秋田市の久保田城を訪問しました。
秋田駅から徒歩でアクセスできますので、訪問しやすいお城かと思います。
久保田城は佐竹義宣の築城で、天守のない土造りのお城です。城内は二の丸、本丸を囲むように土塁があります。建物では唯一現存している「御物頭御番所」の他、表門、御隅櫓が復元されています。
御隅櫓内には佐竹氏、久保田城の歴史に関する展示があり、当時の面影を実感できるかと思います。
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2023/06/16 14:29
久保田城探訪 (2023/06/08 訪問)
秋田市の久保田城を訪問しました。
秋田駅から徒歩でアクセスできますので、訪問しやすいお城かと思います。
久保田城は佐竹義宣の築城で、天守のない土造りのお城です。城内は二の丸、本丸を囲むように土塁があります。建物では唯一現存している「御物頭御番所」の他、表門、御隅櫓が復元されています。
御隅櫓内には佐竹氏、久保田城の歴史に関する展示があり、当時の面影を実感できるかと思います。
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2023/06/16 13:42
東京でライブ遠征ついでに鉢形城へ。 (2023/06/16 訪問)
羽田空港から電車を乗り継ぎ鉢形城跡へ。
鉢形歴史館で100名城スタンプと御城印を購入。
寄居駅からタクシーで往復でした。
バスなんか本数全然無いぞ…💦
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2023/06/16 12:12
【長岡京市】「山崎の合戦」が起こった6月限定 ゆかりの勝龍寺城・山崎城で“山崎の合戦”限定版御城印を発売中!
「本能寺の変」で主君・織田信長を討った明智光秀と羽柴(豊臣)秀吉が激突した「山崎の合戦」にゆかりの2つの城「勝龍寺城」(長岡京市)と「山崎城」(大山崎町)が初コラボ!限定版御城印を新発売しています。
“天下分け目の天王山”で知られる山崎の合戦が起こったのは、本能寺の変から11日後の天正10年(1582)6月13日。山崎から勝龍寺城にかけた一帯が戦場となりました。
これにちなみ、両家紋をあしらった“山崎の合戦”限定版御城印「勝龍寺城」「山崎城」の2種類を発売しています。
【販売場所】長岡京市内観光案内所(3カ所)・神足ふれあい町家・《土日のみ》勝竜寺城公園、大山崎町商工会・離宮八幡宮
【販売期間】2023年7月2日(日曜)まで
【販売価格】限定版各500円 ※通常版は各300円で常時販売中。
💡長岡京市・大山崎町にお越しの際は、“山崎の合戦”ゆかりの城にぜひお越しください!
【長岡京市】明智光秀が“最期の夜”を過ごした「勝龍寺城」
・「山崎の合戦」に敗れた光秀は、拠点としていた勝龍寺城に退却し、最期の夜を過ごしました。
坂本城へ向かう際に脱出したと伝わる北門には、当時の石垣と礎石が遺ります。
・この城では、光秀の娘・玉(のちのガラシャ)が細川忠興のもとに輿入れし、幸せな新婚生活を送りました。
・現在は、勝竜寺城公園として整備。2階歴史ミュージアムでは映像やパネルでゆかりの人物を紹介しています。
【大山崎町】秀吉が築いた「山崎城」
・山崎の合戦に勝利した羽柴(豊臣)秀吉が、天王山の山頂にある山崎城の城主となりました。
・山崎城跡には、天守台や井戸、土塁の跡、礎石などが遺ります。
・天王山山頂までのハイキングコースにある展望台からは山崎の合戦の古戦場や淀川の流れを一望できます。
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2023/06/16 11:17
㊼【関ケ原の26人】(19)藤堂高虎 (藤堂高虎と今治城) (2023/03/10 訪問)
(19人目)「藤堂高虎」の続きです。
今度は関ケ原後の居城「今治城」を訪れてきました。
