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しんちゃん

新所城 番外編①北西の郭  (2023/06/25 訪問)

亀山市関町にある新所城はマイナーではあるものの
城づくりの妙技に満ちた、実に見ごたえのある城です。
築城は伊勢国の国人領主、関盛信によりますが
後に羽柴秀吉家臣、浅野長政らによって普請が行われ
今の状態になったようです。
東西に広がる尾根上一帯に郭が配置されていて
高天神城のように一城別郭の様相を成していると見られ、
東西の城域を堀切で遮断してあります。
西側の最後所の郭が主郭と見られていますが、西側が陥落しても東の城域だけで、
ある程度持ちこたえたであろうと推測します。
東西の城域ともに北側にも尾根がせり出していて、その尾根上も郭として
余すところ無く活用していて、散策も可能です。
北東には沼地が広がっており、周辺一帯に湿地帯が広がっていて
通行は不可能です。この沼地を上手に縄張りに活用していて
東の城域の尾根上の郭には南側にしか土塁がありません。
西の主郭エリアはこの城で最も見ごたえのある部分ですが、それは
後の口コミで紹介します。
大手口は西側にありますが、その北側に長大な堀切があり、残念岩もあります。
その北側にまた堀切があり、さらにその北側には石垣を備えた居館跡が二つあります。
主郭の北西側に物見と見られる郭が存在し、主郭の北西部を防御しています。
比高こそ高くありませんが、防御に置いて死角のない非常に技巧的な城で
沼地や巨石など自然地形も上手に活用しています。

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ぴーかる

北方城・北方陣屋 (2023/07/15 訪問)

【北方城】【北方陣屋】
<駐車場他>駐車場はなし。大井神社前に駐車がなければ2台分はいける。
<交通手段>車

<感想>日帰り濃尾平野ちょこ城巡りの旅第1弾、3城目。北方城は明応年間(1492~1501年)に伊賀太郎衛門光就が築城したとされます。曽孫の伊賀守就の時に安藤氏を名乗り安藤守就を名乗ります。安藤守就は主君を土岐頼芸⇒斎藤道三⇒斎藤義龍・龍興⇒織田信長と変えていきますが武田勝頼に内通したとして追放されます。北方城はその後稲葉一鉄の預かりとなりますが、本能寺の変後に挙兵して北方城を奪取し再起を試みますが稲葉一鉄に攻め込まれ自害します。城もその後廃城となったようです。
 
 北方陣屋は1668年に北方城の一部跡地に美濃国加納藩主松平光重の三男戸田光直に5000石で分知された旗本の陣屋です。現地には現存建物がほぼ残っていないようなのですが各所に移築門があるそうです。
 城跡も陣屋跡もほぼ遺構は残っていませんが、大井神社から南北に流れる天王川が北方城の西の堀跡、北方陣屋中心を流れる川であったかのようです。名残を感じさせます。

<満足度>◆◇◇

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イオ

結果的に無断侵入… (2023/06/10 訪問)

船岡山と呼ばれる小丘に位置する丘城で、平安中期に瀬戸道明寺が築いたとも、鎌倉初期に土岐氏が築いたとも云われますが、詳細は不明です。室町中期には高木氏の居城となりましたが、小牧長久手の戦いでは徳川・織田方についたため、戦いの後に退去しています。その後、関ケ原の戦いに際して石田三成の命により改修されるも、東軍についた松ノ木城の徳永寿昌の攻撃を受けて落城し、廃城となりました。現在は小学校の敷地になっていますが、校舎の裏手に土塁に囲まれた主郭の遺構が見られます。

2月の輪中の城めぐりの際に訪れるも、土曜の早朝でもあり校門が閉ざされていて諦めたことがあったので、再挑戦してみました。同じく土曜ながら今回は昼過ぎのためか校門が半分ほど開いていたので入らせてもらい、見学の許可を得ようと校舎に向かう途中、グラウンドの手前に駒野城跡の説明板が立てられていました。校舎前に着いても電気は点いておらず、校舎内に誰かがいる様子もありません。校舎外にいるのかな? と校舎裏手に回り込むと、裏山に続く道と虎口らしき開口部が! 吸い寄せられるように虎口を抜けると、三方を土塁に囲まれた主郭が広がっていました。

