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いち

さすが、現存天守 (2019/06/03 訪問)

 天守台から移されても、
狭間だらけのこの鉄壁な防御。
岩木山も綺麗やった。
桜のイメージが強いけど、初夏の弘前城も最高でした。

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イオ

高井城(大阪府貝塚市名越) (2021/12/16 訪問)

高井城(城びと未登録)は、織豊期に高井天神廃寺に根来衆が築いた城で、羽柴秀吉の紀州攻めでは行左京を守将として地元の百姓らが籠城しましたが、福島正則の攻撃により落城しました。

根来出城配置図によれば、高井城は近木川北岸の高井集落に築かれ、北隅の本丸を三重の堀で囲み、水間街道沿いに門を構えた平城で、対岸の千石堀城と対になって機能しました。宅地造成により遺構は消滅していますが、名越駅の西にある公園は周囲から一段高くなっていて城跡(の一部)とされ、説明板が建てられています。また、発掘調査では高井城の遺構や遺物は見つかっていないものの、独鈷杵文や三鈷杵文の鎌倉期の瓦が発掘されており、高井天神廃寺は密教寺院だったようです。

続いて対岸の千石堀城にも行くつもりでしたが、時間切れによりこの日はここまで。それにしても、この日に訪れた畠中城、積善寺城、高井城は下調べではあまり情報を得られなかったんですが、さすがに地元資料館の企画展となると様々な資料や情報が入手でき、遺構の無い城でも無いなりに楽しくめぐることができました。
 

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todo94

樺崎砲台 (2021/12/11 訪問)

今まで何度も宇和島に来ているのに樺崎砲台に脚を伸ばすことはありませんでしたが、こんなにきれいに整備されているとは知りませんでした。目から鱗です。隣接する宇和島市立歴史資料館は警察署の建物が移築されたものなので砲台とは関係ありませんが、無料で入場でき樺島砲台の印刷資料も戴けますのでお薦めです。砲台跡を俯瞰することも出来ますよ。

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にのまる

まっちろ。 (2022/01/15 訪問)

 とても寒い日でガチガチになりながらだったので、途中にあった三の丸温泉跡の手水鉢の熱いお湯がありがたかったです(*´▽`*)
着いてみるとお堀が真っ白。見事に氷が張っていました。先に行った松本城は場所によってうっすら…だったので予期しておらずびっくりでした。
 天守から諏訪湖方面を見ていると行ってみたくなったので急ぎ足でしたが寄ってみました。大きくて、見ているだけでも気持ちよかったです。波しぶきかと思ったところも氷だった!

todo94さん、城カード現存天守シリーズコンプリートおめでとうございます!
好きなお城は何度行っても楽しめる、ということを日々教えていただいております。
それにしても宇和島城、通算7度目とは‼さらっと書いていらっしゃいますが、すごい( ゚Д゚)

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赤い城

騙されてはいけない (2022/01/09 訪問)

城址公園ちなっていて二郭に建つ模擬天守風の展望台がある。
見晴らしも良いのだがこれで終わってはいけない城。
妙見台方面が立入禁止になっていて引き返そうとしたが、整備の作業をされている方に声かけたところ是非見て欲しいと言われたのが倉の台下の大堀切。
主郭の倉の台切岸はどうやって削ったのか分からないほどの高さがあります。
勧められた堀切は本当に凄かった。
山を削ってます。
近くには石積もありました。
何本かの尾根にも展開している城とのことでまた行きたい城になりました。
本当に整備に感謝です。
上総土岐氏の城で小田原平定により落城しました。

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イチ

冠山城 (2022/01/15 訪問)

備中七城(境目七城)の一つ。備中高松城の戦いの前哨戦となる。毛利方の奮戦虚しく、加藤清正の活躍により落城。
山城の規模はそれほどはないが、二の丸と主郭の高さは高く、3本の竪堀は健在。駐車スペースに難点ですが、綺麗に遺構が残っています。

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todo94

城カード現存12天守シリーズコンプリート (2021/12/11 訪問)

2017年以来、4年ぶり通算7回目の登城です。無事、城カード現存12天守シリーズをゲットして、コンプリートと相成りました。それだけでも嬉しいのですが、久し振りの宇和島城は、きれいで新しい説明板がいくつも設置されていてとても吃驚しました。初めて訪れた2000年のその前の時代は、天守が非公開で内部の見学には市役所への申し込みが必要だったそうです。今でも入城料が200円に据え置きのままなのはとても良心的だと思います。

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BUCHI38

天守を燃やしたのは明智光秀ではなかった!?

