かせだじょう

加世田城

鹿児島県南さつま市

別名 : 別府城、[福寿城、中ノ城、尼ヶ城]
旧国名 : 薩摩

投稿する
加世田麓地頭仮屋跡
口コミ・画像を投稿する

みんなの写真投稿

投稿する

みんなの口コミ

投稿する

カズサン

加世田麓 (2025/10/29 訪問)

 薩摩藩は江戸藩政期支城群は麓と称して地頭仮屋を中心に領地支配されていました、加世田も加世田麓として治められていました、別府城尼ヶ城公園の西側北側に麓時代の武家屋敷通り、益山用水路沿いに往時を偲ばせる用水路、生垣、石垣、武家屋敷、同門構えが揃って何とも言えないゆったりした空間を醸しております。ゆっくり散策するのがお勧めです。
 
 加世田麓地頭仮屋跡は別府城西石階段を降りて益山用水路、同通りを北に国道266号線を越え約100m程の西側に在ります、石垣と石柱門が立ってるだけです、説明板によると、地頭職は明治5年に廃止され、建物は明治11年頃取り壊られた。その後も加世田村役場や加世田警察署、加世田小学校、法務局出張所、加世田幼稚園などが相次いで置かれた。と記載されています。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

カズサン

別称は別府城と言われてる (2025/10/29 訪問)

 早朝鹿児島城御楼門探訪し朝食後、鳥取城スタート九州一周城探訪6日目は先ず薩摩半島の加世田城を目指す、地道で直線約20km南西方向経路で約38km程、山道成も道は良し。
 加世田には仕事で1回、薩摩半島城廻り観光で3回程訪ねていますが、加世田城は何処かなと頭を回らすが辿り着けず、今回地図とナビに入力して順調に到着。(加世田城は?30年で初登城、目的達成)

 駐車場:尼ヶ城公園(別府城跡)一段下がった北隣、グランドに成って居る。公園南下にトイレ有。
 参考資料:城郭放浪記さん余湖図コレクショングーグルマップに依る。

 尼ヶ城公園と東の加世田地区公民館、その上の山に別府神社、佐岐比佐神社が鎮座してる辺り一帯が加世田城/別府城跡だった様です。別府城跡説明板には昭和37年別府城を崩し、校門付近は、半分の高さに残した。と記載されています。
 東側の別府神社辺りは余湖図コレクションの俯瞰図では土塁に曲輪が描かれていますが、住宅街で少し踏込ずらく公民館辺りから眺めて終わりにしました。
 公園の南西部に加世田開発の領主「別府五郎忠明顕彰碑」と説明石盤が有ります、一段高い西中央に自然石で「別府城跡」碑が立っている、北西に元加世田小学校の校門石柱、沿革史石盤が立っています。その西側に益山用水路まで降りる石階段があり元小学校正門/元城郭の正門かな?石造りの立派な階段です。

 歴史は、平安末期、平家の一族、別府五郎忠明は別府城を築き加世田開発の拠点とした。
 応永27年(1420年)別府氏は島津氏に降り、薩州家島津氏が加世田の城主となった。その後別府城島津実久は宗家に謀反を起こしたので、日新公は別府城を攻略し、以後加世田は(別府城)は薩摩藩の直轄に成った。
 明治36年から53年間ここに加世田小学校があった。
 (別府城跡の説明板による)
  

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

削られつつも何とか残った加世田城 (2023/01/05 訪問)

加世田城は平安時代、平氏の流れをくむ別府五郎忠明によって築かれました。
加世田城(別府城)は福寿城・尼ヶ城・中之城の三城で構成されていましたが
明治36年に地ならしがされ、尼ヶ城の一部を残し削り取られてしましました。
現在城址碑の建っている城址公園はその尼ヶ城の残された部分になります。
加世田城は島津氏に吸収されたので当然麓が存在します。
一国一城令で薩摩は各地に残った城の麓に地頭を置き、いざという時に備えました。
加世田城も江戸時代は加世田麓として存在していたはずです。
まずは加世田城の残遺構を確認したのち、加世田麓の地頭仮屋に向かいます。
現在は加世田幼稚園になっているようです。
石垣のようなコンクリートブロックの奥にいかめしい門柱がたっていて
たしかに地頭が住んでいてもおかしくないような雰囲気を漂わせています。


+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

小城小次郎

ネズミの遊具が意味するところ (2022/07/09 訪問)

平家一門の別府氏によって拓かれ、島津実久と島津忠良とが激しく戦った場所でもあるようだが城地は削られて今はほぼ何もない。しかし公園に置かれた何者かのお尻をかじるネズミさんは何を表象しているのだろう。

+ 続きを読む

城郭情報

分類・構造 平山城
築城主 別府忠明
築城年 治承元年(1177)
主な城主 別府氏、島津氏
遺構 曲輪、土塁
再建造物 石碑
住所 鹿児島県南さつま市加世田武田城ノ山