紅葉山庭園は駿府城のなかにあります。
春は桜、夏は紫陽花、秋は紅葉、冬は椿など四季折々の
花々を眺めながら立礼席でお茶を楽しむのはいかがでしょうか。
(以上サイトよりコピペ)
池のほとりに富士山を模した築山があります。
天守台の採掘もだいぶ進んで、公開もされていると
思いますので、また訪れてみたいです。
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2023/08/05 17:57
2023/08/05 17:52
斎藤道三隠居城 (2023/07/15 訪問)
【鷺山城】
<駐車場他>鷺山公民館駐車場を利用
<交通手段>車
<見所>堀切・曲輪
<感想>日帰り濃尾平野ちょこ城巡りの旅、第1弾5城目。鷺山城は鎌倉時代初期に佐竹常陸介秀義が築城します。室町時代には改修し土岐氏の城となり、戦国時代には斎藤道三が家督を斎藤義龍に譲ったのちはここを隠居城とします。長良川の戦い後に廃城となったようです。
夏場の山城攻めだったが比高がそれほどなく山城の方には遺構が少ないようでしたのでプランに入れて登城しました。鷺山北側の登城口から登城、途中中腹から西に伸びる尾根曲輪、主郭手前に堀切があります。山頂は主郭といえるほどの広い曲輪はありません。東麓側に下山して居館跡を見ました。居館跡は方形の曲輪をひな壇状に配して城跡感があります。最上の曲輪から岐阜城が望めます。北野神社本殿の石垣は他の現代補修した玉石と違い、当時のものかとも思わせる巨石で組んだ石垣です。
<満足度>◆◆◇
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2023/08/05 17:02
2023/08/05 16:51
四国城めぐり旅・復路1城目 (2023/05/29 訪問)
松丸(河後森城)から宇和島乗り換えで松山に19:30に到着。
松山はホテルの数が多く、有名どころでも比較的リーズナブル。
松山城至近に一泊確保し、翌日から残り2日となった旅程を考えます。
朝イチで松山城と湯築城に行って今治に移動し、村上海賊ミュージアムへと思っていたのですが、あいにく翌日は月曜日のため村上海賊ミュージアムは休館。四国の100名城・続100名城スタンプコンプリートはお預けとなりました。しかし、これは上陸ツアーに申し込んで行ってきなさいというお告げなのだと解釈することにしました。
そうとなれば二度目の今治城も次回まわしでいいかな、ということで四国めぐりの三日目は松山城→湯築城→→→屋島城に決定しました。
松山城は本壇の入場は9:00からですが城山公園へは5:00から入れます。
9:00前にどれだけまわれるかが勝負だ!と思っていたのですが、ダラダラしていたら8:00になってしまったので慌てて県庁裏登城道に向かいました。
二の丸史跡庭園は前回来た時にたっぷり見たのでパスして登り石垣へ。5年前は樹木の陰でほとんど見えなかったのですが、ありがたいことに今回はかなり広い範囲を見ることができ、印象ががらっと変わりました。
9:00までまだ時間があるので周辺を見て歩きます。戸無門・筒井門・隠門のところでトラップごっこをするのがいちばん楽しいです。ここは何度行っても必ず立ち止まって遊んでみると思います(^^)/
“よしあきくん”とお約束の記念撮影をしてから本壇へ。
21の重要文化財、30の復興建造物をもつ松山城は、時間をかけて通い続けなければそのすべてを理解するのは私には難しいです。理解しきれるかどうかもわかりません。
……ということがこのたびはよくわかりました。しかしそれが近世城郭めぐりの醍醐味でもあります。
連立天守の中をひとまわりし、東雲口登城道から下山して、湯築城に向かいました。
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2023/08/05 15:21
地元住民との軋轢が心配。通り抜けは絶対NG (2023/07/16 訪問)
辰市城は筒井方の城で、大和最大の合戦である辰市城の合戦
の舞台となり、最初は松永久秀の軍勢が優勢でしたが、筒井順慶方の
援軍が到着し松永軍は大敗を喫しました。
歴史的には大きな意味を持つ城ですが、遺構はほぼ残っていません。
公共の交通機関からのアクセスも良くないですが、付近には使えそうな駐車場も
有りません。何より問題なのは、地元住民の方々からの拒絶のオーラが凄い。
駐車禁止の標識が路上にいくつも設置してあって、周辺での