主郭を見学した後、校舎の周りをもう一周してみましたが、やはり誰にも会わず、やむなく校門に戻ると、来た時には半分開いていた校門が閉まっていました。どうやら行き違いになってしまったようです。…ということで、結果的に無断で校内に侵入した形になってしまいましたが、誓ってやましいことはしていませんので、どうぞご容赦ください。
 

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todo94

研修前の攻城② (2023/06/25 訪問)

これまた二の丸さんと同様、宮城氏館から徒歩でのアプローチです。にのまるさんはこの城で23区内の城びと登録物件コンプリートを達成されていますが、私はまだまだ先が長いです。ここ清光寺には、北区指定有形文化財・豊島清光の座像があるようですね。土日・祝日の本堂内の見学は、事前に電話にて連絡が必要とのことですが、機会があったら拝んでみたいものです。

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しんちゃん

宇津山城のおまけの頁 (2023/07/31 訪問)

宇津山城の東の尾根にも郭が広がっているのですが
現状、未整備で西の尾根の遺構より状態は良くないです。
正太寺の東側の登城道を西の城跡に向かわず、そのまま北上すると
道の途中に穴のように入口がぽっかりと口をあけています。
入口の付近の南北に郭があるようですが、そのまま東の広い郭を目指します。
途中、堀切らしいものがみえますが藪がひどくて良く見えません。
東の郭はだいぶヤブ化が進んでいるようです。
引き返しつつ南の郭に登ると謎の陥没部があり、さらに南や周囲に
縄張りに無い扁平地が見られるようで、開墾がすすんだ名残だと思われます。
夏場の夕方で周囲はまだ明るいのですが、城内はえらく暗いです。
正直な所、今川の山城は造りが適当なのが特徴なのですが(実際そう)
この城は結構手が加えてあるほうだと思います。
東西合わせて整備が進んだら、かなり見ごたえのある城になると思います。
朝比奈氏が本気で作った城を心行くまで散策してみたいですね。

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しんちゃん

朝比奈氏の城だったら良かったのに。 (2023/07/31 訪問)

宇津山城は浜名湖に突き出た丘陵地に築かれています。
正太寺から遊歩道が続いていますが、車道をそのまま城跡に
向かって進んだ方が早いと思います。
丘陵地の西側の尾根一帯が現在・宇津山城跡とされている場所で
墓地の北側に案内板があり大きな土塁が残っています。
左手から城域に入り北上して行くと
周囲を土塁で囲まれた主郭にたどり着きます。
この土塁、西側の主郭内側に石垣が残っているようです。
主郭北側にも帯郭があるようで、そこから見る主郭の土塁は
なかなかの高さがあります。
宇津山城は東の尾根にも遺構が残っています。
興味がある方は、お城一般での投稿の 宇津山城のおまけを
ご覧いただきたいと思います。

宇津山城の説明
宇津山城は今川方、朝比奈氏の城でしたが
徳川に通じていた朝比奈孫六郎真次が兄であり城主の孫太郎泰充
を殺害し、今川氏真に使わされた小原鎮実によって孫六郎真次も
討たれました。
徳川(松平)家康が遠海に進出してきたときの城主は
小原鎮実で、徳川方の酒井忠次、佐原、内藤、松野連合軍が
襲来した際、家臣 増田団右衛門が討死すると城に
爆薬をしかけ退去するも、爆薬の量が少なく、徳川方に
死傷者はなく、宇津山城はそのまま徳川の城となったそうです。

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しんちゃん

主郭は竹藪密度が高すぎてどうにもならん (2023/07/31 訪問)

複数のお城のサイトを参考にさせていただいたところ
刑部城は今川の家臣、新田美作入道が守る城だそうです。
永禄11年(1568)、徳川家康の家臣に攻められ落城したそうです。
城址は北側の郭の金山神社周辺以外はまったく整備されていません。
南の小山が主郭とみられますが全体が密度の高い竹藪に
おおわれていて、よじ登れないこともないですが
登ったところで身動きが出来ないのがわかっているので
登らない方が良いでしょう。
特に案内板のある南側は崩落が始まっているので
登らない方が良いと思います。

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しんちゃん

堀切を多用した狩野氏の城。 (2022/01/10 訪問)

