運動公園の下になってはいるが、ここには堀に囲まれた広大な空間があった。今も残る横堀などは11世紀の後三年の役の頃まで遡るものという。ここには(陳腐な表現だが)古代のロマンが眠っているようだ。
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2022/12/01 22:46
古代のロマンが眠っている (2022/05/04 訪問)
運動公園の下になってはいるが、ここには堀に囲まれた広大な空間があった。今も残る横堀などは11世紀の後三年の役の頃まで遡るものという。ここには(陳腐な表現だが)古代のロマンが眠っているようだ。
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2022/12/01 22:30
梅雨どきは紫陽花の名所に (2022/11/13 訪問)
黒羽城址公園として整備されていて駐車場もあります。
駐車場も曲輪の跡で土塁が残っています。
道路を渡って公園に入ると説明板があり、その奥に空堀があります。
堀底道を歩くこともできます。
本丸は大関氏の館跡で広く能舞台がありました。
南側の馬出曲輪との間の堀は深く、梅雨には紫陽花で一杯になります。
三の丸には芭蕉の館が建っていますが背後には土塁、深い堀も残っています。
以前紫陽花のシーズンに訪れたことがありましたが城を見るにはこれからの時季ですかね。
時間があればもっとあるき回れそうな城でした。
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2022/12/01 21:59
西の郭から天守が見られるのは大変貴重 (2022/10/18 訪問)
工事で天守が移動中だが、逆に言えば今だからこそ見られる風景がある。特に、西の郭から天守が見られるのは大変貴重で、平山城であることがよくわかる。また、移動中の天守内部は鉄筋補強がモノスゴイので必見。その他、櫓や門も多数あるが見どころが多すぎるせいか現地の案内が少々不親切なので地図を参照しつつ各々を見逃さないようにじっくり巡る必要がある。尚、追手門と南門は工事中で外観は見えず。ちなみに城内はとても広いが、自転車通行可能なのでレンタサイクルが便利。
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2022/12/01 20:42
成願寺城攻略前に (2022/11/05 訪問)
【波着寺跡】福井県福井市成願寺町
<駐車場他>成願寺ふれあい会館
<交通手段>車
<見所>竪堀・基壇石列・石垣
<感想>成願寺城跡にたどり着くにはこの波着寺(なみつきでら)跡を通って行かなければならず、この波着寺跡にも見事な遺構が残されていたのでご紹介致します。後の投稿にて内容が少し重複しますが城びと登録のある成願寺城跡を投稿致します。
現地説明板の抜粋紹介をすると波着寺は養老年間(717~723年)に泰澄大師により開かれもとは小波山(現在の新保宮山)の麓にあった。寺は真言宗に属し観音様を安置していたことから観音の霊場として知られていました。1474年、朝倉氏の越前統一の戦いの一つである波着、岡保の合戦では被害を受け、1548年、朝倉孝景が波着寺に参詣し、その帰路にて急死します。1574年、加賀の一向一揆が越前に侵入し波着寺は兵火で焼失したとあります。
案内は成願寺ふれあい会館の向正面に説明板があります。<36.030677, 136.280050>の岐路に波着寺方向の板がありますので北方向に曲がり150m程直進(途中から土の道の民家の間を通る)すると公衆電話BOXを再有効利用した波着寺記帳所と鳥居がありますのでそこが登山口になります。
参道はつづら折りを登りますが真ん中を割くように1つづつに竪堀があり見応えあります。25分程度登ると観音堂跡の削平地に着きます。更に少し藪化していますが北に登ると本堂跡があります。本堂跡は虎口に石垣が少し、本堂跡には基壇の石列が残っています。東側に鐘楼堂跡がありここには大きな基壇石列が残っています。鐘楼堂跡の奥に山頂方向へ登る階段がありますのでそこから成願寺城跡へ向かうことができる(私は本堂跡から直登し尾根上まで出たので定かではないです)ようです。階段は途中で無くなると思います。
参道に残る竪堀は波着寺の遺構か焼失後に成願寺城の補強の為に造られたものかは分かりませんが明確に残るいい遺構です。
