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しんちゃん

海に張り出した岩盤上の台地に築かれた城。 (2023/01/08 訪問)

日知屋城は伊東氏によって築かれ、伊東氏四十八城の
一つと言われています。
城址は南東に海に張り出した地形上に築かれ
遊歩道に沿って歩いていけば虎口、主郭、
古代メンヒル(ストーンサークル)のある郭、
東の郭とひとしきり見学することが可能で、主郭周辺と
東の郭には石垣が残っているようです。
東の郭の先は海に岩盤がせり出しています。
海城の要素もあるのかもしれません。

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しんちゃん

伊東氏の本城の一つ。「最強の城」で紹介。 (2023/01/08 訪問)

都於郡城は伊東四十八城の中でも佐渡原城と並んで
伊東氏の本城とされています。
主に五つの郭(城)から成りますが
私はいきなり本丸→二ノ丸→三ノ丸→西ノ城→奥ノ城と
訪問しています。
本丸と二ノ丸には土塁が良く残っています。
とにかく広い。一つ一つの郭が大きく独立した城のようです。

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しんちゃん

二度にわたる大軍による包囲にも持ちこたえた城。 (2023/01/08 訪問)

天正6年(1578)、大友宗麟が6万の兵で山田有信の守る高城を包囲しました。
有信はわずかな手勢で大友軍を足止めし、その後の高城川の戦いでの島津軍の
勝利に貢献しました。
この時の城兵の数ですが、wikiでも高城の項目と山田有信の項目では
1500~3000と開きがありますが、いずれにしろ大友の大軍を引き留めた
功績は大きいでしょう。
高城は尾根上に空堀が6つ設けられていて、中でも第一の空堀は
そのまま主郭の下に通じる通路となっています。
主郭はなかなか広く南側に櫓を模した展望台があり
かつて戦場となった高城川を望めます。

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ぴーかる

黒野城 (2023/07/15 訪問)

【黒野城】
<駐車場他>城跡入口<35.459896, 136.723383>に2台駐車可能
<交通手段>車

<見所>土塁・堀・城石
<感想>日帰り濃尾平野ちょこ城巡りの旅第1弾、4城目。黒野城の築城者は加藤光康の子の貞泰で加藤光康が甲府24万石の領主の時に朝鮮の役で陣没したため(石田光成の毒殺とも)に嫡男の貞泰はまだ幼少という理由から1594年に美濃黒野4万石に減封され黒野城を築城します。関ヶ原合戦では加藤貞泰は当初西軍につきますが、すぐ東軍側について戦後は本領安堵になります。1610年に加藤貞泰は伯耆米子藩6万石へ加増移封されて、黒野藩は加納奥平氏領となり黒野城は廃城となります。
 現在は本丸部分の堀と土塁、本丸内部は公園とグラウンドとして残っています。方形土塁上の北東隅と南東隅に櫓があったらしく、土壇は残されていませんが幅広くスペースが残されています。本丸の堀と土塁は見事であり見応えがあります。また西の虎口跡周辺に城門礎石と石垣跡の石が置かれています。城は江戸時代を通して残されていたのだろうか?本丸跡は堀と土塁が良好に残りなかなか見ごたえがありました。

<満足度>◆◆◇

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豊川城 (2023/08/03 訪問)

 JR豊川駅より徒歩約10分、光明寺付近が跡地と伝わっています。城びとには未登録の城址です。山門の横に城址碑があります。鎌倉時代大江氏が居館を築いたのが始まりとされています。慶長7年(1,602年)、刈谷城主水野勝成の弟水野八十郎忠直が陣屋を構えました。遺構はないと思われます。

 近くには日本三大稲荷の一つとされている豊川稲荷があります。稲荷と称していますが実は神社ではなく正式名称は曹洞宗の寺院「妙厳寺」という不思議な存在です。
諸説ありますがここもいなり寿司発祥の地といわれています。というわけで昼飯は贅沢をして「豊川創作いなり寿司 和食処 松屋」さんでプレミアム創作いなり寿司ランチをいただきました。

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設楽原古戦場 (2023/08/03 訪問)