皆さんは安土城を燃やした人といえば明智光秀を思い出す方が多いと思います。しかし実は安土城を燃やした人は正確に誰だかわかっていません。ただ説として織田信雄が挙げられています。織田信雄は安土城が一時期明智のものになったという痕跡を消すために燃やしたと考えられています。
ただ僕は織田信雄は天下を取れなかった怒りで燃やしてしまったのではないかとも考えています。今後の疑問点となると思いますが最新情報が出るのを楽しみにしています。

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カズサン

高速道からよく見える天空の城 (2011/06/05 訪問)

 越中の国、能登の国の城廻り名所廻りの翌日、東海北陸道を上り途中の郡上八幡城に寄る、郡上八幡城は家内と城廻りで登城時40数年前に投稿時50数年前に初登城した思い出の有る城跡です、当時は鉄道を使い八幡城にはタクシーで乗り付けでした。
 今回、車は郡上八幡城天守北側の駐車場を利用。

 駐車場から南の登城門側に石垣城塁を観ながら移動し本丸、昭和8年完成した日本初の復元木造天守閣に登る、6月の梅雨時湿っぽい天候でしたので霞が掛かった様な状態で写真の写りま靄っとして居ます。
 白亜の天守閣、天守曲輪に隅櫓、天守門、土塀で囲み石垣と白い建物群が深緑もみじといい調和を醸しています、秋の紅葉時期は最高でしょう、また春の桜の時期もまたまた素晴らしい、四季夫々素晴らしい景観を楽しめます。
 東海北陸道が通って大変便利に成りました、また機会が在ったら家内と訪ねたいと思って居ります。

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金沢城の謎の紐解き

2022年1月22日に絶対に行きたくなる名城金沢城が放送されます。
その番組で3つの謎が提起されております。
1つ目は、なぜ本丸より二の丸がお城の中心となったのか?
二の丸には、菱櫓、五十間長屋、橋爪門等がありますね。
これは、元々金沢城も本丸に三階櫓があり中心だったのですが、度重なる火災による焼失を経て、二の丸の拡張するなどの整備が行われ次第に二の丸が城の中心となっていった。
焼失した本丸の三階櫓は再建されませんでした。
2つ目は、なぜ金沢城は独特の白いデザインの城になったのか?
これは、お城は大別して黒い城と白い城に分けることが出来ます。
黒い城は、豊臣秀吉時代(関ヶ原合戦以前)に造られた城が多いのです。
白い城は、徳川家康時代(関ヶ原合戦以降)に造られた城が多いのです。
黒い城の利点は、戦国時代ならではのもので敵の目に隠れやすいということです。
白い城の利点は、城の優美さを強調出来る点と城を大きく見せてアピールすることが出来る点で有ります。
このような事から、金沢城は独特の鉛瓦を使って城の姿を壮美にしたかったので白い城の方が適していたからだと考えます。
3つ目は、なぜ特色のある石垣が造られたか?
色紙短冊積石垣は、非常に芸術的な石垣として有名ですね。
にのまるさんも見惚れていたようですね。
この石垣は、色紙のような四角な石と短冊のような縦長に積んだ石を上手く組み合わせて造られた芸術的要素を活かしたものたったということです。
様々な形や色味が混ざっていてステンドグラスのようですね。
このような石垣が造られた理由としては、前田家第5代当主前田綱紀によるものたったと思います。
前田綱紀は、潤沢なる前田家の富を文化芸術の為に惜しみなく出したされています。
文化芸術の価値を高めることを第一に考えていたのです。
だから、あの石垣も前田綱紀の命令で造られたものたったのです。
私は、正解かどうか来たる番組で確かめます。

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イオ

根来寺の出城 (2021/12/16 訪問)

戦国中期に根来衆が築いた城で、小牧長久手の戦いの際には岸和田城攻めの付城となり、羽柴秀吉の紀州攻めでは出原右京を守将として防衛ラインの中核を担いましたが、根来寺出身で秀吉とも親密な卜半斎了珍の仲介により開城し、破却され廃城となりました。