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2022/12/01 19:49
【上野・麻場城】群馬県甘楽町 本丸周囲の空堀が圧巻です (2022/11/13 訪問)
山名城を2年越しの登城を終えて甘楽町の麻場城を目指す、城郭放浪記写真館に昨日のトップ10の欄が有り、毎日未確認の城をチェック確認して居ます、そこに青文字の城郭名で麻場城と有り確認、本丸が空堀に囲まれた素晴らしい城、是非登城したいと脳内確認チェックして居たのですが、昨年10月の群馬県未踏の城廻りに入れ損ね、今回の上野未踏の城廻りにやっと追加し、今回登城する事が出来ました。
住所:群馬県甘楽郡甘楽町大字白倉823/678(地番の間が駐車場)
駐車場:麻場城東麓に砂利舗装で専用駐車場有、トイレ無し、トイレは二の丸に有ります。
駐車場に着くと見上げる様な高切岸、案内板と標柱が切岸下に有ります、高切岸を斜めに登城路、笹曲輪に着きます、橋を渡り帯曲輪、登って笹曲輪、チョットくたびれた櫓台が建っている、帯曲輪北面の高切岸も圧巻、本丸は周囲に深い空堀これも素晴らしい、北面中間に橋が架かり虎口を越えて本丸へ平坦な四角形、ぐるっと本丸を廻る、二の丸へは中間に土橋が有り、食違い虎口へ左右は土塁が抑えてる、二の丸にトイレ、少し狭い二の丸南に生け垣が有り区別してる、麻場城想像図が掲示して有り往時の城郭が見て取れる、南に200m程の所が大手門跡、その間は現在農地に成って居る。
細長い丘陵先端を活用した丘城、南北200~300m、東西120~130mを北から笹曲輪、本丸、二の丸、郭内の連郭式城郭です。
切岸の高さは20m程か?写真館の写真を観てるより実際の高さは高く大きく見える、空堀も深く素晴らしい、発掘調査整備で掘り起こしたのでしょう。素晴らしい整備保存です、丁度草刈りが終わったばかりなのか良く確認出来ました。大変満足な探訪でした。
歴史:麻場城は戦国時代この地の豪族白倉氏の居城であり、東方約500mに存在する仁井屋城(ニイヤジョウ)と併せて「白倉城」と呼ばれ、典型的な別城一郭(双子城)であると言われている。
当城は戦国時代初期に築城とされ、豊臣秀吉の小田原征伐時(1590年)に、前田利家を総大将とする東山道軍に攻め落とされるまで約370年間の活躍があった。(麻場城址案内板に由る)
情報源は何時もの、城郭放浪記さん余湖図コレクションさん古城盛衰記さんグーグルマップに依ります。
登城を終えて双子城の仁井屋城跡を車で目指すが途中道が狭く成り、駐車場に困り近くで断念して次の一郷山城を目指しました。
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2022/12/01 19:28
九州発:佐賀・福岡 2日目
4年前から遺構ありきの城訪問を始め、サイトの登録城を訪問していた。大半は平城だが、遺構の無い城や案内板のみの城などがやけに多くずっと不思議に思っていた。遺構が無いので足が向かずこの1年程行かなくなった。
今年の春に城の評価や価値は遺構より歴史の裏付や根拠の方が上位に来るという自分の認識が間違えていた事に気が付いた。どうりで諸先輩方の投稿に事細かく歴史の記載があるということを理解した。モヤモヤが晴れて春以降は吹っ切れて以降の無い城も訪問するようになった、が歴史や裏付とかは定着していない。
2日目は長い間ピン付して足が向かなかった城を回収しながら糸島方面に向かった。
10月21日(2日目)
元寇防塁関係
1.◆生の松原地区(福岡市西区)
2. 今津地区(福岡市西区)
3. 西新地区(福岡市早良区)
4. 長垂地区(福岡市西区)
他にも元寇防塁跡は2.3か所あるようです。今回は目的地に向かいながら遺構を見て廻った。長垂地区の防塁のみオリジナルで他は復元の様に見受けられる。
水城関係
5. 上大利水城(福岡県大野城市)
6. 天神山水城(福岡県春日市)
7. 大土居水城(福岡県春日市)
100城にある水城の周辺にある3か所の水城跡で土塁が残っています。上大利は良く整備されていますが、天神山は立入禁止、大土居は土塁というよりも小規模な城の様に思えた。
8.◆大宰府(福岡市大宰府)
9.◆飯盛城(福岡市西区)・・・・・・・・・・・・1時間30分:2.4km:累計高低差329m
