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侍ホリタン

信濃・駿河・遠江・三河の名城を訪ねて、松本城 (2022/07/17 訪問)

上田城からの転戦です。
現存十二天守の一つ、国宝五天守の一つです。
1590年豊臣秀吉公の小田原攻め後に小笠原氏に代わり入封してきた石川数正・康長父子によって天守が築かれました。
現在、太鼓門は令和5年2月28日の予定で耐震対策工事中でした。一部養生はされてますが今のところ通行は可能です。

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侍ホリタン

信濃・駿河・遠江・三河の名城を訪ねて、上田城 (2022/07/17 訪問)

小諸城からの転戦です。
1583年上田昌幸公によって築城された上田城は、二度も徳川軍の大軍を退けたことで名を馳せた名城です。特に関ヶ原合戦の前哨戦「第二次上田合戦」では、中山道を西進する徳川秀忠軍3万8千の兵を上田城に誘き寄せ、5日間の足止めを余儀なくされた秀忠軍は関ヶ原合戦に間に合う事が出来ませんでした。この時の上田城に籠る昌幸、幸村軍の兵力は僅か2500でした。関ヶ原合戦後、上田城は廃城、その数年後東軍に属していた嫡男上田信之公は松代へ移封、その後小諸より入封した仙石氏によって上田城は再建されます。仙石氏が但馬国へ移封となると松平氏の居城として明治まで続く事になります。
駐車場は上田城跡駐車場が駐車場は上田城跡駐車場が無料なのでおすすめです。

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侍ホリタン

信濃・駿河・遠江・三河の名城を訪ねて、小諸城 (2022/07/17 訪問)

高島城からの転戦です。
小諸城跡がある懐古園には遊園地、動物園、藤村記念館等が併設された市民公園となっています。また日本さくら名所100選にも選ばれています。
武田晴信公により拡張整備され、その後入城した仙石秀久公による大改修によって現在の姿になりました。城の玄関口である大手門よりも低い位置に本丸が築かれた「穴城」という縄張りとなっています。この場合、本丸の守りが弱くなりますが、本丸先の千曲川の断崖が弱点を補っています。
懐古園入り口付近に有料駐車場ありますが、城訪問だけなら2時間無料の大手門公園駐車場がオススメです。 小諸城跡がある懐古園までは徒歩5分程度です。公園内にある大手門2階は無料の資料館になっています。

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にのまる

日本民家園と。 (2023/02/10 訪問)

くろもりさん、こんばんは。
お久しぶりのご投稿に、おーっ!てなりました。
お子さまのご誕生、おめでとうございます。お健やかにお育ちになられますようお祈り申し上げます。

七尾城、登りましたよ。お天気もよくて気持ちよかったです。

くろもりさんといえば、長谷堂城⇄山形城往復慶長出羽合戦行軍、観音寺城の雪中行軍など、伝説の城巡り人というイメージを(勝手に)持っております。

宮後城訪問の機会がありましたら「東京から城跡碑を撮りに来たのに…( ; ; )」とならないようご投稿を参考にさせていただきます。

山形や観音寺城の雪とはくらべものになりませんが、本日は東京でも積雪がありましたので、雪の山城登城気分を味わいに近くの枡形城に行ってきました。海抜84メートル。登城口から山頂まで5分とかからないところですが。
みぞれまじりの雪で、あっという間にべちゃべちゃのぐちょぐちょになってしまいました。

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小城小次郎

「風の陣」クライマックスシーンの舞台となった古代城柵 (2022/09/25 訪問)

陸奥按察使の紀広純が蝦夷出身の伊治呰麻呂(あざまろ)に討ち取られるという大事件(宝亀の乱)の舞台であり、それは同時に高橋克彦「風の陣」におけるクライマックスシーンの舞台でもある。それだけでももう感動もの。

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くろもり

埋もれゆく古城 (2023/01/29 訪問)

