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ランフランコ

#24 寅臥城 (2022/11/12 訪問)

雲海に浮かぶ竹田城。まさに天空の城でした。

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ランフランコ

#23 桃山城 (2022/12/29 訪問)

立派は立派なんですが模擬天守なんでね・・・ ロケーションはとてもいいです。

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きんにく

犬山城 (2023/01/04 訪問)

犬山城

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きんにく

彦根城 (2023/01/03 訪問)

彦根城

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きんにく

小田原城 (2022/12/28 訪問)

小田原城

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うおれい

浄真寺 (2022/05/04 訪問)

明けましておめでとうございます。
昨年のGWの話になりますが、奥沢城跡を訪問しました。行きは自由が丘駅より歩き、帰りは九品仏駅まで歩きました。九品仏駅の方が近いうえ、道が分かりやすかったです。
現在は浄真寺という寺院になっており、境内に複数のお堂がありました。城跡であるからか、寺院にしては境内の起伏が激しいような気がしました。

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イオ

大物城(兵庫県尼崎市大物町) (2022/12/10 訪問)

大物城(尼崎古城とも・城びと未登録)は室町中期には記録が見られる城で、戦国中期には細川高国が細川晴元に敗れた大物くずれの舞台となり、織豊期には織田信長に反旗を翻した荒木村重が有岡城から逃げ込んだことでも知られます。大坂の陣の後、すぐ西に尼崎城が築かれたことにより廃城となったようです。

大物主神社から北にかけてが大物城跡とされますが、遺構はなく所在地も明らかではありません。ただ、大物主神社を西側の若宮公園から見ると一段高くなっており、推定地とされるのも頷ける気がします。大物主神社の境内には義経弁慶隠家跡の石碑が建てられていますが、これは源義経追討の院宣を受けて大物浦から船で西国に逃れようとした義経・弁慶主従が大物主神社付近に逗留したことによるもののようです。また、大物主神社から北に徒歩3分の大物交番の南脇には大物くづれ戦跡碑(と説明板)が建てられていますので、こちらもあわせてどうぞ。
 

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todo94

奈良の城めぐり② (2022/12/10 訪問)

辰市城跡にあった辰市幼稚園は、辰市こども園として移転統合しています。現在、辰市城にある建物は、別施設に転用されているようですが、園庭、遊具などには廃墟感が漂っていました。

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侍ホリタン

安芸の名城を訪ねて② (2023/01/04 訪問)

JR利用ですと広島駅と新白島駅利用になりますが、後者の方が徒歩で15分程度、駅を出てからまっすぐ南に進んで行くだけなので迷うこともなくおすすめです。天守閣からは原爆ドーム、宮島を眺めることができます。北側の石垣には刻印の有る石垣、福島正則公が壊したとされる石垣を見ることができます。西側石垣にも刻印の有る石垣があります。堀に突き出したようなニノ丸は、馬出しの機能を持っており堀に写る櫓群の水鏡は美しかったです。

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いんげん丸虫

高藤山城 柳沢城 (2022/12/31 訪問)

城びとさんでは高塔城とされてますが、現地の
表記は高藤山城(たかとうやま)。別名で柳沢
城とも呼ばれてます。
広い主郭には、町指定文化財としての看板や
古蹟碑がありますね。ほぼ中央部が堀で2分さ
れてます。南北に派生する尾根にも土塁を巡ら
せた曲輪や堀切、井戸跡など戦国期らしい遺構
が多くみられます。複雑な地形で遺構の判断が
難しい所も多いのですが、面白い城跡です。
主郭部までは整備されてますが、各尾根の堀切
等を見るには根っこにつかまり移動しないと行
けない場所もありますね。
入口に看板があり駐車可能です。

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ぴーかる

和気富士 (2022/12/04 訪問)

【北曽根城】
<駐車場他>和気町営和気駅前駐車場を利用(100円)
<交通手段>車

<見所>石垣・巨岩
<感想>1泊2日城びと美作・備前山城攻めの旅2日目5城目。朝一に2日目メインの天神山城登城口(和気美しい森)に行ったがあいにくの雨模様で断念し、次の城 数キロ南の北曽根城は曇天ながら行けました。
 
