徳川家臣として二俣城城主を務めた中根氏累代発祥の地に立つ箱柳城。
駐車場:伊賀川に架かる日陰橋東たもとに砂利舗装であります(34°58'09"N 137°12'18"E)
城石碑:同駐車場の西側に在ります。
情報ガイドは古城盛衰記さんに依ります。
登城は駐車場から南、伊賀川日陰橋を渡り集落へ直ぐに案内指示板あり、従って行くと要所に指示板、約200m程歩くと山手竹やぶ手前に箱柳城の案内指示板70m、道なりに登って行くと巨石の有る段横の登城路を通り上に、石垣の段と石が崩れた段が現れるが各段曲輪とも竹が密集林立、竹が朽ちて倒れ交錯している、道も歩きにくい、三段目位の石垣に箱柳城の案内板、更にその上が箱柳城の史跡マークですが、道まで竹の乱雑で登る気も無くなり箱柳城跡立看板の所で下城、帰りはもう一つ東の橋を渡り道に出て箱柳城山容を眺める、道を西行し道沿いの聖徳寺へ、此処に中根氏祖代々之墓の案内看板と中根氏由来解説板がある、その上の中根氏祖代々の墓にお参りする。
歴史は、平清盛叔父忠正の七男七郎正持(2才)保元の乱(1156年)後、母に俱われて中根村に遁れ成人して額田郡箱柳村に住し、世話になった中根村を姓にした桓武平氏流れです、以来忠良まで14代400年、堂根筋6郷を治め近郷に広がりこの地方の中根姓の祖であり箱柳は中根姓の発祥の地(中根氏祖代々之墓の由来案内による)
箱柳城跡石碑文では、正長年中(1428~1429年)中根平左衛門盛清が築城、初代盛清から8代忠良まで城主名が記されている、8代忠良の次男正照の功績が記されて、徳川の家臣として二俣城の城主となり、三方ヶ原の合戦に出陣、合戦し壮烈な死を遂げたと記されて居ます。
この年の元亀3年10月(1572年)二俣城城主は中根正照と青木又四郎が二俣城城主一覧記されて居ます、12月には二俣城は武田氏領と成り天正3年12月(1575年)大久保忠世でまた徳川領に成ります。
此処は中根氏の発祥の地!
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