さるばみじょう

猿啄城

岐阜県加茂郡

別名 : 猿飛城、勝山城、根尾山城
旧国名 : 美濃

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展望台より
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しんちゃん

小牧山城が見える。 (2024/10/20 訪問)

岐阜の城攻めもこれで終了。これが東海4県最後の城です。とはいってもまだコンプではありません。掲載を、あと4つ(!)残しています。大桑城で体力をだいぶ削って、本来なら帰還も考えるところですが、ちょっとだけ無理をしました。最後ですからね。
猿啄城はハイキングコースになっていて、思ったより多くの人が来ています。けっこう登りはきついけど、眺望が良いし、展望台があるので人気があるようです。特に遺構は見当たりませんが、眺望は良く、小牧山城も見えます。年配の家族連れがいるので、ほどほどにして帰りました。どうやら西側にも遺構が残っている様子。まあ基本、眺望メインの城ということで‥。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)6日目:猿啄城 (2023/04/23 訪問)

土田城からの転戦です。猿啄城展望台入口(35.425729、136.966118)から、先に進めば駐車場に到着します。

築城時期は不明ですが、応永年間(1400年頃)、西村豊前守善政が築城したようです。
1441年(嘉吉元年)西村豊前守善政が祖母の法要の為城を留守にした際に、田志見の城主修理大夫頼吉が城を略奪します。
1530年(享禄3年)田原左衛門が城主となります。
1547年(天文16年)多治見修理が城を略奪します。
1565年(永禄8年)織田信長が丹羽長秀を総大将として東美濃攻略を開始。丹羽長秀の先鋒であった河尻秀隆が猿啄城を攻略し、落城します。
城主多治見修理は斎藤氏に属する堂洞城の岸信周の下へ落ち延びました(堂洞合戦)。河尻秀隆が猿啄城城主となり、城名を「勝山城」と改称しました。
1575年(天正2年)河尻秀隆が岩村城に移り、廃城となりました。

駐車場から山頂まで登り25分くらい(下りは17分くらい)ですが、登城道はかなりきついです。手すりなどはありませんので、下りは足元に注意してください。
山頂には櫓を模した展望台がありますが、上には登れません。眺めは絶景です。
日曜でしたので登山客が結構いました。家族連れも多く見ました。たくましい子供です。
攻城時間は60分くらいでした。次の攻城先=伊木山城に向かいます。

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多治見修理 (2022/10/15 訪問)

 城の下には木曽川が流れ、犬山、鵜沼、美濃加茂方面を結ぶ交通の要衝にあります。戦国時代、多治見修理が守っていましたが、美濃攻略を目指す織田信長の配下河尻秀隆により攻略されました。その後、信長の命令で勝山城に改名しました。
 主郭には櫓風の展望台があります。眺望はすばらしく、この日は晴れていて小牧山城が見えました。犬山城は残念ながら山陰に隠れて見ることができません。西側へ続く尾根には堀切と土橋が見られます。「岐阜の山城ベスト50を歩く」に石垣があるとの記載あり、「久太郎の戦国城めぐり」さんのHPの図を見ると3ヶ所記載されていました。西側の石垣は見つけることができましたが、他の2カ所は藪になっているためか、探し方が悪いのか、気合が足りずヘタレなのか、見つけることができませんでした。

 坂祝駅から徒歩約10分で登城口に行くことができます。階段が多い山登りですが道はハイキングコースとして整備されていて比較的歩きやすいと思います。この日は天気も良く多くの老若男女のハイカーが登ってみえました。登って行くと曲輪を思わせる削平地もあります。約30分弱で主郭に行くことができました。

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shige

(2021/04/25 訪問)

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城郭情報

分類・構造 山城
築城主 西村善政
築城年 応永年間(1394〜1428)
主な城主 西村氏、田原氏、多治見氏、河尻氏
廃城年 天正2年(1574)
遺構 石垣
指定文化財 町史跡(猿啄城跡)
再建造物 城郭風建築物(展望台)、石碑、説明板
住所 岐阜県加茂郡坂祝町勝山934-1
問い合わせ先 坂祝町企画課
問い合わせ先電話番号 0574-26-7111