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ぴーかる

津屋城 (2023/05/03 訪問)

【津屋城】
<駐車場他>本慶寺駐車場
<交通手段>車

<感想>日帰り木曾三川ちょこ城南下の旅4城目。津屋城の築城年代は定かではないが、現地説明板によると関ヶ原の戦いの時の城主は高木八郎左衛門正家の居城であったが、縁者の高須城主高木盛兼と共に西軍に従ったため東軍の攻撃を受けて落城しました。1603年に美濃高須藩領主の徳永寿昌の許しを得て移された本慶寺となりました。
 本堂のある辺りが二の曲輪だったようです。山門の長屋門は当時の城門を転用したものと伝えられています。南側から西側にかけて空堀がありますが見落としました。

<満足度>◆◇◇

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姫街道

江戸城を撮る難しさ (2023/06/16 訪問)

何を感じて撮影しているのか…自問自答しながらの撮影だった。「格式」「立地」「石垣と堀の美しさ」。。。歴史を感じながら撮影するには、あまりにも勉強不足で、これからの楽しみでもある。

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WEST

白石城探訪 (2023/06/09 訪問)

木造復元天守閣の白石城を訪問しました。
白石駅から徒歩約10分で東口門跡に着きました。
まず、歴史探訪ミュージアムにて白石城の歴史を学習。ここでは、食事もでき、白石名物の温麺を堪能しました。
城内の見どころは、復元された大手二門と天守閣です。天守閣は木造で復元されていますので、鉄筋コンクリート造りとは異なる雰囲気があります。
ただ、雨の中での訪問でしたので、天守閣最上階からの景色は残念でした。
二の丸跡には白石市出身の横綱の銅像がありました(第18代横綱 大砲萬右衛門)。お城を背景に写真を撮りました。
また、城外には武家屋敷があります。時間があれば訪問するのも良いと思います。

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渋川満貞 (2023/06/17 訪問)

 八尾城の石碑のある八尾神社から徒歩で約15分、久宝寺城の石碑へ辿り着きました。石碑より南へ5分ほど歩くと久宝寺寺井町を囲む堀と土塁が顕証寺南に残っています。

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八尾神社と常光寺 (2023/06/17 訪問)

 近鉄大阪線近鉄八尾駅から徒歩約5分で石碑のある八尾神社に行くことができます。常光寺付近も推定地とのことで寄ってきました。大坂夏の陣古戦場の石碑がありました。遺構はないと思われます。

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恩智城址公園 (2023/06/17 訪問)

 近鉄大阪線恩智駅にて下車、徒歩約10分で城址碑のある恩智城址公園へ行くことができます。遺構はないと思われます。近くに恩智左近の墓がありました。

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古代と中世の城 (2023/06/17 訪問)

古代と中世戦国時代の両方の城が存在しています。
西信貴ケーブルに乗り高安山駅で下車して、まずは信貴山城の出城として築かれた中世の城址へ行きました。途中に高安山気象レーダー観測所があり、そこに説明が彫られている石碑があります。その先に城址はありますが、城域が道で分断されています。主郭とされる高安山周辺は土塁と思われる遺構がありました。道を隔てた反対側の遺構は空堀や土塁がよく残っています。時期的なこともあるかもしれませんが、かなり藪になっていて倒木もあり散策に難渋しました。
その後、古代高安城の倉庫跡を見に行きました。1号、2号、3号は見ることができましたが、4号、5号、6号は道が草でわかりにくくなっていましたので散策はしていません。来た道を戻り高安山駅からケーブルカーに乗って下山しました。

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しんちゃん

主郭はサクッと。あとはひたすら藪レンジャー。 (2023/01/05 訪問)

