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蜻蛉切

長島一向一揆

長島一向一揆450回忌法要

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カズサン

【遠江仁藤山(笠町)砦】静岡県掛川市 家康掛川城包囲戦東直の砦 (2023/08/28 訪問)

 家康の掛川城包囲戦の本陣跡である龍尾神社の参拝見学を終えて、掛川古城からは真東に約300~400m程の仁藤山砦を訪ねました、地元、神明宮略記では笠町砦と記載されて居ました。

 住所:静岡県掛川市仁藤71(仁藤神明宮)
 駐車場:西麓の総合福祉センター体育館側の広い駐車場利用

 駐車場から堀底道のような通路を北へ、南に神明宮の坂道車道、中段からは車道と歩道階段が並列、境内に入ると神明宮と社務所が東側に在る、境内は広い、グーグルマップの史跡マークは境内に仁藤山(笠町)砦と記載されている。神明宮の略記には「この境内は徳川家康の遠江攻めの掛川城の包囲戦で笠町砦が築かれた処」と記されている。南側には正式の参道階段があり立派な石灯籠と石鳥居が控えています、が南側には駐車場なく狭い通路で車は不可。
 香川画伯の掛川城攻め付城群イラストには笠町(仁藤)砦も記載されて、北側に掘割を挟んで曲輪が在り現在は不動院が鎮座しています、二つの曲輪で機能していたのでしょう、加藤理文氏の解説ではこの砦には岡崎衆番手を入れたと有りました。
 当時は掛川古城の三の丸も有り東に出っ張り、距離感は比較的近かったことで目と鼻の先、結構な威圧感を与えていたことでしょう。

 歴史的、参考資料は先に投稿した【遠江天王山砦】家康掛川城包囲戦本陣の内容として同じです。(龍尾神社パンフレットを除いて)

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しんちゃん

ほしいも神社  ひたちなか市阿字ケ浦町178 (2023/05/05 訪問)

堀出神社はひたちなか市に鎮座する神社です。
八幡神社と同じ神様をまつっており、徳川光圀公より奉納された
神鏡を、ご神体として祭っています。
当地は明治28(1895)照沼勘太郎が干し芋の製造に成功した地として
知られており、令和1(2019)境内にほしいも神社が創設されました。
宮崎利七翁、湯浅藤七翁、小池吉兵衛翁、大和田熊太郎翁、白土松吉翁の
5柱を「ほしいもの神様」として功績をたたえています。

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しんちゃん

遺構の保存も整備も良く行き届いている。 (2023/05/02 訪問)

松井田城は南に中山道、北に東山道と碓氷峠が通っており、交通の要衝、
碓氷峠を押える城でもありました。北の九十九川と南の碓氷川に挟まれた東西に延びる
丘陵上に築かれています。城域は広いですが、国道18号から左に逸れる脇道から
城址近くの駐車場まで車で行くことが出来、非常に便利です。駐
車場から南方向へ、いくつかの堀切を渡って進んでいくと本丸周辺にたどり着きます。
本丸以外にも見所は多い城で、北側に三方に伸びた尾根の、真ん中の尾根を行くと
右手に畝状竪堀を備えた郭があります。見所1です。
本丸は城域の中心部にありますが、西側に二の丸、さらにその先に
畝状空堀群があります。見所2です。ほかにも見所はいろいろあって
本丸の東にはS字状にうねったS状空堀があるようですが、確認は出来ていません。
城内いたるところに案内板が立ち、よほど道に迷うことは無いと思います。
非常に回りやすく、遺構も満足できる優等生の山城です。
かつて戦国期に武田信玄が松井田城・安中城を攻めた時、安中忠政は松井田城に籠り、
嫡子忠成は安中城に入りましたが、忠成は信玄に降り、忠政は奮闘するも、力尽きて
信玄に降り、成敗されたと「甲陽軍鑑」に有ります。ただ、この場合の成敗というのは
出家・隠居を指しているらしく、忠政はこの時はまだ存命だったようです。
武田信玄、上杉謙信、織田信長の死去したあとは、城は北条氏の物となり、城代が入りますが、
豊臣秀吉の小田原攻めの際に、前田利家、真田昌幸らに攻められ、城代の大道寺駿河守政繁は
降伏し開場しますが、江戸高輪で自決させられたと言います。



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しんちゃん

膳城素肌攻め 武田ドラゴンズ (2023/05/01 訪問)