福山駅で新幹線を降りて福山城の気になった鉄板をちょこっと見学し、福山駅前から「しまなみ海道」を渡る高速バス今治行に乗りました(予約不要:降車時現金払い2,800円、途中下車すれば能島城へも行けます)。瀬戸内海の絶景を楽しみながら90分、終点の今治港で降りると今治城が見えます(写真⑨:天守最上階より眺めた今治港としまなみ海道と瀬戸内海)。本当に海に近い場所です。港から歩いて10分くらいです。やはりこの今治城の天守と藤堂高虎のツーショットは実にいい感じです(写真①②:高虎様~!なかなか知的な顔です)。でも銅像は鎧兜(よろいかぶと)の姿ではなく、なぜか? 裃(かみしも)姿です。実は、関ケ原後の居城なので、平和な世に貢献する高虎をイメージしてあえてこういう銅像にしたとか・・(なるほど🤔)。また城の南側から眺めた今治城の景色が、私にはとても美しく見えました(写真③④)。
高虎は関ケ原の功で、従来の宇和島大洲8万石に加え、伊予北半分12万石が加増され計20万石となり、新たな居城として今治城の築城を1602年に開始し1608年頃にほぼ完成します。しかしその年に伊勢へ移封となり今治城は解体、その資材は丹波亀山城の天下普請に献上されたのは有名です。でもなぜせっかく天守まで建てたにもかかわらず、わずか6年で移封になり解体する事になったのか? 私はとても不自然なので不思議に思いました(この続きは津城にて)。
現在の天守は本来の位置ではなく、本当は隣の吹揚神社の位置に建っていたそうです(写真⑦⑧)。また天守の形も丹波亀山城の古写真(写真⑩)を元に再現されたというだけの事で資料に乏しく、なぜかその写真にはない大入母屋破風(写真⑤)などもあるため、模擬天守となっています。
これはあくまで私の推測ですが、おそらく天守は骨組みを組んだだけでまだ完成はしていなかったのではないでしょうか? だからすぐ解体できたのではないでしょうか? つまり、実はこのような白壁の天守は実際には存在しなかったのではないかと思いました(だから資料に乏しいのでは?)。 当時は慶長の築城ラッシュで資材不足、よって今なら解体して伊勢へ持っていけると思ったのでしょう。しかしそれを途中で丹波亀山城へ差し出せと言われたのは想定外だったようですが・・・ でも逆らわずに素直に差し出したのもそれなりの理由があるような・・・(この続きも津城にて)。
層塔型の天守を考案し諸大名に広め、江戸城の作事など数々の築城に携わり、築城名人として徳川幕府から格別の待遇を得た高虎ですが、でもよ~く考えてみると(🤔?) 結局自分の居城となる層塔型の天守を完成させた事は一度もなかったという事になりませんか? 津城は最初から天守は無く、伊賀上野城も天守は完成せず倒壊したので、全部他人のために層塔型の天守を建てたという事になるのではないでしょうか?(宇和島城は望楼型だったので)。
私は今治城の天守最上階に立ち、瀬戸内海や眼下の吹揚神社を眺めながら考えてみました(写真⑦⑨)。ここに高虎が建てたかった今治城の天守はいったいどんな天守だったのでしょうか? 本当は瀬戸内海の青い海に映え、平和の象徴となるような真っ白い天守を、ここに建てたかったのではないでしょうか?・・・
次は、関ケ原(藤堂高虎陣跡と大谷吉継の墓)へ続きます。
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2023/06/16 07:42
整備がいい感じに (2023/06/05 訪問)
にのまるさんのレポートで整備が入っていることを知り再訪しました。
寄居駅から徒歩で30分くらいにある諏訪神社が登城口。
この日は鉢形城からの転戦でした。
登城口で手作りのパンフレットを頂きました。
御城印もあるので集めている方はこれもゲット出来ます。
登城路にも案内板がいくつもあるので迷いません。
少し登ると二重の竪堀に。
このうちの一条が登城路になっています。
もちろん並走するもう一条も見学。
山頂部の堀切から麓まで落ちる長い竪堀です。
さらに登ると二郭と三郭の間の堀切に着きます。
まずは東側に。東の曲輪東の堀切へ。
この堀切も竪堀となり麓まで落ちています。
引き返し三郭と東の曲輪の間の堀。
クランクしていてこちらも竪堀に繋がっています。
二郭に戻り深い岩盤堀切を経て主郭へ。
主郭は広さもあり二段になっていました。
西の端に石碑も立っています。
主郭の下にも堀切があり、ここも岩盤を削ったものです。
順路通り進んで行くと元の登城路へ戻りました。
途中石積のある曲輪も。
