芥川山城の続100名城スタンプ置き場となっているしろあと歴史館は高槻城内といってよい場所に立地しているので、スタンプゲットとともに訪れることになってしまいます。二の丸に当たる芸術文化劇場の堀や石垣、説明板もしっかりと拝見させていただきました。そして高槻城に来ると必ず立ち寄るのがカトリック高槻教会。ここの高山右近像は小学6年生の時の愛読書、学研の図鑑に掲載されていたのでお気に入りなのです。
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2023/06/15 07:13
スタンプとセット (2023/04/30 訪問)
芥川山城の続100名城スタンプ置き場となっているしろあと歴史館は高槻城内といってよい場所に立地しているので、スタンプゲットとともに訪れることになってしまいます。二の丸に当たる芸術文化劇場の堀や石垣、説明板もしっかりと拝見させていただきました。そして高槻城に来ると必ず立ち寄るのがカトリック高槻教会。ここの高山右近像は小学6年生の時の愛読書、学研の図鑑に掲載されていたのでお気に入りなのです。
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2023/06/14 23:43
南北朝鵜殿氏奮闘の城。小粒でもあなどるなかれ。 (2023/03/19 訪問)
麓に立派な遊具を備えた公園のある丘の上に鵜殿城は築かれています。
坂をえっちらおっちら上っているうちに簡単に主郭にたどり着きます。
というか主郭しかありません。シンプルすぎる…
でも周囲には土塁がしっかりとめぐらされているし、堀切もあります。
かつて南朝側だった鵜殿氏が北朝側に鞍替えしたさい周囲の南朝側の武将たちが
一気に押し寄せてきたそうですが、鵜殿氏はこの城にこもって4日4晩持ちこたえて
ついには南朝の軍勢を追い返したそうです。
この城でですか… 鵜殿氏すげー。
その鵜殿氏も大阪の陣で大坂方として参戦し、ついには帰ってこなかったそうです。
戦の世の悲哀ですね。
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2023/06/14 23:23
築上名人藤堂高虎の最初期の総石垣の城。良く見ると積み方がテキトー… (2023/03/19 訪問)
天正17年(1589)藤堂高虎によって一揆を封じ込めるために築かれた城と伝わります。
総石垣造りの城で藤堂高虎にとっては最初期の城だと思うのですが
良く見ると石の積み方がテキトーなんですよ。
なんか荒削りなかんじで、隅部は本来算木積なんだけど、ただ積んであるだけだったりするし
山奥でとくに誰に見られるわけでもないし…といったわけではないのかもしれないけど
崩れなきゃいいや(実際は崩れたのかもしれないが)といった積み方です。
そのくせ少し遠目にはえらく立派に見えるんですよ。
このあたりの一揆衆を威圧するにはこれで十分だったということですね。
この経験が後の伊賀上野や津城に生かされてくると思えば感慨もひとしおでしょうか。
地元では桜の名所です。石垣の城に桜。花見には最高でしょうな。
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2023/06/14 22:55
堀の中に住んでいるから堀内氏。そのまんまじゃない。 (2023/03/19 訪問)
金龍寺と周辺は戦国時代から近世初頭にかけて奥熊野地方を支配した堀内氏の屋敷跡であった。(現地案内板)
周囲五町(約550m)、四方に堀があったと記されている。
そのまんま堀内氏ということですね。
西方と北方に一部、小川が残っているそうです。
お寺が屋敷跡だと、けっこうイメージがつかみやすいかも。
山門なんか屋敷門そのまんまですからね。
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2023/06/14 22:20
地味だけどなかなかジワる松平発祥の城。 (2014/03/15 訪問)
松平氏始祖の親氏の築城と伝わる、まさに松平氏始まりの城です。
縄張りはそれほど複雑ではなく、2の郭から主郭へ、2の郭から西へむかう道をゆけば3の郭にたどり着きます。
ふもとから4の郭に向かっていくと櫓台跡と思われる遺構が残っています。