膳城は周囲を川で囲まれた丘に築かれていますが、高低差はさほどなく
ほぼ平城といって良いでしょう。東の道路沿いからすぐにアクセス可能で
北の歴史民俗資料館からもアクセスは可能なようです。周囲は宅地や畑地
となっていますが、本丸や二の丸を中心とした範囲は遺構が良く残っており
特に本丸の周囲には堀切が良く残っており、各郭の間を行き来するための通路が
整備されています。城域は南北500m、当時阿300mほどで東の平坦部は
帯曲輪となって今は畑地になっているようです。東曲輪から虎口を経て本丸にたどり着き
周囲の堀を眺めながら、北曲輪、袋曲輪、二の丸を散策しました。
享徳4年(1455)2月、ここを住居としていた善信濃入道を赤堀時綱が襲った記録が
残っています。後に上杉謙信の手に降り、武州羽生の木戸忠朝、菅原為繁ら千余りの将士を
膳城と山上城に配しています。謙信死後は北条の手に降り、金山から河田備前守が
城代を命じられています。天正8年10月、武田勝頼によって膳城は落とされ、河田備前守は
討ち取られます。後に「膳城素肌攻め」として伝えられています。
素肌攻め‥とは甲冑を身に着けずに城を攻めることで、土地の住民を怖がらせないように
平服で視察を行っていた武田軍に膳城の内輪もめが飛び火して即座に城攻めに
かかったらしいです。なかなか血の気が多いですね。

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しんちゃん

誰が言ったか「関東の華」 (2023/05/01 訪問)

前橋城はかつて厩橋城と呼ばれ関東七名城の一つに数えられています。
かつては武田、上杉、北条の間で激しい争奪戦が繰り広げられ、
徳川家康の時代に前橋城を酒井重忠に与える際に、
「関東の華を汝に与える」と言ったそうなのですが、出自は不明です。
群馬県庁の北側に土塁が残り、一部石垣も残ります。本丸北の前橋公園にも
土塁が残っているようです。今回、大手町二丁目の「前橋城車橋門跡」は未訪問です。
調べが足りていませんでした。次回の訪問にてリベンジする予定です。
戦国期の城主で印象深いのは北条高広ですね。主人を次々とかえ
勝利のためには、何でもするという姿勢が真田昌幸に通じるものがあります。
実力が拮抗している怪物大名たちの狭間にいる地元豪族たちは、常に
死地に立たされているようなもので、その環境が、したたかで力強い豪族たちを
育てていったのだと思います。

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しんちゃん

安中藩奉行所宅と安中藩武家長屋が公開中 (2023/05/02 訪問)

安中城は現在は安中小学校に石碑が立ち、周囲は宅地化が進んでいますが
安中藩奉行所宅と安中藩武家長屋が残っており、有料で公開しております。
北の九十九川と南の碓井川に挟まれた台地に築かれ、南側には旧宿場町が中山道を
挟んで東西に続いています。
永禄2年に安中忠政が窪庭図書を退けて築城したとあります。弘治2年(1556)、武田信玄と
上杉方の長野業政・安中忠政ら上杉勢との瓶尻合戦は上杉方の敗北に終わり、忠政は新たに
安中に築城して嫡子忠成を入れ、自身は松井田城を強化して信玄に備えたとあります。
信玄の攻撃を受け、忠成は降伏、忠政は松井田城で奮戦するも力尽き降伏、自害を命じられます。
江戸時代は井伊氏、堀田氏、板倉氏と譜代が入り、そのころの安中城は陣屋造りとなっていたようです。

補足‥忠政さん自害していなかったようですね。甲陽軍鑑で「成敗」されたと記されていたのは
隠居・出家に追い込まれたことを指しているようです。元ネタは城郭大系だったのですが
解釈は変わっていくものですね。

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ノボル

関東の名城 (2020/12/26 訪問)

白亜の外壁が映えます

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ノボル

上田城と共に (2021/05/04 訪問)

近くに宿泊したので散策しました

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ノボル

念願の上田城 (2021/05/04 訪問)

善光寺の帰りに寄りました

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ノボル

寄ってみました (2020/04/19 訪問)

静かな城跡です

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ノボル

子供の頃から訪れてます (2019/03/26 訪問)

石垣がけた違い

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TMN97

七尾城址 (2023/09/01 訪問)

七尾城址

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山焼きしてるのかあ。当時は? (2023/08/28 訪問)

