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ぴーかる

福束城 (2023/05/03 訪問)

【福束城】
<駐車場他>駐車場はなし。白髭神社前駐車できそうです。
<交通手段>車

<感想>日帰り木曾三川ちょこ城南下の旅3城目。福束城は1414年に土岐氏の家臣福束蔵人十郎益行が築城しました。その後は丸毛氏が城主となり戦国時代まで続きます。豊臣秀吉時代の城主丸毛兼利2万石を領していましたが、関ヶ原合戦の時に西軍に付いたために東軍に攻められ丸毛軍は敗走し城は打ち捨てられたようです。戦後丸毛兼利は前田利常に2千石で仕えます。
 現在遺構は消滅していて揖斐川の流れが変わってしまって城跡の場所も定かではないようです。

<満足度>◆◇◇

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むらひろ

小沢城 (2023/06/17 訪問)

案内板をみつけたところの先が曲輪っぽかったがロープが張られていたため、入るのはやめて周りを探索。

相模川側にはかなり急な斜面があり、きっと天然の要害だったのだろうとか、細い切り通しの道は当時も城へ上がる道だったのだろうか等色々と想像を掻き立てる面白い城でした

城とは関係ないですが、自然が豊かでいろんな鳥の鳴き声が聞こえて心地よかったです。

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かづひさ

流石💦 (2023/06/17 訪問)

じっくり見ようと思ったら先に体力が尽きてしまい次回リベンジしたいと思います。

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しんちゃん

上平寺城② 弥高寺編 中級以上 (2023/04/08 訪問)

上平寺城①の続き国指定史跡 弥高寺です。
上平寺城のレポートなのに何で?と思われるのも当然ですが
自分の中では上平寺城と弥高寺はセットになっています。
国の史跡として登録されており、おる意味においては上平寺城以上に
城塞としての遺構を残している寺(城)なのです。
福井の平泉寺や滋賀の百済寺も城塞としての機能を有しており、古くは
奈良の吉野山も山全体が南朝の城塞といって良いと思います。
城人のサイトには載っていませんが、城好きとしては外して通るわけには
行かなかったのです。
上平寺城から分岐していく道が弥高寺に続いていくのですが
この道が結構危ない。カーブで崖のようになっている箇所もあり
足元が崩れたら無事ではすみません。
登城は自己責任とはいえ危険を感じるようであったら引き返すことを
お勧めします。僭越ながらタイトルに中級以上と記載していただいたのは
これが原因なのです。
大門跡を通って主郭に向かいますがここが食違い虎口のようになっている上に
基礎部に石垣が使われています。もうこの段階で普通の寺ではないのです。
案内板にも京極氏や浅井氏に城郭として改修されたことが記されています。
つまり詰めの城のさらに詰めの城の役割をはたしているわけですね。
主郭に向かう途中、扁平地にたくさんの郭がありますが皆、明確に土塁で区分けされています。
虎口を通って本堂跡に到着。ここが主郭になります。
弥高百房といわれる城址のなかでも一番大きい郭です。
周囲は土塁で囲まれ上平寺城の主郭以上に広く感じます。遠くには
琵琶湖が良く見える。なかなか眺望にも優れています。
主郭の背後には大堀切で伊吹山に向かう道を遮断しています。
主郭と大堀切の間には大きな土塁があり上部は郭としても機能しそうなほど
大きな土塁です。千葉県の真里谷城の主郭背後の大土塁とほぼ同スケールです。
部分的とはいえ正直ここまでやるか?というほど手の込んだ防御設備を
備えているのがこの寺(城)の特徴です。
採鉱所や悉地院のルートを経由して下山しましたが、これでは
京極氏館の駐車場に戻るにはすごく遠回りになります。
やはり戻りも例の山中ルートで帰るのが正解のようでした。
くれぐれも山道を歩く際は足元に気を付けてください。