それほど大規模ではありませんが築城当時からすれば必要十分な設備を備えていたと言えるでしょう。
城の説明がある石碑には市指定史跡とありますが今では立派な国の史跡です。
松平氏発祥の城というわけですから、当然といえば当然でしょうか。
一見地味ですが、なかなかじわじわ来る城です。
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2023/06/14 21:57
槍半蔵。渡辺守綱由緒の城。 (2014/03/15 訪問)
守綱神社の北側にある公園が城跡で西側にある川辺に対して台地状になっており
西側には土塁が残っているようです。
公園内にはいくつか建物の基礎部分のようなものが残っており
いつの時代ものかわかりませんが槍半蔵こと渡辺守綱が入城したあとに築かれたものかもしれません。
あの槍半蔵の子孫が尾張藩付家老として明治まで代々この地を治めていたのですね。
写真は2014年に最初に訪問した時のものですが、数年前にもまたここを訪れており
写真がでてきたらいくつか追加してみようと思います。
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2023/06/14 21:41
長沢松平氏のちょっと良さげな城 (2014/03/15 訪問)
古瀬間城は現在、浄願寺の背後の丘 古瀬間城址公園として整備されています。
主郭の北側に腰郭を配し、城の周囲にも帯状の郭を配しています。
主郭には展望台があり眺望もなかなかのものです。
成願寺から城跡に至る道の途中には松平宗忠公の墓があります。
この宗忠さん松平家三代、信光より別れた長沢松平家の方で古瀬間城を
築城された方でもあります。
現在は豊田市が公園として管理しており、見張櫓(展望所)もその際に
建造されたものらしいです。
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2023/06/14 21:18
走った。疲れた。でも行ってよかった。 (2023/04/22 訪問)
月山富田城を約3時間でひとまわりして麓の安来市歴史資料館へ。
スタンプを押して時計を見ると11:40。
米子城まで200円で連れて行ってくれる神バス✨イエローバスの発車時刻は12:20。
40 分あれば楽勝で新宮党館まで行って戻ってこられるわ~♬と、資料館の職員さんに「行ってきます('ω')ノ」をしたら「ちょっと厳しいんじゃないの?」と……。
慌ててGoogleさんに所要時間を聞くと、16 分かかる(約1.4 ㎞)との返答。
初めて行く場所。すんなり到着できるかどうかもわからない。
なぜ楽勝だと思ったんだろう……💦
しかし、悩んでいても無駄に時間が過ぎるだけ。
職員さんに目印などを聞いて「着いても着かなくても12:00には引き返す」という約束(?)をして出発!
早歩き~走る~早歩き~走る~
遠征のたびに一度はこれやってるなと思いつつ、しかしこれができるのは幸せなことなんだという気持ちもあり、ゴールを目指します。
ただ近くにある尼子家代々奥都城、毛利元秋墓、山中鹿介幸盛屋敷跡(生誕地)、塩冶掃部介墓所、堀尾忠氏墓所を悉くスルーするのがかなり残念でした。
11:53に現地到着。
新宮党は、主君である尼子晴久によって滅ぼされた尼子国久の一族衆(説明板より)。太夫神社、国久・誠久・敬久の墓、そして館跡を見学しました。発掘調査で礎石建物跡や溝跡などのほか、中国産の陶磁器や将棋の駒なども見つかっているそうです。ここで楽しく賑やかに暮らした日々もあったんだろうな……。
土塁に囲まれた方形の館跡は丁寧にお手入れされ、地元の方にとって“尼子ロマンの里”は大切な史跡なのだなということを感じました。走ってよかった……。
12:00になったので後ろ髪を引かれつつ資料館(バス停)に戻ります。
12:12に資料館に着いて、職員さんに、ただいま(‘ω’)ノのご報告。
バスの発車時刻まで8分あったので、展示をもう一度見て、おみやげの幟旗と安来山城ガイドマップを購入しました。
とてもあたたかい職員さん方に見送っていただきながら、イエローバスで次の目的地、米子城へ向かいました。
ぴーかるさん大阪府コンプのとっておきの1城ってどこだろう?
山城は既に制覇されていると仰っていたから市街地?
