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キンヤ

大きな空堀と土塁がよく残された城 (2023/03/05 訪問)

説明板によると築城時期は諸説ありますが、鎌倉時代に武士の館として使われ、関東の覇権をめぐる動乱期の1400年代初め頃に、現存する土塁と堀が拡充・再整備されたと推定されるとのことです。

青島判官恒儀が築城したと伝承もありますが、天長6年(829年)に没していることから、この伝承は考えにくいようです。
戦国期の後北条氏時代には山田伊賀守直安が城主であったとも伝わるそうです。

本郭は方形で南以外の東・北・西側は大きな空堀と土塁で囲まれてます。
ニの郭北側には、木が伐採され丸裸になったクランク状の巨大な土塁があり驚きました。

周囲は宅地や高速道路がある平城ですが、空堀と土塁がよく残された、なかなか良い城でした。

時間の都合で本郭、ニの郭北側の一部にしか行ってませんが、掲示されている縄張図から、二の郭・三の郭まで含めると広大な城域であったことが分かります。
この日、青島城の前に行った菅谷館と広い郭や縄張りが似ているように思えました。

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朝田 辰兵衛

雪捨て場になってなくて良かったです。 (2023/03/04 訪問)

往々にして館跡は雪捨て場と化しているのでは…と思います。越後を基準にして申しわけないですが…。
ま,ここは農地に改変されていましたので,雪捨て場の心配はありませんでした。

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水内総社日吉大神社 (2022/03/23 訪問)

 長野駅から徒歩圏内にある水内総社日吉大神社が跡地です。石碑と案内板があり、神社の本殿は土塁の上に建てられているようです。

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丸子表の戦い (2023/03/22 訪問)

 第1次上田合戦の時、丸子表の戦いの場所として知られる城です。依田川と内村川を天然の堀とする山城です。遊歩道が整備されています。丸子公園側より登城しました。各所に表示板があり散策の助けとなってくれます。2郭には模擬櫓が建てられていました。本郭には雨水を溜めて使用した井戸跡があります。堀切等は浅くなっていました。石積みがあったようですが見逃してしまいました。

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天候に恵まれて (2023/03/22 訪問)

 真田昌幸が上田城を築くまで真田氏の本拠地としていたとされる城です。公園として整備されています。所々表示があり、それなりに散策を楽しめます。堀切(推定)の表示はありますが、ほとんどわかりません。近くに天白城があり、見下ろされている感じがあります。この日は気候もよくのんびりするにはいいところです。

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小城小次郎

長城のようなプランが想定される (2022/11/12 訪問)

勝尾城砦群の東南端にあった最前線の城砦は、一部に石積みが施された土塁&空堀囲みの楕円形の主郭と、その主郭とは無関係に穿たれた長大な横堀とで構成されるエリア。谷全体を長城のように囲んで守る壮大なプランが想定される。

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真田氏の支城 (2023/03/22 訪問)

 真田信綱によって築かれたと伝わっています。眼下には真田本城が見えます。真田本城もしくは真田氏館を守るための支城と思われます。尾根の東に曲輪が展開して、主郭の西側は岩を削って作られたと思われる大堀切があり見ごたえがあります。所々に石積みも見られ、思ったより楽しく散策できました。

 真田氏館跡から徒歩で行ける近くの集落に案内表示があり北赤井神社を経由して登城することができます。北赤井神社に案内板がありました。

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御屋敷公園 (2023/03/22 訪問)

 御屋敷公園として整備されています。土塁が残っていて当時の雰囲気を伝えています。
真田氏歴史館は休館日でした。

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横尾采女正 (2023/03/22 訪問)

 横尾氏が築いたとされる城です。横尾氏は村上義清に従い上田原合戦に参加しますが討ち死してしまい、その後、城は真田氏のものとなったようです。南に段郭を幾重にもめぐらして、背後を二重堀切と副郭により防御しています。ところどころに石積み、土塁等も見られました。ただ石積みが草でわかりにくかったり堀切の表示があっても埋まっていてほとんどわからない所もありました。登城路は整備されていて比較的歩きやすかった。

 横尾バス停から北へ少し歩いて行くと古城緑地広場の案内表示がありそこを右へ曲がるとすぐに左手に尾引城(横尾城)の表示と案内板があります。登城口から約20分で主郭へいくことができます。

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千葉城 (2023/03/22 訪問)

 松代道と洗馬道が交わる要衝の地にあり、以前千葉(せんば)城と記載されている城ではないかといわれています。海野氏の一族である横尾氏が築いたといわれています。その後、真田氏が支城として改修したとのことです。山頂の主郭から南へ伸びた尾根に曲輪を配置して背後は堀切により防備を固めています。堀切は複数あると思いますが、最初の堀切が深さもあり見どころだと思います。
登城路は整備されていて歩きやすくなっています。登城口から尾根をひたすら登り約20分で主郭へは行くことができます。傍陽(そえひ)小学校が城館の跡地といわれています。

