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にのまる

雪だるまのこたえです。

お城遊びにおつきあいくださりありがとうございました😊
答えようのないクイズだというところまで頭がまわっていませんでした🙇‍♀️

小諸城の投稿はまた改めて。

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2020年の夏の小諸城 (2020/08/09 訪問)

仙石秀久が築いた小諸城の大手門ですね。
実践的な城門で華美な装飾を省いた質実剛健な建築物は、東日本を代表する大手門と言えよう。
重要文化財で、平成の修理を終えて創建当時の姿が蘇った。
にのまるさん、
雪だるまくんなのですが、おぼろげながら分かったのですが指摘出来ません。

一乗谷クイズは、全問正解ですね。
少しだけ補足しておきます。
上城戸と下城戸の内側に朝倉家にお仕えしていた家臣である武士や職人や商人など身分を問わず一緒に住んでいたのですね。
一乗谷が繁栄した100年間に約1万人の人達が住んでいたのです。
これは、すごいことですね。
一乗谷の山城には千畳敷が有りますが、約100平方メートルの礎石建物があったとされております。
山城の方は、まだ発掘調査が一度も成されておりませんので、当然出土品もないのです。
だから、これは山上の御殿ではないかと推測しております。
これからでも発掘調査して欲しいですね。
一乗谷という山麓の城下町は、上城戸には朝倉街道がありこれが北国街道に繋がり京の都に行くことが出来ます。
下城戸には美濃街道があり北に行けば三国湊に、南に行けば尾張まで行くことが出来たのです。
谷あいなので雨も多く、水が潤沢に確保出来たのもその要素です。
殆どの家に井戸やトイレがあったんです。
また、100年に渡って繁栄が続いたのは余り争いがなかったことと水路を利用して大量に物資が行き交う交易が盛んだったことが挙げられますね。
最後に、京の都を模して戦国の庭が造られていたのです。
朝倉館は、将軍の館と全くそっくりであった。
朝倉義景は、京の都の都を意識して京の都以上のものを一乗谷に造ろうとしたと思います。
経済的にも文化的にも素晴らしい城下町が出来上がったのですね。
ただ、惜しまれるのは織田信長との戦いに勝てるチャンスが有りながら取り逃がしたことが致命傷になりました。
また、一乗谷の山城を放棄したのも軍事面から残念です。

また、夜には昨日の京都新城の講演会の報告を致します。


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城好きのメガネ

「山口城」 (2020/04/06 訪問)

<オススメ>★★★☆☆
山口城は武蔵七党の村山氏の流れをくむ山口氏の居城とされる。南北朝時代には、上杉憲顕に攻められ落城する。山口高忠は、武蔵国守護代の大石氏に従う。上杉氏が没落すると後北条氏の傘下に入る。小田原征伐で落城し廃城となる。現在、土塁等が遺されている。

<アクセス>
西武狭山線 下山口駅 徒歩15分

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城好きのメガネ

「北秋津城」 (2020/04/06 訪問)

<オススメ>★☆☆☆☆
北秋津城は歴史的な背景が伝わっていないため詳細は不明である。現在、遺構は消滅している。

<アクセス>
西武池袋線 所沢駅 徒歩15分

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higekam

楠木七城のひとつということが登城のきっかけ (2022/01/16 訪問)

しかし、実際は戦国時代に手を加えられた典型的な戦国山城。
東斜面全体に防御態勢を築いた姿を見上げて、思わずすごいの一言。小規模な山城ながら二列の横堀は贅沢だ。

河内長野駅から高野街道沿いに歩いて約10分ほどとアクセスもよくお薦め。
楠木正成がらみで国史かと思いきやそうではなさそう。

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朝田 辰兵衛

小諸城大手門雪だるまクイズ…

全部見つけたけど,表現の仕方がムズくてお手上げ…DEATH。

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イオ

「百姓持タル城」 (2021/12/16 訪問)

詳細は不明ながら戦国期に築かれた城で、羽柴秀吉の紀州攻めに際しては神前是光を守将として根来寺に与しましたが、根来衆の籠る千石堀城が落城したことにより自焼して退去しました。

根来出城配置図によれば、近木川北岸の畠中集落を二重の堀で囲み、中央部に方形の居館を配した平城で、神前氏の子孫であり、江戸期には岸和田藩の七人庄屋に数えられた要氏の庄屋屋敷が比定地とされますが、要氏屋敷の発掘調査では畠中城の存在を示すものは発見されず、その所在地は明らかになっていません。

