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カズサン

伊勢未踏の城廻Ⅲ一之瀬城東の城跡 (2023/03/19 訪問)

 大台町の三瀬砦三瀬館を終えて東方に在る一之瀬城を目指し、紀勢自動車道大宮大台ICから玉城ICを降りて地道県道65線から県道22号線を通り度会町脇出の元一之瀬小学校辺りの道沿いに看板(一ノ瀬城/一之瀬神社)が有り良く分かります。

 駐車場:一之瀬神社参道前、元一之瀬小学校南側に一段下がって駐車場完備、トイレも小学校側に完備。

 資料:トイレ横参道横に一之瀬城の資料7ページをクリップで綴じてボックスに入れて有り、一部頂きました大変ありがたい、縄張り図も東の城跡、西の城跡もあり、一之瀬城を守る会ボランティアの方々に感謝です。お礼を兼ねて備えのノートに記入しました。

 登城ルート:駐車場、参道、南階段を登り見張り台へ宗良親王御遺蹟石碑が立っている、急峻な崖に立っており尾根道の狭く東側が土塁、一之瀬神社を参拝、一之瀬神社の北裏に郭群が有り、周囲の西から北に横堀が走り外は土塁、内は主郭の切岸、北側に横堀を合わせ三重堀になっている、主郭北東に竪堀が落ち込み、その横に主郭への階段が取り付けられている、登ると第二郭が有り桝形の様になっている、一段登って主郭、北側に一段下がって第二郭、すぐ北は神社となっている、東側は急峻な崖、枡形、第二郭東横を下りて南側の竪堀、神社本殿横に、縄張り図には南側に三重堀があるが良く分かりませんでした。
 こじんまりした城跡ですが城跡遺構がよく残っています、横堀、竪堀、土塁、切岸、三重堀、郭、枡形、見張り台と山城のサンプルのようです。

 歴史は宗良親王の御遺蹟碑があるように南北朝時代南朝方、後醍醐天皇の宗良親王は延元元年(1336年)北畠氏に奉じられて南伊勢に赴き、愛洲氏に迎えられて翌年まで一瀬に滞在しました。その後東国を目指して伊勢大湊を出港し暴風に遭いながら遠江に上陸し井伊谷城に入りました。(いただいた資料より)
 
 この後は西側の西の城跡へ向かいます。
  

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イタさん

周囲に微かに残る堀跡 (2023/03/22 訪問)

 館跡は岩殿山息障院光明寺になる。山門前の案内によれば、天平年中(730年頃)の開創、または大同年中(806年頃)の開基と伝わる。境内地は源範頼の館跡といわれ県の指定史跡、本尊は不動明王像で県指定の重要文化財、地蔵堂は室町時代で重要建造物となっている。

 参道入口手前、幼稚園側に駐車場がある。本堂裏手は遠慮したが西側は竹藪となり入れない。山門左手は堀跡が西へ延びている。東は消滅。境内西には北に向かう堀跡が確認できる。北側(道路)では水路なのか堀跡か分からないが、西の堀跡が来ている。北から東に回り込むと堀跡と思える水路が続く。

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にのまる

遠州海岸 (2023/02/23 訪問)

浜松駅から遠鉄バスで「東若林」下車。
遠鉄はIC対応ですがPASMOなどの交通系共通ICカードは使えません。しかしそこは郷に入っては郷に従え。チャージを積み増しというなど、その土地の慣習を知るのも旅の楽しみのひとつです。
バス停から海岸に向かって徒歩約20分で台場跡に到着しました。
説明板によると幕末に建造された三か所の台場のうちのひとつとのこと。砂地でさらさらした小山にのぼってみると、まっすぐに延びる防潮堤が見えました。これは行かずにはいられません。
気になるのは当時の海岸線ですが、地元のカズサンさんのご投稿により用水路のあたりだったとの情報をいただきました。ありがとうございますm(__)m
台場から海岸入口までは歩いて3分。防潮堤の上から振り返った台場が写真⑤です。都市化の中でこの場所が残された意味を考え、将来へ語り継ぐ大切さを思います。
海岸へ降りてみると、そこには得も言われぬ美しい光景が広がっていました。
自然のみがつくり出すことのできる風紋、夕日を浴びてキラキラ光る水面、釣り人の後ろ姿。
雑念に満ちた日常から解き放たれ、暫し心地よいときを過ごせました。

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イタさん

国指定史跡 比企城館跡群の一つ (2023/03/22 訪問)