狩野城は11世紀半ばから15世紀まで約4世紀にわたって
狩野地区の領主だった狩野氏の城です。
足利茶々丸に与して北条氏と敵対しましたが
開城して降伏、以後北条氏に従い
家臣団の中核を成したとのことです。
狩野城は良く整備された山城で駐車場もあり
城びとにやさしい城です。
鳥が羽根を開いたように三方に城域が広がり
南側が中の郭、南郭で最も面積が広く
西に本郭、西郭があり
本郭の西側は二重の堀があるようです。
東側には東郭と出丸があります。
空堀が結構多いのがこの城の特徴で特に西側の
尾根上に多く堀切が見られます。
本郭の周囲も土塁が残り、なかなか見ごたえのある城です。

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しんちゃん

修善寺さんぽ (2022/01/10 訪問)

送られたくない寺。西の高野山、東の修禅寺。
鎌倉内での抗争で幾度も悲劇の舞台になった地です。
鎌倉殿の十三人‥すごかったですね。
平氏を滅ぼして平和になったかと思いきや
実はこれが地獄の始まりだったという‥
修善寺を訪ねた際はぜひ宝物館に寄ってください。
二代目将軍、源頼家に関する展示があります。
私は修善寺に行った後は、竹林の小径を通って
蒲殿こと源頼範のお墓を訪ね
源頼家の墓・指月殿を訪問しました。
鎌倉の負の歴史を抱えながらも良い保養地です。

源範頼の墓
静岡県伊豆市修善寺1082
34°58'15.3"N 138°55'23.0"E
34.970915, 138.923051

竹林の小径
34°58'10.3"N 138°55'25.9"E
34.969523, 138.923868

源頼家の墓・指月殿
静岡県伊豆市修善寺935
34°58'10.0"N 138°55'41.6"E
34.969442, 138.928230



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しんちゃん

阿野館。 阿野全成・時元の墓。 (2022/01/09 訪問)

阿野館は静岡県沼津市井出にある大泉寺の
境内となっており、中には阿野全成と息子の時元の墓もあります。
全成は大河ドラマでのコミカルな演技と壮絶な最期がとても
印象に残っていて、息子の時元もいいがかりに近いやりかたで
最期を遂げていましたが、史実はどうだったでしょうか?
最近は家‥ 大河も暴走気味なので史実との整合性が
よくわからなくなってきてますね。
館(お寺)周囲には土塁が残存し、かつての阿野館の雰囲気を
漂わせています。
境内には首掛松という物騒な名前の松のモニュメントや輪切りが
展示してあるようですので探してみてください。

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しんちゃん

神社の背後に詰めの郭。 (2022/01/09 訪問)

間門城は間門浅間神社の背後に築かれていました。
神社左手も郭になっていた可能性があり間に堀切があります。
神社左手の階段から登っていき
神社背後に左手から回り込んでいきます。
山の神の祀られている郭の先に堀切があり
その先にも郭があります。
藪化が進んでいて、土塁などの詳細は不明ですが
草刈りなど整備がすすめば訪れやすくなるものと
思われます。

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モト

天下の名城のライトアップ (2023/07/06 訪問)

昼間に見る天守は天下の名城、大阪城です。
その美しさ、大きさは圧巻です。
昔は夜は火を灯しているくらいの明るさでしたでしょうから当然、現代のライトアップされた城の姿などは拝むことは不可能かと思います。
ですので、今の時代の特権を利用して城跡、天守を臨みます。
さすが夜でもその大きさや美しさは素晴らしい物があります。
昼間になかったライトに照らされた美しさと、闇のある石垣、堀の凄みみたいな物は逆によるだから味わえる雰囲気ではないかと思います。

大阪城には夜でも人は多くいらっしゃいました。
城好き、そうでないに関わらず、やはり大阪に来たら一度は訪れたい場所です。
いかなる人も惹きつける魅力は、天下の名城だからこそでしょうか。

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しんちゃん

沼津城散策。城あとさんぽ。 (2022/01/09 訪問)

せっかく沼津に来たので、城跡や石垣めぐりを
しながら散歩をしてみます。
公園の北側に城岡神社があります
静岡県沼津市大手町3丁目5−17

散策中に見つけた松浦酒店‥すごいですね
 ラブライブはまだ勢いがありそうなので、このまま
 元気に営業を続けてほしいです。
 グーグルで見てみると推しはあいかわらずのようですね。
 安心しました。

 沼津市街の中でも川べりに近い川郭町はかつては沼津城の外郭に接した
 狭い町だったそうです。
 こんな所にも町があったんですね。
 それともお城が後からできたんでしょうか?