上田駅からバスに乗り傍陽バス停下車して登城しました。一番近いバス停は八幡前バス停だと思いますが本数も少なく傍陽バス停を利用しました。バス停から徒歩約15分で登城口へ行くことができます。

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ぴーかる

神西城 (2023/02/25 訪問)

【神西城】
<駐車場他>那賣佐(なめさ)神社参道入口前<35.314689, 132.700878>に駐車しました。
<交通手段>車

<感想>1泊2日尼子十旗攻城の旅5城目。第七の城、現地説明板によると神西城は1223年に相模国鎌倉から小野高通が地頭として出雲国神門郡の神西へと下向し神西氏を名乗り、この地に築城したようです。その後神西氏は十二代続き戦国時代には尼子氏に仕えます。尼子氏時代後期に仕えた神西元通は有名で尼子勝久と共に尼子氏再興を目指しましたが上月城の戦いで自刃しました。
 登城ルートはいくつかあるようですが那賣佐神社からの最短ルートを選択しました。神社裏から竹林を通るルートの頂上が主郭で主郭は開けています。北側の眺望は良くて神西湖や出雲の町が見えます。主郭奥に△状の鉄パイプ組があって、その東側にかけて曲輪がありそうなのですが藪化がひどくよく分かりませんでした。主郭から北側にかけても竹林であまり曲輪らしき遺構は観察出来なかった。

<満足度>◆◇◇

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赤い城

三重堀は圧巻 (2023/03/12 訪問)

展望台の模擬天守が目印。
駐車場もあります。
能満寺から登っていくと空堀が出迎えてくれます。
模擬天守の前には三日月堀も。
このあたりは公園として整備されていて地元の方も散歩をされていました。
何と言っても見どころは西側の三重堀。
ここも三日月の形状に掘られています。
元々は今川氏が築いた城ですが、武田と徳川の間で争奪戦が繰り広げられました。
模擬天守だから、と通り過ぎてはいけません。
三重堀を見に行く価値は高いです。

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チェブ

暴れん坊将軍の馬。 (2023/02/25 訪問)

千葉県松戸市に、ポツンとある「金ケ作陣屋」の標柱。
近くには、イトーヨーカドーやコンビニ、カフェやお肉屋さんと、お店があります。

「金ケ作陣屋」は小金牧という放牧場があり、牧の管理をしていたそうです。

幕府のお馬事情を調べてみたら、8代将軍 徳川 吉宗さんは、かなり熱心です。
外国から馬を輸入して改良したんだとか。
「金ケ作陣屋」でも、外国馬がいたのかな?

昔、観た『暴れん坊将軍』の白い馬。
やっぱり、大きい馬の方がカッコいいもんな、と、ドラマと現実がゴッチャになった「金ケ作陣屋」攻めでした。

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真田昌幸 (2023/03/21 訪問)

 久しぶりの上田城です。公園と整備され、今日も多くの方が散策していました。2度の徳川軍の来襲を退けたことで知られる真田氏の城ですが、現在みられる縄張りは仙石忠政によって築かれたものとのことです。尼ヶ淵付近から見る櫓と石垣が好きです。

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真田幸隆 (2023/03/21 訪問)

 真田幸隆が築城したと地元には伝わっていたようですが、正確にはわかっていないようです。日向畑遺跡を経由して登城しました。登城路は整備されていますが、安山岩質の岩が露出していて歩きにくいところもあります。主郭周辺位はその岩を利用したと思われる石積みがあります。主郭背後の堀切はよく深さが保たれていて見ごたえがあります。この堀切を降りて行くと水の手から下山できるようですが、今回は行っていません。下って行くと屋敷跡とされる安智羅神社付近にでるようなので、こちらが大手筋ではないかと思われます。遠見番所跡も行っていません。この時期花粉症がつらくさらに登る気にはなれませんでした。

 上田駅よりバスを利用して真田バス停下車し、そこから徒歩15分くらいで登城口に行くことができます。バスの本数が少ないのと、真田バス停は3ヶ所あり要注意です。

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カズサン

伊勢未踏の城廻Ⅱ (2023/03/19 訪問)

 三瀬砦に次いで以前から訪ねたかった、北畠具教終焉の三瀬館を初探訪しました。

 駐車場:34°24'18"N 136°25'09"Eの地点、茶畑の中に3台分のスペースの駐車場が用意されている。ここは古城盛衰記さんの案内と同じところ、三瀬砦跡から県道770号線を西行し国道42号線を渡り中部電力の建物横を通り紀勢本線を渡り北に約400m辺り。
 要所要所に案内指示版が有ります。