10.◆柑子岳城(福岡市西区)・・・・・・・・・・1時間:1.5km:累計高低差174m
11.◆雷山神籠石+旗振嶺城(糸島市)・・・35分:1.2km:累計高低差62m
12. 小倉山城(糸島市)・・・・・・・・・・・・・・25分:0.5km累計高低差76m
9~12は個別で投稿のつもりです。
PK訪問
・筑紫氏館(福岡県筑紫野市)・・・城跡に神社あり
・中牟田城(福岡県朝倉郡)・・・・・小高い丘の敷地に城跡、住宅地化で消滅
・山家郡屋(福岡県筑紫野市)・・・郡屋などの建物が残るが、そもそも城郭の分類に入るか分からない
・米噛城(福岡県筑紫野市)・・・・・小高い敷地に遺構が有りそうなのだが、自衛隊の敷地内で立入禁止
・浦ノ城(福岡県大宰府市)・・・・・住宅地の一角に公園があり、石碑と説明版がある。遺構は見当たらなかった
・福地城(福岡市西区)・・・・・・・・・住宅地になっている。案内板があるはずのだが見つけられなかった
・◆小田部城(福岡市早良区)・・・城跡に神社が建っている
・臼杵端城(福岡市今津)・・・・・・・小高い丘が城跡、周囲が竹藪となってる
・舞岳城(福岡市糸島市)・・・・・・・公園となっていて遺構は探さなかった
・繋城(福岡市糸島市)・・・・・・・・・跡地は糸島高校、夕方で女子高生がいて、中々写真が撮れない。
・◆波多江城(福岡県糸島市)・・・田んぼの真ん中、堀がある情報だが見当たらない。
◆は城びと登録城です
福岡に限らず平城の多くは壊滅的な状況のようです、稀に住宅地の真ん中に樹木の茂った小山の城跡が有る場合が有りますが、その時は遺構が残っているケースが多いようです。
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2022/12/01 14:49
2022/12/01 14:10
2022/12/01 08:16
吉野山(義経・西行・水分神社) (2022/10/30 訪問)
吉野山の史跡は南朝関係以外にもいろいろとありますので、その他の史跡もめぐってみました。
義経潜伏の地
吉野山といえば、源義経ゆかりの地でもあります。義経追捕の院宣により京を逃れた義経主従と静御前は吉野山に身を隠しました。吉水神社には源義経潜居の間・弁慶思案の間があり、義経所用と伝わる色々威腹巻(重文)や弁慶の武具など、一行が吉水院を去る時に残していったとされる品々が展示されています。また、吉水神社には弁慶の力釘と呼ばれる岩がありますが、これは追手を前に弁慶が力自慢として岩に親指で2本の釘を打ち込み、あまりの剛力に恐れをなした追手が逃げ去ったという言い伝えによるものです。
上千本には佐藤忠信花矢倉の石碑と横川の覚範の首塚があり、吉野の僧兵に追われた義経を逃がすため佐藤忠信が留まって応戦し、花矢倉から矢を射かけて豪僧 横川の覚範を討ち取ったと伝わります。
さらに奥千本には義経が追手から身を隠したとされる義経隠塔があり、追手に囲まれた際に屋根を蹴破って逃れたことから蹴抜けの塔とも呼ばれています。
西行隠棲地
吉野山は桜の名所として知られますが、奥千本の最奥には桜をこよなく愛した西行が隠棲した地に西行庵が建てられ西行像が安置されています。桜だけでなく紅葉の名所でもありますが、訪問時は見ごろにはまだ早かったようです。西行庵の手前には西行が歌に詠んだ苔清水が今なお湧き出ていました。
吉野水分神社
吉野水分神社は飛鳥期には記録のある古社で、水分(みくまり)が身籠り・御子守り(みこもり)に転じて、子授けと子守の神として信仰を集めています。豊臣秀吉も吉野の花見の際に子授けを祈願して秀頼を授かったと伝わり、その縁によるものか秀頼が再建した桃山建築の社殿と楼門が現存しています(重文)。ただ、秀頼が生まれたのは吉野の花見の前年なので、祈願した時期が違うか、秀頼による社殿再建にちなんで生じた伝承なのかもしれません。また、江戸期の国学者・本居宣長も、父親が水分神社に祈願して生まれたと母親から度々聞かされていたことから、吉野水分神社の申し子を自認しています。
…で、全くの余談ながら、私の両親もなかなか子が授からず吉野水分神社にお参りしたところ程なくして姉が生まれたことから、我が家では年2回のお参りを欠かさず、おかげさまをもって姉も私も大した病気も怪我もすることなく無事に成人することができました。豊臣秀頼や本居宣長とは比べるべくもない凡人ながら、私にとっては(氏神社は別として)最も馴染み深い神社です。