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しんちゃん

上平寺城①上平寺城編 ~中級編 (2023/04/08 訪問)

上平寺城は近江守護京極氏の詰めの城です。
標高669m、比高380m。山城で比高400mクラスは結構な距離ですよ。
しかも山道がなかなかきついです。久々の山城で増えた体重が膝にかかってきます。
この京極氏の遺構群を攻めるときは特にしっかり準備を整えてから
訪問していただきたいと思います。
まずは南の三の丸から北上して行きます。
三の丸は左側に畝状の竪堀群を有し、南に向かって大竪堀を有します。
三の丸自体も周囲に土塁を有し、堀切を経て二の丸にかかります。
二の丸もいくつかの郭を有していて虎口が連続して折れ曲がります。
枡形虎口という紹介がありますが喰違い虎口のようにも見えます。
これで合っていますでしょうか?二の丸の入り口はなかなか
手が込んでいたと記憶しています。
本丸は南西に2本竪堀を備え西側と南東側に虎口を備えています。
本丸は周囲に土塁をめぐらしています。
非常に良く遺構を残した国の史跡の山城ですが、
北に続く道をたどっていくと途中で弥高寺に向かう道に突き当たります。
本丸の北にも大堀切がありますが、ここでもう一つの目的 弥高寺に向かいます。
上平寺城②に続きます。



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もも

二本松城 (2022/11/13 訪問)

箕輪門や瓦の丹羽家家紋に感動しました。

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しんちゃん

防御力と優美さを備えた近江守護京極氏の館跡 (2023/04/08 訪問)

京極氏館は上平寺城に麓にある、近江守護職京極氏の平時の居館です。
攻め手は南側からまっすぐ攻め入ろうとするが、まず侵入路が斜め右へそれます。
そこから今度は反対方向に90度ほぼ直角に進むことになるのですが
このときに右手の弾正屋敷、蔵屋敷、左手の隠岐氏屋敷の三方向から攻撃を受けます。
たいていの敵はここで討ち果たされるものと思われます。
特に隠岐氏屋敷は、わずかに高地にあり今でも周囲に土塁を備えているので
ここからの弓矢の攻撃は相当に熾烈であったと想定します。
そこからも左右に数段の郭をそなえ、しかもだんだんに高所に向かっていきます。
まさに守りに適した館の構造になっており、小規模な城と呼んでも差し支えないでしょう。
突きあたりに鳥居と階段があり最高所には伊吹神社があります。
かつてはここもみはり台を兼ねていたのでしょう。
それほど侵入者の動きを見るのに適している場所です。
かつての館跡と庭園跡は鳥居の右手にあります。庭園はかつての庭石がのこり
十分な雰囲気を残しています。ここ数日天候が怪しかったのですが
そのおかげでかつての池跡に水がたまって、まるで池のようです。
鳥居の左手には京極氏墓所が残ります。
京極氏の冥福と旅の安全を祈って、上平寺城と弥高寺に向かいます。

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しんちゃん

有名な桜の名所。桜雲橋を渡って問屋門をくぐると本丸に太鼓櫓。 (2018/04/08 訪問)

高遠城は本丸を中心に周囲を郭で囲まれています。
本丸の東に二の丸、南に南郭、南郭と法憧院郭、二の丸と三の丸と
各郭間は堀切で仕切られ橋が架けられています。
大手道は三の丸に通じているようです。
桜見物の客が多く、城の中心部に行くほど人が多いです。
城域には国の史跡、藩校の道徳館が現存します。
本丸と二の丸の間に桜雲橋(おううんきょう)と問屋門、本丸には太鼓櫓があります。
空堀など城の遺構を残しつつ、全域が桜に覆われていて
なるほど桜の名所として全国でも有名な理由がわかる気がします。

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しんちゃん

日本三大湖城でかつての浮城。天守から見えるは桜の園。 (2018/04/08 訪問)

