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チェブ

葵とコアラ。 (2023/02/04 訪問)

第一次国府台合戦で北条方が布陣した「松戸城」。
「葛西城」から国道6号を通り、到着した「松戸城」は『戸定ヶ丘歴史公園』がお城跡のようです。

『いざっ』と攻め込むよりも、『お邪魔いたします』と、おごそかな雰囲気でした。
『戸定邸』があり、15代将軍 徳川 慶喜さんの弟 昭武さんが建てたそうです。
昭武さんは水戸藩主でもあります。
2021年の大河ドラマ『晴天を衝け』では、パリでの昭武さんの 日本を背負った立ち振舞い、感動しました。
『戸定邸』から富士山が見え、徳川の世が終わった後に昭武さんは、どのような気持ちで眺めていたのでしょう?
国道 6号は水戸街道(旧水戸街道も近くにあります。)で、実家にも続く道。なぜか、暗い気持ちになりました。
たぶん、ドラマ内で昭武さんが『日本に帰るのが怖い』みたいなセリフが印象的だったからかもしれないです。
あれ、「松戸城」は?
庭園をぐるっと回り、郭だったかも。
と、きれいなお庭に乏しい想像力です。

考え込むばかりで、写真を写してない事に気が付き屋根の『葵の紋』を写しました。(暗くて写ってませんが、、、)
『小さい頃、水戸黄門で葵の紋を知ったんだよな』と、また考えが昭武さん寄りに。
因みに、昭武さん役の方、『どうする家康』では、井伊 直政さん役です。

帰りの駐車場近くで『コアラのマンホール』を見つけました。なぜ?

幕末から明治時代と、オーストラリアの事が気になってしまった「松戸城」攻めでした。

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小城小次郎

谷全体には何が埋もれているのだろう (2022/11/12 訪問)

筑紫氏「三代」(満門、惟門、広門かなあ)が居住したと伝わる館。谷の最奥部にある居館と家臣団屋敷を勝尾城と砦群がぐるっと取り囲む光景は壮観で、もしかしたら一乗谷みたいなものが谷全体に埋まっているのかもしれない。

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三浦の晃ちゃん

花がきれい (2023/03/18 訪問)

いろいろな花とお城を一緒に撮ってみました。(椿、桜、雪柳など]

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三浦の晃ちゃん

展示は渡辺崋山 (2023/03/18 訪問)

展示は、家老だった渡辺崋山のものがほとんどでした。立派な人だったことを感じました。

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にのまる

松潤だらけの二日間 (2023/02/23 訪問)