 夏の古戦場巡り。長篠の戦いと一般にいわれていますが、設楽原古戦場へ行って来ました。JR飯田線三河東郷駅より2時間くらい徒歩へ行ける範囲を散策しました。復元された馬防柵が当時の雰囲気を醸し出しています。ただ戦場は広く徒歩では回りきれません。設楽原歴史資料館は長篠・設楽原の戦いにまつわる展示として、「設楽原の戦い」、「火縄銃」などのコーナーがあり、また、幕末のころ日米修好通商条約調印の立役者として活躍した岩瀬忠震を紹介する展示もあり楽しめました。

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イオ

城郭相当の屋敷 (2023/06/10 訪問)

江戸初期に徳川家康が江戸と京都の往還の休泊施設として造営した屋敷で、家康のほか大坂夏の陣の後に徳川秀忠が利用しましたが、寛永年間には役割を終えて大半の建物が取り壊されました。現在では西半分は中学校になっていますが、東半分は牡丹園として公開され、主郭の土塁や堀が良好に遺っています。

北隣の無料駐車場から登城開始。駐車場近くの北側に入口が設けられていますが、後世の改変によるもののようです。入口の両脇には土塁が続き、土塁沿いに東に進むと古井戸跡がありました。古井戸跡の奥、北東隅の土塁上には櫓台が建てられていたようです。櫓台から南に進むと東向きに開口した虎口があり、虎口の南側には水堀(?)、北側には土塁と横堀が続いています。虎口を出て外側から北東隅櫓台を確認すると、引き返して今度は主郭の南辺へ。‌南辺の土塁にも開口部(立入禁止)が設けられていますが、これも後世の改変でしょうか。南辺の土塁上に丸太のベンチ(らしきもの)が見えたので、登ってみると土塁の外側に横堀が続いていました。主郭内部は牡丹園として整備されていて、満開の時季には大いに見応えがありそうです。

屋敷とはいっても徳川将軍専用ともなると、さすがに見事な防御の備えのある城郭でした。ただ、整備された庭園ということで油断して半袖・短パンの軽装で歩いていると、ヤブ蚊にまとわりつかれて往生しました。夏場でも長袖を着るか虫よけ対策をしたほうが良さそうです…。
 

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にのまる

②西の曲輪~風呂ケ谷 (2023/05/28 訪問)

第四曲輪→第五曲輪→第六曲輪まで来ました。(写真①~③)
第七曲輪から木製の階段を二つ下りると第十曲輪です。(写真④)
……って、ちょっと待った!!
それでは曲輪がひとつ足りません。
復元門のところで第九と第十が分かれているのかとも思いましたが、パンフレットで確認してみるとそうではなくて、どうやら第七曲輪の階段が第八曲輪を跨いで第九曲輪に架かっているようでした。
第八曲輪、めっちゃ小さいです。平らな部分は人ひとり立つのがやっとなくらい。私が今まで見た曲輪の中でナンバーワンの小ささでした。曲輪群が傾斜地に段々に築かれているのでスキップフロアみたいにしたのかなぁ?(第九もそこそこ小さいです。)

第十曲輪のお馬さんの小屋で続100名城スタンプを押しました。周囲は堀切&竪堀パラダイス。土塁越しの写真⑥は堀切跡を整備された(?)ような感じでしたが行き方がわかりませんでした。(写真⑩が復元堀切の行き方のようでしたがどこに道があるのかもわからないままでした。)

虎口の復元門から風呂ケ谷に向かいます。羊歯が繁り、水を湛える井戸にも小学生による手づくりの説明がありました。
ここから新城に行きかけたのですが、せっかくなので風呂ケ谷駐車場まで行ってみました。こっちがメインなのか!って感じでした。

<つづく>

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にのまる

①永昌寺登城口から本郭~西の曲輪へ。 (2023/05/28 訪問)

13:02に松丸駅に到着。
見知らぬ土地、しかもどんどん山の中に入っていくイメージの列車旅で、一体どんなところに向かっているのだろうという不安もあってドキドキでしたが、松野町は自然豊かで落ち着いた歴史を感じる町でした。
出迎えてくださった観光案内所兼切符売り場の方に、河後森城へ行くことと帰りは16:36の列車に乗ることを伝え、登城マップと100名城スタンプまでの最短コースが書かれた地図をいただきました。