訪問時、宮後城址は発掘調査をしており、案内看板と城名の標柱は撤去されていました。

後日、江南市に問い合わせると、
1.案内看板は宮後八幡社(城址の南東)へ令和5年度中に移設予定(調査内容の記載もする予定)
2.標柱は撤去
3.発掘調査の現地説明会は行わない
4.発掘で出土した物については、調査し資料館等に展示する可能性あり
5.発掘調査後は分譲住宅の建設が予定されている

「福岡から来たっちゃけど、案内看板ないやん!」とか
「東京から城跡碑を撮りに来たのですが、ありません!」等、困る方がいると思ったので、久しぶりに投稿しました。

城址周辺をよく見ると、城址の東側は一段低くなっており、小川も流れているので堀跡だったのかもしれません。
城址の南東隅とされる宮後八幡社の本殿は、寛永元年(1624)9月に徳島城主蜂須賀家政が再建したもので、県指定の文化財となっています。

案内看板と標柱があった城址は私有地とのことなので、なくなってしまうのは仕方ない。
というか、今まで城址としてくれていた地主の方に感謝です。

※次いつ投稿するか分からないので捨て台詞残しておきます。
COVID-19禍と子供が生まれたこともあり、全然投稿してませんが、細々と城巡りは行ってます。
チェブさん、「小六ランド」は建設されませんが、小六のような元気な子が育つ住宅地になってくれると思います。
にのまるさん、七尾城は私も七尾駅から歩いて行きましたよ~。違ったかな?手柄は足にあり!
イオさん、めちゃ遅くなりましたが、備中松山城の投稿はしびれました。ブラヴィッシモ!
おっちゃんさん、他サイトの二条城のイベントでおっちゃんさんに会うの目当てで申し込んだら、まさか退会されてましたが、素晴らしい投稿ありがとうございました(私もあのサイトはすぐ退会しました)。

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POYO58

石垣編 (2023/01/29 訪問)

前回武者走りの話をしましたが、今度は石垣全般について紹介したいと思います。浜松城で一番残っている遺構は石垣ですよね。
浜松城は本丸にたどり着くのは早いのですが、ここから天守曲輪へいくとき大きな高石垣がガードしています。ここから本丸にいる敵を撃ち落とせますよね。本丸は北側から東側まで石垣が伸びていて城兵が歩けそうなので、本丸を集中攻撃できるようになっているようです。
あともう一つ、堀尾吉晴が築いたのは理由だと思いますが、二俣城の天守台と浜松城の天守台がすごく似てます。浜松城の天守台は一部復元されていますが、そっくりです。石材も同じだと思います。

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尼崎城(公式)

尼崎城の城熱カレーパン (2023/02/01 訪問)

【尼崎城の城熱カレーパン発売中!】
★尼崎城とOisisが共同で開発した「尼崎城の城熱カレーパン」が登場。
近畿・中国(山口県除く)・四国の主要スーパーとドラッグストアで販売中。
尼崎城でも土日祝は尼崎城でも先着販売。
マイルドな味で子どもから大人までが大満足な味とボリューム。
※3月末までの期間限定販売。

★2大特典
食べた後の袋を尼崎城に持参すると!
①オリジナルキャラ「カレーパン侍」缶バッチプレゼント
②お城への入城料が2割引き
※共に一袋1名様

城熱カレーパンを食べて尼崎城へ!

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カズサン

【駿河・佐野美術館】静岡県三島市 名槍「蜻蛉切」鑑賞 (2023/02/08 訪問)

 日本三名槍の一つ、本多忠勝所持の名槍「蜻蛉切」が展示されているとTVで放映され展示期限も迫って居り新東名を飛ばして出掛け鑑賞して来ました。

 展示美術館:静岡県三島市中田町1-43 佐野美術館
 展示期間:令和5年1月7日~2月12日
 展示名:乱世を駆け抜けた名刀ー戦国の動乱から徳川の時代へー
 展示名物:Ⅰ 徳川四天王の一人、本多忠勝所持、日本三名槍の「蜻蛉切」穂先が鋭く細く確かに蜻蛉が止まったら切れ落ちそう!
      Ⅱ 織田信長が長篠合戦の褒美として奥平信昌に与えた「長篠一文字」国宝の大刀
      Ⅲ 豊臣秀吉から藤堂高虎に与え、藤堂家から徳川将軍家へ献上した名物の刀「大兼光」
 展示内容: 大刀、刀、脇差、短刀、戦国の武将名が並び豪華な展示でした、武田信玄、上杉謙信、伊達政宗、毛利家、蜂須賀正勝、黒田官兵衛、池田輝政、前田家伝来、片桐家伝来、刀剣以外に書画、茶器、能面等約60数点以上の展示でした。
 