 車を駐た所から案内板に従って北に100~200m程の所に三瀬館跡があります、西から南面に谷筋の川が流れて水堀の様、鎌止山麓斜面にほぼ三段の館跡、現在は公園になっている、桜、楓が植栽されており春の花見、秋の紅葉狩りでは人出もあるでしょう、館跡には「北畠具教卿三瀬館跡」と刻んだ石碑と案内板、胴塚の碑と案内板、庭園の池、東屋が設けられている。
 東遊歩道を進むと茶臼山見張り所の案内もあり訪ねる、麓に館跡の周辺案内図が有り分かり易い、ただ熊注意の看板ありドキッとするが大阪から来られた親子連れと一緒に登る、見晴らしは良く三瀬地区を俯瞰でき、見張り所には秋葉神社が鎮座。
 戻って館跡から南に谷筋川を渡ると北畠具教卿の胴塚と歌碑がある。

 南北朝時代活躍した南朝方の北畠親房の子孫伊勢国司八代北畠具教は伊勢に進出した織田信長との攻防の末、信長次男信雄を養子に迎えて和睦し三瀬館で隠棲し勢威を図ったが、天正4年(1576年)信長の指示により信雄のさしむけた刺客に謀殺られた。(案内板による)
 
 この後は昼のサイレンも鳴り、「道の駅南伊勢おおだい」でトイレ休憩と持参したおにぎりで昼食、駐車はやっと1台確保の状態の賑わいでした晴天、桜もちらほら、こぶしにモクレン、ミツマタの花など咲き、花粉が無ければ最高の日和でした。
 

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こまぴょん

かるた (2014/05/05 訪問)

金鯱が
チャームポイント
名古屋城

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赤い城

藩主は田沼意次 (2023/03/12 訪問)

史料館があるところが本丸跡、四に駐車場もあります。
この日は駆け足リアと決めていたので資料館には入りませんでした。
前には意次の像と石碑が立っています。
パンフレットだけもらい二の丸の松へ。
相良小学校が二の丸で土塁が残り、その上に松があります。
引き返し萩間川方面に仙台河岸を見に行きました。
仙台藩主の伊達家が寄進した石で造られた石垣です。
ゆっくりと街を歩くのもよさそうでしたが次へと急ぎました。

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トク

㉛【関ケ原の26人】(15)加藤嘉明 (松山城:城攻め) (2023/03/11 訪問)

(15人目)「加藤嘉明」(松山城)の続きです。

私が松山城でいちばんおもしろくて好きな所は、城攻めの気分を味わいながら登城できる所です。 さあ攻める気持ちになり大手門からいざスタートします! 門をくぐると真正面に天守が見えるので、(行け~!)と勢いよくそのまままっすぐ進むと行き止まり(あれ?)。振り返ると戸の無い門(戸無門)があり、なんだ~ここからなら簡単に入れるではないか(それ~!)と思って門をくぐると、次の筒井門が閉まっている。(あれ?どうしよう?)立ち止まって考えていると横に隠れた門があり(隠門)そこから敵兵がいきなり出てきて囲まれてしまいます(しまった!これは罠だ~!と気づいた時にはもう遅い😩)。応戦している間に筒井門の上の狭間から鉄砲を撃ちかけられ、半分はここで討死するでしょう。さらに運よく筒井門を突破し中に入っても(またもあれ?)次の入口(太鼓門)が見当たりません(実は右奥の見えない位置にあります)。(次の門はどこだろう?)立ち止まって探している内に、正面の筒井門続櫓と右側の隠門続櫓の狭間が一斉に開き鉄砲で撃たれて袋のねずみです。この時点でほぼ全滅でしょう(無念じゃ~)。私も天守までたどり着く前にここで討死してしまいました(笑)。嘉明様お見事です!😊(写真①~⑤)。

【余談】道後温泉と鯛めし
夜は「湯築城」のすぐ横にある「道後温泉」に宿泊してゆっくり夏目漱石や正岡子規の気分で疲れをいやし、風呂上りに名物の「鯛めし」を食べてみました(写真⑥)。新鮮な天然鯛の切身をごはんの上に乗せ、だしのきいた醤油に生たまごをといてかけ、のりと薬味をのせて食べると、うわ~最高!これめちゃ美味しかったです😋。

次は(16人目)に続きます。
 

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TESTU89

後北条氏の城、らしい (2023/03/22 訪問)

続日本百名城の選定理由の一つは、後北条氏が築いた城の特長が随所に見られる、とある。
となると、杉山城を思い出してしまい、横浜まで来たついでにスーツと革靴のまま、訪問。
深い空堀と随所に塁線を屈曲させて横矢を確保している辺りはわかりましたが、後世に畑作されていたためか曲輪周りの要塞らしい土塁の技巧とか、遮蔽とかは削平か埋められたのかで無くなっており、寂しく感じた。あと、やはり竹の密集により眺望が効かないのも、「城」としての魅力は下げているのかな...。

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