滞在予定時間は3時間以上あるので最短コースはとらず、登城マップの徒歩コースに従って途中まで進んだのですが風呂ケ谷登城口へは行かず、立派な城址碑のある永昌寺登城口から登りました。大洲城、宇和島城と大した山登りをしないでここまで来たので久々の山城登城モードです。
写真③は本郭手前から。「線路はどこでしょう?」クイズが出せそうな良き眺めでした。
本郭には建物跡が整備されていました。1600年頃には天守もあったとか。手づくりの説明板がとてもよかったです。
写真⑤は松丸駅と川向こうの道の駅方面です。ここでも線路をさがすのが楽しかったです。

西第十曲輪の掘立柱建物が見えてきました。貴重な石垣を確認し、第二曲輪(⑧)→堀切(⑨)→第三曲輪(⑩)と進みます。

<つづく>

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しんちゃん

新所城② 一城別郭の機能を持っていたのではないか? (2023/06/25 訪問)

新所城その②です。
①では大手だけで一頁使ってしまいました。
ひとしきり散策した感想として、この城はいざとなると
左右いずれの郭も主郭となりうる機能を持った一城別郭の城と思われ
尾根の中央を堀切で明確に区切ってあります。
西側が主郭と見られる郭群で、東側が副郭とそれに付随する郭群とみられます。
土塁などの遺構は東側に多く残り、
尾根上に巨石をうまく使って防御のための施設を築いていたのでは
ないかと思われます。大手を登った先の尾根にある巨石や
東西に続く尾根上に配置された石の台を礎石代わりにして
門などを置いていたのではないでしょうか。
東の尾根上には南側にしか土塁が付いていませんが、これは
北側にある沼の周囲の湿地帯からは敵が攻めてこれないと考えての
ことだと思います。
副郭には周囲に土塁が残り、東端の尾根上の先まで郭が配されています。
その先に突き抜けると、そのまま下山できるのですが尾根先を周回
するように堀切と土塁が築かれています。
最後まで防御に関しては抜かりがなく、感心しました。

それにしても不思議な位置に置いてあった残念石、気になります。
潜伏キリシタンでもいたんでしょうか? いやいや‥考えすぎですね。

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小城小次郎

千早神社のその先に (2023/01/20 訪問)

恥ずかしながら千早城に登ったのは23年ぶり。千早神社が山頂だと信じ込んでいたのだが、神社の裏側には更に高い場所(禁足地)があって、どうやらそこにも城郭遺構(段曲輪?)があるらしいことに初めて気がついた。

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朝田 辰兵衛

鏡山城散策 2/2(3郭・馬のダバ→北郭)を。 (2023/06/10 訪問)

西条駅前3番乗り場から路線バスが出ています(広島大学ループ線)。最寄りバス停は「鏡山公園入口」です。200円(IC可)。広島大学にアクセスするだけあって,本数は多いです。
とにかく,ブルーシートが目立ちます。井戸跡は手厚く整備されていますが,畝状竪堀は確認できませんでした。
公園内には老若男女を問わず人が集まっていましたが,わざわざブルーシートだらけの城跡を散策するスキ者は私だけでした。
主郭背後,北郭にかけてはブルーシートなし。ようやくほっこりできる感覚になりました。
主郭では,スズメバチが回遊しておりました。くれぐれもご注意ください。

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朝田 辰兵衛

鏡山城散策 1/2(鏡山公園→5郭・下のダバ)を。 (2023/06/10 訪問)

西条駅前3番乗り場から路線バスが出ています(広島大学ループ線)。最寄りバス停は「鏡山公園入口」です。200円(IC可)。広島大学にアクセスするだけあって,本数は多いです。
とにかく,ブルーシートが目立ちます。井戸跡は手厚く整備されていますが,畝状竪堀は確認できませんでした。
公園内には老若男女を問わず人が集まっていましたが,わざわざブルーシートだらけの城跡を散策するスキ者は私だけでした。
主郭背後,北郭にかけてはブルーシートなし。ようやくほっこりできる感覚になりました。
主郭では,スズメバチが回遊しておりました。くれぐれもご注意ください。

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イオ

むしろついでのほうが… (2023/06/10 訪問)