 久しぶりの刀剣展示会で展示物を一つ一つ順番に観て回り、観客が多く順番数珠つなぎ状態での鑑賞でした、一番の目的が名槍「蜻蛉切」鑑賞、日本三名槍は他に「日本号」「御手杵」と言われて居ます。
 鑑賞に約2時間ちょっと過ぎ、昼を過ぎましたので館内敷地にある回遊式庭園を見学し、敷地内のお食事処「松韻」で沼津港も近く海鮮も名物であり。お任せ握り寿司セットを家内と頂きました。

 写真は展示物撮影禁止の為、佐野美術館正面玄関わきに展示されて居た今回の展示大パネルを投稿し、写ってる三名槍「蜻蛉切」をご確認ください。
 佐野美術館外観、回遊式庭園の寸景、お食事処「松韻」玄関の紅白の梅盆栽を合わせて投稿します。

 この後西に拾数km程に在る興国寺城を8年振りに訪ねました。
 
 

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イタさん

佐倉千葉氏の居城 3/3 (2023/02/02 訪問)

 本佐倉城の外郭に寄ってみました。内郭の奥ノ山から南に下り、妙見神社前から向根小谷の根小谷の館に向かう。上に浅間神社があり、踏み跡程度の道があると、案内の人が言っていたが、車道を先に行き左折すれば神明大神社入り口に着く。
 入口の先に馬出の土橋、両側に堀跡が確認され、内側には土塁が残る。先には郭内への土橋・堀があり、左側には高い土塁がある。神社周囲以外は馬出同様に農地になっている。北端は崖となり台地なのが分かる。
 車道に出て吉祥寺前から根小屋の台地に上がり、細い道を北へ行くと畑地の先に森が見え出す。森に見えた場所は空堀で、横矢を掛けられる出っ張りにあたるが、木々が多く目視でやっと分かる程度。私有地・畑地の為、自由に動き回らなかったが、堀向かいの荒上地区側は行けるのだろうか。

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イタさん

佐倉千葉氏の居城 2/3 (2023/02/02 訪問)

 内郭の残り、セッテイ山西の堀・セッテイ虎口・セッテイ山・倉跡境の堀・南奥虎口・東光寺ビョウ・東山を散策。

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イタさん

佐倉千葉氏の居城 1/3 (2023/02/02 訪問)

 国史跡・本佐倉城跡案内所で戴いたパンフレットが冊子仕立で立派でした。5人程ご年配の方が案内をされていた。幾つか質問したが、的確に答えてくださった。例として「東光寺ビョウ」の名の由来は。パンフレットに記載通り、ビョウとは「突出した」と言う意味があると。東光寺がここにあった記録はなく、近くにもなく、匝瑳市(言っていたと思う)にあるが全く関係がないとのこと、等々。

 城跡はあまりにも広大で、投稿も3回に分けました。まずは、東山・東山馬場・Ⅳ郭・倉跡・奥ノ山・城山

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イタさん

並木城(千葉県香取郡多古町) (2023/02/04 訪問)

 多古城郭保存活用会さん等のHPを参考にさせて戴くと、千葉氏の家臣、飯田氏により築かれ、要衝の地であるため何度となく戦が行われたと伝わり、建武3年(1336)の千葉一族の内乱は、千田氏が籠城したが千葉胤貞により落城、康正元年(1455)の享徳の乱では志摩城に籠城した千葉氏の自害とともに落城。その後数度の戦があったが、武将名などは分からないようだ。