根来出城配置図によれば、近木川南岸に位置し旧熊野街道沿いの橋本集落を二重、三重の堀で囲み、中央部に観音堂(本丸)、四方に矢倉を配した平城で、安楽寺または明教寺が本丸推定地とされますが(城びとの位置情報は安楽寺)、発掘調査で堀跡が確認されたのみで地表面には遺構は見られず、集落内の細く入り組んだ道と外堀として活用された南東部の寺池、長屋門や土蔵が建ち並ぶ旧熊野街道に往時の雰囲気を感じられるくらいです。また、旧熊野街道沿いに近木川を渡ったところに説明板が建てられています。

なお、積善寺城から西に徒歩12分の丸山古墳は、積善寺城攻めの際に秀吉が本陣を置いたと伝わります。現在では周囲を住宅に囲まれ、積善寺城は見渡せませんが、直線距離では600mほどしか離れておらず、往時の緊迫感を感じます。
 

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todo94

2巡目の続日本100名城のスタンプラリー48城目 (2021/12/11 訪問)

宇和島城の城カードゲットを目的に企図した愛媛ドライブ、前日の夕食後に家を出て淡路SAで車中泊し、朝一番で河後森城に駆けつけるという強行軍でした。早朝の河後森城は淡く朝霧に包まれていて趣のある佇まいでした。西第10郭にてスタンプを捺印し、西郭群から本郭を経て東郭群、古城、新城という定番のルートで楽しんできました。

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京都新城発掘調査講演会を聴いて見て

聚楽第の破却によって、豊臣秀吉は洛中における新たな居城を築く必要があった。
豊臣秀吉は、慶長2年9月26日に豊臣秀頼と徳川家康を伴って入城しています。
慶長4年には、豊臣秀吉の正室北政所の居所となるが、慶長5年の関ヶ原合戦直前の8月28日から9月13日にかけて、城内の矢倉、塀、石垣等が破却されております。
しかしながら、その後も北政所が亡くなる寛永元年まで使用されたと
見られます。
調査では、仙洞御所の造成土の下層から石垣と堀の一部が出できた。
石垣は、南西方向に約8mを検出し、南北共に調査区外へと続く。堀の西肩を成す石垣です。
石垣は、自然石を積み上げた野面積みでありました。
3〜4段の石が残り、高さは1.0〜1.6mである。
但し、石垣の上半部は崩されていることから、本来の高さは約2.4m、石垣は5〜6段積まれていたと考えられます。
石垣は、大きな自然石を用いながらも面や並びのラインがよく整えられており、丁寧に構築されています。
石垣の年代は、安土桃山時代のもとと分かった。
堀は、南北方向に8mを検出した。堀の幅は3m以上で、西端が石垣で東端が調査区外になる。
堀の深さは約2.4mである。堀の底には厚さ40cm以上の粘土が貼られています。
また、堀の中からは桐文と菊文の金箔瓦が出土している。
なお、堀の幅については表面波探査によって幅約20mと推定されています。
京都新城は、東西約400m、南北約800mの320.000㎡の広大な敷地だったことが分かった。
この石垣の発見によって、京都新城の実施解明に向けて定点を得た事になり、豊臣秀吉の晩年の政権構想の再評価にも繋がる可能性があります。
なお、消化設備は建設場所を変更し、石垣と堀は保存される事が決定しています。

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小城小次郎

地図で見るとなるほど、と思う (2021/09/20 訪問)

石山本願寺が信長襲来に備えて設けた50か所を超える出城の中のひとつなのだが正確な場所はわからないしもちろん痕跡も何もない。ただ地図で見ると大坂城への補給路(大川)をしっかり押さえる場所にあって「なるほど」とは思う。

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赤い城

正木氏初期の拠点 (2022/01/09 訪問)

白滝不動尊から登城。
不動尊裏手に浅間方面の案内板があり、そこから登りました。
結構急な細い道を登ると途中小さな鳥居があります。
さらに七曲状の道を登ると祠があり、この辺りから城域になる感じ。
この少し先に土橋状の尾根道があり、門のように石が両脇に置いてありました。
その背後に物見のような櫓台があり、土塁が続いていました。
土塁沿いの道を進んで案内板がある所の右手を直登。
曲輪や土塁が見られますが倒木が多くあるきにくい。
正木氏初期の城であまり手の込んだ城ではなさそうです。
正月で鈍った体にはちと堪えました。

