久宝寺寺内町は戦国中期に久宝寺御坊と呼ばれた一向宗の顕証寺を中心に形成された寺内町で、寺内町としての特権は江戸初期までに失われましたが以降も在郷町として存続しました。
久宝寺城に続いて登城(登町?)。寺内町の周囲は二重の堀と土塁で囲まれていましたが、現在では顕証寺の南辺に江戸中期に南に拡張された際の土塁と堀(の名残の水路)が見られるくらいです。寺内町は碁盤の目状に区画され、東に東口と今口、西に西口と古口、南に南口、北に北口が設けられており、各木戸口には地蔵尊が祀られています。八尾街道が西口から寺内町の中を通って東口を出て八尾へと続いていて、西口と東口付近に道標が建てられています。東口脇には顕証寺が引水した溜井戸で唯一の上水だった寺井戸跡もありました。大坂夏の陣では長宗我部盛親と藤堂高虎が久宝寺寺内町をめぐって戦いになっており、今口には長宗我部物見の松址があります。
蓮如が開いた寺内町の中核寺院だけあって顕証寺は山門も本堂も見上げるほどの巨大さで、北辺の白壁の長屋門も見事でした。長屋門の道向かいには寺内町ふれあい館があり、展示コーナーなどもあるようですが、この日は駐車場工事中で入口が閉鎖されていたため入館していません。そして寺内町の古民家をいくつか見学(外観のみ)して寺内町を後にしました。
先日の塚口に続いての寺内町ですが、木戸口ごとに祠(塚口は愛宕祠、久宝寺は地蔵尊)が祀られていたのが印象的でした。さすがは寺内町。城郭的な遺構はほとんど見られないにせよ、古い町並みはなかなか風情がありました。
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