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2022/12/01 06:54
立ち入り禁止 (2022/11/12 訪問)
白河小峰城から献血を予約してある郡山に向かう途中に立ち寄ってみました。陣屋建設当時から存在しているという立派な2本のカヤが目印で、標柱と説明板も建っているのですが、私有地なので勝手に立ち入ることは出来ません。許可を得ることは出来るのか、どうすれば許可がえられるのか、気になるところです。
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2022/12/01 01:43
前編 (2022/11/12 訪問)
【ハイキングスタート】
JR湯河原駅から城山ハイキングコースに沿って歩きました。(元箱根行きバスは現在運行していないようです。)ウォーキングマップはDLできますが駅の観光案内所でも同じものがいただけます。
駅前でまず土肥実平夫妻銅像をチェック。ここから城願寺にかけての一帯に土肥氏館があったとされ「城堀」という地名が残っています。
JRのガード手前に「城山(土肥城跡)3,600m」と書かれた最初の案内板。コースマップでは山頂まで約80分となっています。道中長くなりそうなので城願寺には寄らず、ひたすら上を目指しました。
延々と続く坂道を30分ほど登ったところで「近道(急坂)」と「まわり道(ゆるやか)」の分岐に来ました。近道の方を通りましたが、ここまでもずっと急坂だったので特別キツイということもありませんでした。「まわり道」と合流してからは急坂はなく(城堀林道)、眼下の景色を楽しみながら落ち葉の絨毯が敷き詰められた道をサクサクと歩けました。
【伝承① 兜石】
そして10分ほど進んだところでやっと見えてきた「兜石」の案内板。
ハイキングコースを逸れ、草むらをかき分けながら斜面を70m登ります。ここは石橋山の戦いに敗れた源頼朝が逃げまどい彷徨った山。その足跡をたどっているのだと思うと、何者かに追われているような気がしてドキドキしてきます。70mってこんなに遠かったかな?と思いながら歩を進めると、真正面に大きな岩が現れました。
頼朝が休息を取るためにかぶとを脱いで置いたと言われるその石は、石そのものが兜の形をしているためにそのような伝承が生まれたのだろうと思いますが、実際に目の前にすると疲れきった大泉洋さんの姿が目に浮かび、伝承にすぎないと一蹴する気にもならず暫く立ち尽くしてしまいました。
【伝承② 立石】
ハイキングコースに戻り15分ほど歩くと「立石」の案内板です。
案内板から80mほど山道を下りますが、階段を整備してくださっているので難所ではありません。立石は、頼朝が運試しにこの大きな石を投げて垂直に立てばいつか天下を取れるが、立たずに倒れてしまえば自分の時代はなく、このまま滅びるであろうと念じ投げたという謂れのある石です。石は見事、山の中腹に立ち、そのおかげで運が開いて頼朝は鎌倉幕府を築いたと言い伝えられています。
地面に斜めに突き刺さっているように見える大きな石。木の陰から顔を出しこちらを伺っているようにも見えます。一見「力持ち伝説」のようにも思える石ですが、頼朝が運を味方につけて幕府を興したことを語り、伝える石です。事実、この山中から脱出できたのは運以外の何ものでもないと言っても過言ではないようですし。
【主郭に到着】
再びハイキングコースに戻り歩くこと10分。空が近くなり、遂に深い森を抜け出しました。ゴール間近か⁉︎
しかし、案内板に書かれた文字は「山頂まで900m」。
90mか、90.0mの見間違いではないかと近づいてよく見たけれどやっぱり900m。
……ここまでの90分はほんの序章にすぎず、ここからが城域スタートなのでした。
ということで、気を取り直し山頂目指して進みます。
四阿のある広場(ピクニックグラウンド)も郭跡かと思われますが、真鶴半島を眼下にはっきりと捉えることができました。真鶴は頼朝の安房への脱出路。なかなか感慨深い眺めです。
さらに10分進んだところで今度こそ城山山頂、土肥城主郭に到着しました。兜石、立石への寄り道含めて麓から110分の行軍でした。
標高563mからの景色を堪能。背負ってきた最高のごちそう(=コンビニおにぎり)で休憩。次なる目的地へGO!