連休を利用して大阪方面に行く予定でしたが雨予報のためぎりぎり大丈夫そうな浜松に行ってきました。
最初は二俣城&鳥羽山城です。
掛川から天竜浜名湖線を利用。松潤ラッピング車両には乗れませんでしたがなかなか斬新な面白い車両でした。
二俣城へ行くには二俣本町の方が近そうでしたがコンビニに寄りたかったためひとつ前の天竜二俣で下車。駅自体が観光名所のような雰囲気でした。案内所で資料と「どうする家康」のパンフレットをいただいて、ファミマで兵糧調達、徒歩で城址に向かいました。
旭ヶ丘神社の石段から登城しましたが、いきなり天竜川までずどーんと落ちる竪堀に迎えられ、よき日になりそうな予感がしてきます。
喰違いの北虎口から入ると土塁に囲まれた方形の本丸。天守台が気になりますが直行せずに大手口にまわり、改めて入りなおしました。大手門石垣の左右の違いが印象的でした。
野面積みの天守台はこの城の象徴的な遺構でとても個性的なのですが、風景と一体となり、なりをひそめているようにも見えました。
神社のある北曲輪から駐車場の方まで下りて縄張りの大きさを体感し、戻って二の丸をじっくり歩き石垣観察。かなり崩れていますがまだまだがんばっている子たちもいます。稲荷神社の土塁から蔵屋敷との間の堀切を眺め、導かれるままに坂を下っていくと西曲輪を経て天竜川まで出てしまいました。しかしまだ蔵屋敷や南曲輪を見ていません。再度登って二の丸に戻りました。まあまあ無駄な動きですが、無計画に効率悪く歩くのも嫌いではありません。
蔵屋敷は整地されたばかりのようでとても見やすかったです。奥の土塁内側の石垣もいい感じでした。南曲輪は藪っぽかったので一度は引き下がったのですが、後々悔いが残りそうなので引き返して突入してみました。なかなかの倒竹ぶりでしたがみなさま方の残された踏み跡がしっかりとありましたので堀切を越え一歩踏み込んで来られました。その先はもう一歩も無理でしたが、こんな風に手つかずで残っている部分があるのも面白味があってよかったです。
西の郭には滑り台がありました。現地案内板にはポニーや砂場の表記もあったのでこの一画は児童遊園のような整備がされていたのかもしれません。滑り台の奥には何かあった気配がたちこめていましたがとても素人が踏み込める雰囲気ではありませんでした。少し下ると四阿のある水の手曲輪。本丸天守台裏からも天竜川を覗き込めましたが、このあたりに井楼を組んでいたのかと思うと城のリアルがぐっと感じられます。「どうする家康」に合わせて読みすすめている本(写真⑩)に川の流路が変わっていることや水の手が複数あったことなど興味深いことが書かれていたので、時間をかけてじっくり学んでいきたいです。
カズサンさんのご投稿を拝読するともっともっとたくさんの見どころがあるようで興味は尽きませんが、ベストなタイミングで行くことはなかなか難しいのでお写真で楽しませていただいています。これからもよろしくお願いいたします。
→鳥羽山城に続く

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赤い城

登城山城 茨城県龍ケ崎市 (2023/03/04 訪問)

満願寺の周辺が城跡です。
お寺の入口がすでに堀切でここも曲輪の跡であることがわかります。
お寺の奥にも堀切があり、その先に二郭、主郭と続きます。
主郭と二郭の間には綺麗な堀があり、これまた綺麗な土橋がかかります。
お寺の方が整備されているのだと思います。
尼広さもなく単純な形の城ですが遺構が良好に残る良い城でした。
ただしここまでの道は狭く、注意が必要です。

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肉球

本丸北門 (2023/03/17 訪問)

久しぶりに川越城御殿に寄ってみました。
御殿前が整備され駐車場が少し狭くなり
本丸北門跡と土塁が復元されていました。
大部分が市街地と化していますので
出来る範囲での復元GOODです。
 

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但馬 山名氏を支える国人の城を巡る (2023/03/05 訪問)

但馬 山名氏を支える国人の城を巡るシリーズの最後に八木城を持ってきました。頭抜けています。とは言いつつ、八木氏は、織田軍に滅ぼされて、配下の別所氏らが改修したものですが。
城びと先人が書いておられるように、奥の八木土城もとてもよいです。麓の説明板に、「土城への登山道はありません」と書かれてますが、くぬぎの落葉が深く積もって急斜面の下りがちと滑りがちなくらいで、問題ありません。
城びと先人が未投稿の説明板があったので写真をアップしました。先に投稿した朝倉城は、八木の谷の入り口にあり、八木城の支城として、機能していたと説明板にありました。八木城から朝倉城が見えます。

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肉球

大久保陣屋・福島県須賀川市 (2023/02/18 訪問)

本多政利が一万石を領して築かれた陣屋があった様ですが
遺構はない様です。
本多政利は本多忠勝系の宗家を継げなかった腹いせに宗家を毒殺したとも言われているようで
粗暴なところがあった人物の様です。その後改易され10年程しか存在しなかった陣屋のようです。

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肉球

横田陣屋・福島県須賀川市 (2023/02/18 訪問)