この日は貝塚市郷土資料展示室で企画展「貝塚八城めぐり」が開催されており、近くに来たついでに企画展を見学し、さらに徒歩圏内の畠中城(比定地の要氏屋敷)を訪れました。要氏屋敷は周囲を土塀で囲み、南東辺に長屋門を設けた広大な庄屋屋敷で、北西辺の損壊した土塀の内側には竹藪と化した土塁が見られ、これがそのまま畠中城の遺構ではないとしても、往時の姿をイメージさせてくれました。また、要氏屋敷から南東に徒歩2分行くと、神前氏と要氏の菩提寺である長楽寺がありました。

ところで、企画展の畠中城の展示によると、要氏に伝わる記録では畠中城は集落から少し離れた位置にあったとされ、発掘調査で土器や瓦が多数発見された寺院跡を城としたとも考えられるようです。一応、その推定地(市役所の北西部)にも行ってみましたが、全くの住宅地で何の痕跡も見られず、事実はどうあれそれらしい雰囲気がある分、要氏屋敷のほうが訪れる価値はありそうです。
 

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todo94

太閤井 (2021/12/04 訪問)

琵琶湖渇水のニュースで太閤井の周辺がすっかり干上がっているとのことで、駆けつけてみました。石碑の近くにまで寄ることが出来ました。天守跡碑と豊臣秀吉像もチェックしてきたので、一応、長浜城攻城と云うことにさせて頂きます。

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にのまる

クイズのこたえともんだい

1) 上城戸と下城戸に囲まれていた土地には基本的に朝倉氏の家臣、武士も職人も商人も一緒に暮らしていた。
2) 千畳敷の礎石建物は100平方メートル超と考えられる。
3) 山の地形を利用して守りやすく、交通の要衝であり、生活用水も潤沢で、戦国の理想都市をつくることができる場所だったから。
4) 一乗谷は日本海交易の要の役割を果たしていたから。
5) 権威のアピールであると同時に、独自の文化の力を持っていた。

ということが番組内で解説されていました。


では、ここでクイズです‼
下の10枚の写真は本日の小諸城の大手門ですが、それぞれ1体ずつ雪だるまくんが隠れています。どこにいるでしょうか⁉

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にのまる

大坂の陣 真田丸コース (2022/01/02 訪問)

真田丸跡
 心眼時と三光神社に行きました。
大河ドラマの真田丸から5年たってやっとです。
ブームで終わらないところがこのドラマのすごさを物語っているなあと思いました。

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赤い城

吉尾城 千葉県勝浦市 (2022/01/09 訪問)

勝浦湾の南西に位置します。
近くにはかつうら海中公園があります。
地元の方に聞いてようやく登城口を発見。
すぐに岩盤の堀切がありますがここから南側は私有地。
北側に進んでいくと堀切や細尾根の道が連なっていました。
勝浦正木氏の城ですが、正木憲時のまま乱で落城しました。
もう少し予習をしてまた訪れたい城でした。

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岐阜の山城から見た関ヶ原合戦の講演会を聴いて見て

元々のタイトルは、関ヶ原合戦と岐阜の山城なんですが、中井先生がタイトル変更したので。これで進めます。
中井先生の山城から見た関ヶ原合戦は、新しい見方を示して頂いたと思っております。
松井山城は、曲輪、切岸、土塁、堀切、土の枡形虎口等を有する堅固な山城で単なる小早川秀秋の陣城ではなかったことで有ります。
伊藤盛正が築城したのを小早川秀秋が不法占拠したのだという話も頷けますね。
南宮山の毛利秀元の本陣は完成された陣城であったこと、関ヶ原方面は望むことは出来ないこと、大垣側に設けられた土塁と堅堀から大垣を望むために築かれた陣城で有ること、
このようなことから、西軍の作戦は大垣決戦で、東軍が大垣城を攻め包囲すればその背後を突き、後詰めに持ち込む手筈だった。
また、菩提山城は竹中氏の居城で、巨大な堀切や堅堀、馬出し曲輪、外枡形の虎口等を有し、戦国時代後半の特徴を示している点も興味深い。
この発達した縄張りがいつ構えられたかという点は、浅井長政と織田信長の江濃国境の軍事的緊張により、1570年に竹中重治によって改修されたという見方と1600年8月10日以降に大垣の軍事的緊張により、竹中重門によって改修されたという見方が有ります。
私は、1570年に竹中重治によって改修されたと今のところは見ています。
玉城についてであるが、これは絶対に新発見なんかではありません。
また、巨大な堀切や堅堀に対して土塁や折が認められない点から、関ヶ原合戦よりも古い縄張り構造を示しております。
だから、豊臣秀頼や毛利輝元の為の本陣である筈がないので有ります。
縄張りから見てみると、西側を防御正面としていることから1570年以降に江濃国境を監視し守るために、織田信長によって築かれた山城と見るのが正解に近いと思っております。
そこで、松井山城は国史跡の範囲として追加指定されるべきだと感じました。
中井先生のいう関ヶ原合戦が平和を呼んだのではなく、軍事的緊張を呼んだのだという点も興味深いですね。