 説明板に、築城は山内上杉氏・扇谷上杉氏らによる関東の動乱を背景とした15世紀後半という考え方が有力。その後、武田氏・後北条氏・岩槻太田氏・越後上杉氏の間で幾多の合戦が繰り広げられる。天正18年、前田利家・上杉景勝の包囲され落城、徳川の関東入国後は松平氏が入ったが、慶長6年(1601)に松平氏の移封に伴い廃城、と書かれている。

 城跡の東入口から入ると、右に下草の刈られた小曲輪があり、堀を挟んで曲輪四へ。三ノ曲輪へは低い位置に土橋がある。堀底を北に行くと方形の枡形状虎口跡にでる。右に行けば根小屋へ、左は惣曲輪を通り、兵糧倉跡・本曲輪へ行く。
 本曲輪は兵糧倉側虎口・二ノ曲輪側虎口の間が二ノ曲輪方向へ突き出ている。南寄りに神社?の基礎部が残り、参道を下がれば笹曲輪があり、堀状の道は西下の當選寺寄りの散策路に出る。二ノ曲輪は本曲輪の出っ張りを囲む形だが画像では伝わらない。三ノ曲輪は細長く狭い曲輪だが、周囲の堀はよく残る。西下(市野川)に岩室観音堂が建つ。背後の切通状の道が通行出来れば、惣曲輪の西端に出られそうだ。

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小城小次郎

三池氏の平時の居館というが (2022/11/13 訪問)

鎌倉時代の能吏であった中原氏の一族とされる三池氏は鎌倉時代のごく初期にこの地の地頭職を得たらしく大間城はその時以来の「平時の居館」だという。もっとも16世紀にはこの地に「平時」はなかったような気もするが(汗)。

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todo94

三河日帰りドライブ・5城目 (2023/02/23 訪問)

松平郷の前にもう1城、つまみ食い。古瀬間城にも立ち寄ってみました。城址碑、説明板、展望台が整っていて、お手軽に攻城できる割には眺望も良くて、楽しめる城でした。主郭の梅が咲き始めていました。

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ぴーかる

白鹿城 (2023/02/26 訪問)

【白鹿城】
<駐車場他>白鹿谷登城口前<35.500426, 133.051724>に3台程度可能。
<交通手段>車

<見所>竪堀・堀切・曲輪
<感想>1泊2日尼子十旗攻城の旅2日目6城目。第一の城、白鹿城の築城年・築城主は定かではありませんが、戦国時代には尼子氏の家臣の松田氏が城主となっています。白鹿城の戦いでは城主の松田誠保は籠城しよく耐えてましたが、毛利軍は荒隈城の向城を築城、吉川元春が真山城を占拠して攻城し、1563年に落城し廃城となりました。
 登城口が城跡の北西端部分にあたります。曲輪の切岸下の山道を回り込むように進むと右手に竪堀群が表れます。左手に入り込むと北西の曲輪群があります。竪堀群の奥が堀切になっており、南西方向に向かって右手に曲輪群、左手はすり鉢状の谷になっていて谷底は曲輪になっているようです。堀切の北側から切岸を登って、井戸跡のある曲輪、上段に月見御殿の曲輪、月見御殿の北側奥が本丸になっています。本丸から北東側にかけて小さな連郭が連なっており、東側にスロープの道が残っています。当時のものならば大手道かと思いました。月見御殿の南東側に一の床から三の床といわれる連郭が連なっており、特に一の床曲輪が広いので、ここが主郭、本丸跡は大手曲輪のように私は感じました。尼子十旗第一の堅城といわれるだけあって見応えある城跡でした。

<満足度>◆◆◆

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赤い城

(2023/03/12 訪問)

円郭式縄張という特徴的な城です。
城めぐイベントで立ち寄ったので本当に駆け足での登城となりました。
小学校の校門前に本丸跡の碑があります。
ほぼ住宅地になっていてところどころに土塁などの遺構が残ります。
じっくり歩きたいところですがイベントコンプリートが目的なので気持ちを抑えることに。
下屋敷の見学は次の機会とし、次に向かいました。

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にのまる

筏問屋田代家と。 (2023/02/23 訪問)

二俣城の西の曲輪を経て天竜川河畔に下り、そのまま徒歩で鳥羽山城へ向かいました。
かつては二俣川が注ぎ、振り向くとそこは天嶮の城……のはずなのですが、あまりののどかさに“戦場をイメージする”というお題を忘れてしまいそうです。
鳥羽山城へはわんぱく広場に接続する遊歩道から登りましたが、本丸搦手口に向かうなかにも随所に石垣が見られ、公園整備によって城址が守られていることを実感しました。
本丸広場には城の最終形態を今に伝える枯山水庭園。大手門や東門跡には石垣遺構もたくさん見られ、二俣城と好対照な様相を楽しみました。