まさかの大阪城……なわけないしな🤔
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2023/06/14 21:05
やはり榊原康政。大河の康政回で紹介してほしいけど。 (2014/03/15 訪問)
上野上村城は2014年に訪問しています。
城内に榊原康政誕生の地の石碑が二つも立っています。
かつて康正はここの城主、酒井将監忠尚に仕えていて
その後、徳川家康に小姓として仕えたようです。
城跡には高所に社が鎮座しています。周囲に土塁も残っているようですね。
古いデータは結構消滅したり破損したりしてしまったものも
幾分かあるので、またデータ撮りにかつて廻った城跡を回ってみる必要があるのかもしれません。
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2023/06/14 20:54
柿田川を観に行ったついでに
ほぼ公園として整備されていて、遺構のようなものは確認できなかったのですが、帰って他の方の投稿を観たら少しあった?ようで、またリベンジしたいです。
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2023/06/14 20:30
南北朝の遺跡。小ぶりな城だが居館とセットで訪問。 (2023/03/21 訪問)
五ケ所城はこの地方の豪族、愛洲氏の城です。
愛洲氏は南北朝のころは南朝側として戦いました。
天正4年(1576)この地方に勢力を伸ばしてきた織田信長の次男
織田(北畠)信雄に攻められ愛洲氏は滅亡します。
戦国の悲哀をかんじさせるエピソードですが、
城跡は城跡周辺が愛洲の里公園となっており
主郭の北西に見張り台が突き出ており、周囲を堀で囲みます。
どうやら主郭のまわりには一部石垣のようなものが残っているようです。
南側にはいくつか大小の郭を配し、小規模ながらも城郭としての形態をとどめています。
さらに南側にいくと居館跡があり、南側に今でも一部堀跡が残ります。
さらに南に道沿いに進み、道標に従っていくと塔頭が並んでいる、小高い場所に到達します。
これがまたいっぱいあるんですね。二十数基はあるようです。
いまでも地元の方が初盆に霊の供養に先立ち念仏をされているようです。
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2023/06/14 19:54
斎宮跡のすぐ近くにある地味な城跡。(失礼) (2023/03/21 訪問)
斎宮城はかつての斎宮のすぐ近く式内社竹神社の境内とその周辺地と考えられます。
案内板によりますと
室町時代斎宮の住人野呂三郎がここに城砦を築き勝手に徳政を敷き狼藉を働いた。
国司北畠材親(きちか)は之を討伐した
…とあります。
徳政を敷き狼藉を働いた…とはなんぞや?
悪政の間違いではないでしょうか。徳政を敷いて成敗されたらたまったもんじゃありませんわ。
ここまで来たら斎宮の史跡を回らない手はありません。
斎宮歴史博物館にはなかなか興味深い展示がありますよ。
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2023/06/14 19:48
加賀野井城 (2023/05/03 訪問)
【加賀野井城】
<駐車場他>駐車場はなし。<35.292498, 136.717188>ポイントが少し道が広い。
<交通手段>車
<感想>日帰り木曾三川ちょこ城南下の旅1城目。現地説明板によると加賀野井城は築城年代は定かではないが天正年間(1573~1591年)には加賀野井弥八郎秀望(加賀井重望)が城主となっていました。加賀井氏ははじめ織田信長に仕え、その後は織田信雄の麾下となりそのまま加賀野井郷の知行をあてがわれていました。小牧長久手の戦いにおいて信雄側だったので秀吉軍の攻撃を受けて落城します。この後城は廃城となったようです。加賀井重望の方は城を脱出して関東へ逃れたようですが秀吉に使番として召し出され8千石の知行をあてがわれています。関ヶ原の戦いでは加賀井重望は東軍として西上途中の三河での宴席で水野忠重を殺害し西軍方の大垣城へ逃げ込む。逃げ込んだ大垣城落城の際に子の水野勝成に処刑されます。
城跡の遺構は消滅し説明板が残されているのみです。木曽川がすぐそばにあり、城は木曽川の中程にあったのではないかとされています。
<満足度>◆◇◇
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2023/06/14 19:34
かつては織田信雄の城。総石垣の広大な本丸は花見の会場に。 (2023/03/21 訪問)
田丸城はもともとは北畠氏の庶流、田丸直昌の城だったのですが、
織田信長に従うこととなり、織田信雄に城をあけ渡し、その傘下に入りました。
その後、信雄は松ヶ島城に移り、また時が流れて
天正12年(1584)新たに松ヶ島城の城主となった蒲生氏郷の支配下にはいります。
その後またいろいろあって、江戸時代には紀州徳川家の所領となり
田丸領6万石には紀州徳川家家老、久野氏が城代を置いて明治時代に至ります。
久野氏というと静岡県袋井市の久野城の主ですね。
久野宗茂の時代、駿府藩主徳川頼宣が紀州に転封になったときに
いっしょにくっついてきたんですね。
城跡は玉城中学校の背後の丘地に築かれています。
城全体が見事な石垣で囲われ、丘地の中央の最高所が本丸で十分な広さを持っています。
北には北之丸、本丸に引けを取らない広さです。
南は二之丸。今は中学校になっているエリアもかつては郭を形成していたようです。
天守は中がくりぬかれた独特の構造をしています。
石垣の周囲に柱を建て、天守を建造し石垣の内部も有効に活用していたのではないでしょうか。
この時は桜のつぼみはまだ固かったのですが、花見の会場にもなるようで