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しんちゃん

狩野川は青かった (2022/01/09 訪問)

戦国期から江戸初期まで沼津城は区別のため三枚橋城と呼ばれています。
安永7年(1778)水野忠友が新たに沼津藩主となり
一時、開墾地となっていた沼津の地に新たに縄張りを行い
紆余曲折を経て安永8年(1779)9月に城が完成したとあります。
狩野川にかかる、あゆみ橋を北西に向かっていくと中央公園があり
そのあたりが本丸ですね。その周囲に二の丸、三の丸と広がり
城域はなかなか広いです。
周辺にはかつての三枚橋城の石垣が残されていますが、
新しい方の沼津城のものでしょうか。

三枚橋城石垣‥沼津リバーサイドホテル前
 静岡県沼津市上土町100−1
 35°05'49.7"N 138°51'29.6"E
 35.097132, 138.858214

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マコト

田峯城 (2022/01/29 訪問)

断崖絶壁とはここのこと。
でも写真では伝わらず。

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マコト

清海堀 (2021/11/17 訪問)

堀を歩く!

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マコト

犬山城 (2022/11/15 訪問)

好きです。

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しんちゃん

尾根上を歩くハイキングコース (2021/03/06 訪問)

朝比奈城の案内板やwikiには朝比奈氏は岡部氏にならぶ戦国武将と書かれて
おりまして‥止駄郡殿村にあり、今川家の功臣朝比奈某の築く所にして、
永禄年中まで朝比奈家代々の居城なり‥
要は朝比奈氏の城ということです。
私は茶畑ルートから攻めまして、尾根上に続く、いくつもの堀切を
わたって先の曲輪エリアまで到達しました。
曲輪には土塁が残っています。
ちょっとしたハイキングコースとして楽しめました。
高低差がそれほどないので茶畑から入ってからは楽ですよ。

あまりの暑さにバッテリーが死んで判日有給をとっているところです。
JAFまだ来ませんね。

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しんちゃん

籠城戦23日‥武田軍相手に奮闘 (補足)酷いことをすれば返って来るようで‥ (2021/03/05 訪問)

花沢城は今川の城です。
武田氏の今川領進行の際、城将小原肥前守透資良は
がんばって持ちこたえましたが、永禄13年(元亀元念)
正月27日に陥落しました。
城の西側から登城道が続いていて、すぐに一ノ曲輪につきあたります。
西に三ノ曲輪、東に二ノ曲輪があり
二の曲輪より尾根上を南にいくと六ノ曲輪に突き当たります。
目だった遺構はないですが良く整備され
気持ちよく散策できると思います。

補足‥小原肥前守透資良は大原資良ともいわれ、かつての
 吉田城代、小原鎮実と同一人物とされています。
 この御人、かつて龍拈寺門前で東三河の豪族から預かっていた
 人質を串刺しにして処刑しており、おおいに恨みを買っていた
 人物であります。花沢城落城後、鎮実は高天神城の小笠原氏助(与八郎)
 を頼って落ち延びましたが、すでに徳川氏に帰属を決めていた氏助に
 よって妻子ともども惨殺されたと言います。
 やはり戦国の世とはいえ、あまりにもひどいことをすると
 後々ロクなことにはならないということでしょう。

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しんちゃん

今川→武田→徳川→武田→徳川(廃城)の争奪戦 (2021/03/06 訪問)

持船城は元は今川の城で今川義元の妹婿である関口親永らが
城主を務めたとあります。
関ヶ原の合戦の後、武田と徳川の争奪戦が繰り広げられ
天正10年(1582)家康に攻められ降伏、この時に廃城になったと
されています。
城址に至るまでの景色がなかなか良く、JR東海道新幹線がすぐ下を走っています。
登城道を登るとすぐ本丸にたどり着き、そこから
大堀切を経て二の丸に至ります。
武田の手に渡った割には遺構が少し物足りないような‥
激しい争奪戦が繰り広げられているから重要度は高いはずなんですけどね。

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