越後新発田藩溝口氏の分家筋が越後切梅陣屋から移り
この地で五千石を領して陣屋を構え明治を迎えた。
跡地は個人宅になっていますが
敷地内にある横田陣屋御殿桜が毎年この地域で
一番先に咲くと言われているようです。

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赤い城

貝原塚城 茨城県龍ケ崎市 (2023/03/04 訪問)

城友さんにお誘い頂き、常陸土岐氏の城を廻りました。
金剛院というお寺周辺が城跡で登城口は墓地の奥の道を進んだところ、あります。
土塁と堀底道があり、ここから侵入。
結構な竹藪です。
少し進むと三叉路になっていて右手に進むと折れがあり、さらに進むと湿地帯に出ました。
引き返し、元の堀底道をさらに進みます。
倒竹をボキボキと踏み折りながら進みます。
折れのところから二重の堀底道となっていました。
土塁の部分には櫓台が置かれています。
堀は二条ともにかなりの深さがあります。
さらに先も折れていてここも二重の堀になっています。
この先は平地でおそらく畑として使われていたと思われます。
東側にも竪堀状の遺構が残っています。
かなりの広さがある城で堀底道が迷路のように展開されていました。
造りかけで破棄されたとの説もありますが土木量も半端なく素晴らしい城でした。
また金剛院の東側には弓塚と呼ばれる巨大な土塁が残っていました。
流鏑馬の練習に使われていたとのこと。
こちらも半端ない高さでした。
全く整備も無く、一人では行きにくい城ですがお勧めのマイナー城でした。

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ぴーかる

赤穴瀬戸山城 (2023/02/25 訪問)

【赤穴瀬戸山城】
<駐車場他>道の駅赤来高原に駐車しました。道の駅に城跡のパンフレットが置いてありますのでここの駐車が良いかと思います。
<交通手段>車

<見所>石垣・虎口・曲輪・堀切
<感想>1泊2日尼子十旗攻城の旅1城目。第四の城、赤穴城は1377年に地頭に任命された赤穴氏によって築城されました。戦国時代には尼子氏に従属します。1562年、毛利元就の第二次月山富田城の進攻時に赤穴城は毛利軍の攻撃を受け、赤穴氏は所領安堵を条件に毛利氏に帰属します。関ヶ原後赤穴氏は毛利家移封に従い、堀尾吉晴家臣の松田左近将監吉久が入封します。現在城跡に残る石垣は松田左近が改修した名残です。松田左近の墓地が麓の<34.996657, 132.719877>にあります。赤穴城は一国一城令により破却されました。
 赤穴瀬戸山城跡登城口より登城しました。山頂までは1000mあります。途中の遺構に堀切が1か所あります。登山道の終点は大手門跡に着きますので、登山道は松田吉久が改修した当時の大手道だったかもしれません。城跡は派生する尾根尾根に曲輪を設けています。現地縄張り図の大手門跡・主郭・3郭の曲輪壁には破却されたとはいえ多くの石垣が残されています。4郭5郭には石段、7郭から南に伸びる連郭の曲輪壁にも崩れた石垣跡が見られます。派生する連郭の尾根先には堀切で仕切っています。破却時に石垣が崩したらしいのですが今でも良くその名残を留め興奮する見応えでした。城跡内もよく整備されています。

<満足度>◆◆◆

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シェル

梅香る復活した白石城 (2023/03/08 訪問)

国府多賀城駅からJR東北本線を南下し、白石駅で下車
白石駅から県道108号を進み、城の麓の駐車場から「城来路(シロクロード)」を通り、二ノ丸大手二ノ門跡から登城。
本丸に向かう途中に本丸外郭石垣が少し顔を出して残っています。
2022年3月の地震の影響が心配されていましたが、天守や櫓門などの修復は完了しており、訪問した日は梅の花の時期と重なり、とても美しかったです!!
スタンプは、天守内で押印。受付の方が、入場券を確認する際にスタンプの場所を案内してくれました!!