転回も難しく、その先の道路を通り抜けていくと、徐々に幅が狭くなり
通行が困難になるうえ、ガードレールまで設置してあります。
おそらく軽自動車でも通り抜けは不可能だと思います。
西側の辰市地域ふれあい会館の駐車場を使わせてもらえたら助かるのですが。
そこは交渉次第でしょう。何にせよ口コミを読まずに訪問される方も
いるでしょうから、何の問題も起きないことを望みます。
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2023/08/05 10:38
神戸城 (2023/07/31 訪問)
さすが織田信長3男の城。
駐車場が見つけにくいと聞いていましたが、すんなり行けたことにびっくり。
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2023/08/05 10:35
赤木城 (2023/07/31 訪問)
車がないと難しい所。
横長の石が使われ、反りのない石垣がとても魅力的でした。
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2023/08/05 09:20
いい城下町だと思うんだけどなあ (2023/01/20 訪問)
宇陀松山城がなくなって400年以上、宇陀松山藩自体がなくなって300年以上が経つ中で宇陀松山を城下町と呼ぶのかどうかは異論もあろうが、個人的にはいい城下町だと思う(某番組にも推薦したんだけどなー)。
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2023/08/05 01:11
④帰り道 (2023/05/28 訪問)
帰りも永昌寺へのルートを辿り、松丸街道の芝不器男記念館へ。
同じ敷地内にある郷土資料館は河後森城の展示がメインで、碁石や硯、茶臼などの出土品も見ることができました。
帰りの列車の時間まで40分くらいあったので、遠景写真を撮ろうと川向こうにわたり、確認のためGooglemapを見ると永昌寺のところに史跡記号が。ひらいてみると河後森城の移築城門があるとのことだったのでダッシュで引き返しました。永昌寺には立派な山門がありましたが、補修跡などもなく新しそうで現地に説明板などは見あたりません。松野町の公式観光サイトには、永昌寺には戦国時代に河後森城主の館が置かれていたとありますが、山門については触れられていません。なので、私の中では少なくともこの門は違う…ということにしておこうと思います。
そうこうしているうちに列車が来るまであと20分。観光案内所兼切符売り場の方と15分前には戻ると約束していたので急いで戻ると、駅の外で待ってくださっていました。
宇和島乗り換えで松山まで行くことも覚えていてくださっていて、感謝しかありません。券売機などない駅です。「この機械に入力したらあの印刷機から切符が出てくるのよ」とタブレットを操作して車内で車掌さんから買うようなレシートみたいな切符を発券してくださいました。
列車が出るのも見送ってくださって、ほんとに松丸のお母さん、という感じの方で、温かい気持ちでここを離れることができました。
やっと行けた河後森城はおもしろい遺構がいくつもあり、探検気分で歩きまわれました。
派手なアピールはしていないようだけれど、訪問者にとても親切なお城と町でした。
<おわり>
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2023/08/05 01:05
③新城~古城~東の曲輪 (2023/05/28 訪問)
風呂ケ谷駐車場まで行ってから戻って新城へ。
発掘調査で高層の井楼櫓や土塀があったことがわかっているそうです。眺めのとてもよいところでした。兵士の顔が(て)と(み)になっている切岸の手づくり看板もかわいかったです。
続いて古城へ向かいます。
若干心細い道でしたので、門の復元された堀切に出た時はホッとしました。
河後森城トップのニッポン城めぐり提供写真がこの場所です。門は扉が外され、傷みもありましたがシンボルらしさは充分に感じられました。
堀切の右側が古城第二曲輪、一段高くなって古城です。建物跡が平面復元され、イメージしやすかったです。
門の奥も気になったので覗いてみました。道が続いている雰囲気で、ガイドには載っていない登城口がありそうでした。(写真⑧)
東第三曲輪・第四曲輪と進み、スタート地点の本郭に戻ってきました。