すこし古い写真ですが、高島城に行った時のレポートです。
諏訪高島城はかつて諏訪湖に突き出した水城で 諏訪の浮城と呼ばれていたそうですが
江戸時代から始まった開拓で浮城のイメージは無くなってしまったんですね。
それでも日本三大湖城のひとつに数えられているらしいです。
この時は前日に富士山と桜と五重塔の見える神社に行ってきて、この日は高遠城に
向かう途中だったんですね。
二大桜の名所の中間に寄ってみたんですが、ここも桜がなかなか素晴らしい。
自分の好きな景色が 「城」「紅葉」「富士山」「桜」ですからね。
特に城と桜は良く似合う。日本の宝ですね。

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chiroru

リピートしたくなる (2017/10/20 訪問)

小雨降る中の登城でした。杖を拝借し本丸から城址公園に向かいました。車を本丸の駐車場においてあるので戻ります。下りの景色と全然違い山城満喫!でした。雨に濡れた累々と続く石畳、はっと見上げれば目の前に最大の見どころである六段壁。霧も雰囲気を盛り上げてくれました。山城大好きです。登城したのはずいぶん前になりますが、情景が鮮明に脳裏に残っています。
城下町散策は別日に。観光案内ガイドさんをお願いし、細かく城下町の説明をうけました。ガイドさんは岩村城下に移住してこられたそうですが、岩村の生活が心地良いととても楽しそうにお話されるんです。「またお越しくださいね」って言われ「はい!」と心から返事ができました。

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しんちゃん

北城から伊吹山、南城から琵琶湖。絶景が映える東近江の出世城。 (2023/04/09 訪問)

登城道はいくつかあるようです。私は南の観音寺からのルートで攻めました。
南の尾根伝いに北上、尾根の南端部分からすでに郭の雰囲気があります。
城は尾根状に沿った形状をしていて、南城から北上して行って北城に主郭があり、
そこから西側に郭が伸びていっています、L字をさかさまにしたような形をしているんですね。
この形状だと郭同志の連携は難しいですが、尾根上を防御するのには適しています。
南城の中心部と北西の郭は一部 周囲に土塁が残り、堀切で敵の侵入を遮断しています。
今でも遺構が良く残っており、秀吉が最初に城番を務めたことから
出世城と言ってもよい城です。墨俣城には資料としての裏付けがとぼしく
秀吉が横山城で初めて城番を務めたとする仮定の話です。
主郭からは伊吹山が良く見えます。
南城からは琵琶湖をながめることができます。
案外、秀吉も城番を務めながら絶景を肴にたまに一杯やってたりしたのでしょうか。

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しんちゃん

地元ファースト、下坂氏の残した戦国武士の館。現在公開中。 (2023/04/09 訪問)

下坂氏は村落領主とも呼ばれる地元の土豪です。
古くは室町時代から京極氏に仕えました。
ガイドさんの説明によると地元とともにあるがモットーで
戦で頑張りすぎずそこそこにやり過ごしてきたようです。
確かに戦で死んでしまっては地元の民を守ることが出来ませんからね。
江戸時代はさっさと帰農して地元民とともにあったそうです。
帰農して庄屋になったのでしょうか? うだつの上がらない侍のままだと
領主ともども、いつどこに飛ばされるかわからないですからね。
地元ファースト ブレていませんね。
館は江戸時代に建てなおされたものですが、周囲に土塁をめぐらし
堀にはなんと水が溜まっています。
館の東側には切岸を備えた郭がいくつかありました。
いまの時代でも防御設備を備えた戦国の武士の館の形を残していて
国の史跡として、土日に公開されているようです。
日時の制限はありますが、この館は必見です。全国でも珍しい遺構と言えるでしょう。

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しんちゃん

下街道おさえの城。見晴らしは良い。で、やっぱり石垣。 (2023/04/09 訪問)

