡土城登山口に到着。日の出を待って怡土城~高祖城に向けて訪問を開始した。途中には高来寺砦と草野陣砦がある。その後は二丈岳城を経由して佐賀県に向かう。

10月22日(3日目)
1.◆怡土城(福岡)
2. 高来寺砦(福岡)
3. 草野陣砦(福岡)
4.◆高祖城(福岡)・・・・・・1~4、同時訪問:3時間35分:7.9km:累計高低差506m
5.◆二丈岳城(福岡)・・・・1時間30分:2.8km:累計高低差303m
6.◆梶峰城(佐賀)・・・・・・1時間:1.7km:累計高低差184m
7. 龍造寺長信館(佐賀)
8.◆晴気城(佐賀)・・・・・・・相性の悪い城跡。城跡周囲にある林道が複雑かつ迷路の上に悪路、3年前は随分と探したが辿り着けなかった。今回は鬼神・城郭放浪記さんの情報で辿りついて場所は特定出来た。タイトな道路を進まないと行く事が出来ない。夕方4時前から直登はする気が起きずに次回に持ち送りとした。幾つかある相性の悪い城跡の中のひとつ。
◆は城びと登録城。多くは良い城跡なので後日に個別で投稿する予定。

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カズサン

牛伏山展望台は模擬天守閣 (2022/11/13 訪問)

 圧巻の空堀、切岸なる麻場城を充分堪能して、南東へ直線で4~5km程の牛伏山頂に在る、一郷山城模擬天守を目指す。
 5年前の4月平井城初登城時山頂にある天守閣を遠望し、平井城では城廻りされてるご夫妻に遭い山頂の一郷山城登城直後での会話でした、以来気には成って居たのですが昨年の群馬県未踏の城廻りに入れて居たのですが登城失敗続きと夕刻時間制限で未踏に成って居ました、麻場城から近い事も有り山道をくねくね曲がりながら一郷山城展望台駐車場(36°13'13"N 138°59'20"E)に到着。ナビは牛伏山展望台に合わせ走行。

 山中走行は紅葉も綺麗でした、牛伏山展望台と成って居り、模擬天守閣風3階建て、一階は地元産品の展示、二階は吉井町の歴史文化観光資料展示、吉井陣屋の絵図、説明文も展示、三階は回縁で東西南北を見渡せる展望台。
 開発で遺構は無く成ってる様ですが、東の曲輪、広場の東屋下は曲輪か堀が観れるような気がしましたが?東方の眺めは紅葉も有って素晴らしいがやや霞が懸ってる、西方も牛伏山山頂、紅葉とTVアンテナが見えます、南下はゴルフ場、少し西に歩いてトイレが有ります、途中に土塁の跡かな?的な土の高まりも有りましたがどうでしょう?

 歴史:牛伏山は標高491m、永享10年(1438年)関東管領上杉憲実は鎌倉公方足利持氏と争い、鎌倉を退き平井城に拠った、その頃西方の守りとして一郷山城、新堀城を築城した、一郷山城は山頂にある事から、のろし台の機能。
 永禄6年(1563年)武田信玄の上野西部侵攻の緒戦で一郷山城を攻めた、苛烈な戦いの末全焼全滅落城し、ついに新堀城も攻略された。
 平成元年12月に一郷山城跡に「牛伏山展望台」を開設。
 (牛伏山展望台解説板の抜粋)

 結構沢山の方が来られていました、ドライブ、紅葉狩り、山頂からの展望眺望の素晴らしい景観です、車で気楽に来られるのが良いですね⁉
 情報とガイドは何時もの古城盛衰記さん余湖図コレクションさんグーグルマップに依ります。
 
 次に陽の有る内にと本庄市の雉岡城を目指しました。
  

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AJ

虎の血脈④ (2020/08/24 訪問)

「うちの先祖は武田の家臣」ーー。地元の方によると、甲府ではよく聞くそうです。一方で、そういった家伝は当てにならないことが少なくないとも。小さな島国で出自にこだわるなんて、とお思いの方もいらっしゃるでしょう。それもしかり。いずれにせよ、系譜を正確に遡るというのは難しいようです。

恵林寺(山梨県甲州市)は武田家の菩提寺。再建された三門の前に立てば、有名な「安禅必ずしも山水を須いず、心頭を滅却すれば火も自ら涼し」の扁額が目を引く。信玄に招かれた僧・快川紹喜が信長の焼き討ちで亡くなる際の辞世とされてきましたが、近年は快川と問答した別の僧の言葉を後世の編纂物が快川の逸話にしてしまったという見方も。

さて、自身の出自をめぐり、この寺で“武田ブランド”の価値を実証してみせた人物がいます。板垣退助。土佐の家老だった頃は乾性を名乗っていましたが、幕末に西軍を率いて甲府を占領するにあたり、境内で改姓をアピールしたといいます。

自身が信玄の重臣板垣信方の子孫(*信方の孫・正信が、山内一豊の家臣だった乾家の養子になったという機縁とのこと)であることを喧伝したそうです。天領とはいえ、武田期を懐かしむ風潮が強い甲府。改姓によって進軍を円滑に進めようとした意図はわかるような気もします。