石垣がある側にある「登城道」。一見普通の階段ぽかったのですが、検出された当時の道が再現されているものでした。(一部はおそらく露出したままの状態です。)
急斜面の岩盤を削って平面にし、足掛かりになるように表面が波のように削られていたそうです。このようなところは初めて見たので感動しました。
<つづく>
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2023/08/04 22:02
広島と呉(その②)「大和ミュージアム」
広島の続きです。翌日はJRで30分程の呉に行きました。
呉駅の改札口から連絡通路を5分程歩いた所に大和ミュージアムがあります(写真①)。道を挟んだ向かい側には大きな潜水艦が見えます(鉄のクジラ館)。これは海上自衛隊の博物館です。時間に余裕あればこちらも見られる事をオススメします。(写真②)
戦艦大和はこの呉で建造され呉を母港としていました。ここでは映画のセットで使用された実物の1/10(=26m)の大模型や、大和に関するあらゆる資料、零戦や魚雷、36インチ主砲弾、また沖縄特攻で亡くなられた乗組員3,056名の名簿や写真などが展示されています。(写真③④⑤⑥⑦)
現在のミュージアム前の海は、海上自衛隊の最大艦で、大和と同じ大きさ全長260mの護衛空母「加賀」の母港となっており、大和が建造されたドックの横に接岸されていました。また最新のイージス艦や潜水艦なども多数接岸されていました。ミュージアムの横からは軍港クルーズがほぼ毎日運行されており、これらの艦を真近で見る事ができます。(写真⑧⑨⑩)
私は母からよく戦争の体験を聞きました(当時今の中学生の年齢)。旗を持たされて出征兵士を見送った事、学校では授業がなく農家の芋堀りの手伝いをしながら合間に歴代天皇の名前を全部覚えさせられた事、別府湾の沖合いに停泊していたミッドウェイ出撃前日の日本海軍の空母4隻を眺めた事、電車で高崎山の下にさしかかった時に米戦闘機グラマンに機銃掃射されたが弾があたらず運よく助かった事、終戦前は毎晩のように防空壕に隠れた事、大分空襲の後の府内城の周りは焼野原で何も無く食料を求めて歩き回った事・・・などなど。
これら自衛隊の艦が出撃する事のない、平和な世の中が続く事を祈りたいものです。
お城に関係ない話が多く大変すいませんした。
次は輝元の話に戻ります。
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2023/08/04 21:40
広島と呉(その①)「広島城と原爆ドーム」
昨年は終戦記念日の前に、西郷隆盛を追って鹿児島城に行き、その足で鹿屋・知覧の特攻基地まで足を延ばし平和について考えました。今年は広島城を見学した後、向かいにある「平和記念公園(原爆ドーム・平和記念資料館)」を見学して近くのホテルに宿泊し、翌日はさらにJRで30分の呉まで足を延ばし「大和ミュージアム」を見学してきました。その様子をお伝えします。
私はまず、広島城の天守最上階から爆心地を眺め、当時の事を想像してみました(写真⑥)。1945年8月6日午前8時15分、たった1発の原子爆弾で約14万人の方々が亡くなられたそうです。今ではビルが立ち並び緑の公園がとても多い、この美しい広島の街並みを見ていると、当時の悲惨な様子などは、戦争を知らない我々にはなかなか想像し難いものがあります。その当時ここから見た景色は、いったいどんな景色だったのでしょうか? 原爆投下直後、天守は爆風で倒壊したのではなくまだ残っていたらしいです、しかしその数時間後、ついに耐えられず天守は自壊(倒壊)したとの事です。
そこから原爆ドーム(写真①②③)と平和記念公園(写真④)を見学し、平和記念資料館を訪れて来ました。外国人の方々が大変多かったのにはビックリしました。6月の広島サミットの前に展示がかなり一新されたと聞いていましたが、核戦争の悲惨さがとてもよく伝わる内容になっていました。皆さんも是非一度は見学されてみて下さい。ここに来ると当時の景色や被爆した人々の様子が実によく分かり、当時の事を知る事ができました。
【余談】広島城天守再建
耐震化に問題があるため、広島城の天守は2025年度中に閉館が予定されているようです。耐震補強も考えられたようですが、広島市と有識者で構成する会議にて解体し木造にて再建される方向で進んでいるようです。現在の広島城を見学されたい方は、それまでに訪問された方がいいかもしれません。ここも、今後の動向に注目ですね!