戦国末期に竹中重利が築いた城で、重利が豊後高田に移封されると武光忠棟が城主となりましたが、関ケ原の戦いで西軍についたために改易され、長松城も廃城となりました。現在、城跡は小学校の敷地になっていて遺構は消滅しており、校門西脇に城址碑と説明板が立てられているくらいです。

…と、これだけではあまりに見どころがないので、長松城とは直接関係ありませんが、城址碑から東に徒歩2分の平林荘跡には大垣城七口門のひとつ(清水口門)が移築されていますので、ついでにどうぞ。
 

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todo94

2巡目の続日本100名城のスタンプラリー68城目 (2023/07/15 訪問)

2巡目の続日本100名城のスタンプラリー、残り1/3を切っているのに大分県の4城を丸々残しているのはまずいなと思い、行き先を大分に定めました。海の日の3連休を使えば姫島にも脚を伸ばせそうということで、中津城をターゲットに。残念ながら中津に泊をとることができず、別府泊になってしまったのですが。福沢諭吉旧居にて3館共通券を購入してしまったので、中津城の続100名城スタンプをゲットした後、中津市歴史博物館に行ってみたのですが、これが思わぬ大収穫。大好きな長岩城のリーフレットは手に入れられるし、模型展示はあるし、動画視聴まですることができました。そして博物館に接して発掘復元された石垣。(トクさんの投稿をご参照あれ。)石垣の動画の後にスクリーンが上がり、目の前のガラス越しに本物の石垣が現れるという演出も含めて最高でした。おかこい山の存在も知りましたので、リーフレット片手におかこい山めぐりもしてしまいました。共通券で100円引きになる自性寺の大雅堂など、思う存分、中津を楽しむことができました。ただ、危険な暑さの中の長時間の散策で大量に発汗。500mlのペットボトルはあっという間に空にしてしまいました。

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しんちゃん

新所城① 城づくりの魅力に満ちた括目すべき山城。大手編 (2023/07/15 訪問)

新所城は亀山市関町にある山城です。
山崎製パン(株)三重営業所の脇道から敷地内におじゃま
させていただくと南側に登城道があります。
小さい立札があるのですぐにわかると思います。
北東の郭と居館エリアは先の口コミで(おまけ①・②)紹介させて
いただいたので本題の城郭エリアをご紹介させていただきます。
登城道から入って南に進み居館1の先の堀切を進むと長大な堀切が
見えてきます。深さも十分残っている、なかなか立派な堀切で
主郭のある尾根のふもとを東西に続いています。
堀切沿いに歩いていると残念石と巨石群に遭遇します。
この残念石、伊賀の上野城にでも持っていくつもりだったのでしょうか、
まるでモニュメントのように大手道の手前に立っています。
特徴的な巨石群が西に向かって続いているのですが
そこが大手道になっています。
岩の間からロープ伝いに登っていくと、尾根先に巨石が
待ち構えています。かつてはここに門か防御用の設備があったと
思いますが、登ってみた感じ、かなり険しいです。
とても居住に適している造りではないので、この先の城域が
詰めの城(山城)であることを教えてくれているようです。
まだ大手なのですが、長くなって来たので一度切ります。

添付の図はあくまでイメージです。スマホに地理院の地図が正確に出て
いなかったので、おおよその想定で書いてます。
本日インストールしたジオグラフィカに期待します。

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にのまる

訪城記のまえに。 (2023/05/28 訪問)

東京から2日かけて到着した河後森城は、約2年前の因縁のお城でございます。
朝田さんの新潟県城びと登録城コンプリートのお祝い眺望クイズのお返し眺望クイズの解答がこの河後森城だったのです。
全くわからずお手上げでした。(カズサンさんが瞬殺されています。)
今ならわかります!“眺望しているほうも眺望されているほうも総じて同じお城”の意味。そしてこれが七尾城の眺望クイズ返しだという意味も。

朝田さんの出題と同じアングルの写真を……と言えればいいのですが、新城では城外ばかりを眺めていて西第十曲輪方面を見ていませんでした(◞‸◟)
が、とりあえず2年越しの追っかけ解答完了しましたということで✌

todo94さん、23区登録物件コンプリート、お祝いクイズを考えてお待ちしております😊

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しんちゃん

新所城 番外編②居館編 謎井戸付き (2023/07/15 訪問)