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カズサン

【能登・軍艦島】能登半島見所探訪 (2011/06/04 訪問)

 富山城、越中安田城、七尾城、小丸山城登城を終えて以前から是非とも訪ねたいと思って居た軍艦島/見附島を目指し恋路海岸と繋がりの見附島を散策撮影しました、軍艦が波を切って動いているかの如く素晴らしい景観です、海岸側には恋人と鳴らす鐘も備わって恋人達のメッカに成ってます。
 
 夏の日は長く能登半島先の千枚田を目指し、車は道の駅を利用、道の駅の展望所、少し歩いて近くに撮影場所を探してウロウロ、日本海に近い海岸まで耕され先人の苦労がこの素晴らしい千枚田、景観を残してくれた事に感謝です、今後の保存整備も関心事。
 
 泊りは輪島、郷土料理と地酒でほろ酔い、店の方、お客さんと話してる内に当日は輪島の花火大会、港で20分間に2万発の花火を打ち上げるとの事、短時間での打上数が日本一との事、偶然にも花火大会に遇い素晴らしい体験をしました、度肝を抜く素晴らしさ大満足でした。(平成23年6月4日)(写真は居酒屋から花火大会でカメラ携帯せず取れませんでした)
 翌朝の朝市は朝市通りを一通り散策しましただけで終了。

 翌日(平成23年6月5日)、能登有料道を通って大国主命を祀ってる気多大社を初の参拝と探訪しました、ここも何時か参拝したいと思って居た神社です。

 能登観光探訪を終えて陽も有り高速道、東海北陸道経由郡上八幡城を目指す。
 

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イチ

沼城 (2022/01/16 訪問)

対織田戦の境目七城の中心的城郭で、城主は清水宗治。
ハス池の下に城跡と思っていたが、住宅側にあると知ったごく最近。

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イチ

藤堂高虎のお城 (2022/01/16 訪問)

築城の名手、藤堂高虎のお城。日本三大水城の1つ。鉄御門に多聞櫓が枡形で迎えてくれ、鏡石も魅力的です。

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todo94

長い林道 (2021/12/04 訪問)

ちょっと不安を覚えるほど長い林道を進まなくてはなりませんが、1kmおきに表示があるのは嬉しい限りです。駐車スペースも潤沢でした。それなりに遺構が残っていて説明板にも縄張図が載っていて素晴らしいのですが、できれば郭を示す表示板なんかも欲しいかなと。この後、天気予報通りに雨が落ちてきたので、この日の攻城は此処までとしました。

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ぴーかる

三草山城 (2021/12/25 訪問)

【三草山城】
<駐車場他>三草山畑登山口駐車場数十台分あり。
<交通手段>車

<見所>曲輪・石垣跡
<感想>赤松氏関連の山城攻め、この日の3城目。三草の地は源平合戦の方が有名でこの三草山の麓で合戦が行われ敗れた平氏が屋島に退去することになります。三草山城の築城年は定かではなく建武年間(1334~1338年)頃に赤松出羽守則友が城主だったようです。その後の城がどうなったのか不明のようです。
 三草山はハイキングコースとして憩いの場となっていて登山コースは三草・鹿野・畑の3つのコースがあります。鹿野コースは訪城時は閉鎖されていたので三草・畑コースが通れます。三草コースは2.5㎞ありますので畑コース1.3㎞がベターかと思います。長い登山道ですが見れる遺構があるのは山頂部一帯のみで頑張って登ってそろそろ山頂近いかと感じられた所に、表示はないですが明らかに木戸か虎口跡のような礎石があり石垣跡の土塁・曲輪がある削平地に出ます。登山時は気づきにくので下山時にその虎口手前の曲輪斜面に石垣が数個わずかに残っていますのでご確認を。登山道の石が転落石を踏んで登ってきたことに妙味。ここから段曲輪が数段、曲輪の法面に石垣跡がありますがほとんど崩落してしまっているようです。山頂の主郭部は狭く物見程度だったかなと思われます。ちょうど山頂部到着と同時に雨に見舞われ木陰で雨宿り。眺望は抜群だが写真的には遠く木漏れ日が写るいい感じのものが撮れました。
 この日はこれにて終了。1城目に善防山城を予定していましたが整備通行止めとなっていました。1/30頃まで吊り橋を渡っていくルートへは行けません。赤松攻略にはもう少しかかりそうです。

<満足度>◆◆◇

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