次は呉に向かいます。
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2023/08/04 17:25
酒井左衛門尉家の城 (2023/07/18 訪問)
戊辰戦争の活躍で勇名をはせ、今では家康配下の酒井左衛門尉家の末裔の居城である鶴岡城を訪問しました。
続100名城には列記されているものの、遺構はそれほど多くなく、市民憩いの場である鶴岡公園として親しまれているようです。
遺構は本丸に庄内神社が置かれ居ますが、本丸櫓跡を除いて石垣部分は少なく、水堀と土塁をかぎあげただけの簡素な平城でありるように思われますが(図面によると馬出はあるようです)、その分築城に必要な費用確保に対する農民の負担も大きなものではなかったのでしょう)。
これは、ことさら強力な防御力を誇示しなくても、近隣の外様である秋田藩(佐竹氏)に対しては、山形城が押さえになっていることや、戊辰戦争時のように籠城による戦闘を想定していなかったことが理由にあるかもしれません。
藩校である致道館は三の丸におかれており、往時の様子を良く残している他、江戸時代と明治時代(洋館)を挟んだ多くの建物が致道博物館に集められています。
なお、城内には鶴岡出身の藤沢周平記念館もおかれています。
城内に見るべきものは多くありませんので、攻城時間は周囲の致道館と致道博物館を併せても90分というところかと。
周囲には駐車場も多く、自動車で訪問する分には不自由はないと思われます。
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2023/08/04 08:21
花菖蒲池 (2023/06/10 訪問)
揖斐川支流の平野井川の湾曲部の自然堤防に位置する城で、戦国前期に稲葉通貞が築いたとされ、稲葉氏代々の居城として知られますが、稲葉貞通が郡上八幡に移封されると西尾光教が城主となり、関ケ原の戦いの後に光教が揖斐に移ったことにより廃城となりました。江戸中期に稲葉良通(一鉄)の母の菩提寺である華渓寺が本丸跡に移転して、現在に至っています。
曽根城公園の駐車場から登城開始。華渓寺の前には曽根城跡の石碑と説明板が立てられ、境内の入口にも本丸跡の石碑と説明板があります。境内北側での発掘調査で検出した石垣は埋め戻されて駐車場になっていますが、地表面に石列が復元されています。なお、華渓寺西側のハリヨの池や北側の曽根の池は水堀っぽい感じですが、平野井川の氾濫によりできた切所池で、遺構ではないようです。曽根の池の西側に整備されている花菖蒲池は曽根城の家老だった斎藤利三の屋敷跡にあたるようで、南西隅に石碑が建てられています。この日は翌日に花しょうぶ祭を控え、2万7000株ものハナショウブも見ごろで、多くの人が訪れていました。さらに日没後はライトアップもあるようなので、夕食を摂ってから再訪すると、宵闇の中に照らし出されたハナショウブは実に見事でした。
この日のお目当てはこの花菖蒲池で、皇居東御苑の菖蒲田がなかなか良かったところに、城びとの記事で曽根城公園のハナショウブのことを知り、花しょうぶ祭は無理でもライトアップは見てみたい、ということでやって来た次第です。日付が替わる頃の帰宅になった上に前日は東京日帰り出張だっただけに、たいがい疲れましたが、それだけの甲斐はありました。
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2023/08/03 23:49
3日に一度は玄米で。じゃなく城域全体に郭と防御設備を配した城。 (2023/01/08 訪問)
穆佐城は伊東氏の城で四十八城の一つです。
古くは南北朝時代に松尾城の土持氏がこの城を攻めたという
記録があり、後に伊東氏と島津氏で、この城を
奪い合い、最終的に島津氏の城になりましたが
慶長20年(1615)の一国一城令により廃城となりました。
城域は広く、全体に郭が配され中央の主郭の西側には大きな堀切があります。
私が訪れた際には東の登城口から主郭周辺までは良く
整備が行き届いておりました。西側のCの郭の周辺あたりは
いささか雑草が成長してましが、西に抜けると北側には
出丸があり、なぜかビタミンの父・高木兼寛氏の銅像と案内板があります。