さて、にのまるさん
天王寺城に行かれたようですが、あの近くには天王寺七坂という坂があります。
あの付近は寺町で80ぐらいの寺が存在しています。
逢坂を除いて、他の坂は狭く石畳の階段になっています。
上町台地との高低差があり、上町断層も有ります。

ここからが一乗谷クイズです。

1問目は、上城戸と下城戸に囲まれた土地に住んでいる人達はどんな人達だったでしょうか?

2問目は、一乗谷の山城にある千畳敷に建物の礎石が列を成して残っているのですが、何平方メートルの建物があったのでしょうか?
そしてそれはどんな建物だったのでしょうか?

3問目は、何故朝倉氏は福井平野ではなく一乗谷という谷の部分に城下町を造ったのか?


4問目は、何故一乗谷は経済的に繁栄をすることが出来たのか?


5問目は、何故一乗谷の山麓の城塞都市に17つも戦国庭園が造られたのか?

以上が質問です。

宜しくお願い致します。

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カズサン

利家と松子の像がお出迎え❣ (2011/06/04 訪問)

 七尾城を充分堪能し市街地に在る小丸山城へ、車は国道北東奥の駐車場を利用、駐車場より本丸へ登る道を進み本丸内部には、史蹟前田利家小丸山城址と刻まれた城名石碑、先の大河ドラマ「利家とまつ」平成14年放映の前年時に建立された「利家と松子」像が馬を従え立って出迎えてる様、建立の経緯を刻んだ石碑、小丸山城と前田利家の案内解説板も揃い充分なる解説も有りがたい。
 
 本丸と天性丸の間には大堀切で切断、現在は鉄橋が架かって居り行き来は安全、国道249号線に本丸も一部削られ、大念寺山曲輪との掘割は国道と成ってる、本丸西には宮丸を構え小丘陵を連郭式に構えた城郭の様子が案内解説板に描かれた居ました。また本丸南西には三層の櫓が描かれて居り櫓が在ったのか?想像が膨らみます。
 信長に能登一国を与えられ七尾城から交易に便利な七尾麓に構えた小丸山城は利家には小さ過ぎないかとも思ったりもしますがどうでしょう?
 でも越中の佐々成政を倒した後に加賀二郡を秀吉から与えられ加賀百万石の金沢城へ移り、現在の素晴らしい金沢城を見る事が出来るのです。当初は金沢城にも金箔瓦五層の天守閣が聳えていたとか?

 当日は富山城、安田城、七尾城、小丸山城を終えて陽も有り、前々から訪ねたかった能登観光の軍艦島で有名な見附島、日本海に面した千枚田、輪島に泊まり郷土料理と偶然にも20分に2万発の日本一の花火を鑑賞する事に、度肝を抜かされました。

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todo94

冬季は休館です (2021/12/04 訪問)

土日の開館時間をしっかりと確認して赴いたのですが、なんと12月1日から3月末日までの冬期間は休館期間中だったのです。それでも館を巡る空堀と土塁は確認できたので攻城したことにさせてください。

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肉球

芳賀氏の居城 (2021/12/12 訪問)

鎌倉時代に築城され200年以上芳賀氏の居城。
豊臣秀吉に宇都宮氏が改易され芳賀氏も所領を失い
江戸時代に入り浅野氏堀氏稲葉氏が城主となり
その後天領となり城跡の一部に陣屋が築かれましたが
1868年佐賀藩土佐藩の官軍に攻められ
最後の代官は討ち取られ高札場付近で
晒し首になったようです。

本丸二の丸三の丸が小学校となり見極めができません。
四の丸は公園になっていて駐車場もあります。
平山城のため小学校の周りを歩くとお城を感じ取れます。

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チェブ

最福寺の裏手を走る。 (2022/01/03 訪問)