頴娃城は伴姓頴娃氏の居城であったと伝わります。
ポルトガル人商人 ジョルジ・アルヴァレスにより宣教師
フランシスコ・ザビエルを介してヨーロッパに最初に紹介された山城と伝わります。
かつては三層五階の建造物(天守と思われる)があったとされるが定かではありません。
いまでこそ主郭以外は藪に覆われ判別がしずらいのですが
土塁や虎口はしっかり残っていて、高い防御能力を備えた
堅固な城塞であったと思われます。
城跡に向かう道は未舗装の林道ですが近くまで来ることが出来ます。
南から北上する方法で城跡を見て回ります。
本郭の南 大堀切が郭を回り込むように続いています。
その次はいきなり本郭を攻めます。ここはきれいに整備されていて問題なく
散策できますが堀切をまたいで2郭を見に行くと、すでに藪に覆われています。
それでも周囲の土塁を確認することが出来ました。
次は虎口と6郭を経由して4郭を見に行きます。
急斜面をよじ登り藪漕ぎしながら侵入。土塁遺構がしっかり残っています。
次は8郭。崖のような斜面を登っていきます。
自分も3000以上の城を回ってきて、山城に直登するようなことをさんざん
やって来ているので、登れそうなところはカンでわかるのですが
はたから見ればただの変態です。
この城は本郭と大堀切を見たら、そのまま退散するのが正解でしょう。
8郭によじ登って扁平地を確認。やはり酷い藪で散策はそれほどできません。
このたびはここで引き上げることにしますが
地元の方が藪を刈って、整備してくれたらまた来るかもしれません。

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しんちゃん

削られつつも何とか残った加世田城 (2023/01/05 訪問)

加世田城は平安時代、平氏の流れをくむ別府五郎忠明によって築かれました。
加世田城(別府城)は福寿城・尼ヶ城・中之城の三城で構成されていましたが
明治36年に地ならしがされ、尼ヶ城の一部を残し削り取られてしましました。
現在城址碑の建っている城址公園はその尼ヶ城の残された部分になります。
加世田城は島津氏に吸収されたので当然麓が存在します。
一国一城令で薩摩は各地に残った城の麓に地頭を置き、いざという時に備えました。
加世田城も江戸時代は加世田麓として存在していたはずです。
まずは加世田城の残遺構を確認したのち、加世田麓の地頭仮屋に向かいます。
現在は加世田幼稚園になっているようです。
石垣のようなコンクリートブロックの奥にいかめしい門柱がたっていて
たしかに地頭が住んでいてもおかしくないような雰囲気を漂わせています。


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しんちゃん

元寇防塁② オール九州大土木工事。報酬ゼロ、お疲れ様でした。 (2022/12/31 訪問)

先ほどは生の松原と地蔵松原の元寇防塁を紹介しましたので、今回は残りの3つの
元寇防塁を紹介したいと思います。
③西新元寇防塁 国指定史跡 建治2年(1276)建造
 所在地‥福岡市早良区西新7
④今津元寇防塁 国指定史跡 建治2年(1276)建造
 所在地‥福岡市西区今津
⑤今宿元寇防塁 国指定史跡 建治2年(1276)建造
 所在地‥福岡市西区今宿駅前1

 西新元寇防塁は西南学院大学体育館の南側にあり、石碑が建っているので見つけやすいのですが
 駐車場が無いので苦労します。堀を設ける形で石塁を露出しているので
 かつての遺構がそのまま展示されているのかもしれません。

 今津元寇防塁は長浜海岸の松林の中にあります。こちらも200mにわたって
 堀を設けて遺構を展示してあります。そこから先は土中に埋まったままですが
 わずかな高まりがあり表面に石が露出しています。
 工事を担当したのは日向の国と大隅の国の御家人です。

 今宿元寇防塁は道路沿いの長垂海浜公園の中にありました。
 石塁の遺構は土に覆われ、今では高さ50cmほどの土塁状の遺構が連なっていますが
 石がところどころに露出しています。
 この2kmほどの防塁は豊前の国が担当しています。

 こうしてみると工事を担当したのはすべて九州の御家人たちですね。
 薩摩からすれば周防の方が近いんじゃないかと文句をいいたくもなるでしょう。
 しんどい工事を延々続けて報酬がゼロじゃたまったものではありません。
 この日はららぽーとで実物大νガンダムの立像を見てテンションが上がりました。
 実はけっこうガンダムとかガンプラも好きなんですよ。
 雨とか猛暑で城めぐりがきついときは家でクーラーかけてこつこつ作っていたりします。
 あくまでも余談ですが。

 


 

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しんちゃん

元寇防塁①  生の松原と地蔵松原 (2022/12/31 訪問)

元寇防塁は鎌倉時代に博多湾一帯に元軍の襲来に備えて築かれました。
大隅国の石築地賦役文書によると田一反あたり一寸の割合で各国の御家人たちに労役が課され
鎌倉幕府が滅亡する前年まで工事は続けられたと伝わります。
かつては西は福岡市西区今津から東は福岡市東区香椎まで長さは20kmにも及んだといいます。
城びとの元寇防塁は生の松原のものですが、今回は5か所訪問しているので
一緒に紹介させていただきたいと思います。
①生の松原元寇防塁 国指定史跡  建治2(1276)建造
 所在地‥福岡市西区生の松原1
②地蔵松原元寇防塁 国指定史跡  建治2(1276)建造
 所在地‥福岡市東区筥松4