何かの本で船上山城のそそりたつ崖の写真を見て以来、行きたかったところです。草原の斜面の上に柱状節理の崖がそそりたってる写真です。
実際に来てみると、想像以上の規模でした。玄武洞や東尋坊の柱状節理よりもとても太い柱です。
駐車スペースに車を置いて、東坂を登っていくと、探勝道(横手道)の標識があり、「途中山頂に通じる道がありますが、急峻なため健脚向けです」と書いてありました。恐いもの見たさに、こちらに行ってみます。幅30〜40cmの踏み痕みたいな道が続きます。崖の下近くを通り、迫力があります。急斜面を横移動する細い道であり、笹をかき分け、足元を確認しないと進めないところも。標識の「途中山頂に通じる道」がなかなか現れません。だいぶん来てしまった、獣道みたいな道を戻りたくないし、一方、この先は、ずいぶん先の雄滝、雌滝まで行ってしまうのではないかと不安に。ままよと、進むと、正面登山口の標識が現れました。二つ並んだ崖(屏風岩)の間の崖が崩れたところを登って行くのですなあ。大石ゴロゴロの上をほぼ直登します。行宮碑の広場に出ました。
広場に休憩所・トイレがあり、パンフも置いてあります。パンフに、船上山斜面は、3年毎に、山焼きしているとありました。それで、この景観なんですね!後醍醐天皇が来られたときはどんなだったのでしょう。崖の上から崖下の幕府軍に矢をいかけるのでしょうから、当時も草原だったのでしょうか。(続く)

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赤い城

宇喜多直家国取りはじまりの城 (2023/08/13 訪問)

石碑から道路を挟んだところに駐車スペースがあります。
そこから少し進んだところに登城口があり、案内板も着いていました。
少し登ると神社があり、さらに登っていくと本丸に着きます。
そんなに大変ではありません。
本丸には説明板もあります。
見晴らしもよかったですよ。

本丸の下には段になった曲輪が着いています。
折角なのでみたい、と藪に突入、したのが失敗でした。
少し前から不穏な羽音に気づき、撤退しようとしたところお尻に激痛が!
やられました、スズメバチです。
近くに巣はなさそうで幸い1匹のみで助かりました!

乙字神社が建つ二の丸は諦めました。
毒を絞り出し、ドラッグストアで高級虫刺されを購入、何とか事なきを得ました。

夏の山城、やっぱり気をつけないと。
軽率な行動、反省しました。

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todo94

小江戸甲府夏祭り (2023/08/11 訪問)

北海道から帰ってきた翌8月10日は1日研修。すぐに帰路につかずに11日に青春18きっぷでゆるゆると帰路につきました。甲府で途中下車して798回目の献血を無事に済ませ、甲府城経由で駅に向かったのですが、何と、小江戸甲府夏祭りが開催されていました。15時から花火打ち上げの準備に入るため立入禁止となる二の丸、本丸はさほどの人はいませんでした。それにしても甲府が小江戸をなのっているとは知りませんでした。

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トク

66【関ケ原の26人】(23)石田三成 (石田三成と佐和山城) (2023/07/02 訪問)

(23人目)「石田三成」の続きです。
関ケ原当時の居城、「佐和山城」を訪れてきました。

龍潭寺の入口(写真③④)にチャリを止めここから登城します。入口には三成の銅像がありましました(写真①②)。

この三成はとても知的な顔ですね~! しかもかなりリアルです。今にも動き出し、私に何かを語りかけてきそうな・・・ 墓から発掘された三成の頭蓋骨から再現し作ったそうです(なるほど🤔どうりで)。登る前から何やら緊張してしまいました。さあここから20分程の登山です。(写真⑤:猿に注意?)

1591年31才の時に石田三成はこの佐和山城に城代として入ります(この頃、佐吉から三成と改名)。そして1595年、秀吉から近江19万石を与えられ、正式に城主となった三成は、本格的に佐和山城の築城を開始しました。山頂にはかつて三成の築いた五層の天守がありました。しかし、関ケ原の翌日に小早川秀秋軍などに攻められて焼き払われたようで、そのためかあまり記録が残ってないようです。いったいどんな天守だったのでしょうか?

わずかな資料を元に地元の方々が再現した、こんな天守だったという模型が登山口近くにありました。でもこれ何か変では? なぜか豊臣系でない層塔型のような? 彦根城にちょっと似ているような?・・・私はこの城を背景に佐和山を眺めてみました(写真⑧)。やっぱり何か違和感があるような・・・ 本当はどんな天守があの山の頂上に建っていたのでしょうか? ならばこの写真⑧をもとに、こんな城だったのではないかというイラストを自分で作ってみました(写真⑨)。こんな感じの方が近いのではないでしょうか?