 城域の東、台地下に光明寺がある。案内板などの設置場所を考えると、北からの散策路が一般的なのかも知れない。西側の入口から散策を開始する。城域の大方は畑になっているが、主郭部の二重堀・土塁・虎口などが良好に残り、会の方々がよく整備されている。

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カズサン

中根氏発祥の城 (2023/02/04 訪問)

 徳川家臣として二俣城城主を務めた中根氏累代発祥の地に立つ箱柳城。

 駐車場:伊賀川に架かる日陰橋東たもとに砂利舗装であります(34°58'09"N 137°12'18"E)
 城石碑:同駐車場の西側に在ります。
 情報ガイドは古城盛衰記さんに依ります。

 登城は駐車場から南、伊賀川日陰橋を渡り集落へ直ぐに案内指示板あり、従って行くと要所に指示板、約200m程歩くと山手竹やぶ手前に箱柳城の案内指示板70m、道なりに登って行くと巨石の有る段横の登城路を通り上に、石垣の段と石が崩れた段が現れるが各段曲輪とも竹が密集林立、竹が朽ちて倒れ交錯している、道も歩きにくい、三段目位の石垣に箱柳城の案内板、更にその上が箱柳城の史跡マークですが、道まで竹の乱雑で登る気も無くなり箱柳城跡立看板の所で下城、帰りはもう一つ東の橋を渡り道に出て箱柳城山容を眺める、道を西行し道沿いの聖徳寺へ、此処に中根氏祖代々之墓の案内看板と中根氏由来解説板がある、その上の中根氏祖代々の墓にお参りする。

 歴史は、平清盛叔父忠正の七男七郎正持(2才)保元の乱(1156年)後、母に俱われて中根村に遁れ成人して額田郡箱柳村に住し、世話になった中根村を姓にした桓武平氏流れです、以来忠良まで14代400年、堂根筋6郷を治め近郷に広がりこの地方の中根姓の祖であり箱柳は中根姓の発祥の地(中根氏祖代々之墓の由来案内による)
 箱柳城跡石碑文では、正長年中(1428~1429年)中根平左衛門盛清が築城、初代盛清から8代忠良まで城主名が記されている、8代忠良の次男正照の功績が記されて、徳川の家臣として二俣城の城主となり、三方ヶ原の合戦に出陣、合戦し壮烈な死を遂げたと記されて居ます。
 この年の元亀3年10月(1572年)二俣城城主は中根正照と青木又四郎が二俣城城主一覧記されて居ます、12月には二俣城は武田氏領と成り天正3年12月(1575年)大久保忠世でまた徳川領に成ります。
 
 此処は中根氏の発祥の地!
 

 

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イタさん

千葉氏発祥とされる城跡 (2023/02/04 訪問)

 諸解説によれば、平安中期に平忠常が築き、常胤の時に千葉氏を名乗り、永く千葉氏が居城したとされる。15世紀中頃には酒井氏の勢力圏になり、特徴から16世紀中頃に土気酒井氏が改修したのではないか。天正18年(1590年)、小田原征伐により酒井氏は滅び廃城となったとされる。

 説明板のある北から入り、二の郭と三の郭を仕切る堀切にでる道が一般的なのだろうが、駐車場所を探せなかった為、城跡の南にあるお寺に駐車をお願いする。北側を歩かなかったのが心残りではある。住職さんの話では、千葉氏の時に城域から現在地に移転してきたとのこと。
 町内集会所横から切り通し道を上り、要害台に出ると西側に散策路がある。四の郭の南東下は城跡の雰囲気がある。三の郭と四の郭の間の堀は土橋に横矢がかかる。先で二の郭と三の郭の間の堀に出る。北側に虎口跡か、先は細い尾根を一気に下っている。西へ行くと南が開け先に帯郭があり、やや上がれば一の郭と二の郭の間の堀・一の郭虎口になる。虎口先は笹・杉などが多く、郭の西端に向かう道以外は踏み込めない。西端には部分的だが土塁跡らしき高まりがある。

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まーやん

城と言うか… (2023/01/29 訪問)

