きゅうほうじじょう

久宝寺城

大阪府八尾市

別名 : (久宝寺寺内町)
旧国名 : 河内

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じゅんじん

路地に石碑 (2024/10/18 訪問)

昔は土塁があったそうです。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)12日目:久宝寺城 (2024/10/03 訪問)

八尾城から徒歩15分くらいで、城址碑付近(34.629825、135.586510)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、畠山家国によって築かれたと云われています。 家国の子孫畠山満基の長子満貞は渋川郡を領して渋川満貞と名乗り久宝寺城に居城したそうです。
渋川満貞の子光重(光貞とも)は播磨国安井郷を領して移り安井氏を称しました。光重のあと、光長、光行と続き、安井定継のときに久宝寺城に戻ったそうです。
安井定継の子定重・定正兄弟は織田信長に仕えましたが、1577年(天正5年)本願寺の兵によって攻められ定重は討死、定正もこのときの傷がもとで没しました。
安井氏はその後も久宝寺寺内の支配権を有して江戸時代まで続いています。

久宝寺城は久宝寺寺内の一角に築かれていたそうです。
遺構はなく、細い路地脇に石碑と案内が建っているのみです。
電車の時間が迫っていたので、攻城時間は2~3分くらいで速攻撤退でした。次の攻城先=正覚寺城を目指す為、久宝寺駅から電車で平野(関西本線)駅に向かいました。

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イオ

久宝寺寺内町 (2024/01/14 訪問)

久宝寺寺内町は戦国中期に久宝寺御坊と呼ばれた一向宗の顕証寺を中心に形成された寺内町で、寺内町としての特権は江戸初期までに失われましたが以降も在郷町として存続しました。

久宝寺城に続いて登城(登町?)。寺内町の周囲は二重の堀と土塁で囲まれていましたが、現在では顕証寺の南辺に江戸中期に南に拡張された際の土塁と堀(の名残の水路)が見られるくらいです。寺内町は碁盤の目状に区画され、東に東口と今口、西に西口と古口、南に南口、北に北口が設けられており、各木戸口には地蔵尊が祀られています。八尾街道が西口から寺内町の中を通って東口を出て八尾へと続いていて、西口と東口付近に道標が建てられています。東口脇には顕証寺が引水した溜井戸で唯一の上水だった寺井戸跡もありました。大坂夏の陣では長宗我部盛親と藤堂高虎が久宝寺寺内町をめぐって戦いになっており、今口には長宗我部物見の松址があります。

蓮如が開いた寺内町の中核寺院だけあって顕証寺は山門も本堂も見上げるほどの巨大さで、北辺の白壁の長屋門も見事でした。長屋門の道向かいには寺内町ふれあい館があり、展示コーナーなどもあるようですが、この日は駐車場工事中で入口が閉鎖されていたため入館していません。そして寺内町の古民家をいくつか見学(外観のみ)して寺内町を後にしました。

先日の塚口に続いての寺内町ですが、木戸口ごとに祠(塚口は愛宕祠、久宝寺は地蔵尊)が祀られていたのが印象的でした。さすがは寺内町。城郭的な遺構はほとんど見られないにせよ、古い町並みはなかなか風情がありました。
 

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イオ

天地明察 (2024/01/14 訪問)

築城時期は不明ながら、畠山家国または畠山満基が築いたとされ、室町期には満基の長子・渋川満貞が居城としました。満貞の嫡子・光重は播磨国安井郷を領して安井氏を称し、後代に久宝寺城に復帰してこの地を治めました。安井定重が織田信長に従ったことから石山合戦で本願寺勢に攻められて落城するも、以降も安井氏は豊臣氏、徳川氏に仕えて久宝寺を領しました。

JR・久宝寺駅から登城。久宝寺寺内町北西隅の張出部(小字「城土居」)あたりが城跡とされ、かつては土塁が遺っていたようですが、現在は城址碑と説明碑が見られるのみです。また、寺内町東部には渋川満貞が創建し、安井定重が再建した講筵「麟角堂」の石碑が立てられています。

ところで、渋川とか安井とか改姓とか、何か聞き覚えがあるような…と思って調べてみると、城主の安井氏って江戸前期に貞享暦を作成したことで知られる安井算哲改め渋川春海のご先祖だったんですね。遺構のない城であっても、こうして別々の知識が思いがけず繋がるきっかけになるのは楽しいものです。
 

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城郭情報

分類・構造 平城
築城主 畠山家国
築城年 不明
主な城主 渋川(畠山)氏、安井氏
遺構 消滅
再建造物 石碑、説明板
住所 大阪府八尾市久宝寺6-6
問い合わせ先 八尾市教育委員会文化財課
問い合わせ先電話番号 072-924-8555