下山の途中、西側の竪堀を見るのを忘れてたことに気付き、竪堀を渡り曲輪を経て向かいました。
こちらの竪堀も麓まで落ちています。
最初に来たときには遭難しそうになったのですが見違えるくらいに整備されています。
しかも程よくやり過ぎ感はありません。
埼玉の城振り返りには入れてませんでしたが茶色とV字満載の是非行ってもらいたい城です。
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2023/06/16 07:00
樟葉台場の対岸 (2023/04/30 訪問)
ゴールデンウィーク前半最後の攻城です。高槻で昼食をとった後、帰りがけに立ち寄りました。淀川の対岸の樟葉台場は見ごたえありましたが、こちらの河川敷には何もないとのこと。一応、堤防に上って河川敷を眺めてみましたが、写真は1枚も撮影しませんでした。
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2023/06/15 23:50
陣屋の井戸を見落とすな! (2023/05/03 訪問)
信州中野駅の東側になります。例の事件は,駅の西側で発生しました。
全然目立たず,案内もなく,見落としがちなのが「陣屋の井戸」です。鈴泉寺山門が飯山城移築門と伝わります。この,ほぼ向かいに「陣屋の井戸」があります。
この日は,井戸の至近距離に駐車車両があったため,いいアングルで撮影できませんでした…<泣>。
ホントかどうか不明ですが,「長野」は「中野」がなまって「長野」と呼称するようになったとのこと。
長野県内でも「長野」と呼ぶのはせいぜい北信濃エリア。他は「信州」とか「信濃」と呼称するのが一般的と,松本市内の友人が語っておりました。ご参考までに。
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2023/06/15 23:05
青空に映える東播磨のツイン・キープス (2022/12/29 訪問)
明石城は元和3年(1617)明石藩10万石の居城として小笠原忠真に徳川秀忠が命じて築かせた城です。
苦労して堅城を作り上げた小笠原氏は寛永9年(1632)小倉藩に転付になりました。
狂言で例えるなら
犬侍(いぬさむらい)真面目にやると 馬鹿を見る といったところでしょうか。
江戸時代、大名に忠誠心が育たなかった理由はこのへんにあるのかもしれません。
明石城の特徴は石垣の上にそびえる坤櫓と巽櫓ですね。
まさにツインタワー。クリス・グレンさんでいうところのツインキープスといったところですね。
まさにビジュバルばえする東播磨のWink城です。(古い)
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2023/06/15 22:29
三好長慶の最初の拠点。東播磨の出世城。 (2022/12/29 訪問)
越水城は大社小学校を中心とした高台一帯に築かれていたという。
wikiによると南は西田公園、北東の住宅地まで城域に含まれ、おそらく住宅地から小学校のエリアに
天守台も築かれていたのだろうと推測できる。
最初の天下人、三好長慶が最初に本拠にしていた城でまさに
東播磨の出世城といえる。
そんな由緒正しい城なのだが周囲に駐車場が無い。
小学校の周りをぐるぐる2周ほどしているのだが、これではまるで不審者ではないか…。
年末で人もそれほどいないので、止めれそうな場所に車をとめ、さっと写真を撮らせていただく。
やはり自分の足で城址を歩かないと城に行った気がしないのだ。
変なプライドに動かされながら、ささっとその場をあとにした。
アディオス西宮の出世城。ご利益がありますように。
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2023/06/15 21:58
播磨合戦どんの城 (2022/12/29 訪問)
豊臣秀吉の播磨攻めの際に最初に戦闘が行われた場所とされています。
黒田官兵衛率いる手勢と、野口城兵&教信寺の僧兵が戦いました。
当時は宗教勢力も戦争のシステムに組み込まれていたのですね。
教信寺は今回訪れなかったのですが、称名念仏の創始者 教信を開基をすると有ります。
とすると浄土宗なのでしょうか?
