房総日帰り攻城Ⅱ⑦:土気城
(2020/01/23 訪問)
本納城から転戦。車で20分くらいでした。
馬出曲輪の貴船神社(35.528949,140.2881)➡3郭➡2郭➡1郭を車を進めて攻城しました。
土気城は神亀年間に鎮府将軍・大野東人が蝦夷に対する備えとして「金城」あるいは「貴船城」と呼ばれる城砦を築いたのが起源とされますが定かではありません。
室町時代、土気荘の地頭職を得た千葉氏の勢力圏となり、室町時代には千葉氏の流れを汲む土気氏が当地の地頭職を得て土気城に拠ったとされています。
室町時代後期には一時大関城主の畠山重康の勢力下となったが、1487年(長享元年)原氏と組んだ中野城主酒井定隆に追われ、翌1488年(長享2年)酒井氏が移り、以降酒井氏が滅びるまでの100年強同氏の一族が拠りました。
後に定隆は三男隆敏と共に土気から東金に移り、隆敏は東金酒井氏の祖となりました。
1564年(永禄7年)第二次国府台合戦で土気酒井氏は里見氏に組し、里見氏の敗退後北条氏に組した東金酒井氏を含む北条勢に攻められた。
この際、搦め手のクラン坂方面から北条勢が攻め寄せたとされるが、酒井胤治が良く守りこれを撃退しました。
その後、土気酒井氏も北条氏に降り、1590年(天正18年)の小田原征伐では酒井氏は北条方として小田原城に篭城しました。
この役で北条氏が滅ぶと、酒井氏も運命を共にし、土気城も豊臣方に接収され廃城となりました。
現在本丸跡は旧日航研修センターの庭園になっており、5m近い土塁に囲まれた二の丸跡には老人ホームが建てられています。
馬出曲輪の貴船神社➡3郭➡2郭➡1郭を車を進め、クラン坂を通り抜けようとしたら倒木の為、前に進めず。
クラン坂の狭い登り坂を車で50m程バックで脱出を図りますが、雨で土砂が道路上に流れており、スリップの為、脱出するのに時間がかかりました。
本当に通行止めにしておいてほしかった。(反対側の入口は通行止めになっていました)
攻城時間は45分くらいでした。(見学時間には脱出時間も含んでいます)
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