<つづく>
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2022/11/30 23:45
六分の一殿山名氏故郷の城 (2022/11/13 訪問)
二年振りに無事本丸登城出来た鷹留城を終えて、昨年10月ナビで山名城直下の駐車場に着けず断念したした山名城に再挑戦、目的の駐車場は昨年と同じ所、ナビは新品に交換、しかし今回も同じ団地に着き二回ほど回るが分からない、団地内で犬の散歩で歩いてる方に山名城と地図を示して訪ねる、徒歩ならここからが近いが車は不可、西山名駅(上信電鉄)を廻る道を行けば着くとの事、有難う感謝です。
ナビの目的はそのままにして西山名駅ルートに進行、山上碑・山上古墳の看板は大きく出てるし、ナビに従い細いが舗装された道を行くと、目的の駐車場の手前に第二駐車場(36°16'36"N 139°01'50"E)が有り、山上碑登りまで200mとの案内で歩く事にする。ここの駐車場には循環バス停車場にも成って居る。
200m程歩いて行くと、山上碑山上古墳/根小屋城の案内指示板が有り坂階段を登って行くが山名城の看板は無い、古墳の階段前に山上碑の案内ボランティア、山名城の案内を聞き一安心、「特別史跡・山上碑」の御城印ならぬ山上碑印を頂く、登って古墳前にもボランティアの方、山上碑と山上古墳の案内説明、そこその方が来れれて居ました。
山名城は古墳を回り込んで尾根道を約200m程行くと山名城の案内板と山名城・根小屋城を示す看板が出てる、山名城へは200m程登る(根小屋城へは1100mと案内)、細い人踏道が有り枯葉で滑りやすい、途中に竪堀かな?本丸の西曲輪の堀切、本丸への堀切、その堀切に登城丸太階段が本丸に続き、登ると本丸内部小公園の様、城名石碑、休憩テーブルセット、本丸の東が二の丸、草も樹木も茂って良く確認できない、踏み込みもしなく周辺を眺めてお仕舞。
山名城へは山名氏の城と言う事で有り、故郷鳥取県因幡の国は守護大名は山名氏であり思い入れも有って是非訪ねたいと長く思って居りました、数年前に麓に駐車場が有るとの情報で登城を狙って居ましたが昨年失敗、今年登る事が出来ました。
故郷鳥取には小中高と山名姓がそこそこ居り親友も居ます、山名氏は天下60国中10ヶ国の守護の時代が有り、六分の一殿と言われた、故郷鳥取の因幡を始め伯耆、但馬、美作、石見、備前、備後、安芸、播磨、伊賀だったそうです。
歴史と構造:源義家の孫新田義重(1116年~1202年)の子義範は、この城に拠って山名氏と称し、以後8代山名城を護ったという。東西450m南北130m連郭式山城東に張り出してる。
南北朝時代北信濃南朝方の関東の橋頭堡の一つ、戦国時代木部城の要害城として改築された。
(山名城入口の案内板に由る)
登城前に山上碑と山上古墳をボランティアの方の説明と見学をしました、上野三碑の一つ山上碑、そして山付き円墳も見学、これらはユネスコ「世界の記憶」上野三碑に成ってる様です。
勉強に成りました。
私が駐車した駐車場よりも登り口近くにアスファルト舗装とトイレの完備した山上碑・山上古墳駐車場が有ります。
情報源は何時もの古城盛衰記さん余湖図コレクションさん城郭放浪記さんグーグルマップに依ります。
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2022/11/30 22:15
公園だけで終るのはもったいない (2022/11/13 訪問)
国道294号線から霞ヶ城の案内板に沿って進むと駐車場があります。
さらに上にも駐車場があるようなので時間短縮したい方はそちらが良いと思います。
下の駐車場には説明板があり、登城路に沿って登ると公園に着きました。
途中、尾根道もあり、堀切も施されています。
公園は三郭のようで広く、土塁が残っています。
奥に進むと神社が建つ曲輪があり、ここが二郭。
神社背後には深い堀切があり、主郭との間を分断します。
主郭は藪でした。
主郭の下の堀をさらに進んで行きましたが曲輪が堀切で分断されたなかなかエグい城でした。
那須七党の伊王野氏の城。
まだやや藪だったのでこれからの時季ならじっくり見ることができそうです。
夏は無理かな?