とかく織田の手勢はこの手の勢力と争う宿命にあるみたいですね。
次回訪問時は教信寺も訪れてみたいと思います。
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2023/06/15 21:41
ほぼ密閉状態の砲台。一発撃ったら内部はたいへん。 (2022/12/29 訪問)
国の史跡、西宮砲台は文久3年(1863)~慶応2年(1866)の4年をかけてこの地に築かれました。
まさに幕末の真っただ中で、幕府も大慌てで建造を命じたと思われますが
基礎部部は土堤に松クイを1000本以上も打ち込んで、その上に花崗岩の大岩をくみ上げるという念の入りよう。
本体には11も砲眼を備え、360度四方を狙うことが出来たと思われるが
天井がふさがれているので一発撃ったら内部はえらいことに…。
大急ぎで作っていた割には、えらく時間をかけてトンチンカンなものを作ってしまい…
突っ込みどころ満載ですが、この珍妙な国の史跡は
不思議と周囲の景色に溶け込んでいるような気がします。そう思うことにします。
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2023/06/15 21:06
入場料300円の続百名城の庭園 (2017/06/11 訪問)
続百名城の北畠氏庭園です。
前回訪問した際はまず館跡を訪れ、詰めの城の霧山城を訪れ
もう一回、館跡の庭園を訪れました。
美しい庭園に疲れた心が癒されます。
たしか庭園の見学には300円必要だったかな。
ここの庭園の売りはなんといっても池と苔むした石ですね。
特に派手なものはないけれど、じわじわくる良さがあるんですよ。
境内には花将軍 北畠顕家公の像があります。
あまり強そうには見えないのですが石碑を見ると
奥州の大群を率いて南朝の大義を貫き通し、ついに若干に二十一歳で阿倍野の露と消えた
鎮守府代将軍顕家公…(以下略)とあります、
若くして亡くなったのは残念ですが、すごい人だったんですね。
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2023/06/15 20:33
標高は高いが縄張りシンプルな北畠氏の詰めの城 (2017/06/11 訪問)
霧山城は続百名城北畠氏館の詰めの城です。
館とセットの認識ですね。標高560m比高240mですが意外とすんなり登城することが出来ます。
だったと思うんですよ。前回登ったのが6年前なので。
しんどかったらごめんなさい。
縄張りはシンプルです。まず鐘撞堂、北上して本丸。本丸の北に矢倉跡、本丸の南に米倉跡
…これだけかい。必要最小限な郭しかない。
まあ標高は高いし、北畠氏は支城をたくさん持っているし。
いざとなったらそっちに逃げ込めばいいか。
自分が登った時には鹿のふんがいっぱい落ちていました。
よけて歩くのが大変です。シカたのないことなのですが…。
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2023/06/15 20:03
北畠氏族、木造氏の栄華のあと (2017/06/11 訪問)
木造城は正平21年(1366)北畠権大納言顕能(あきよし)の三男、顕俊が築城しました。(現地案内板による)
彼が初代城主として木造氏を名乗り天正12年(1584)まで56年間、木造氏の城でした。
この時に織田氏がやって来て城をあけわたしたのでしょうね。
いまでこそ、でかい土まんじゅうに石碑を建てただけに見えますが
れっきとした北畠氏族の城郭だったようです。
かつて周囲は沼地で敵は攻めあぐねたようですが、今ではすっかり開墾されています。
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2023/06/15 19:38
いろいろと趣向をこらしてある堀内氏の山城(平山城) (2023/03/19 訪問)