帰りは遠州鉄道西鹿島駅まで2㎞ほど歩きます。
車道沿いを下山し始めるとすぐに「天竜川筏問屋 田代家」への大きな案内が目に入りました。車道脇の山道を入っていった先にあるようです。
遠州鉄道は本数も多いので寄り道しても全く問題ありません。車道を歩くより楽しそうなこともあり、行ってみることにしました。この山道は江戸・明治期の鹿島から二俣への鳥羽山越えの道で、村人や旅人が利用していたのだそうです。当時の石積みも見られ、昔の旅人気分を味わえました。
そして見えてきたのが写真⑥の建物です。
玄関へまわってみると「徳川家康の朱印状 大久保彦左衛門の詫証文」の看板が。
目の前に突如現れた心躍るこの文字列。導かれたことにただただ感謝です。
田代家は浜松城へ敗走する家康を助けた功により下された筏川下げの朱印状や三河物語の大久保彦左衛門の詫証文が伝わる旧家で、三方原の戦いと天竜川のお話をうかがい、そのほかにもたくさんの先祖伝来の品々を見せていただきました。
幕末建築の屋敷内も見学させていただきましたが、竈や櫓(ろ)、帳場、電話ボックス、見事な彫刻の施された欄間など古民家好きには堪らないものだらけでした。
そして帰り際に「天竜川北鹿島の里 田代家物語と二俣城」「天竜川河畔絵図」を購入しました。二俣城、鳥羽山城についても詳述され、この冊子もよきめぐり逢いでした。

天竜川を渡り駅へ向かいながら鳥羽山城の遠景を望み、西鹿島駅ではずらりと並んだ松潤のポスターに迎えられ、浜松市街へと向かいました。

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トク

【かるた】熊本城の読み札 (2023/03/24 訪問)

甦れ 難攻不落の 熊本城

復興作業が続く熊本城。
しかし、現在復旧したのは写真の天守だけです。
その他の部分はまだ悲惨な姿をさらしたままです。
2022年 難攻不落!最強の城総選挙第1位。
よみがえってその雄姿をぜひまた見せてほしい

という気持ちを込めて詠みました!

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チェブ

梨。 (2023/02/25 訪問)

『実は千葉県の白井市出身なの。』と、ずっと同じ東京の端っこ友だと思っていたのに、突然の告白。
『白井市にもお城、ある?』の問いに速答できず、後日『お城を探す』で確認。

千葉県白井市の「名内城」、こんな理由で攻めてきました。
『東光院』という お寺さんが「名内城」の一部のようです。ここまでの道、かなりグネグネして見通しが悪いです。
、、、お城の周りだからでしょうか?
車を『東光院』の前に止めて写真を写し退陣しました。
今は季節ではないので閑散としてましたが、梨の産地のようで、看板や幟が目に付きます。
千葉県は梨の産地、トップ3に入ってます。
『私は茨城県の親戚が送ってくれるので、千葉県のは食べてない。今度、梨を買いに来るのも良いかも。』
と「名内城」、置いてきぼり。

写真3枚で、白井市出身の友達に伝わるかな~と心配になった「名内城」攻めでした。
*毎度の脱線、すいません*

あっ、トクさん、私は『島左近』が好きですよ。

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トク

㉜【関ケ原の26人】(ちょっと休憩)

前半の15人が終わりました。
これまで読んでいただき大変ありがとうございます。

これから後半の11人が登場します。そして最後の26人目は私(トク)が選ぶ「関ケ原のMVP(最高殊勲武将)」です。それはいったい誰でしょうか? みなさんよければ予想してみて下さい。

ではその前にちょっと休憩をいただき、「熊本城の最新状況」などをお伝えしながら、4月中旬頃より後半11人へ続く予定にしております。また引き続きよろしくお願いします😊。


(0)前書き1(関ケ原古戦場記念館)
(0)前書き2(陣跡めぐり方法)
(1)小早川秀秋
(2)吉川広家
(3)福島正則(敢闘賞)
(4)織田秀信
(5)島左近
(6)京極高次(殊勲賞)
(7)細川忠興
(8)小西行長
(9)宇喜多秀家
(10)竹中重門
(11)鳥居元忠
(12)田中吉政(好プレー賞)
(13)平塚為広
(14)池田輝政
(15)加藤嘉明
(16)
(17)
(18)
(19)
(20)
(21)
(22)
(23)
(24)
(25)
(26)関ケ原のMVP(最高殊勲武将)はたして誰?🤔

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朝田 辰兵衛

【かるた】福山城の読み札 (2023/03/18 訪問)

白黒は つけずにツートン 福山城

令和の時代,白黒つけない中間的立ち位置(ご近所の姫路城[白]と岡山城[黒]を意識)で,リニューアルされたツートンカラーの天守を詠んでみました。
(「みんなの投稿」からもエントリーできるようになったんですね!)
※続け,常連の猛者たちよ!