いずれにしても公園部分だけで帰るのはもったいない城です。
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2022/11/30 21:41
土(ひじ)方歳三資料館は長期休館に入りました。 (2022/11/27 訪問)
11月27日をもって,土(ひじ)方歳三資料館は長期休館に入りました。最終日の予約が取れなかったので,館内には入れず。しかし,門前のお土産販売や周囲の撮影はでき,それなりに雰囲気は味わうことができました。熱烈なファンも駆けつけてましたので。
土(ひじ)方歳三墓所も,もたもたしてるとすぐに行列となりました。土(ひじ)方人気,恐るべし…。
表現が適切かわかりませんが,高幡城のtodo94さんへも無事に挨拶を交わすことができました…<笑>。
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2022/11/30 20:09
九州発:佐賀・福岡:1日目
10月に入ると天候が落着いてきた。考えがあって4.5名のお客さんに様子見の連絡をしてみた。順調、問題無し・・・オレ居なくてヨシ。続いて弟子たちに連絡。明後日から居ないから、何かあったら各自解決して。その後ホテルを確認、珍しい糸島が空いてる。流れで糸島を中心に佐賀・福岡。だったら3年越しのあそこに行こう、その他はピン付けしている周辺の城を行き当たりばったりしらみ潰しコースと決定。10/20~23の4日間、早朝からガッツリ訪問した。
朝3時に自宅を出発、まずは佐賀県鳥栖にある城ひと登録の鏡城がスタート、・・・・・道路崩落で立入禁止。一発目が不調だと後々響いてくる。済んでの所、本日は鏡城を含め2城が道路崩落で不調に終わった。
10月20日(1日目)
1. 勝尾城東山城(佐賀県鳥栖市)・・・・1時間:1.4km:累計高低差190m(直登)
2.◆若山砦(佐賀県鳥栖市)・・・・・・・1時間10分:1.9km:累計高低差211m
3. 立石館(佐賀県鳥栖市)・・・・・・・PK訪問(住宅地化)
4. 少弐山城
5. 木太刀権現城塞
6. 臥牛城(4~6共に佐賀県三養基郡)・・1時間25分:1.9km:累計高低差183m(3か所同時訪問)
7. 白虎山城(佐賀県三養基郡) ・・・・・40分:0.6km:累計高低差51m
8. 七曲峠城塞(佐賀県三養基郡)・・・・ 30分:1km:累計高低差100m
9.◆一ノ岳城(福岡県那珂川市)・・・・・2時間15分:4km:累計高低差418m
◆は城びと登録城、PK訪問は遺構消滅、案内板のみなどの城跡です。
投稿の少ない城やマイナーな城については、遺構の残る城のみ個別で投稿する気持ちは常に持ってます。
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2022/11/30 10:27
紀伊半島中央突破シリーズその3 和歌山城 (2022/11/22 訪問)
紀伊半島中央突破シリーズその3
地元の友人と一緒に名古屋から紀伊半島の中央を車で突破してきました。
その友人から渡された「ブラタモリ」和歌山の回で予習。大砂丘に立つお城だったんですね。で、他のお城には無い「砂の丸」てのがあります。
連立式天守はRC造の外観復元天守でしたが、国や市の(重要)文化財に指定されている建造物や石垣・水堀等の遺構もあり、見応え十分でした。流石御三家の城。
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2022/11/30 10:26
再挑戦、長野氏中世の山城 (2022/11/13 訪問)
箕輪城の完成した本丸・蔵屋敷間木橋を充分堪能して、昨年10月本丸登城を失敗した鷹留城1郭、2郭登城しました。