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todo94

説明板、見落としました (2022/11/12 訪問)

畑の中に取り残された小島のような小丘が国神城だろうと見当をつけ、写真を撮影し、三角点まで確認してきましたが、帰ってきてから調べてみて、国神城で間違いないとわかり、ほっとしています。あんな立派な説明板を見落としてしまうとは俄には信じられません。。

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Tokyobay

吉田松陰とか太宰治とかレトロ駅舎とか (2022/10/18 訪問)

追手門前に旧図書館や旧東奥義塾教師館があるが、その裏手に幼稚園に隣接した「松陰堂」という吉田松陰が宮部鼎蔵と共に訪れた屋敷が現存している。ただし、要予約だったので中は見学できず。他には太宰治が旧制高校時代に下宿していた「太宰治まなびの家(旧藤田家住宅)」というのも現存。こちらは当初の建築場所から約100メートル南東に建物の向きを変えることなく移築されたようである(芥川龍之介を真似した写真を撮影したのはここで、部屋がそのまま残っている)。その他、弘南鉄道大鰐線の終点の中央弘前駅もレトロな感じで風情がある。ちなみに北門を出たところにある武家屋敷通りも自転車で走ったが、生垣等はあるものの、建物自体は殆どが普通の住宅なので、そんなに風情があるわけではない。

※「GAIJIN」が差別用語らしく漢字やカタカナではエラーになるので省いて書いてますが、正規名称は写真に記載してある通り旧東奥義塾「GAIJIN」教師館です

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カルビン

近場ではないところ (2022/11/12 訪問)

時を戻そうw

前回の増山城の前の北陸遠征で行った金沢方面で最初に訪問したのは高尾城でした。。。東京都の高尾山だったら小学生時代に年1回遠足で行ってましたが、コチラの高尾はお初です。

たしか高尾城は富樫氏が加賀を統一した際に築いた拠点のお城だったと思います。
当初は順調に統治していたと思われてましたが、徐々に一向宗(主に坊さん)を抑え付け、最後は押さえつけ過ぎて爆発した一向一揆衆に落とされてしまったわけで。。。一向一揆怖いw

お城は教員総合研修センターの裏手になり、以前はその手前から山道がつながってましたが、自分が訪問した時はその参道は通行禁止になっていた為研修センターまで登ってそこから駐車場経由で高尾山城に登った感じです。

高尾城自体の登りもそれなりに疲れましたが、それよりも麓から研修センターの駐車場までの舗装道路の登りのほうが堪えました(ーー;

残念ながら遺構のあると思われるエリアは軒並み立ち入り禁止となっており、解説版のある山上の更に奥の立ち入り禁止エリアの竹林に行きたかったですが、そこは自制しました(汗)
奥が見れれば評価は上がるの間違い無いのですが、肝心なエリアに行けないと充実度も半減です。。。最上段の景色は良かったけど、この日のメインは入れない鳥越城の続100名城スタンプを入手する事だったので、正直もう少しここでは充実感を味わいたかったな~



ジョル〇ンの時刻表やルート案内、及び金沢駅前のバス停にあったルートでは高尾城の麓にあるバス停(高尾南二丁目)を通るハズだったのに、予定していた料金区間になっても一向にそのバス停が現れず・・・運転手さんに聞くとそこは通らないと。。。なんですと!?
・・・まぁ、車窓からの景色であれが高尾城だろう。。。という高地が見えていたのにそちらに進んで無いのを見て多分ルート違うんだろうなぁと薄々感じてはいましたがorz
ま、運転手さんが親切に降りた場所から1kmくらいでその場所に行ける事を教えて頂けたので事無きを得ました(汗)
そもそもバスに表示された行先とバス停横の行先が違っていた時点で悪いのはジョ〇ダンではなくこの運行会社の情報展開不足が原因なんでしょうな・・・
こういう事って稀ですが個人的感覚では年2くらいあるので、皆様も気を付けましょう。

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小城小次郎

古代のロマンが眠っている (2022/05/04 訪問)

運動公園の下になってはいるが、ここには堀に囲まれた広大な空間があった。今も残る横堀などは11世紀の後三年の役の頃まで遡るものという。ここには(陳腐な表現だが)古代のロマンが眠っているようだ。

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赤い城

梅雨どきは紫陽花の名所に (2022/11/13 訪問)

黒羽城址公園として整備されていて駐車場もあります。
駐車場も曲輪の跡で土塁が残っています。
道路を渡って公園に入ると説明板があり、その奥に空堀があります。
堀底道を歩くこともできます。
本丸は大関氏の館跡で広く能舞台がありました。
南側の馬出曲輪との間の堀は深く、梅雨には紫陽花で一杯になります。
三の丸には芭蕉の館が建っていますが背後には土塁、深い堀も残っています。
以前紫陽花のシーズンに訪れたことがありましたが城を見るにはこれからの時季ですかね。
時間があればもっとあるき回れそうな城でした。

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