千葉県の「多部田城」、勇気の出なかった城攻めです。
千葉 常胤さんの四男、多部田 四郎さんが築きました。
お二人を調べると常胤さんは、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』に出演予定です。「多部田城」の四郎さんはキャストに名前が、まだ(?)ありません。源頼朝さんを父子でサポートしてますので、楽しみです。

最福寺に向かい門前で、迷いました。駐車場がありません。
車で入って良いか迷った挙げ句、路駐して門をパチッ。誰もいらっしゃる様子がないので勝手にお邪魔はできません。
後から分かりましたが、駐車場は門の中にあるそうです。ただ、皆さんの情報同様に、目的が「多部田城」だとお断りした方が良いのではないかと思います。

最福寺の裏手に遺構があるとの情報に、グルッと裏手の畑道からパチッ。
遺構が隠れてそうな藪を横目に走りましたが、ギブアップです。

『鎌倉殿の13人』のドラマの最後に縁の地として「多部田城」がでたら後悔しそうです(;´д`)

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肉球

東郷陣屋・栃木県真岡市 (2021/12/12 訪問)

1799年幕府によって築かれた陣屋跡。
のちに真岡陣屋と統合されほとんどの建物も移されたようです。
陣屋の遺構は何もありませんが跡地の横を流れる穴川用水は
二宮尊徳が改修整備したようで今も働いています。

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T-Shionoya

大多喜城訪問 (2004/12/26 訪問)

過去のお城巡りの振り返り第17段は、先週投稿した久留里城に続き訪問した千葉県大多喜町の大多喜城。

房総半島において、久留里城と東西対照にしたようなエリアが大多喜。
太平洋に注ぐ夷隅川を海岸線から直線で約15km上り、平地が山に囲まれた環境。
上総武田氏の支配下から、里見氏時代は家臣正木氏の本拠となった地で、小田原征伐後は本多忠勝により大多喜城が築かれます。

大多喜城は夷隅川を城下町の天然の堀とし、現在の大多喜駅西口にある八幡神社入口に大手門、そこから西に三ノ丸、大多喜高校のある二ノ丸、模擬天守型の博物館が建つ本丸、と段々に尾根を上がる城郭。
本多氏3代以降は阿部氏らが入り、江戸中期からは大河内松平氏9代が城主を務めました。

初訪問の時は年末で博物館が休館だったか、もう閉館だったか。
そのため3年後に再訪問。
城下町は風情があり、高校に薬医門と大井戸が残るものの、その他の遺構は目立たなかった印象の城。
再々訪問するなら、西の尾根づたいの栗山城に行ってみるとおもしろいかもしれませんね。

※薬医門と大井戸以外は'08年撮影

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刑部

学校に変われた城址 (2022/01/03 訪問)

学校の周りに土塁が遺っているが写真撮影するほどでないので代わりに近くにある武田氏館跡の写真投稿します。甲斐武田氏発祥の地でもあるので勝倉城址に来た時はこちらの訪問をおすすめします。

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カズサン

九尺石虎口も見所な曲輪群 (2011/06/04 訪問)

 調度丸から見上げる桜馬場下重層石垣を充分堪能して遊佐屋敷経由本丸へ登石垣、2段石垣、懸け御殿は空想して本丸の眺望も満足の後、搦手側の虎口、枡形後を通って桜馬場、遊佐屋敷の折れの有る石垣を確認して温井屋敷西下に在る巨石九尺石の虎口を確認、巨石を使った虎口は鏡石的に大手筋を表すのですがここは大手に成るのか?不思議な思いでした。
 九尺石虎口から温井屋敷、二の丸虎口階段、手前石垣から二の丸内部へ、ここにも七尾城の案内解説板が有る、三の丸へ二の丸から堀切下を望むと深く此処を降って登って戻るのかと思うと尻込み三の丸は断念、桜馬場に戻り、調度丸を眺めて降る軟弱な初登城でした。
 
 この後には麓の七尾城史資料館に寄り資料閲覧、資料入手、隣の懐古館も見学、資料に由ると資料館から本丸を目指す七尾城制覇コース150分、比高200~300mと有りました。
 最近「にのまるさん」が麓から本丸までを踏破された投稿を有りましたが健脚には驚かされます。

 調度丸から見た重層石垣、本丸周り、九尺石と曲輪群と3編と長々の投稿をお許しください、写真を撮り過ぎ3編30枚に選ぶのもしんどい作業でした。

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