本丸の広さを十分に発揮できそうです。これは地元の方の特権ですね。
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2023/06/14 12:54
秋田城探訪 (2023/06/07 訪問)
秋田県のお城探訪にて、秋田城跡を訪問しました。
秋田駅西口よりバスに乗車して、バス停「秋田城跡歴史資料館前」にて降車しました。乗車時間は18分です。
(バスはデイタイムに30分毎にありますので、アクセスには便利です)
まず、秋田城跡歴史資料館を見学しましたが、数々の出土遺物から、確かにその当時の多くの人の営みを感じました。
城跡は、一部は復元建物はありますが、奈良時代からの古代遺跡です。AR・VR(2022年4月にスタートのこと)の助けを借りながら、当時の姿を体感できると思います。
テレビ番組にて紹介があった古代水洗トイレは、見どころの一つでしょう。残留沈殿物の調査から、大陸からの訪問者があった可能性があるとのこと。ロマンを感じますね。
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2023/06/14 07:58
中世と近世(山上御殿~北西尾根) (2023/04/09 訪問)
(続き)
主郭から山上御殿に向かうべく南端から下りて行くと、南斜面に大きな竪堀が落ちていました。山上御殿の南麓にも数条の大きな竪堀が見られ、南西尾根に続く尾根道は土橋を設けた堀切(竪堀)で遮断しています。
堀切で引き返して山上御殿へ。山上御殿は南辺を櫓台状の土塁で囲み、発掘調査では礎石建物や瓦、陶磁器などが確認されています。また、樹木で視界は限られるものの小浜湾を見渡すことができ、深みのある海の色が印象的でした(添付の写真はピンボケ気味ですが…)。
山上御殿から北西尾根に下りて行くと、数段の小曲輪を経て西側に巨大な竪堀が落ち、その先には西辺に土塁をめぐらせた曲輪がありました。北下には数段の帯曲輪が見られますが、土塁の下方(西麓)には畝状空堀群があるようなので、少し戻って竪堀を下りてみると……おお!! 杉の落葉にずいぶん覆われてはいますが、十数条に及ぶ畝状空堀群が広がっていました。さらに北麓に向かっては四条の巨大な竪堀が落ち込んでいます。こりゃすげえ…。
…といったところで、主な見どころはひとめぐりしましたが、主郭からはずいぶん下りてきているので、来た道を戻るのが億劫になって、竪堀東側の高低差のある数段の曲輪群を下りて行くことにしました。北西尾根はかつての大手道とされ、下りて行けば居館跡(空印寺)にたどり着けるはず……と思ったんですが、後瀬山と空印寺との間にはJR小浜線が走っており、落石または動物よけとして高さ3mはありそうな壁で隔てられていて、とても越えられそうにありません。横断できそうなポイントも見当たらず、泣く泣く急斜面を登って主郭まで戻り、来た道を下山しました。先日も越智城で似たようなことをやらかしていますが、その3倍ほど大変でした。いい加減学習しろよ…。
ともあれ、尾根部の中世山城の遺構(堀切や竪堀)と、主郭部の近世城郭の遺構(石垣)を共に堪能できる見応えのある城でした。中でも北西尾根の畝状空堀群はなかなかのものですので、時間と体力・気力のある方はこちらにも足をのばしてみて下さい。
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2023/06/14 07:12
2巡目の続日本100名城のスタンプラリー65城目 (2023/04/30 訪問)
待望の芥川城の城址碑を確認し、これも待望の芥川山城に繰り出しました。続100名城選定前に攻城済みでしたが、最初のスタンプラリーの時は災害復旧が完了しておらず攻城を断念していたので、これが2度目の攻城です。雨はすっかり上がっていたとはいえ、登城路のいたるところに湧き出た水が流れており、靴はずぶぬれとなってしまいました。最初の時はスルーしていた大手石垣を確認できたのは最大の収穫でした。芥川城と名を改めたリーフレット、ありがたく戴いてまいりました。
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2023/06/14 00:47
城を見て良し、城から見て良し。ビジュアル優等生の城。 (2021/11/28 訪問)
苗木城は建武年間(1334~1337)に築かれた遠山氏の城です。
豊臣秀吉により川尻氏に与えられるのですが、関ヶ原の合戦跡に遠山氏が城主として返り咲き
明治維新まで遠山氏の城として存続しています。
主郭は山頂部の岩の上でかつては懸けづくりの居館が建っていました。
今は懸けづくりを生かして展望所が設けられています。
眺望は素晴らしいの一言。やはり最頂部からの景色がすばらしい城は印象が良いです。
木曽川と恵那山のながめがすばらしく、城からながめて良し、遠目から城をながめて良しと
非常にビジュアルに優れた城です。
遠山資料館にある復元CGがまた味があって良いです。
陳腐な表現ですが、まさにジブリの世界観です。
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2023/06/14 00:33
㊻ 伊達秀宗(宇和島市立「伊達博物館」) 奥州の伊達家がなぜ宇和島にもあるの? (2023/06/11 訪問)
藤堂高虎を追って宇和島城を訪れた後、城の南(宇和島東高校前)にある宇和島市立「伊達博物館」を訪れてきました。ここには宇和島伊達家ゆかりの品々が展示されています。ちょうど伊達秀宗に関する特別展示が行われていました。3度も人質(秀吉、三成、家康の時代)として過ごし、仙台を継げなかった苦労人としての秀宗の様子が詳しく解説されていました。
【余談】奥州の伊達家がなぜ宇和島にもあるの?