鷹留城へは箕輪城から西方直線約6km程の山中、箕輪城駐車場から北側に進み、群馬県立農林大学校を通り四辻交差点を左へ、榛名南麓広域営農団地農道/フルーツラインを道なりに進んで行く、中間辺り途中に榛名十文字うどん店が在る、更に進み小さい指示看板ですが道沿い入口に「鷹留城0.3km」が出ている。
車は入口へ駐める(36°23'35"N 138°53'28"E)。軽トラの轍があるので幅寄せし軽トラが通れるスペースを残す。
昨年失敗してるので今回は素直に1郭を目指して直登、登ると1郭の石碑が見える、また広い帯曲輪、北側の曲輪との間に幅広い堀切、1郭の東側切岸、斜めに付いてる人踏道を登り1郭に到着、中心に石碑(鷹留城死没者慰霊碑)と城名標柱、案内板、西側に石段が付いてる後世の構造物かも、降りて1郭西側へ、広い帯曲輪、西側が本来の虎口なのでしょう、1郭の隣の2郭へ、1郭・2郭間も広い堀切、2郭も石段が付いて居り、曲輪内に個人の立派な墓石が有る、結構広い曲輪、2郭の東側に大きい竪堀。(郭の名称は余湖図コレクションさん俯瞰図に依る)
歴史と構造:明応年間(1492年~1500年)長野業尚築城、永禄9年(1566年)9月武田信玄勢のために落城(城主業通)長野氏4代70余年の居城。
規模は並郭式であり、南北430m、東西300m、本丸高さ、東谷より70m。
(以上1郭案内板に由る)
3郭は昨年の失敗ながら大手門跡より竪堀と共に眺めて居るので今回パス、搦手側の土橋は1郭下から人踏道らしきものが無いので踏み込みませんでした。
土の城で南北に連郭式、広い廓、郭間に広い堀切が有り、周囲には帯曲輪を備え、西方面には多段の曲輪が構えて、東方面の敵への構えの城、素晴らしく遺構も残り中世山城を探訪するのにピッタリの山城で皆さんにも是非とも探訪をお勧めします。
長野氏は鷹留城から東の箕輪城に拠点を移したようです。(城郭放浪記さんによる)
今回前回探訪の情報源は城郭放浪記さん古城盛衰記さん余湖図コレクションさんグーグルマップに依ります。(グーグルマップを拡大すると鷹留城史跡マークが出ています)
※ イオさんへ
白山平泉寺城のコメントありがとうございます。白山神社城郭と平泉寺城郭が先の投稿で結びつき早速の探訪と成りました、私も白山平泉寺城郭探訪はここ数年来内記憶に起こる探訪でした、数拾年の疑問が解決したのは大変大きな事柄でした。
今後ともよろしくお願いします、投稿を楽しみにしています。
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2022/11/30 09:31
紀伊半島中央突破シリーズその3 和歌山城(前夜) (2022/11/21 訪問)
紀伊半島中央突破シリーズその3
地元の友人と一緒に名古屋から紀伊半島の中央を車で突破してきました。
和歌山市に到着した時には既に暗く、和歌山城はライトアップされていました。宿泊は和歌山城がよく見えるビジネスホテル。部屋はお城を見れる側ではなく残念でしたが、エレベーターホールからは何とか見られました。
ホテルから眺めているだけでは物足りなくなり、折角ライトアップされているので天守まで行ってみる事に。天守や門はライトアップされているとは言え、城内はほの暗く恐怖との闘いでした。まあお城のライトアップってそんなもんですよね。
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2022/11/30 08:17
吉野山(南朝ゆかりの地) (2022/10/30 訪問)
吉野といえば何といっても南朝の本拠地であり、南朝ゆかりの史跡が数多く見られますので、吉野城とあわせてめぐってみました。
吉野神宮