ビタミンB1には脚気を防ぐ効果があって玄米やそばに含まれているそうです。
江戸で庶民が白米を食べるようになり、将軍病と言われた脚気がはやった際に
そばが脚気に効くと評判になり、そばを食べるようになったといわれています。
そんな江戸時代の知恵も高木氏の功績も日露戦争に生かされず多くの
兵士を脚気で失ったのは痛恨の限りです。
話がそれましたが、この地域には珍しい縄張りの
非常に堅固な城だと思いました。
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2023/08/03 22:42
どっちつかずで結局、大友氏にやられた土持氏の城。 (2023/01/08 訪問)
松尾城は日向国北部の平安時代からの豪族、土持氏の総領、
縣土持氏の本城で、大友氏、島津氏の両氏に対し
臣従や協力するそぶりを見せていましたが
島津を討伐するために日向に攻めてきた大友宗麟に
松尾城で攻め滅ぼされました。
城あとには遊歩道が続いていますが、整備のされている
本丸、二の丸、三の丸以外はヤブ化がすすんでいて
散策は難しいです。
本丸と二の丸の間は大きな堀切になっていて
本丸には土塁が残っています。
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2023/08/03 22:17
海に張り出した岩盤上の台地に築かれた城。 (2023/01/08 訪問)
日知屋城は伊東氏によって築かれ、伊東氏四十八城の
一つと言われています。
城址は南東に海に張り出した地形上に築かれ
遊歩道に沿って歩いていけば虎口、主郭、
古代メンヒル(ストーンサークル)のある郭、
東の郭とひとしきり見学することが可能で、主郭周辺と
東の郭には石垣が残っているようです。
東の郭の先は海に岩盤がせり出しています。
海城の要素もあるのかもしれません。
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2023/08/03 21:41
2023/08/03 21:12
二度にわたる大軍による包囲にも持ちこたえた城。 (2023/01/08 訪問)
天正6年(1578)、大友宗麟が6万の兵で山田有信の守る高城を包囲しました。
有信はわずかな手勢で大友軍を足止めし、その後の高城川の戦いでの島津軍の
勝利に貢献しました。
この時の城兵の数ですが、wikiでも高城の項目と山田有信の項目では
1500~3000と開きがありますが、いずれにしろ大友の大軍を引き留めた
功績は大きいでしょう。
高城は尾根上に空堀が6つ設けられていて、中でも第一の空堀は
そのまま主郭の下に通じる通路となっています。
主郭はなかなか広く南側に櫓を模した展望台があり
かつて戦場となった高城川を望めます。
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2023/08/03 20:22
黒野城 (2023/07/15 訪問)
【黒野城】
<駐車場他>城跡入口<35.459896, 136.723383>に2台駐車可能
<交通手段>車
<見所>土塁・堀・城石
<感想>日帰り濃尾平野ちょこ城巡りの旅第1弾、4城目。黒野城の築城者は加藤光康の子の貞泰で加藤光康が甲府24万石の領主の時に朝鮮の役で陣没したため(石田光成の毒殺とも)に嫡男の貞泰はまだ幼少という理由から1594年に美濃黒野4万石に減封され黒野城を築城します。関ヶ原合戦では加藤貞泰は当初西軍につきますが、すぐ東軍側について戦後は本領安堵になります。1610年に加藤貞泰は伯耆米子藩6万石へ加増移封されて、黒野藩は加納奥平氏領となり黒野城は廃城となります。
現在は本丸部分の堀と土塁、本丸内部は公園とグラウンドとして残っています。方形土塁上の北東隅と南東隅に櫓があったらしく、土壇は残されていませんが幅広くスペースが残されています。本丸の堀と土塁は見事であり見応えがあります。また西の虎口跡周辺に城門礎石と石垣跡の石が置かれています。城は江戸時代を通して残されていたのだろうか?本丸跡は堀と土塁が良好に残りなかなか見ごたえがありました。
<満足度>◆◆◇
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