 生の松原元寇防塁は当時の防塁が再現されています。実際の防塁は地中に埋められている模様。
 この地は弘安の役の激戦地で「竹崎季長」が先駆けを務めたと伝わります。
 肥後の国の御家人が工事を担当しました。

 地蔵松原元寇防塁は現在公園になっています。国の史跡に指定されていますが
 遺構はまったく見当たりません。地中に埋められているものと思いますが
 すこし物足りなく感じますね。大正9年、平成5年と12年と3回にかけて発掘調査が行われて
 それぞれ遺構が発見されています。
 薩摩の国の御家人が工事を担当したと伝わります。


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しんちゃん

小早川隆景が大改修。博多湾に築かれた大水軍城。 (2022/12/31 訪問)

名島城は豊前の国の大友氏の庶流、立花艦載によって立花山城の出城として
築かれたと伝わります。
九州平定を果たした豊臣秀吉によって小早川隆景に与えられ、水軍の本拠と出来る
城に大改修されました。
コインパーキングに駐車して名島神社から城域に入ります。
名島神社への参道がその高低差を持ってこれから城域に入るのだと教えてくれます。
名島神社の背後に城址公園、周囲の宗栄寺、住宅地に至るまで丘陵地一帯が城址のようです。
神社も寺も宅地に至るまで全部郭だと考えると城の全体像がイメージできますね。
佐竹義宣の家臣、平塚滝俊がこの城を、島に構築された水軍城で城下町が形成され
直接大船を接岸できる上、石垣も天守も立派だったと伝えています。
小早川隆景が精力を尽くして素晴らしい水軍城を作り上げたのだと想像を掻き立てますね。

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じゅんじん

成就院 (2023/05/14 訪問)

成就院が城址になります。門の外に堀跡の碑がありました。

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じゅんじん

太田小学校 (2023/05/14 訪問)

小学校でした。

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じゅんじん

森の中 (2023/05/14 訪問)

入口がトラロープにより侵入不可でした。

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じゅんじん

城址碑 (2023/05/14 訪問)

弓道場の奥に城址碑がありました。

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しんちゃん

時代の波に翻弄された白井氏の謎多き城。 (2023/01/10 訪問)

府中出張城は応永年間(1394~1428)に千葉氏の末裔である白井胤時によって
築かれたとあります。(wikiより)
白井胤時さんのことは調べても出てこないのでどのような人物かわかりません。
城域もはっきりとはわからないので国土地理院の地形図を見て
あたりをつけて攻めていきます。
宅地の背後にある小高い丘を最高所として上部の扁平地を確認。
あとは周囲の扁平地が城域(郭)になると思います。
長福寺周辺の扁平地を確認。なかなか眺望も良いので主郭か二の郭があった
可能性があります。
あとは神武天皇ゆかりという多気神社へ。私、実は神社好きでもあります。
山城もマイナーな城跡も神社もお賽銭を除けば基本タダですからね。
こういった人は案外多いのではないでしょうか?
さてこの神社、古事記や日本書紀にも記載のある古くて由緒のある神社です。
ということは戦国の時代に郭として機能していた可能性は十分にあるわけです。
神社を散策しながら城郭を探索している気分になって二重にお得感がありますね。
白井氏は水軍を有し、後に小早川隆景に下ったというので
毛利水軍の一角を担ったのでしょうか?白井氏のその後も気になりますね。

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赤い城

もう一度行っておきたかった。 (2023/06/10 訪問)

堀底道パラダイスのお馴染み小幡城、
関東を離れる前にもう一度行っておきたかったので登城しました。
駐車場からすぐに城の入口があります。
整備されているので順路に沿って進むとほぼほぼ楽しめます。
やはり高い土塁を見上げながらの堀底道散歩は素敵。
何度も殺されます。
櫓台に登ると土塁のくぼみの変形武者走りも見ることができます。
堀底道に戻って進むと土橋が。
こちらもいい感じです。
その外側の堀にも降りてみました。
竹やぶの中に明瞭に残る堀でした。
主郭は土塁で囲まれ、井戸も残ります。
常陸っぽい平地を深く掘った城です。
久米城と並び茨城県では双璧の城ではないかと思います。
機会があればぜひ行って欲しい城です。