中世武士の居館でして、名前のまんま土居の内に囲まれている。
土塁と堀跡がはっきり残っている。
雪が積もって美しいではありませんか✨

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イタさん

主郭は福祉施設の敷地となっている。 (2023/01/31 訪問)

 説明板によれば、平安時代に東北の蝦夷に対する軍事拠点として築いたとされる。その後長享2年(1488年)、中野城主であった酒井定隆が修復入城し、以後5代・100年間に亘り上総の地に君臨した。天正18年(1580)の小田原攻めの際に、房総攻めで敗れ廃城になった、とある。
 大堀切にも思えるクラン坂は切り通しで、外房線を越えると三叉路になる。所々で小さな横穴が散見できる。どなたかの資料に横穴式墓では、と載っていた記憶がある。三叉路を上金谷へ少し入ると、単に下と台地を繋ぐ道だろうが、土橋・堀を思わせる地形がある。
 台地に出ると周囲は本丸・二の丸の大部分は福祉施設の敷地になっている。東はテニスコートになる。三の丸も畑になっているが、土橋・堀跡・土塁は確認出来る。土塁の上には貴船神社が建っている。土橋の先は民家が多く、分からなかったが馬出的な郭だったようだ。

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赤い城

気持ちいい堀底道周回 (2023/01/29 訪問)

氏家駅から徒歩で30分、勝山公園として整備されています。
さくら市ミュージアムが建つところが二の丸東郭。
その先に本丸部分が公園となっています。
まずは本丸を囲む堀底道を周回。
冬で草もなく快適に歩けます。
土塁を見上げるとかなりの深さを掘っていることがわかります。
西側には鬼怒川が流れ、天然の堀となります。
川越しに望む山々も雪をかぶり綺麗でした。
南西側には搦手の虎口があります。
土塁が食い違いになっていて良い感じでした。
二の丸南郭に登って三の丸方面にも行ってみました。
三の丸は住宅と畑になっていて間には土塁と堀が残っています。
ここの堀は藪ですが。
本丸に戻り、大手虎口を見学、と東側の空堀も歩きこれで一周。
家族連れの姿もあり、地域でも愛される公園でもありました。

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昌官忠

202302沖縄に残る13のグスクめぐり(クラブツーリズム)3日目:浦添城 (2023/02/05 訪問)

沖縄の100名城と続100名城はすでに攻城済なので、今回のツアーに参加したのは未攻城のグスク攻城が目的です。
その目的のひとつ浦添城に「沖縄に残る13のグスクめぐり(クラブツーリズム)ツアー」で行って来ました。

浦添城は首里城以前の中山王の本城として知られており、14世紀頃に瓦葺きの正殿を中心に、堀や石積城壁で囲まれた巨大なグスクだったそうです。
しかし、沖縄戦のときに日本軍の陣地が置かれたため、米軍による攻撃にされされ壊滅的な打撃を受け、戦後はさらに石や岩盤が削り取られたそうです。
米軍による攻撃をかろうじて免れた現存城壁は修復中でした。
攻城時間は45分くらいでした。今回のツアーはここが最後で自宅に戻ります。

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昌官忠

202302沖縄に残る13のグスクめぐり(クラブツーリズム)3日目:玉城城 (2023/02/05 訪問)

沖縄の100名城と続100名城はすでに攻城済なので、今回のツアーに参加したのは未攻城のグスク攻城が目的です。
その目的のひとつ玉城城に「沖縄に残る13のグスクめぐり(クラブツーリズム)ツアー」で行って来ました。

築城年代や歴代の城主は不明のようですが、琉球の開闢神とされるアマミキヨが築き、その子孫である天孫氏の城であったとの伝承があります。

主郭には石積があり、東側にはアーチになったハート型の石門が残っています。
城跡は本来、一の郭、二の郭、三の郭の3つ郭からなる段階状の山城だったそうです。
城壁は一の郭のみ原型をとどめており、二の郭と三の郭の城壁は、戦後に米軍が建築用の資材として搬出し破壊されたそうです。
昔は石の階段を登ったようですが、現在は木の階段がつくられています。
攻城時間は35分くらいでした。

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