天正16年(1588)に堀内氏が北山攻めの際に築いたと伝わります。
新宮城城主で熊野水軍の首領 堀内氏善(うじよし)が関ヶ原の戦で西軍に属して
桑山一晴に居城を追われ再びこの京城に逃げ込みました。
このたびは二度目の訪問になります。東の墓地側から侵入しました。
なぜここを選んだかというと、このあたりに畝状の竪堀がいくつかあるそうだからです。
年月がたってだいぶ浅くなってしまってはいますが、確かに畝状の竪堀がありました。
このまま居館跡を西に進み詰めの城跡へ向かいます。
居館跡(郭)との間には結構大きな堀切があります。
次回訪問時には堀切周辺の石垣も漏らさずチェックしておきたいと思います。(また来るんかい)
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2023/06/15 19:32
八神城 (2023/05/03 訪問)
【八神城】
<駐車場他>駐車場はなし。<35.268497, 136.692834>ポイントは路側帯の幅が広いです。
<交通手段>車
<見所>移築門
<感想>日帰り木曾三川ちょこ城南下の旅2城目。現地説明板を要約すると、八神城は鎌倉時代に尾張国長岡庄石田郷の司職である毛利氏が居城をここに移ったのが始まりとされます。土岐氏、織田氏、豊臣氏に仕え江戸時代には尾張徳川氏に仕え明治まで存続します。城も一国一城令の対象外となったようで現存移築門が2か所残されています。
城跡には説明板と江戸時代に植えられたイチョウの巨木があります。樹齢300年以上だそうです。城跡の北東200m程の場所に八神の渡し跡があります。この渡しは江戸時代初期には名古屋藩家老となった毛利氏が名古屋城登城時専用として利用し、江戸中期には一般に開放して木曽川を渡る街道の一つとなりました。移築門は南に少し行った眞福寺山門に一の門、長良川を越えて西側に長屋門が民家にあります。現存建造物が2つも残っているのでなかなか良いです。
<満足度>◆◇◇
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2023/06/15 19:02
石垣と熊野川が美しい紀州徳川家付家老の城郭 (2023/03/19 訪問)
新宮城は熊野川流域の丘地に築かれている総石垣の城です。
国土地理院の地形図をみると丘地の稜線を利用して郭を配しているようです。
熊野川を北の守りとし、本丸を最高地に北に出丸を配し、西に徳の丸、松の丸へと続きます。
北に船着き場らしきものもあったようですが、確認していません。
出丸に向かう道は3月の時点では通行止めになっていますが、それ以外は各郭間を自由に行き来することが出来ます。
主だった郭部分は総合でもそれほど広くないのですが、
きれいに積まれた石垣をながめながら散策させていただきました。
こうしてみると山城や平山城だけでなく総石垣の城も地形を上手に利用して城を築いています。
近くにある続百名城の赤木城もそうでしたね。
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2023/06/15 13:55
水田に守られた本丸 (2023/06/11 訪問)
田植え後の船上城本丸の微高地は、全周、水田で囲まれています。更に、その北側〜北東側は、かつても堀であった古城川が守り、それ以外の方面は、田んぼ脇まで住宅が立ち並んで容易に人を寄せ付けません。
北西隅に田んぼに降りる通路が二ヶ所あり、畦道に行けます。靴の幅より少し広い畦道が微高地とを結びます。
城下に船着き場があったと。かつてより海岸は沖側に後退しているのでしょうが、今でも海岸まで歩いてそれほどかからなかったです。
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2023/06/15 11:26
脇本城探訪 (2023/06/08 訪問)
秋田県お城探訪の二日目、脇本城を訪問しました。
