おおじいじょう

大椎城

千葉県千葉市


旧国名 : 上総

投稿する
口コミ・画像を投稿する

みんなの写真投稿

投稿する

みんなの口コミ

投稿する

しんちゃん

平忠常後裔、千葉氏が千葉城に移るまでの本拠。 (2023/05/06 訪問)

大椎城には城山の北側からアクセスするのが正解のようです。
北東側に山に通じる道があり、特に入山禁止の
標識も無いので散策させていただきました。
登城道が尾根の南側に回り込んで東から西に
一郭、二郭、三郭、四郭(本郭?)と続いているようです。
西の郭が本郭であれば、この並びは逆になるのがわかりやすいと思います。
郭の間は堀で区切られているようですが、大半の郭は
竹藪に覆われています。
大椎城は平安時代中期に平忠常が築き、忠常の後裔千葉氏が
大治元年(1126)千葉城に移るまで、千葉氏の重要な
拠点だったとされています。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

イタさん

千葉氏発祥とされる城跡 (2023/02/04 訪問)

 諸解説によれば、平安中期に平忠常が築き、常胤の時に千葉氏を名乗り、永く千葉氏が居城したとされる。15世紀中頃には酒井氏の勢力圏になり、特徴から16世紀中頃に土気酒井氏が改修したのではないか。天正18年(1590年)、小田原征伐により酒井氏は滅び廃城となったとされる。

 説明板のある北から入り、二の郭と三の郭を仕切る堀切にでる道が一般的なのだろうが、駐車場所を探せなかった為、城跡の南にあるお寺に駐車をお願いする。北側を歩かなかったのが心残りではある。住職さんの話では、千葉氏の時に城域から現在地に移転してきたとのこと。
 町内集会所横から切り通し道を上り、要害台に出ると西側に散策路がある。四の郭の南東下は城跡の雰囲気がある。三の郭と四の郭の間の堀は土橋に横矢がかかる。先で二の郭と三の郭の間の堀に出る。北側に虎口跡か、先は細い尾根を一気に下っている。西へ行くと南が開け先に帯郭があり、やや上がれば一の郭と二の郭の間の堀・一の郭虎口になる。虎口先は笹・杉などが多く、郭の西端に向かう道以外は踏み込めない。西端には部分的だが土塁跡らしき高まりがある。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

おっちゃん

大椎城案内図 (2017/10/07 訪問)

現地案内板より抜粋。

+ 続きを読む

昌官忠

房総日帰り攻城Ⅱ⑧:大椎城 (2020/01/23 訪問)

土気城から転戦。車で10分くらいでした。
駐車予定していた場所からは徒歩でも攻城できないことが、現場に着いて判明。しばらく駐車場所を探したが見つからず断念。

大椎城は平安時代末期に平高望の曾孫にあたる平忠常によって築城されました。その後長らく千葉氏を称した忠常の後裔が拠ったとされます。
一方、忠常の館に関する伝承は東庄町にもあり、「千葉伝考記」はその2代後の平常長が前九年の役の功で大椎の地を賜り、次の常兼の代に大友城から大椎城に移ったように記しています。
1126年(大治元年)に常兼の嫡子、常重が亥鼻城を築いて居城を移しました。
戦国時代には土気酒井氏の支配下に入り、支城として大規模な改修を受けたと思われます。現在残る遺構も土気酒井氏時代のものと考えられ、土塁や空堀などを確認することができます。
1590年(天正18年)、小田原征伐により酒井氏が滅亡し廃城となったとされます。

ワンハンドヒルズ(チバリーヒルズ)から登城口を遠望するも攻城かなわず。城跡を目の前にて痛恨のミス。
攻城時間は10分くらいでした。(投稿写真ありません➡遠望でも写真撮ればよかったですね)

+ 続きを読む

城郭情報

分類・構造 連郭式平山城
築城主 平忠常
築城年 平安時代後期
主な城主 千葉氏、酒井氏
廃城年 天正18年(1590)?
遺構 曲輪、土塁、横堀(空堀)、帯曲輪
再建造物 石碑
住所 千葉県千葉市緑区大椎町