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朝田 辰兵衛

天竺への道のり。 (2023/02/26 訪問)

「天竺への道のりは,まったく険しいモノではありませんでした」
ここで幼少期を過ごしていると,夏休みの自由研究でこのようなコトをやっちゃいそうです…<笑>。
一日もかけないで自由研究終わり。あとはスキなことをして過ごすという…。
さすがに天竺。眺望は良かったです。『天竺への階段』も無事に昇降できました。
3mに見える標柱は,すでにリニューアルされてました。

そうそう,にのまるさんもコメントしていましたが,この城はしりとりには最悪の手札です。
「あ」で始まり「る」で終わるだと~!
次期名城にならないことを祈ります。

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todo94

雨中の朝駆け④ (2023/02/19 訪問)

三津寺砦までは傘がいらない程度の小降りでしたが、遂に本降りとなってきてしまい、傘の出番となります。神社の整備工事完了まではもう少しかかりそうでした。折角なので近くの豊臣氏大阪城内武家屋敷跡もチェックしてきました。16時間断食を実行して京阪天満橋駅にてブランチを摂り、献血の予約を入れてある森ノ宮へと向かいました。

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赤沢氏の城 (2023/03/16 訪問)

 小笠原氏の一門である赤沢氏が築いたとされる城で、交通の要衝である稲倉峠近くにあります。
入口にある「稲倉城址遊歩道図」を見るとわかりますが、本郭が尾根の鞍部にあり周囲の郭より低い位置にあります。堀切や竪堀が残っていて見ごたえがあります。堀切には一の空堀、二の空堀、三の空堀と標識もありました。一の空堀を二重堀となっています。尾根を少し上がってみましたが、堀切の跡かなと思われる所もありました。コンパクトですが楽しく散策できます。

登城路は2つあり、出発点から道なりに行くと本郭と二の郭の間に出る経路と出発点からすぐに右へ登り三の郭に出る経路があります。三の郭への経路を行きたかったのですが、下調べ不足でよくわからず前者の経路を行きました。しかも途中で道がよくわからなくなり尾根へほぼ直登しました。途中、石積みがありました。後世の畑ではないかと思いますが、畑にしては石積みのある場所が不規則で、石積みも武骨な感じで今まで見た畑の石積みとは少し違う気もしました。林道入口に御屋敷館跡の石碑と案内板はありますが、「余湖くんのホームページ」でも居館の跡ではないかと書かれていました。尾根に出れば方向さえ間違わなければ、すぐに城域へは行くことができます。帰りは三の郭より下山しましたが、ロープが張ってありわかりやすかったのですが、登城口付近になると、それもなくなります。登り口さえわかれば三の郭方面より登城した方が城域の散策は容易だと思います。

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トク

㉙【関ケ原の26人】(14)池田輝政 (姫路城天守から見えた輝政の野望) (2023/02/11 訪問)

(14人目)池田輝政「姫路城」の続きです。

家康から西国を牽制する城の築城を命じられたとはいえ、なぜ輝政はここまでの大天守を持つ大城郭を築いたのでしょうか? 城内を見学してもその手掛かりは見出せませんでした。そこで私は姫路城の天守最上階に立ち、築城開始1601年当時の輝政の気持ちになって空想してみました。西側を眺めた時(あれ😯?)ある事に気づきました! 池田輝政はある人物の生き方にとても似てませんか?

徳川家康は豊臣秀吉の妹を正室に迎え五大老筆頭となり力をつけ、その裏で不満を持つ諸将を味方につけ、そしてその間に壮大な渦格式の江戸城を築き、自分より年上である秀吉の死を待って天下取り(関ケ原)へ動きました。もしかして輝政も同じ事を考えていたのではないでしょうか?