新所城ですが、国道1号線に面しているのでアクセスは良い方です。
国道の北側に関宿の駐車場があるので利用させていただきました。
私はこの城、6月と7月に2回訪れています。
6月に居館2と北西の郭、東西の城域を訪問しているのですが
居館1を見落としていたので、もう一回来たのですが、
その時に大手道と怪しい井戸を発見しました。
山崎製パン(株)三重営業所の左のわき道から入って南側に
登城道があるのですが、北西の郭に至る前に居館2に遭遇すると
思います。国土地理院の地図がずれて表示され正確な位置も
把握しづらいので添付の図はあくまでイメージです。
居館に関しても二つまで確認しているのですがもっと多い可能性もあります。
山岳用のGPSは高いので本日ジオグラフィカというアプリを
インストールしてみました。スマホが圏外になるまえに周辺の地形を
キャプチャ機能で取り込めるようなので
山城を攻めている時でも位地を把握できるのではないかと期待しています。
謎の井戸は居館1の北側にありました。
近くにコンクリ製のもっと怪しい井戸もありますよ。

登城道へ入るわき道
34°51'19.8"N 136°22'55.5"E
34.855512, 136.382087

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しんちゃん

新所城 番外編①北西の郭  (2023/06/25 訪問)

亀山市関町にある新所城はマイナーではあるものの
城づくりの妙技に満ちた、実に見ごたえのある城です。
築城は伊勢国の国人領主、関盛信によりますが
後に羽柴秀吉家臣、浅野長政らによって普請が行われ
今の状態になったようです。
東西に広がる尾根上一帯に郭が配置されていて
高天神城のように一城別郭の様相を成していると見られ、
東西の城域を堀切で遮断してあります。
西側の最後所の郭が主郭と見られていますが、西側が陥落しても東の城域だけで、
ある程度持ちこたえたであろうと推測します。
東西の城域ともに北側にも尾根がせり出していて、その尾根上も郭として
余すところ無く活用していて、散策も可能です。
北東には沼地が広がっており、周辺一帯に湿地帯が広がっていて
通行は不可能です。この沼地を上手に縄張りに活用していて
東の城域の尾根上の郭には南側にしか土塁がありません。
西の主郭エリアはこの城で最も見ごたえのある部分ですが、それは
後の口コミで紹介します。
大手口は西側にありますが、その北側に長大な堀切があり、残念岩もあります。
その北側にまた堀切があり、さらにその北側には石垣を備えた居館跡が二つあります。
主郭の北西側に物見と見られる郭が存在し、主郭の北西部を防御しています。
比高こそ高くありませんが、防御に置いて死角のない非常に技巧的な城で
沼地や巨石など自然地形も上手に活用しています。

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ぴーかる

北方城・北方陣屋 (2023/07/15 訪問)

【北方城】【北方陣屋】
<駐車場他>駐車場はなし。大井神社前に駐車がなければ2台分はいける。
<交通手段>車

<感想>日帰り濃尾平野ちょこ城巡りの旅第1弾、3城目。北方城は明応年間(1492~1501年)に伊賀太郎衛門光就が築城したとされます。曽孫の伊賀守就の時に安藤氏を名乗り安藤守就を名乗ります。安藤守就は主君を土岐頼芸⇒斎藤道三⇒斎藤義龍・龍興⇒織田信長と変えていきますが武田勝頼に内通したとして追放されます。北方城はその後稲葉一鉄の預かりとなりますが、本能寺の変後に挙兵して北方城を奪取し再起を試みますが稲葉一鉄に攻め込まれ自害します。城もその後廃城となったようです。
 
 北方陣屋は1668年に北方城の一部跡地に美濃国加納藩主松平光重の三男戸田光直に5000石で分知された旗本の陣屋です。現地には現存建物がほぼ残っていないようなのですが各所に移築門があるそうです。
 城跡も陣屋跡もほぼ遺構は残っていませんが、大井神社から南北に流れる天王川が北方城の西の堀跡、北方陣屋中心を流れる川であったかのようです。名残を感じさせます。

<満足度>◆◇◇

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