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しんちゃん

何回も来てるんだけど石垣に刻印を発見。名古屋城からのおすそ分け? (2023/06/17 訪問)

本日 お隣の自治体 田原市の田原城に行ってきました。
田原城は天文12年 戸田宗光が築城し、高縄城から移ってきました。
その後、今川氏の怒りを買い田原戸田氏は滅びます。
時がたって慶長6年 戸田尊次が1万石で入城。寛文4年 三宅康勝が1万2000石で入城。
その後代々三宅氏の居城として明治時代を迎えます。
江戸時代の縄張りや遺構をある程度留めていて、大手の桜門の前には
石垣と堀の代わりの袖池が広がります。門を入って右手に三の丸があり
今は護国神社が鎮座します。復興コンクリート造りの二の丸櫓は展示館として機能しており
内部に田原城の模型が展示されています。
この模型によると、通常は南東部の腰郭から三の丸を経由して出入りをしていたようで
複雑に折れ曲がった登城道にいくつもの小さい門が設置されていたようです。
近世城郭としては比較的小規模ですが、石垣や土塁、空堀など必要十分な防御設備を
備えていたようです。ここはさすが戦国戸田氏が本城にしていただけはあるようです。
二の丸には田原市博物館が設置されており、郷土の英雄 渡辺崋山の展示が常設してあります。
二の丸と本丸の間には大規模な空堀があるのですが、向かって左の空堀には石の階段と通路が
設置してあって、そのまま進むと門があって、そこからも出入りできます。
その昇降用の石段の周辺の石垣に刻印をいくつか見つけました。
イタズラなのかなとも思ったのですが、いささか古びた同じデザインの刻印が
あることから、名古屋城建造の際に余った石を吉田城にお裾分けしたさいに
田原城にもお裾分けがあったのかもしれません。
吉田城も田原城も天守台用の櫓の石垣は、この近辺で取れるチャートの石垣ですが
刻印のある石とその周辺の石は花崗岩です。そう思うと少しテンションが上がります。
本丸は現在、巴江神社になっており、神社の石碑の書体は東郷平八郎元帥によるものです。
蒲郡にある竹島の橋のところにある鳥居の扁額の書体も東郷元帥によるものですが
このあたりに来られたことがあるのは間違いなさそうですね。
本丸の周囲は1m位の土塁で囲まれ櫓台らしき高台もあり、土塁の跡も残っています。
なかなか見どころの多い城郭です。

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チェブ

政宗 ダテニクル? (2023/05/13 訪問)

以前に投稿した「下館城」と同じく、平将門さんが挙兵した時に藤原 秀郷さんが築いたとされる、上館・中館・下館。その中の、中館=「伊佐城」です。
でも、もう少し前から「伊佐城」はあったようです。

写真②、五行川の橋を渡った左手に駐車場がありました。駐車場から観音堂に向かうと、写真①の堀切。くぐって、ぐるっ。堀切にかかる橋に行けます。ここから、連郭式も納得。段々と少しづつ高さを変え細く続きます。広く郭だったと思われる所は土塁がありました。でも、「伊佐城」の頃のかは分かりません。

伊達 行朝さんのお墓がありました。
うむむ?この辺の歴史が分かりにくい。
源 頼朝さんの奥州征伐に、伊佐氏の5代目が従いました。功を立て福島県伊達郡を与えられました。伊達家の祖の誕生です。
因みに、行朝さんは7代目。ややこしい。

私は「伊佐城」の石碑を見つけられず、かなり歩いてしまいました。
帰って、伊達 行朝さんを調べようと検索すると、『政宗ダテニクル』のご当地アニメが、、、。
伊達 政宗さんが、16人のご先祖の力を借りて戦うようです。
ちょっと、面白そうです。

実は、大河ドラマ『どうする家康』で後半に、結城 秀康さんが登場する前に、結城周辺のお城に行っておこうと思い攻めました。
まさかの伊達家に出会うとは、勉強不足。
まずは『政宗 ダテニクル』を見ようっと。
そしたら、「伊佐城」がもっと遠くなる予感がしますが、、、。

*投稿後、『政宗ダテニクル』の4話まで観ました。
「伊佐城」は出てきません (´ε`;)

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