 北曽根城の築城・築城者とも定かではないですが戦国時代には明石景行の城だったそうです。北曽根城は和気富士とよばれる山の山頂にあり、和気富士は北方向に伸びる和気山脈の先端部分にあたります。山全体に巨岩が多くあり麓に大正時代に自然石に彫られた大題目岩があります。松茸山で秋は入山禁止のようです。
 登城ルートはいくつかあるようですが<34.799246, 134.148301>ポイントの奥から入るルートを選択しました。ハイキングコースにもなっているので傾斜はきついですが登り易いです。途中に岩場の眺望の良い所(山頂は木々が少しあり完全には開けていない)、2段程の曲輪があります。25分程で山頂に着きます。急斜面の為か曲輪は山頂部分に集約されています。主郭部分に電波塔があるので少し改変されていますがコの字状の石垣曲輪や巨岩を組み合わせた石垣遺構は見応えあります。ただ分かる城跡遺構の面積が小さいので少し物足りない。

<満足度>◆◆◇

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赤い城

小川小学校と素鵞神社 (2022/12/25 訪問)

本丸と二の丸には小川小学校や素鵞神社、道路を挟んだ公民館や幼稚園が三の丸。
素鵞神社の横の道が竪堀跡のようです。
また小学校西側の通学路も堀跡のようです。
構内に碑があるようですが門外からなので文字は読めませんでした。
遺構はありませんが街中遺構ハントが楽しめる城です。

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刑部

国分一宮 (2023/01/04 訪問)

諏訪神社の裏山が主郭部なのですが途中、最近熊の出没があり侵入禁止でした残念!
この神社意外と立派でしたよ!

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AJ

八王子悲話 (2022/12/27 訪問)

真夜中、タクシーに乗り込む若い男女4人組。行き先は八王子城址(東京都八王子市)。季節は冬。「こんな遅くからですか?」と訝しむ運転手。まあいいか、とそれ以上は詮索しなかったそうです。

真偽はどうあれ、「出る」と言われ続ける関東屈指の山城。背景に悲話があります。

1590年、豊臣秀吉は天下統一の仕上げに小田原攻めを敢行。北条方の支城・砦の多くが無血降伏するなか、八王子は抗戦。踏み込んだ前田、上杉ら北国勢3万5千が老若男女の別なく斬りふせ、火を放つと、女性や子供は自害し滝に身投げしたといいます。城主・北条氏照(氏康の三男)は当時、主力を率いて小田原に籠城中。留守城だった八王子はわずか1日で落城します。

もとは同市内の滝山城に拠った氏照。武田信玄に防御拠点を破られたのを機に1584-87年ごろ、来る秀吉との対決に備え、より堅固かつ交通の要衝でもあった八王子に居城を移します。戦巧者と言われた氏照が小田原に向かわず残っていたら、この巨大山城を使ってどのように戦ったか。そんなことを考えずにはいられません。

山麓部の居住スペースには大規模な礎石建物跡と庭園遺構をもつ御主殿跡が発掘調査済み。そこに続く通路も確認されていて、対岸から木橋(当時は曳橋)を渡ったあと、石積に囲まれた枡形虎口で3回曲がらせるという厳重ぶり。一方、詰の城である山上要害部は広大なハイキングコース。本丸部と最前線の曲輪を中心に展開。要所には石垣を用いて、籠城用の井戸跡も2ヶ所。

圧倒的戦力差から消化試合のように言われることが少なくない小田原合戦ですが、山中、忍、八王子といった支城での攻防の裏には結構な人間ドラマが隠れていそうです。とくに八王子の惨劇は、最終的に小田原の戦意を削ぎ、開城の流れを決めたと指摘する向きもあります。冒頭の若者たちが真夜中に一体何を見たのかはわかりませんが、今なお何らかの思念が城址に残留していてもおかしくない気はします。

私ですか?供養塔に手を合わせた後、日が沈む前に立ち去りました。小走りで。

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トク

④【関ケ原の26人 】(1)小早川秀秋 (小早川秀秋と松尾山) (2022/12/01 訪問)

(1人目)小早川秀秋の続きです。

松尾山は標高293mの山です。チャリで駅前の観光交流館から麓の駐車場まで15分、そこから40分の登山です。また今回も最初から最後まで誰にも出会いませんでしたが(今回も山を一人占めできたと思いきや・・・)、山頂近くで鹿に出会いました(笑)。

前夜に雨が降ったせいか、特に後半はすべりやすかったです(粘土層のような土でした、注意して下さい!)(写真⑦:後半の登山道)。

山頂の陣跡に立つと、確かにここからは関ケ原が一望できます(写真①②③④)。合戦の状況が手に取るようにわかったのではないかと思います。家康の最後の陣もはるかに見えましたが、あそこから鉄砲を撃ってもまずここまでは聞こえないでしょうね-。登ってみて感じたのですが、山頂本丸は意外と狭く(写真⑧⑨)、しかも斜面はどこも崖のようにとても急でした(写真⑤⑥)。これらはどうやら人工的に造られた切岸のようです。ここに15,000もの兵がどうやって陣を張っていたのか? とても不思議でした。小さな曲輪もいくつか造られていたようなので、木がなければもう少し曲輪の跡や全体もはっきり見えたのかもしれませんが・・・。

眼下には大谷吉継の陣が見えました。決戦前夜も朝方まで雨だったので、ここからあそこまで一斉に行くには、山を走って下るというより、多分濡れているこの急な斜面を滑り落ちるような感じで下りて行ったのではないかと思いました。(馬などはどうやって下りたのだろう?)