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朝田 辰兵衛

【かるた】新発田城の読み札 (2021/08/21 訪問)

方角を 惑わす三シャチ 新発田城

敵の方向感覚を惑わす,稀有な三シャチを詠んでみました。
(「みんなの投稿」からもエントリーできるようになったんですね!)
※続け,常連の猛者たちよ!

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朝田 辰兵衛

【かるた】春日山城の読み札<城郭名修正済> (2016/06/18 訪問)

くびき野の 安寧見守る 春日山城

春日山城から眺望する「くびき野」と,山頂部に鎮座する「毘沙門堂」を詠んでみました。
(「みんなの投稿」からもエントリーできるようになったんですね!)
※続け,常連の猛者たちよ!

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AJ

どうする正信 (2017/03/21 訪問)

三河を去った本多“松山”正信。しばしお別れですね。「伊賀越え」あたりでまたひょっこり顔を出してくれるでしょう。さて、話題はちょっと未来へ。

場所は相模国・玉縄城址(神奈川県鎌倉市)。北条早雲による築城、あるいはそれ以前から砦があったとされる平山城は小田原防衛ラインの一角。残念ながら、遺構の多くはマンション建設で破壊され、史跡指定も難しい状態だとか。通りすがりの私は革靴だったこともあり、今回は山登りも途中まで。

ご覧の通り、行政はもっぱら北条推し。場所柄、決して珍しくありません。故にあまり知られていませんが、この地は家康の関東移封後、本多正信 が拝領します。わずか2万石(1万石説も)。側近中の側近とは思えない少なさ。

正信はその後、一切の加増も望まなかったというのが多くの方が指摘するところ。他の三河家臣団と一線を画した大参謀と家康の関係はやはり特殊なようで、石高では測れない何かがあったのでしょうね。2人の関係性、最後まで丁寧に描かれることを期待したいと思います。

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atsufumi

お花見できます。 (2023/03/24 訪問)

見事な桜花!
古城公園として整備され、本丸・二の丸・三の丸・帯曲輪には桜がたくさん植えられていて、今、まさにお花見の季節でした。
城門・物見櫓が復元整備されていたのですが、老朽化のため取り壊されちゃったそうです。残念!

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todo94

三河日帰りドライブ・4城目 (2023/02/23 訪問)

大樹寺の駐車場が満車だったためスルーし、松平郷に向かう途中で立ち寄りました。書院、花火資料館等、一通り見学して松平家の墓所に向かう途中には土塁もありました。岡崎市の施設のようですが、なかなか楽しめるスポットでした。

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キンヤ

大きな空堀と土塁がよく残された城 (2023/03/05 訪問)

説明板によると築城時期は諸説ありますが、鎌倉時代に武士の館として使われ、関東の覇権をめぐる動乱期の1400年代初め頃に、現存する土塁と堀が拡充・再整備されたと推定されるとのことです。

青島判官恒儀が築城したと伝承もありますが、天長6年(829年)に没していることから、この伝承は考えにくいようです。
戦国期の後北条氏時代には山田伊賀守直安が城主であったとも伝わるそうです。

本郭は方形で南以外の東・北・西側は大きな空堀と土塁で囲まれてます。
ニの郭北側には、木が伐採され丸裸になったクランク状の巨大な土塁があり驚きました。

周囲は宅地や高速道路がある平城ですが、空堀と土塁がよく残された、なかなか良い城でした。

時間の都合で本郭、ニの郭北側の一部にしか行ってませんが、掲示されている縄張図から、二の郭・三の郭まで含めると広大な城域であったことが分かります。
この日、青島城の前に行った菅谷館と広い郭や縄張りが似ているように思えました。

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朝田 辰兵衛

雪捨て場になってなくて良かったです。 (2023/03/04 訪問)

往々にして館跡は雪捨て場と化しているのでは…と思います。越後を基準にして申しわけないですが…。
ま,ここは農地に改変されていましたので,雪捨て場の心配はありませんでした。

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