秋田駅からJR男鹿線に乗り、最寄り駅の脇本駅(ICカード使用可)で降りました。乗車時間は約40分。
脇本駅からは事前情報通り約30分歩くと案内所に到着しました。案内所にはパンフレットが用意してある他、簡単な説明図がありますので助かります。
城跡は草刈り等の整備も行き届き、かつ6月の訪問のためか緑溢れる綺麗な草原地となっており美しかったです。
見どころは、曲輪、空堀、土塁等の跡でしょう。行き届いた整備のおかげで、城跡を散策しながら、それらを実感できました。
帰りの列車時刻の都合で約1時間強の訪問でしたが、楽しい訪問だったと思います。
ところで、列車で訪問する場合、JR男鹿線の本数が限定されるため時刻表を確認して登城計画を立てたほうが良いと思います。
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2023/06/15 08:23
住宅地の中の石垣 (2023/04/09 訪問)
関ケ原の戦いの功により若狭国を与えられた京極高次が後瀬山城に替わる居城として築いた城で、江戸前期に入封した酒井忠勝が三重三階の天守を擁する現在見られる姿に改修し、酒井氏14代の居城として明治を迎えました。廃城令の後、本丸跡には酒井忠勝を祀った小浜神社が創建され、現在に至っています。
北川、南川、江古川を堀代わりとし、西側は小浜湾に面した水城で、本丸の周囲に二の丸、三の丸、北の丸、西の丸を配した輪郭式城郭でしたが、河川拡張により城域は大幅に削られ、内堀も埋め立てられて住宅地になっています。それでも、登城時は南川に架かる大手橋が通行止めになっていたため東側に大回りせざるを得ず、今なお攻めるに難い城であることを実感させられました。
さて、小浜神社の駐車場(2台分)に車を駐めて登城開始。小浜神社の境内にはいくつかの説明板や案内板が設けられていますが、「ごあんない」と題した説明板の雲浜古城図は縄張図に現状が併記されていて参考になりました。その他、築城時に人柱となった娘を供養するために祀られた組屋地蔵尊、嘉門の井戸の前には城下から移設された八百比丘尼ゆかりの橋の石(古呂美石)、酒井忠勝に仕えた白狐伝説がある八助稲荷大明神、酒井氏邸宅を移築した酒井会館など、本丸跡に酒井忠勝を祀る神社だけあって、境内にはゆかりの史跡が数多く見られます。また、拝殿では小浜神社発行のパンフレット「小浜城と小浜城下町」が頒布されており(賽銭箱に100円を入れる)、小浜城や城下町、ゆかりの人物、小浜神社についてよくまとまっていて、おすすめです。
境内をひとめぐりすると、いよいよ天守台へ。住宅地に囲まれた城ということで、さほど期待はしていなかったんですが、天守台は思っていたより高さがあり、眺望も開けていました。天守台からは東と北に石垣が続き、麓には北側の小天守に登る石段もありますが、崩落または転落の恐れがあるからか、立入禁止になっていました(残念…)。
境内を出て、今度は外周を一周します。雲浜古城図によれば、境内南東隅の石垣は大手枡形、北東隅は搦手枡形の石垣のようです。搦手を守るのは翳櫓、北西隅には乾櫓、西辺には西櫓の石垣が続き、小天守から天守台へと繋がっています。本丸を囲む内堀は埋め立てられ、間近まで住宅が建ち並んでいますが、石垣直下に敷かれた防草シートの上を歩いて一周することができます。ただ、住宅のすぐ裏手なので、通行にも写真撮影にも非常に気を遣いますが…。周囲の石垣の高さもなかなかのものながら、直下から見上げる天守台の高さは一際で、ファインダーに収まりきらないほどでした。
住宅地の中に天守台と石垣が少しあるくらいかと思いきや、東辺を除いては本丸の石垣はしっかり遺っており、直下から見上げることもできて、大いに見応えがありました。若狭高校の移築門を見落としたこと、城下にも見どころがありそうなので、いつかまた訪れたいものです。
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