吉野神宮は後醍醐天皇を祭神として明治に創建され、吉水院に奉安されていた後醍醐天皇像を御神体としています。広大な境内に立派な社殿が建ち並んでいますが、中心部から少し離れているせいか人影はまばらでした。なお、元弘の乱の吉野城攻防戦ではこのあたり(丈六平)に幕府軍の陣が布かれ、駐車場には丈六平の石碑が建てられています。
村上義光公の墓・村上義隆の墓
吉野城の落城に際して、護良親王を脱出させるべく親王の鎧と直垂を身に付けた村上義光が蔵王堂南側の二天門で親王になりすまして自害し、義光の首は首実検のために運ばれる途中、峰の薬師堂のあたりで見破られて捨て置かれたのを里人が埋葬したと伝わり、道路沿いに石碑と説明板が、そこから石段を上ったところに村上義光公の墓が設けられています。
護良親王は金峯山寺の奥の勝手神社から搦手道を逃れましたが、追手を食い止めるため村上義光の子・義隆が細道に立ち塞がって奮戦し、その間に親王は落ち延びることができたものの、義隆は十数箇所の傷を負って自害。搦手道沿いに義隆の墓が建てられています。
金峯山寺
金峯山寺は飛鳥期に役行者が開創した修験道の総本山で、境内には護良親王が本陣を置いた蔵王堂や村上義光が自害した二天門跡(村上義光公忠死之所の石碑あり)があるほか、西側の一段下は南朝(吉野朝)の行宮となっていた実城寺跡で、跡地に建つ南朝妙法殿には実城寺の本尊が安置され、南朝四代の天皇と忠臣たちが祀られています。また、金峯山寺の南隣には後醍醐天皇導きの稲荷が祀られており、京から吉野に逃れる途中、夜道に迷った後醍醐天皇を導いた稲荷社を勧進したと伝わります。
吉水神社
吉水院は飛鳥期に役行者が開創したと伝わり、鎌倉初期には源義経主従と静御前が潜居し、南北朝期には京を逃れた後醍醐天皇が行宮とし、織豊期には豊臣秀吉が行った吉野の花見の本陣となった寺院で、明治の神仏分離令により後醍醐天皇を祭神とし楠木正成らを合祀する吉水神社となりました。書院には後醍醐天皇玉座が現存し、中庭には後醍醐天皇が京の方角を望んで邪気払いをしたとされる北闕門があります。また、書院内には後醍醐天皇の御宸筆や大塔宮(護良親王)の陣羽織、楠木正成の矢筒などゆかりの品が多数展示されています。
如意輪寺
如意輪寺は平安前期建立の寺院で、南北朝期には後醍醐天皇の、そして南朝の勅願寺となりました。本堂後背の丘には後醍醐天皇御陵が設けられ、後醍醐天皇の遺詔により京を望んで天皇陵で唯一北向きに造られています(通常は南向き)。また、境内には四条畷の戦いに赴く楠木正行と郎党が髻を切って奉納したと伝わる埋髻の墳があります。宝物殿では後醍醐天皇ゆかりの品や楠木正行が辞世の歌を刻んだ本堂の扉などが展示されているようですが、じっくり見学する時間がなかったのでまたの機会に。
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2022/11/30 07:04
城カード「再建天守シリーズ」ゲット (2022/11/12 訪問)
すっかり震災の被害から立ち直っていた白河小峰城。かつては10時にならないと入れなかった三重櫓でしたが、今は9時開館。この日は9時前に入ることが出来てしまいました。城カードを販売している二の丸茶屋が9:30オープンだったので、会津門跡や雪見櫓のビッグフラワー(ピクミンブルーム)を咲かせて遊んでいました。三重櫓の中の100名城スタンプは旧デザインのゴム印でしたが、二の丸茶屋のスタンプは続100名城規格に準拠したシャチハタの新デザインでした。福山城のスタンプでも気がついていたのですが、さすがに4度目の100名城スタンプラリーに踏み出す気にはまだなっていません。
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