25年前の古い話で申し訳ないですが、私は奥州の伊達家がなぜ宇和島に存在するのか、当時はネットも無い時代だったので解らず、ずっと不思議に思っていました。その時、大河ドラマ「独眼竜政宗」(渡辺謙さん主演)の中で、政宗の正室の愛(めご:桜田淳子さん)の子「伊達忠宗」と側室の猫(飯坂の局:秋吉久美子さん)の子「伊達秀宗」の話がありました。正室の愛には最初なかなか男子ができず、側室の子の秀宗が跡継ぎとして大坂の豊臣秀吉の元に送られ(人質)養育されます。しかし関ケ原の翌年、愛に待望の男子が生まれます。本来は正室の子が後を継ぐべきであるので、1610年正室の子には徳川秀忠から1字をもらい忠宗と名乗らせます。しかし、先に生まれた兄の秀宗が1615年大坂の陣で活躍したため、やはり秀宗を跡継ぎにと押す声が上がり、このままでは後継問題で家中が二つに割れてしまうのを恐れた政宗が、駿府の家康(津川雅彦さん)に相談したところ、秀宗には高虎移封で空いた宇和島10万石を与える事で一件落着したようです。(そうだったのか~🤔)と思った記憶があり、政宗と宇和島に行く猫と秀宗との永遠の別れのシーンがとても印象的でした。家康は政宗に対し、関ケ原での100万石のお墨付きを反故にした事をずっと後ろめたく思っていたのでしょう。また政宗には秀忠の後見を託していたためそうしたのかもしれません。1615年大坂の陣の直後で家康が亡くなる1年前の事でした。
しかしこれはあくまでドラマでの話であり、どこまでが真実でどこが脚色された部分なのか私は伊達に詳しくないので実はよくわかりません(すいません)。博物館内の解説によると、宇和島に行った後の秀宗は、人質として苦労したあげくに仙台の伊達本家を継げなかったくやしさからか、仙台から連れてきた家臣を斬ったり貸付金を無駄使いしたりなどの乱行が目立ち、それを知った政宗は激怒し親子関係は険悪になって、このままでは伊達宇和島藩の存続すら危うくなったそうです。しかし、江戸へ参勤の折りに老中土井利勝の仲介で両者対面し、お互い腹を割って話し合い、それでわだかまりも解けたとか・・・(やっぱり親子ですね~😊)。 そして秀宗の子(宗利)が、徳川に恭順の意を示すため、宇和島城を狭間などのない層塔型で建て替え、幕末まで9代伊達宇和島藩は続いたようです。ちなみに、この伊達秀宗の正室は井伊直政の娘だったそうです。
次は、高虎の関ケ原後の居城「今治城」に続きます。
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2023/06/14 00:05
大河ドラマ「麒麟が来る」の主人公 明智光秀の奥さんの実家 (2021/11/28 訪問)
妻木城は妻木町を見下ろす標高409mの山頂に築かれています、
諸説あるのですが、最新の研究では戦国時代に築かれたとされています。
山頂の主郭は石垣によって南北に二段に分けられ、南の1郭は東側に、北の2郭は北に虎口を設けており
主郭部分は全体を見事な石垣で囲まれております。
さらに北に下ると3郭があり、このあたりからの眺望は素晴らしかったと記憶にあります。
1郭の南側には巨石群と土塁があり、この付近に特徴的な十字の矢穴の残った石があります。
このあたりは石切り場として機能していたのではないでしょうか。
大河ドラマ「麒麟が来る」の明智光秀の妻が妻木氏の人でしたので、
光秀の奥さんもこのあたりを遊び場にしていたかもしれません。
麓にはこれまた見事な石垣を備えた居館跡があります。
山上の城には車ですぐ近くまで行けるので、忘れずに見学していって欲しいです。
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