黒田長政からの誘い(調略)で家臣の意見も割れ、小早川秀秋は最後まで苦しんでいたようです。しかし朝になって雨がやみ、霧が晴れたとたん、自分の眼下にはいるはずのない東軍の大軍勢と徳川家康の旗印が見えました。これで毛利秀元と吉川広家はすでに寝返り、豊臣秀頼と毛利輝元はもはやここには来ぬとここで確信してしまったのかもしれません。

そして最後は、どんな思いでここから大谷吉継の陣へ目掛け、山を下りる決断をしたのでしょうか?

次は(2人目)に続きます。
 

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姫街道

郷土の誇り久野城 (2023/01/01 訪問)

この城は何が凄いって、曲輪が360°にわたり上段・中段・下段と階層的な所。尚且つ、保存会のおかげで整備が素晴らしい!よって、外堀が水堀になっていた様子がイメージしやすい。パンフレットも充実しておりわかりやすい。
眺望も良好で、南方向を見ると東海道が東西に延びている事が見通せるため、街道監視拠点としても重要な城だった事がわかる。江戸期まで使われ、今なおこれだけの形状を留めているのは、地元から愛され続けてきたからに他ならない。

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チェブ

2023年、楽しい お城攻めのスタートです。 (2023/01/03 訪問)

少し遅くなりましたが、

明けまして おめでとうございます。

本日、お仕事の方々もいらっしゃると思いますが、お正月気分の、ゆる~い投稿でスタートします(←いつもでした)

車で「小山城」に向かう途中、初詣の駐車場待ちにはまりました。
5分で通る所を20分ノロノロと進みました。
渋滞が解消したところで、信号待ち。
ついてないな~って思ってたら、んっ!!!
小山評定通り・祇園城通りの歩道橋が目の前に。
AJさんの投稿写真で、よく見つけたなーと感心した歩道橋です。

車の中からパチリ。
ふふふ。大河ドラマ『どうする家康』の後半戦で紹介するかも。

日本史の神様から、お年玉を頂きました。

「小山城」は後日、投稿します。

こんな感じで、今年もお城から脱線ばかりするガタゴト投稿を、よろしくお願いいたします。

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ばばよ

展望台に行きましょう (2022/11/13 訪問)

五稜郭公園ではなく、五稜郭であいの館を目指します。
規模は大して大きくないため歩いて周回できます。
地上からは星型かどうかわからないため、展望台には絶対行きましょう。
車道が狭いという情報にビビり過ぎて展望台まで歩きましたが、なかなかの傾斜でタフなコースです。

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くらのり

湯築城 (2023/01/03 訪問)

愛媛県松山市にある城跡。堀や、土塁が現存しており、国の史跡にも指定されています。湯築城は建武2年(1335年)前後に伊予国の守護であった河野通盛の代に築城されました。その後、天文4年(1535年)には通直によって外堀が造られ、天正13年には四国征伐を目指す羽柴秀吉の命を受けた小早川隆景らの軍が侵攻。河野氏も約1ヶ月の籠城後に降伏し城にとどまっていた通直は命は助かったものの、2年後に病死。天正15年に、福島正則が城主になるものの、国分山城に居城を移したことにより廃城。松山城の築城に際しては、湯築城の瓦などの建材が流用されていた。

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くらのり

今治城 (2023/01/03 訪問)

昭和28年に愛媛県史跡に指定され、別名「吹上城」「吹揚城」と呼ばれ、慶長7年(1602年)に築城の名手といわれた藤堂高虎によって作られ、2年後に完成しました。完成する前は、今治の支配拠点は、唐子山山頂にあった国府城でしたが、より能率的な都市経営を目指すために築城されたといわれています。今治城の構造は、三重の堀に海水を引き入れた特異構造で、当時は海から堀へ直接船で入ることができ、海上交通の要所として海を最大限に活用したお城です。日本三大水城の1つであり、現存する今治城は、石垣と内堀がほぼ江戸時代の姿を残しています。

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