1600年3月、伏見での福島ら武断派による三成襲撃事件の後、家康の仲介で奉行職を辞し、三成は佐和山城へ蟄居します。すると家康は三成と対立する武断派の諸将をうまく取り込み、豊臣体制を崩していく事に成功しました。

蟄居した三成は、ここで大谷吉継らが止めるも聞かず、家康が太閤と約束した事を守っていないといった内容「内府ちがひの条々」をせっせと書き、三奉行を通じて全国の諸大名に送り味方を募ります。そして打倒家康の戦術を着々とここで練っていきました。

そして時を同じくして、直江兼続が「直江状」を家康に突きつけると、怒った家康は会津の上杉討伐へ出陣していきます。この隙に、ついに三成も兵を上げ、伏見城を守るの鳥居元忠を攻めた後、大垣城に向かい家康を迎え撃つ事にします(伏見城の詳細は私の(11人目)鳥居元忠を参照下さい)。

次は、関ケ原の前哨戦となった(大垣城)を訪れます。


【余談】彦根レンタサイクル
彦根駅前の井伊直政の銅像から50mくらい彦根城方向に行ったすぐの交差点に、貸自転車屋がありました(写真⑩)。彦根城や佐和山城への移動にオススメです。予約不要で安く借りる事できました(確か3時間500円くらい)。1日で両方回るならチャリが断然便利です(身分証要)。
 

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しんちゃん

ひたちなか海浜公園 ネモフィラが見頃とのことで‥ (2023/05/05 訪問)

ひたちなか海浜公園に行ってきました。花の名所で5月はネモフィラとwikiにも
出ているので、行ってみたのですが‥見頃過ぎてるじゃん。またか‥。
よくネットやTVで見る、一面の青い世界を期待していたのですが、緑が多い。
きれいと言えばきれいですが、違う。なんか違う。それになんか白くない?
警備員の人によると今年は特に見頃が早くて4月には過ぎてしまっているとのこと。
温暖化と異常気象で日本が熱帯雨林化しているのは常日頃から感じてはいるが
ここ6~7年ぐらいでだいぶ進んでいるような気がする。
2017のGWにに五稜郭を訪れた時は、桜が満開ですごいキレイだったが、今だと
若葉になっているんだろうな。情緒もへったくりも無い。
朝方は色が白くて、昼ごろになると元気になって青くなってくるそうだが、昼は
城めぐりで忙しいんだな。‥で、夕方また来てみたのだけど、あまり変わってない。
フラワーパークはライトアップでごまかせるけど、これはどうしようもないな‥。

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ぴーかる

野府城 (2023/07/22 訪問)

【野府城】
<駐車場他>駐車場はなし。
<交通手段>名鉄開明駅から徒歩

<感想>2週連続日帰り濃尾平野ちょこ城巡りの旅、第2弾9城目。現地説明板によると野府城の築城時期は不明であるが戦国時代には織田信長の弟織田信治の居城でありました。織田信治は宇佐山城の戦いで討死します。「尾張志」に武藤雄政が江戸時代初期に野府城跡に住み徳川義直に仕えたとあります。武藤家はその後断絶したそうです。
 一宮駅近辺のコインPに駐車し名鉄に乗って来ました。遺構は残っておらず現在は開明小学校の校門入ってすぐ左手に城跡碑と説明板があります。土曜日でしたが運動場で少年野球をやっていたので校門が開いていたので少し入って撮影しました。

<満足度>◆◇◇

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しんちゃん

公園と本格遺構がくっついた。 (2023/05/01 訪問)

山上城は南北650m、東西220mの城域を持つ、緩やかな丘陵上に築かれた平山城です。
北から笹郭、北廓、本丸、二の丸、三の丸と続き、三の丸は公園化していますが、それ以外は
遺構が良く残っています。山上城由来碑によると物見台を持つ南郭も残っているようですが、訪れていません。
東の蕨沢川、西の山田川浸食による谷地が堀の役目を果たしていると有ります。
藤原秀郷の子孫である五郎高綱が山上氏を名乗り居城としたとされ、高綱の子、太郎高光は源頼朝に仕え、
関東管領上杉氏の時代に、由良氏、薗田氏、桐生氏と共に東上州四家として重要な役割を果たしていたと有ります。

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