山崎山城は比高50mほどの低山(丘)の東西に長い尾根上に築かれた城です。
山城というよりは平山城に近いイメージですね。
北東の登城口から簡単に登ることが出来ます。車も駐車可能です。
登ってみたところ見晴らしは良いですね。
案内板によると安土城の支城として信長と運命を共にしたと考えられるとのこと。
信長の整備した下街道を見張るために石垣の城に改修したのでしょうか。
かつては周囲を石垣で囲っていたとのことですが、ちょっと見当たりません。
周囲を散策していると一部石垣が残されているようです。
西側の扁平地も郭だったと思われますが
いまは巨大な水タンクが鎮座しています。時代ですね。
国土地理院の地図を見るとタンクに向かう車道の周辺が広い
扁平地になっています。このあたりも郭だったのでしょうか。
今回は未訪問です。

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しんちゃん

庭園造りの名人、小堀政一の次男が築いた近江小室藩の中心 (2023/04/09 訪問)

小室城は小堀政一(小堀遠州)の次男、小堀正之によって築かれたと伝わります。
小室藩は政一の時代に1万2000石ほどあったと思われますが、2代正之のころに
弟に1000分与して、4代のころに弟2人に500石、300石を分与したので
1万630石になりました。大名としてギリギリですね。
ですので、小室城は実際のところは陣屋になると思います。
まあ小室城のほうが当人たちも聞こえが良かったと思いますよ。
戦国時代だったら、この規模でも十分城で通用しますからね。
小室城は山林の中へ道伝いに入っていくと右手にお堂があって、左手に入って行った
ところにあったと記憶しています。
城址碑があってその背後に扁平地が広がります。
城址碑の周辺にも平地があったので城の一部として機能
していたと思います。でも土塁は無いんですね。扁平地だけです。
小堀家の陣屋跡だったら庭園でも残っていると良かったんですけどね。

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しんちゃん

六角氏家臣 高瀬野氏の居城跡。城址碑は二つあり。 (2023/04/09 訪問)

肥田城は宇曽川を隔てて隣接する高野瀬城を本拠とする土豪、高野瀬隆重が
六角氏の命により築いたと伝わる平地城館です。(彦根観光ガイドより)
このあたり畑地や公民館を中心に平城が広がっていたようですね。
どうやら城址碑は二つ存在するようです。公民館に行ったのですが
写真を撮り損ねたようです。
かつての堀跡を車で回って、肥田城跡を後にしました。
おっちゃんさんの投稿された現地案内板をみるとかつての
縄張りや堀跡が良くわかるようです。
今回は少し調べがたりなかったようです。近くによったら再度、土塁跡や城址碑を
チェックしてみようと思います。

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しんちゃん

住宅エリアの中にある城址公園。けっこう立派な土塁が残っています。 (2023/04/09 訪問)

目加田城は、目賀田氏の城です。園地案内板によると
佐々木六角氏の重臣だった目賀田氏は織田信長が近江に侵出してくるにあたって
故郷の光明寺野(目加田)に移しました。
目加田城はその際の居城であったと思われます。
現在は愛荘町の史跡として整備されており、城址公園として駐車も可能です。
比高3mほどの土塁が部分的に残っていますが、城址公園としての雰囲気を十分に
残しています。公園以外の部分は宅地化しています。
堀跡も残っているようですが、確認はできていません。

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yoda 1253

高虎が完成させた現存天守 (2020/11/27 訪問)

装飾性の高い現存天守

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yoda 1253

高虎の改造 (2020/11/27 訪問)

平成16年木造で再建
千鳥破風が美しい

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yoda 1253

連立式天守は見上げると堅守そうな構え (2020/11/26 訪問)

名手加藤嘉明築城
現存木製だが綺麗に整備されている

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yoda 1253

戦闘的な城 (2020/11/27 訪問)

築城名人藤堂高虎らしい破風を持たない層塔型の城来島海峡の監視基地だった

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