(ここから先は私(トク)の空想の世界です)
自分は家康様よりまだ22才若い。そしてこの姫路より西国には、表向きは徳川に従ったとはいえ密かに不満を持つ大名(毛利輝元、黒田官兵衛、加藤清正、島津義久)らの総勢20万の軍勢がまだ無傷で残っている。家康の娘の督姫を正室に迎え縁者となりその下で手柄を立てここまで大きくなれた。そして同じく渦格式で壮大な姫路城を築き始める事もできた。もうすぐ家康様は死ぬであろう。これまで家康様には従ったが秀忠に従う気は全くない。これからは逆にこれら西国の諸将と手を組み、完成した姫路城の大天守から豊臣秀頼様を奉じて天下に号令をかけ、秀忠を討ち父兄の仇である徳川家を滅ぼす。そしてこの私が家康様に代わって天下人となり征夷大将軍に・・・(とは考えすぎでしょうか?)

しかし結局、1613年に輝政は家康より早くまだ50才の若さで突然この世を去ってしまいます(脳卒中とも)。輝政の野望はついに実現する事はありませんでした。清正に続き輝政の突然の死に、大坂方(豊臣秀頼)には衝撃が走ったようです。大坂の陣が始まる2年前の出来事でした。

これに気づいた徳川秀忠は、大坂の陣(豊臣滅亡)翌年の1616年に父の家康が亡くなると(享年75)、輝政の跡を継いだ池田光政がまだ幼く物言えぬのをいいことに、今度は姫路を召し上げ池田家を岡山と鳥取と洲本に分散、そして中心の姫路には楔(くさび)の役として重臣の本多忠政(四天王であった忠勝の子)を桑名より入れました。これは池田が豊臣や毛利に取って代わる存在にならぬよう姫路から忠政に監視させたものと思われます。その後、本多、松平、酒井氏などから城には装飾が施され、姫路城は戦う城から魅せる城へと変貌して行ったのではないでしょうか。

そう考えると私はこれまでの全ての疑問が解決しスッキリしました!
専門家の方々には大変失礼な内容ですいませんでした。

以上、トクの自分勝手な空想物語でした~😊

次は、(15人目)に続きます。

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小荷駄

後藤館跡と徳昌寺 (2023/03/06 訪問)

近江鉄道大学前駅から徒歩45分程でした。駐車場とトイレは有りませんでした。散策をしていた時に地元の方に徳昌寺にも土塁や堀跡などがあると聞いたので少し調べてから東に徒歩10分程の徳昌寺に向かいました。お寺さんに許可を頂いて散策して来ました。快く見学させて頂いた徳昌寺様ありがとうございます。また教えて頂いた方にも感謝致します。

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todo94

雨中の朝駆け③ (2023/02/19 訪問)

此処の写真もピンボケでした。奇天烈な三津寺の本堂が竣工した後に再訪したいと思います。

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赤い城

深い堀と馬出 (2023/02/26 訪問)

この日は相方リクエストで袋井市の可睡斎ひな祭りへ。
家康縁の寺で、人形供養で集まった雛人形が並んでいて、それは圧巻。
毎年並びも変わるそうです。
テレビでも紹介されているようです。
で、お昼にさわやかのハンバーグを頂いたあと登城しました。
ビジターセンターでスタンプを押し、パンフレットを片手に足早に登城しました。
外堀は深く長い。
降りたい衝動に駆られながら自重。
草も刈られて綺麗に整備されていました。
定番の二の丸中馬出しの先には復元された北馬出の門があります。
広い二の曲輪を外堀沿いに戻り、二の曲輪南馬出、東馬出を見学します。
土橋も綺麗に残ります。
主郭方面に進むとカンカン井戸、内堀の中にあります。
ここは堀底から切岸を見ることができます。
本曲輪には説明板があり、土塁も残っています。
下を見下ろすと空堀も、時間の関係で降りませんでした。
武田のテイストもよく残る素敵な城でした。

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